第6話 フィードバック電流確認 後


 フィードバック電流確認 後



       ※


 九月十二日、月曜日。

 今年の夏もうんざりするぐらい記録的な暑さだった。七月下旬から、連日当たり前のように三十度を超える灼熱の日々で、夜寝ていても幾度となく目を覚ますこととなる。特に水岡は寝ているときはエアコンや扇風機を点けると体調を崩す体質のため、毎年寝苦しい夜を過ごしていた。水岡が行っている暑さ対策としては、水風呂に入って体温を下げ、冷えた体でベッドに横になって団扇を仰ぎ、仰ぎ疲れたら寝る、というスタンス。これを夏の間は毎日行っているのである。毎晩最低でも一回は暑さで起きることとなり、溜めてある水風呂に入っては、またベッドで横になりながら団扇を仰ぐという生活。多い日は五回水風呂に入ることもあった。

 そんな夏の強烈な暑さは先週ぐらいからようやく和らいできて、これまでと違って夜風が涼しく感じられるようになっている。

 そんな今日、薄っすらと冷房がきいている会社で、水岡の頭を悩ます案件に直面していた。

「あれ、まただ……」

 水岡が所属している品質管理課インライン係が利用する解析エリア。静電気対策された緑色のマットが敷かれた作業台の上にはLO品が置かれており、そこに『フィードバック電流確認』と書かれたエラーメッセージの紙が貼られている。詳細な内容を確認してみると、『0』に近い判定値に対し、『マイナス16345』という大幅にずれた値がデータとして記載されていた。

(うわー……)

 水岡にとって非常に見覚えがあり、印象強いエラー内容である。なぜなら、それは暑くなりはじめた七月上旬ぐらいに、テキサスワールドのICが原因だったときと同じエラー内容だったから。悪いICをメーカーに解析依頼したところ、『一個の不良には対応していない』と一蹴された苦々しい記憶が頭を過る。あの件、先方の対応を水岡は上司にも報告したし、毎月の定例会議でフィールド部門にも連絡したところ、とんでもなく渋い顔をされた。それはもう、随分と肩身の狭い思いをしたものである。

 あの件に関して、水岡の所属するFWB部製品管理課インライン係だけでなく、会社として対テキサスワールドにどう対応するかを協議する必要があるのだが……現状、まだ明確な流れはできていなかった。

(やだなー、またあれだったらこの前みたいに厄介なことになるなー。頼む、どうか違う原因であってくれ……)

 懇願するように解析を開始する。

 今回も前回同様に電流を流していないときの値を計測しているため、駆動回路に通電させる必要がない。そうした制御回路のみに電源を入れるだけで解析できるLO品はとてもありがたい。駆動回路を通電させ、下手にショートなんてしようものなら全身がびくんっ! と大きく揺れ、鼓動が激しくなってしまう。あれは結構怖いものがあった。水岡はそういったことをまだ一度しか経験していないが、もう二度とご免である。

(よし、やるか)

 電源をONにし、ユニットとパソコンと通信させて、特定のコマンドを打ってみると……確認したいのは『0』に近い値なのだが、なぜだか『マイナス16354』というかけ離れた値が計測された。

 これで出荷試験のエラーデータを解析エリアでも再現することができたことになる。このユニットは確実にどこかが悪く、出荷するためにはそれを調べて修理しなければならなかった。

 いやな予感が色濃くなる。

(…………)

 関連する回路の波形を調べるため、工具類が収納されている棚からオシロスコープを出し、電源をON。プローブをLO品に実装されているテキサスワールド製ICの出力側に当ててみる。

(うわー……)

 オシロスコープの画面には、2Vと5Vを繰り返す交流波形が映っていた。本来なら、0Vから5Vまでの波形でなくてはならないものである。

 異常発覚。

(やだなー……)

 もしかしたらテキサスワールド製ICのもっと手前のどこかが悪いのではないか? という一縷の望みを持って、今度は入力側にプローブを当ててみるが、こちらは0Vから5Vの交流波形を確認でき、正常なものだった。

 つまりは、ICに入っていく波形に問題なく、出ていく波形に問題があることとなる。である以上、テキサスワールド製のIC不良が濃厚だった。

 瞬間、水岡の一縷の望みが脆くも崩れ去ったことを意味する。

(この前とまったく同じじゃねーか)

 思わず天井を仰いでいた。


 その後、修理するためにICを交換したところ、正常な状態に復旧した。これで今回のLO品の原因は、テキサスワールド製のIC不良であると断定することができた。

 今回のICも淡い期待を込めてテキサスワールドに解析依頼をしたところ……一週間後、報告書が届けられる。

『貴社のご指摘の通り、出力波形のローレベルが正常品よりも高くなる現象を確認することができました』

『同一エラーの発生数が一個であることから、当社規定により解析を終了させていただきます』

 報告書の内容は、LO品を解析しているときから感じていたいやな予感通り、大変しょっぱいものだった。

 気持ちが鬱となる。


       ※


 九月二十日、火曜日。

 確実に季節が夏から秋に移ろうとしているのだろう、まだ昼間は三十度を超える日があるものの、朝晩はすっかり気温が下がり、水岡はようやく寝苦しさから解放され、ぐっすりと眠れるようになっていた。それどころか、油断して夏の薄着で寝ていたため、朝の冷え込みに対応できずに、少し体調を崩したのである。

 午前九時。

(…………)

 熱こそないものの、体が結構だるく、起きたときからずっと頭が痛かった。家を出る前に会社に電話して当日休暇を取得することも考えたが……やはり平熱ということで、体に鞭打って出勤することとした。会社で仕事をしていれば、見舞われている体調不良も改善するだろう、という非常に甘い見積もりで今日は出社したのである。

(…………)

 工場は繁忙状態にあり、製造部門は夜勤を行うようになっていた。水岡たちが帰ってからも試験をして製品を出荷しているため、当然うまくいかなければNGとなり、新たなLO品となる。朝礼が終わって製造現場に確認にいくと、今朝はすでに二台発生していた。水岡はそれを台車に載せて解析エリアに戻ってきたところで……貼られているエラーメッセージの紙を見て、げんなりすることとなる。

(わー、またかー……)

 記載されているのは『フィードバック電流確認』というもの。

(頭痛い……)

 痛みが増した気がして、思わずおでこに右手を当てていた。

(…………)

 前回と違って今回は『テキサスワールドのICじゃなきゃいいなー』などと変な期待をすることなく、無の境地で一連の解析を行っていく。

 パソコンと通信させてコマンドを打つと、異常な値が出る。

 オシロスコープで波形チェックすると、テキサスワールド製のICの入力側までは正常だが、出力波形が異常なもの。

 ICを交換してみると、ユニットは正常に復旧した。

(くそっ! やっぱりテキサスじゃねーか!)

 これで三つ目である。他のメーカーなら解析を頼みつつ、部品のパッケージに印字されているロットを確認し、関係部署で集まって同ロットの使用可否を検討するところだが、メーカーにあんな対応をされれば、どうにも動きようがない。

(……頭痛い)

 半分開けられた口から長い息が漏れていく。『やっぱり今日は休めばよかった』と後悔した。


 午後二時。

 水岡が解析エリアでLO品の解析を行っているとき……ふと視線を上げた先にいる人物に、はっと体が反応することとなる。

「あれ、高藤たかとうさん?」

 前方には、水岡と同じ赤茶色の作業着に身を包んだ高藤陽ようすけがいた。耳にかかるのは髪の毛は大きくウェーブしており、目は細いが口は吸いこまれそうなほど大きい。その体格は背が高いわけでもないが低いわけでなく、やや太っている部類に入るだろう『中肉中背』を絵に描いたような四十歳のベテラン社員。所属しているのは出荷先から返却される製品を解析するフィールド部門で、水岡は毎月の品質会議やフィールド部門まで設備を借りにいくときに顔を合す機会が多かった。

「高藤さんが西B工場に来るなんて、珍しいですね。現場に用でもありました?」

「ううん。用があるのは水岡君に、だよ」

「僕?」

 瞬きが三回。水岡は瞬時に今週のスケジュールを頭に浮かべるが……製造現場や設備担当者とだったら何度か打合せが予定されていたものの、高藤とはこれといった要件は思い当たらなかった。

「どういうことです?」

「いや、実はね、困ったことがあって、それで水岡君とは情報を共有させてもらおうと思ったわけさ」

 高藤は近くの棚と棚に畳んでしまってあったハイプ椅子を取り出し、水岡と作業台を挟むように腰かける。

「品質会議のときだったかな。テキサスワールドのIC、不良品でもメーカーがまともに解析してくれないって以前話してたじゃない? その後、どう?」

「ああ、そんなの、相変わらずですよ。不良は今日のが三個目なんですが、今のところ頼んでも開封しての解析はしてもらえませんでした。どうしたもんかと困ってるところではありますね。ああ、そうそう、そこに置いてあるLO品もまだ特定していないものの、きっと同じテキサスワールドのICが悪いと思います」

「へー、そんなに出てるんだ。だったら、本当にまずいね……」

 高藤は、首を右に傾け、左に傾け、また右に傾け、左に傾け……ウェーブする髪の毛を小さく揺らす。

「実はね、返却品にテキサスのICが悪いのが見つかったわけ」

 出荷先の八百竜重工で試験NGになったユニットが返却され、フィールド部門で解析した結果、テキサスワールド製のICに問題があることが判明した。部品を交換したら正常になり、その悪い部品を他の正常なユニットに実装したら悪くなったことから、ICの不良は決定的なものとなっている。

「水岡君が言ってた波形が潰れるってやつ。出力のローレベルが1Vだった。それが原因で八百竜重工ではアラームが出たんだろうね」

「いや、それはまずいですよ……」

 何がまずい状態にあるか? それは、この工場の出荷試験で見つけられず、客先まで流出してしまったこと。根本的な責任は不良部品のICを製造しているテキサスワールドにあるのだが、だからといって水岡たちが無責任でいられるわけではない。なぜなら、客先には責任元がどこかなど関係がないのだから。例えるなら……自分が買ったばかりのテレビが映らなくて、買った店に調べてもらった結果、その原因が『使用している他メーカーの部品でした』と告げられたところで、購入した方からすれば不良品を買わされたことに変わりはなく、当然いい気分になるはずもない。

「僕が解析したのはローレベルが2Vのやつでした。今のところ三つともそうです。だから、今の話からすると、もしかしたら、1Vまで低いのだったら出荷試験で見つけられないのかもしれないですね」

「で、こっちも急いでメーカーに解析を依頼したところなんだけど……」

「もしかして、『一個だけの単発不良には対応していない』ですか?」

「その通り。いやー、まいっちゃうよねー」

 水岡のインラインなら、仮にLO品が原因不明であったとしても、それで処理することができる。何十台、何百台と調べていればそういうものが出てくると想定されているからだ。しかし、客先相手のフィールド部門の場合、解析結果を相手に報告する必要があり、とてもではないが『原因不明』なんて無責任な回答はできない。ましてや、原因を調べようともしないなんて、論外である。

「だからね、水岡君。ここは協力して、テキサスワールドになんとか更生してもらいたいわけなんよ」

「はい、僕だってそうしてもらいたいですから、できることなら協力はしますけど……でも、どうやって相手を説得するかが問題なんですよね。なんたって相手は世界的規模の大企業で、うちが客でなくなってもダメージないみたいですから」

「そこはほら、一か八かの捨て身の攻撃だってあるわけだし、特攻なんてのもいいよね。うんうん。難攻不落には、やっぱり突撃していかないといけないわけさ。チャレンジ精神、大事!」

「あの……さっきから、言ってることがよく分からないんですけど……」

「ずばり、今週の金曜日、午後から時間を空けられる? 水岡君ならできるよね? ねっ? ねっ?」

「えーと……そりゃ空けようと思えば、はい、空けられますけど」

「よし、じゃあ、決定だ」

 高藤は、顔の横で力強く両拳を握る。

「敵陣に乗り込むぞ!」

 満面の笑みが携えられていた。


       ※


 九月二十三日、金曜日。

 午後二時。

 奈恋駅。新幹線や国鉄に私鉄、市営地下鉄やバスといった数多くのターミナル駅であり、一日の利用客が五十万人という付近一帯の交通の要所である。周囲は多くの高層ビルが立ち並び、映画館のある商業施設も多く建てられていた。

 そんな奈恋駅周辺にはオフィスビルもたくさん建造されており、水岡はフィールド部門の高藤とともに会社の公用車でとあるビルまでやって来ていた。

 出張。

(しまったな、やっぱり着替えてきた方がよかったなー……)

 電車のような公共交通機関を利用する出張なら会社で着替えるのだが、今日は会社から直接車でやって来たため、帽子こそ被っていないものの普段の赤茶色の作業着に身を包んでいる。に対して、周囲を行き交う人々は背広を着たサラリーマンが多く、作業着は違和感が強く、非常に目立って仕方がない。だが、水岡が恥ずかしがっている思いを前をいく高藤は微塵も感じさせることなく、実に堂々とした足取りでビルに入っていく。水岡はただただ後ろをついていくしかなかった。

(へー、テキサスさんは二十階にあるんだー)

 目的地はテキサスワールドの奈恋市営業所。周囲の背広姿にじろじろ見られながらもエレベーターで乗り込んで二十階まで移動。受付にいたピンク色の制服女性にじろじろ見られながらも要件を伝えると、十畳ほどの会議室に通された。ちなみに、テキサスワールドはこのフロアーの半分を営業所として利用している。

(うわー、高いなー……)

 銀色の四角い時計がかけられた壁は全体的に薄茶色で落ち着いた雰囲気があり、ガラス張りの大きな窓からは奈恋市を一望することができた。東方には銀色に輝いている電波塔を眺めることができ、さらにその奥には動植物園のある小高い山まで視認することができた。水岡は仕事というよりも、展望台に遊びにきているような気分になりかけるのだが……そんな呑気に展望を楽しんでいる場合ではないことに気を引き締め、深く椅子に腰かけていく。

 会議室の中央には木目調の大きなテーブルがあり、そこに向き合った椅子が四つずつ設置されている。この時期はまず使用されることのないコートかけの隣には大きな植木鉢が置かれていて、緑の葉を茂らせた一本の観葉植物が植えられていた。また、入口近くにはローラーで移動可能なホワイトボードが置かれていて、その反対側の壁にはカメラが設置されている。あのカメラで壁やホワイトボードに何かを投影させるのかもしれないが、今回の水岡たちには縁のなさそうなものだった。

(…………)

 さきほど、事務員と思われる女性がお茶を運んできてくれたが、水岡も高藤も口をつけていない。

 ただ今は、試合を控えた選手のように精神を集中させているのである。

(…………)

 少しだけ喉が渇いていた。


 十分後。

「いやいやいやいや、すみませんねー、お待たせしちゃいましてー」

 テキサスワールドの営業担当、木村省吾が会議室に入室する。着ているのは紺色の背広に青色のネクタイ、髪は七三に分け、銀縁眼鏡をかけたその細い顔はどこか蛇を連想させた。

「八百竜さんにはこうしてご足労をおかけしなくても、呼んでいただければこちらから出向きましたのに。いやいやいやいや、本当にもう」

「いえいえ、お構いなく。用があるのはこちらですので、そちらにお手数をおかけするわけにはいきませんよ」

 高藤は小さく口元を緩めて、柔和な笑みを浮かべた。

「いきなり押しかけるような形になってしまいまして、ご迷惑だったのではないかと、心苦しい限りです」

「あ、はい。大変急なアポイントだったものですので、時間を調整するのに大変でした。いやいやいやいや、お気になさらないでくださいねー」

 一度立ち上がった三人で名刺交換を行い、再び着席する。

 木村は用意されている湯飲みを手にして、口にした。ゆっくりとテーブルに戻して、顔を上げる。

「それで、ご用件というのは?」

「こちらの用件はですね、こうして品質管理部門の私と水岡が伺ったことからもだいたいの検討はついているとは思いますが、是非とも御社の品質面について、改善いただけないかと思いまして、懇願に上がった次第であります」

「あらあら、懇願だなんて……またそれですか?」

 木村は肩を一度上げた。

「申し訳ありません、何度同じことを申されましても、本社にも規則というものがありまして、そちらの提案はなかなか手が出せるものではないんですよ。いやいやいやいや、申し訳ない限りです」

「はい、そう仰るだろうとは重々承知しておりますが、改めてこうしてお顔を拝見させていただき、お願いに参った次第です」

 高藤は自身の内側にぐっと力を入れた影響で、体が小さく縦に揺れた。

「先日もお伝えした通り、御社から納品いただいたICに不具合が発覚しまして、それも我々の工程内だけではなく、出荷先の八百竜重工でも同様の不良が発見されました。とても残念な限りです。そこで、どうしても先方に不良原因と対策を報告しなければならないのですが、御社が解析を進めていただけないので、どうにも報告することができませんで、弊社としても困っているわけなんですよ……」

「はい、御社がそう仰る気持ちも理解はしているつもりです。ただ、そう仰られることで、弊社としても規則を逸脱することを強制されているようでして、それはそれで困ってしまうわけです」

「そう無下に仰らないで、どうか追加の解析を検討いただけないでしょうか?」

「いやいやいやいや、すみませんね、そんな無茶な個別対応は難しいものですから。ましてや、こんな急にアポを入れて来社されるような非常識……こほんっ。えー、貴社には貴社の都合がありますように、弊社にも弊社の都合というものがありますので、どうかご了承いただければと思います」

 木村はにっこりと微笑みかけた。その目に、そこから先一歩も引く気がない意思を強く滲ませながら。

「それでは、本日は大変急なことではありましたし、こちらとしてもあまり時間を取ることができませんでしたので、今日のところはお引き取りいただけないでしょうか。よろしくお願いします」

「あっ、そうですか」

 高藤の声が一段上がる。その一言を待っていたかのごとく。

「そうなんですね、木村さんは時間がないんですね? それはすみませんでした。随分とご迷惑をおかけしましたね」

「え、ええ……」

「でしたら、木村さんはここまでで結構ですので、是非木村さんの上司の方を紹介いただけないでしょうか?」

「は、い?」

 こびりつくように貼りついていた木村の笑みが、一瞬硬直する。

「上司ですか……? いやいやいやいや、上司は、ですね……はてさて、今日は在席していましたかねー。何分お忙しい方ですので、もしかしたらどこか出張にいってるかもしれませんねー」

「あらー、上司の方は出張をされているんですか? なんでしたら、上司の方のさらに上司の方でも構いませんよ。是非ご紹介ください。せっかくこうして足を運ばせていただいたわけですので、せめてご挨拶だけでもと思いまして」

 これが敵地に乗り込んだ高藤の狙いであった。何度頼んでも返答が変わることのない担当者を会社に呼んだところで同じことの繰り返しになると踏み、その上司に直接かけ合おうと客側である高藤たちがわざわざ出向いたのである。どうしたところで、相手の勤め先が舞台ならどこにも逃げることはできないだろうと。

「早く紹介をしていただけないでしょうかね。是非お挨拶したいものですから」

「…………」

「ああ、お時間だったらお構いなく。仮に会議や出張で今はたまたま席を外しているのだとしても、こちらは何時間でも待たせていただきますから。ここは御社の会社ですからね、待っていればその内会えますよね?」

「…………」

 木村は硬直した笑みをそのままに、静かな動作でテーブルに肘を置き、組んだ手の上に細い顎を載せた。暫く視線を木目調のテーブルに向けてから……五秒後、上体を起こして銀縁眼鏡に触れる。

「八百竜さん、いい加減にしてもらえますか。こちらにも仕事があるんですよ。なのに、そちらの都合でこうして余計な時間を取られて、挙句にそんな難癖をつけられたんじゃ、営業妨害もいいとこです」

「いやだな、難癖だなんて。そんなことしてないでしょうが。こちらはただ不良品に対してまともな品質対応をお願いしているだけです。当たり前のことを当たり前のようにしてほしいだけ。そちらが不誠実だから、困ってるんでしょうが」

「いやいやいやいや、ずけずけといきなり会社に乗り込んできたかと思ったら、やくざまがいなことを……いいですか、これ以上居座ろうものなら、御社に正式に抗議させてもらいますよ」

「ああ、どうぞ。やれるもんならやってみてください。そうすることで問題が明るみになって困るのはどちらでしょうね」

「これはまたおかしなことを。こちらは困ることなんてありませんよ。そちらの無理難題がいい迷惑なだけなものですから」

「馬鹿なこと言うな。そっちのやる気のなさが問題を悪化させてんだろうが!」

「なんだとぉ!」

「んだよぉ!」

「あ、ああ! ちょっと! ちょっとちょっとちょっとちょっと!」

 水岡は急いで立ち上がり、睨みあう双方に手を向けた。

「高藤さんも木村さんも、そんな怖い顔して睨み合わないでくださいよ。いやだなー、もうちょっと冷静になりましょう。ほら、落ち着いてください。深呼吸です、深呼吸。すー、はー、すー、はー」

 みるみるとヒートアップしてきた二人のやり取りに、水岡が割って入った。でないと、テーブルを乗り越えて胸倉を掴みかからん勢いが二人にあったから。

「あの、木村さん、失礼があったのなら謝ります。僕たちは仕事でここを訪れているのであって、別に木村さんと喧嘩をしたいわけじゃないんです」

 水岡は、同じように腕組みしながら視線を逸らしている二人の様子を窺って……クールダウンの時間を設けるために、口を動かしていく。

「我々の願いとして、まずこちらの思いをお話しさせてください」

 水岡は隣に座る頬の赤い高藤を『暫く余計なことは言わないでくださいね』と目で制し、こほんっと小さく咳払い。

「ご存じだとは思いますが、我々は品質管理部門の人間として、ウォークの制御ユニットに関わっています」

 戦略軍機兵器、FWB。通称ウォーク。

「製造する制御ユニットはしっかり試験して問題がないことをチェックし、出荷先の八百竜重工に納品させていただきます。そこでFWBに組み込まれて戦場に運ばれていくわけですね」

「そんなこと、わざわざ言われなくても分かってますよ」

「ああ、そうですよね、失礼しました」

 水岡は小さく頭を下げる。

「戦場でウォークは大量の火薬を搭載し、敵陣地へと飛行していくわけです。目的は、内側に搭載した爆薬で、敵陣に甚大なダメージを与えるため。これって……なんか考えてみると、馬鹿らしくありませんか?」

「はい……? 馬鹿らしいとは?」

「だって、せっかく弊社の大勢の人間が携わり、一つ一つの工程で精魂込めて作った製品がですよ、爆発させるために出荷されていくだなんて。こうして冷静になって考えてみると、やってられないですよね」

「…………」

「ただ、世界から戦争はなくなりません。こうして木村さんとお話しさせていただいている間にも世界の各地で戦争が繰り広げられています」

「いやいやいやいや、そのおかげで、御社は儲かっているわけでしょ? いいことじゃないですか」

「まあ、そういうことになりますかね。あはははっ」

 事実に違いはない。水岡たちは戦争があるからこそ、給与を得ているのである。

「戦争に勝てば得るものが大きく、戦争に負ければ失うものが大きい。ウォークというのは、国にとってとても重要な戦力なわけです」

 だからこそ!

「だからこそ、品質が大事なんです!」

 絶対に不良品を納品しないように。

「考えてみてくださいよ。もしウォークが誤作動を起こして、あろうことか自陣で爆発してしまったら、それはもう大惨事に発展しますよね」

 もしそれが勝てる戦で起きたとしたら?

「国は得られるはずだったものを得ることができず、失うはずじゃなかったものを失ってしまうんです」

 国にとって大打撃となる。

「我々はなんとしても適正な機能を有して、かつ、適正な期間を保証する製品を製造しなければなりません」

 一台たりとも戦場に不良品を送るわけにはいかないのだ。

「戦争は国の行く末を大きく左右しますから、そこで稼働する製品を製造する立場として責任はとても大きいわけです」

 責任重大。だからこそ、最終出荷先の戦場では、出荷したすべての製品が正常に動かなければならない。一台の誤作動も許されるものではない。

「戦争って、とても重たいものなんですよ」

 戦場は各国の威信をかけた真剣勝負の場である。

 だからこそ、

「誤爆しても待ったなしなんです!」

 万一のことがあってはならない。億に一も、兆に一も。

 品質とは、かけがえのない尊さを有しているのである。


       ※


 壁にかけられた四角い時計が午後三時を示す。水岡たちがこのビルを訪れて一時間が経過したこととなる。

「いかがでしょうか、我々の製品の品質にかける思いについて、ご理解いただけたでしょうか?」

「はい、仰りたいことは分かりました」

 すっかりクールダウンした木村は、かけている銀縁眼鏡に触れる。一呼吸分だけ間を空けて、つづける。

「御社の品質にかける熱い思いは充分伝わったのですが……しかし、やはり申し訳ありません」

 小さく頭を下げる。

「御社には御社のプライドがあるように、弊社にもプライドはあります。規則は会社を経営している上で必要だからこそ定められたものであり、それを外部の方から反するようなことを言われたところで、容易に変更するわけにはいかないのです。ご理解いただければと思います」

「そうですか、それは残念です。でも、仕方がありませんね……」

 気落ちするように水岡が肩を落として息を吐くと、正面にある表情も緩んでいくことになる。

 その一瞬を見逃すことなく、水岡は追撃をかける。

「でしたら、一つ提案があります」

 虚を突かれたように、目を大きくさせた相手が顔を前に出してきたところに、水岡はここを訪れる前に考えていた妥協案をぶつけていく。

「今回不良だった部品はまだ御社が保管していますね? こちらは返却いただいておりませんので」

「はい、ちゃんと保管しておりますよ。必要なら返却の手続きをいたしますが、どういたしましょうか?」

「いえ、返却する必要はありません」

 なぜなら、その部品を使って試してほしいことがあるから。

「預かっていただいている部品を、一度御社の出荷試験にかけてみてもらえないでしょうか?」

「は、い?」

「出荷試験にかけてください」

 微笑む水岡。

「どこの工場も同じだと思いますが、御社でも機能を確認するために、出荷前に機能試験をしているはずです。それに今回の部品をかけてほしいわけです。出荷試験に合格するか不合格になるか、を」

 テキサスワールドがICを出荷する際に試験する、その試験に今回の不良ICを試して合否を確認してほしい。

「不良品について、我々が確認しているだけで四個あります。三つが出荷前の工程内で見つかったもので、一つが出荷先の八百竜重工で見つかりました。なぜ工程内で検出できずに流出させてしまったのか、その詳細はまだ分かっておりませんが……その違いとして解明できていることは、信号のローレベルの差というものがありました」

 本来のIC出力波形は0Vから5Vの交流なのに対し、出荷試験でNGとなった三つのICのローレベルは0Vではなく、2Vだった。また、八百竜重工でNGとなったものは1Vだった。

「まだ正確なところは判明できておりませんが、状況から察すると、弊社の出荷試験ではローレベル2Vは検出できるが、1Vは検出できていない事実があるわけです。それはつまり、弊社の試験は1Vより高いものしか検出できない試験内容で、だから2Vは検出できたが1Vは検出できなかったものと推定しているわけなんです」

 だからこそ、1VのICは出荷試験を通過してしまい、八百竜重工まで流出させてしまったことになる。

「では、御社はどうでしょうか?」

 テキサスワールドの出荷試験はどういう状態にあるか?

「事実だけを並べて考えてみますと……もしですが、御社の試験内容が、ローレベル2Vを検出できていないものだとすれば、その部品が我々のところに流出したことの裏づけとなるわけです」

「…………」

「それはつまり、今も不良品が御社から弊社に出荷されている……いや、違いますね。不良品が出荷されているのは弊社だけでなく、今も世界中に出荷されていることになりませんか?」

 八百竜エレクトリックでローレベル1Vが検出できなかったように、テキサスワールドではローレベル2Vが検出できないのではないか? それがこうしている間もどんどん製造され、出荷している事態にあるのではないか?

「これは僕の考えであって、実際には試験してみないとなんとも言えませんね。もし試験をしてちゃんと検出できるのだとすれば、試験後におかしくなったのかもしれません。そうですね、例えば運搬する振動でおかしくなったのかもしれませんし、我々がICをプリント基板に実装する際の熱でおかしくなったのかもしれませんし、もしくは出荷試験で通電したことでおかしくなったのかもしれません」

 どこで壊れたかは、はっきりと特定するのは難しい。

「しかし、もし御社の出荷試験で検出できなければ、生産時からローレベル2Vを御社の出荷試験で検出できていないことになります」

 それは、試験内容が不充分であることを意味する。ICの製造工場として、放置しておくわけにはいかない事態となる。

「いかがでしょう、これは調べてみる価値があると思いませんか? だって、今も不良品を出荷しつづけているなんて、とても怖い話ですよね。僕だったら呑気に他の仕事なんてできませんよ」

「…………」

 水岡の提案に、木村は眉間に深く眉を寄せ、唇に右手の人差し指を当てながら、その視線をどこでもない虚空の一点に集中させている……たっぷり三十秒という時間をかけ、木村は視線を水岡に向けた。

「仰る通り、試験内容に不備があってはいけません。それは理解いたしますが……やはり、その理由で本社を説得するのは難しいでしょうね」

「駄目、ですか……」

「申し訳ありません。テキサスワールドの考え方としまして、さきほど水岡さんから提示された内容は、『過剰品質』と捉えられます。不必要な品質は、製品の供給に支障が出ますから」

 テキサスワールドは世界規模の大企業であり、それを必要とするメーカーは世界中に何百社、何千社と存在する。水岡たちの要求通りに品質意識を向上させてしまうと、生産工程で大量の歩留まりが発生してしまい、世界からの要求に応えられなくなってしまうのである。

「そこまで強く品質を重要視されている八百竜さんの前でこんなことを言うのは大変忍びないことではありますが、『品質は一定の水準さえ満たしていればいい』というのが、弊社テキサスワールドの方針です」

「平たく言えば、『動けばいい』ってやつですか……」

「申し訳ありません」

「そうですか……」

 がっくりと肩を落とす水岡。これまでにない切り口として考えてきたアイデアだったのに、残念ながら受け入れられてもらえなかった。

「…………」

 変わることのない現実に、そこから受けた失望感は大きなものがあり、水岡の肩から力が抜けていく。

 これはもう、お手上げ状態であった。


 この瞬間、品質を高めたい水岡にとって、お先真っ暗の絶望状態で、八方塞がりとなったのだが……しかししかし、水岡は敵地であるこのテキサスワールド営業所の会議室において、思いもしなかった方向から『捨てる神あれば拾う神あり』という言葉を目の当たりにすることとなる。

 まさに運命を変える神がこの場に降臨するのであった。


       ※


「ちょっとよろしいでしょうか」

 こんこんこんっと三回ノックされた会議室の扉が外に開かれると、一人の男性が入ってきた。

「途中からではありますが、お話は聞かせていただきました。すんませんねぇ、うちの木村がなんといいますか、融通の利かんやつでして」

 入ってきたのは熊を思わせる巨漢な男性、加味かみばやしろう、五十五歳。このテキサスワールド奈恋市営業所の営業部長で、ここにいる木村の直属の上司である。髪は短く立っており、顔も体も筋肉質でごつくて四角い。ベージュのスーツに赤色のネクタイ、スーツ越しにもその胸板や腕が太いことが分かる。

 その場で名刺交換をして、加味林はどっかりと腰を下ろした。

「いやはや、弊社の不手際で八百竜さんには随分とご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありませんなぁ」

「ぶ、部長、ふ、不手際って、何を仰っているんですか?」

「馬鹿もーん。せっかく八百竜さんが素晴らしい提案してくれてんだ、対応しないでどないするちゅうねん」

「た、対応、ですか?」

「んなもん、出荷試験に決まっとんだろうが。こうしている今も不良品が出荷されてるなんて、考えただけで恐ろしくて、夜もおちおち寝てられんだろが」

「し、しかし、部長」

「うるさい、しかしもかかしも奈恋市もあるかいな」

 加味林は小さく首を振る。

「木村、お前はリスクってもんがまるで分かっちゃいない」

 加味林は机の向こう側から状況を静かに見守っている水岡と高藤に視線を送ってから、隣に座る木村に右手の太い人差し指を突きつけた。

「木村、お前は勘違いしとるよ。こうして八百竜さんと向き合ってはおるが、この問題はな、企業対企業じゃないんよ」

「はい? 弊社と八百竜さんとの関係じゃないってのは、どういうことですか?」

「馬鹿もーん。まったくもってそうじゃない。いいか、これは、企業対国の問題なんよ」

 加味林は、右手で水岡たちを示す。

「そちらにいる八百竜さんが何を製造しているか? それはウォーク関連の製品だ。それを戦争国に出荷しとる。それぐらい分かっとんだろ?」

「ええ、まあ……」

「だったら考えてみんかい。弊社の部品のせいで戦場の勝敗が引っ繰り返った日にゃ、その損害賠償は誰がすると思ってんだ?」

「へっ……」

「ましてや、それが本社のある帝国だったことを考えてみろ。帝国は得るはずだったものを得られず、失う必要のなかったものを失うわけだぞ。それもこれも我々の製品のせいでな。生じる莫大や損害賠償もさることながら、本社から我々がどんなペナルティーを科せられると思うとんねん?」

「…………」

「んなもん、わしやお前の首なんかじゃ、どうにもできんかんな」

 影響は社員二人だけの問題に収まることなく、この営業所すら壊滅に追い込まれることだろう。

「わたしは従業員の生活を守らないかん。そんな大きなリスクがあるなら、なにがなんでも回避すべきだろが。そうだろ?」

「あ、は、はい」

「そういうこっちゃ。だから八百竜さん」

 加味林は体を正面に戻して、ずっと成り行きを見守っていた水岡と高藤に大きく頭を下げた。

「さきほどの話、しっかりとお受けさせていただきます。さっそく本社に連絡して出荷試験に不備がないかを確認し、結果に合わせて迅速に対応いただきますので、この通り、どうか堪忍してもらえませんかぁ」

「あ、は、はい、ありがとうございます!」

 水岡も勢い頭を下げる。あまりの急展開に、びっくりしたような嬉しいようなで、その頭上には大輪の花火が打ち上がる心境だった。

「ほんとに、対応いただけるなんて、ありがとうございます」

 水岡はゆっくりと三秒後に視線を上げ、改めて正面に笑みを浮かべる四角い顔の加味林を見つめる。いきなりのことで、なかなか頭がついていけていないが、水岡たちが望む方向に進んでいることは分かる。

 ただ、迎えているこの現実、前提としてどうしても分からないことがあった。

「あ、あの、加味林さんは、その、我々の話をどこで聞いていたのでしょうか?」

 水岡からすればごく当たり前の疑問である。

「そこの廊下にいた、とか?」

「あ、いえいえ、そんな外で扉に耳を当てて聞いたわけじゃありませんよ。がっはっはー。聞いていたのは、あれですよ、あれ」

 加味林は壁につけられたカメラを示す。

「席から戻ったら会議室に八百竜さんがきているということなんで、途中からではありますが観させていただきました……って、木村、まさかカメラのこと、説明してないんと違うかぁ?」

「あ、は、はい、すみません……」

「馬鹿もーん! んなもん、盗撮と変わらんだろが!」

「も、申し訳ありません……」

「八百竜さん、すんませんね。説明不足でしたが、ここでのやり取りは記録として録画させてもらってます。それを最初に説明しとらん、全部こいつの落ち度ですわ。堪忍してください」

「あ、いえ、お、お構いなく」

「担当のこいつがまた迷惑かけるかもしれませんが、これからもよろしゅうお願いいたしますぅ」

 そう言って、加味林はにっこりと大きな笑みを携えたのだった。


 その後、テキサスワールドの調査により、出荷検査に不備があることが判明した。出荷分を自主回収し、一時的ではあるが、世界中の製造工場が停止する事態にまで発展したのである。

 八百竜エレクトリックとしても、テキサスワールドの新たな試験によって安全が保障された製品が送付されるまでの十日間、完全に生産がストップすることとなった。繁忙期の生産ストップは大打撃ではあったが、しかし、結果として不良品を戦場に送り込むというリスクを回避することができ、八百竜グループの品質にかける誇りを全世界にアピールすることができたのである。


       ※


 十月三日、月曜日。

 一連のテキサスワールド製IC不良により生産をストップしていた製造ラインが、今日から本格的に稼働をはじめた。休業によって休んでいた作業者も工場に戻り、西B工場は一気に活気を取り戻したのである。

 高藤のいるフィールド部門は、一旦出荷した製品を回収し、安全なICと交換する作業が今日からはじまっていた。そちらの応援にインラインも呼ばれていたが、水岡は久し振りの生産再開で問題が起きないか見極めるため、西B工場に留まることとなる。


 午前十時。

 西B工場の会議室。

 FWB部品質管理課インライン係の内川係長と水岡の二人だけ。

「それにしても、今回は大変でしたね。これほどまでに大規模な対応に追われたのは、初めてでしたからね。もう毎日課長から『進捗はどうなってるんだ!? 早く報告しろ』という催促が止まらないものでして」

「はははっ。きっと課長も部長から言われてるんでしょうね」

「そうですね、あっはっはっ。いやー、水岡さん、よくやってくれましたね。大手柄ですよ」

「いえ、僕は高藤さんについていっただけですから。ただあの人、行動力はあるけど、ちょっと感情的になりやすいところが玉に瑕ですよね。危うくテキサスワールドの人と掴み合いの喧嘩になるところでしたから」

「あっはっは」

「今回の件で、テキサスワールドもまだ混乱がつづいているみたいですけど、でも、向こうの加味林部長の懇意もあって、うちには優先的に部品を流してもらえてますから、ほんとに助かりました。でないと、今月はずっと休業状態がつづいていてもおかしくなかったですからね」

「今度きちんとお礼を言わないといけませんね。是非次回の打合せでは私も同行したいと思います」

「はい、よろしくお願いします。ただですね、加味林部長が仰ってたんですけど、『本社からよくぞ出荷試験の不備を見抜いてくれた』ってお褒めの言葉をいただいたらしいですよ。なんでも今度表彰されるって喜んでました。『もう八百竜さんには頭が上がりませんわ』ですって」

「あっはっは」

 満面の笑みの内川係長だったが……ハンカチで額の汗を拭うと、眼差しから明るさが消える。

「テキサスさんのことはこれぐらいにして……では、ここからが本題です」

 咳払い。

「水岡さんに伝えておかなければならないことがあります」

「改まりましたね。まあ、そのためにここに呼ばれたわけですからね」

 会議室で二人。

「何かまずいことがあるんですか?」

「まずいといえばそうですが……実はですね、話というのは、現在休職している黒岡林さんについてです」

「えっ、もう復帰するんですか?」

 意外な方向の話に大きく瞬き。

 次の瞬間、水岡の脳裏に春からのできごとが過る。

『教えてもメモしない』

『毎日当たり前のように遅刻を繰り返す』

『飲み会はいつも会計せずに怒って帰る』

『製造部門から数々のクレームを受ける』

『パワハラされたと嘘をつかれる』

 いやな思い出ばかりである。

「まあ、復帰できたなら、それはそれでいいですけど……うん、まあ、そうですね、やっぱり喜ばしいことでしょうね……なんか、やっぱり腑に落ちない点はありますけど、それはそれですね」

 どんな思い出であろうが、水岡は黒岡林の教育係である。うまくいかないことは教える方の責任であるから、忍耐強く接するしかない。と言い聞かすしかない。

「いつから戻ってくるんですか?」

「あ、いや、それがですね……」

 内川係長は言い淀み……鼻から息を吐き出した。

「自分は黒岡林さん、なんですが、解雇になってしまいました」

「解雇ぉ!?」

 驚きのあまり、大きく引っ繰り返る水岡の声。

「解雇って、えっ!? なんで!? なんで病気で休んでるだけで、いきなり解雇なんですか?」

 休職は最高で二年半の猶予が設けられている。その期間を過ぎても復職できなければ解雇になるが、黒岡林の場合はまだ二年以上残されていた。

 なのに、解雇。

「どういうことです?」

「実はですね、黒岡林さん、休職しているから毎日暇だという理由で、会社に黙ってアルバイトをしていたみたいなんですよ」

 八百竜エレクトリック株式会社はアルバイト禁止であり、ましてや休職中など論外である。

「もう人事部長がかんかんでして、弁明すら聞く耳もなくストレートに解雇が決まったみたいですよ」

「そ、そうですか、解雇ですか……」

「そういうことですので、水岡さんには継続して彼の仕事をやってもらうことになってしまい、申し訳ありませんがよろしくお願いします。人事の方には早く新しい人を入れるように頼んでいるのですが、製造現場ならともかく、品管にはなかなか融通してもらえないみたいでして」

「ああ、はい、頑張ります。頑張りますっていうより、誰かに任せるように自分でやった方が全体を把握できますし、早いですし。新人が入れば入ったで嬉しいですけど、いないならいないなりになんとかします。だから係長、そんな気にしなくてもいいですよ」

「いやはや、そう言ってもらえると助かります。ということでして、ずっと保留になっていた黒岡林さんに対する水岡さんのパワハラ処分についてですが」

 内川係長の顔に再び笑みが浮かぶ。

「無罪放免です」

「ああ、そっか。それ、まだ保留でしたね。忘れてました。僕は悪いことをした自覚がないですし、ここのところずっと忙しかったから。そっかそっか。ようやく人事も分かってくれたんですね。よかったよかったー」

 水岡の意識下の隅にあった小さな棘が、これできれいになくなった。

「これから生産再開されて、また忙しくなりますからね。頑張らないといけないなー」

 すべては出荷する製品品質のため。

 八百竜グループの発展のため。

 社員として、水岡はこれからも主に品質面で尽力していくこととなる。

「にしてもあれですね、黒岡林君の場合」

 立ち上がった。解析エリアには今日もLO品が置かれている。一刻も早く原因を突き止めなければならない。

「誤爆というより、自爆ですね。なにやってんだか、あいつ」

 水岡は内川係長とともに会議室を後にした。

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