第4話 いよいよ磯部の本が完成する。

磯部は日曜日の朝少し遅くに起きてyoutubeのアナリティクスを眺めた。今週の再生数は予想していたよりは良かった。今の時点でどちらも10万再生を超える好成績を収めており、彼はその数字に少し安堵した。それはくら寿司の動画に貧乏クッキングに食事に関するものだからであろう。YouTubeでの食事関連コンテンツは、視聴者にとって昔から魅力的なものであり、多くのYouTuberが食べる姿や料理しているシーンを動画の中に取り入れることが多い。


だが、ここに磯部は動画の方向性を置きたくなかった。あくまで食事コンテンツは副菜として動画を添える程度の役割にとどめておきたかった。そして磯部は特にご飯を食うだけでお金を稼ぐ女Youtubeを嫌っていた。


磯部は、新しい動画アイデアとして神戸の街中を自転車で周遊する企画を思いついた。このアイデアは、前日に彼が散歩中に偶然閃いたものだった。彼は、このようなコンセプトが視聴者に新鮮な視点を提供し、興味を引く可能性があると考えていた。


YouTubeで自転車周遊の動画を制作しているクリエイターは確かにいたが、特に大きな人気を博している人は少なかった。ただし、特定のニッチ市場でそこそこ成功を収めているYouTuberもおり、その中には年配の男性が「おっさんが行く!自転車で巡る隠れた名所」というシリーズを投稿している例もあった。そのYouTuberは、地元の小さな名所や隠れたスポットを紹介することで一定のファン層を確保していた。


磯部は、この「おっさん」系の動画が示すように、年齢層を問わず自転車ツアーが一定の魅力を持つことに注目し、自身もその市場に「若さ」という武器で参入することに大きな可能性を感じていた。


磯部悠太がYouTubeで調査を行ったところ、神戸を自転車で周遊している動画はほとんど見つからなかった。これに対し、最初は神戸が観光地としての魅力に欠けるのではないかという疑問が浮かんだ。しかし、神戸はその歴史的建築物や美しい海岸線、異国情緒あふれる異人館街など、多くの魅力的な要素を持っていることから、その理由が魅力の不足にあるとは考えにくかった。


磯部はさらに深く考え、神戸を自転車で探訪する動画が存在しないのは、単にそのテーマを扱うクリエイターがいなかったからだと結論付けた。


そのころ藤原誠一はその日の夕方、毎度おなじみのイタリアンビュッフェレストランに行く予定を立てていた。その前に、彼は磯部悠太から送られてきた原稿の推敲作業に集中していた。磯部の原稿は、その日のうちに藤原の手によって大部分が完成され、彼は作品がもう本の8割ほど完成したと感じていた。


原稿の本文の推敲がほぼ完了し、残る作業は表紙のデザインを決定することと、帯の文案をどのようにするかを考えることだった。これらは本の出版プロセスにおいて重要な要素であり、藤原はこれらのディテールにも同じくらいの注意とケアを払うつもりでいた。


また、磯部には最終稿に対してさらに追加したい内容があるかもしれないと考えられたため、その部分は磯部の裁量に任せることにしていた。これにより、磯部は自身の最終的な意向を反映させる機会を持つことができ、作品がより彼の思いに近いものになるだろう。


藤原はこれらの残務を整理した後、夕方の予定に備えて少しリラックスする時間を設けた。彼は、今日の作業が順調に進んだことで心地よい満足感を感じており、これから訪れるビュッフェでの食事を楽しみにしていた。


藤原の頭は、最近ずっと磯部悠太のことでいっぱいだった。まるで彼の存在が夢にまで登場するかのように、その思考は磯部の本に集中していた。しかし、地方誌の編集作業はまだ進んでおらず、こちらはデータチェックなどの追加作業が必要とされるため、自己啓発本とは全く異なる扱いが求められていた。データの正確性を保証するための細かなチェック作業は、時間と精度を要するため、進行が遅れがちだった。


磯部の自己啓発分の軽い文体の思い内容を読んでいると、美しい日本文学が読みたくなった。そこで来週から、彼は谷崎潤一郎の『春琴抄』《しゅんきんしょう》を読むことに決めた。彼は本棚から『春琴抄』を手に取り、自分の作業机へとそれを移動させた。その本は短いながらもじっくり読むに値する本だ。


月曜日の朝、磯部悠太は自転車用のカメラマウントが配達されるのを心待ちにしていた。彼が注文していたこの装置は、自転車にカメラを固定し、移動しながらの撮影を可能にするもので、神戸の街を周遊する新しい動画シリーズのために必要だった。


磯部はただ単に自転車で走りながら撮影するだけでは、動画が視聴者に受け入れられることはないと確信していた。彼は視聴者に価値を提供するために、撮影する各スポットの歴史や特色を詳しく解説することが重要だと考えていた。そのため、計画していたルート上の主要な観光スポットや隠れた名所について、事前にインターネットで調べた。


磯部悠太は、自転車にカメラを固定し、神戸のハーバーランドでの撮影を始めることに決めた。ハーバーランドの魅力を伝えるため、彼はまずネットで詳細な情報を収集し始めた。しかし、この調査作業は彼にとって意外にも苦痛だった。無数のウェブページを通じてハーバーランドの現代的な施設や商業的な魅力についての情報をまとめるうちに、彼は「視聴者は本当にこれらの情報を求めているのだろうか?」と疑問に思い始めた。彼は視聴者がもっとこの地域の歴史や文化的背景に興味を持っているのではないかと考え、しかし仕方なくデータのまとめを続けた。


ハーバーランドの歴史は、かつて一般市民の立ち入りが制限されていた臨海部が、大規模な再開発を経て、新しい市街地として生まれ変わったことに始まる。1985年に再開発プロジェクトがスタートし、1992年には3000億円を超える巨額の投資を背景に、「ハーバーランド」として市民に公開された。今では、多くの商業施設や観光地が集まるこの地域は、神戸の新たな顔として、ポートアイランドとともに神戸港の玄関口となっている。


専門的な内容や歴史的な解説は通常のコンテンツとは異なるため自分の日常Vlogを中心としたチャンネルでは受けが悪いだろう。それともチャンネルを変えてやるか。それともきっぱり神戸周遊動画をやめるか。それならカメラマウント買ったお金が無駄になってしまう。磯部は何か決断を下さなければならなかった。


磯部悠太は、自転車での神戸周遊動画のプロジェクトに必要な背景情報を集めるため、神戸の名所に関する調査を続けていた。彼は一生懸命に情報をまとめている最中、パソコンの通知がポップアップした。それは藤原からのメールだった。藤原は彼の書いた原稿に対して推敲を加え、整えた文書を送り返してきたのだ。


メールには「チェックして推敲すいこうしておきました。またこうしたいとか、ここを変えたいとかあれば送ってください」とのメッセージが添えられており、添付ファイルとして修正済みの原稿が同封されていた。磯部は早速その文書を開いて内容を確認した。


読み進めるにつれて、彼の書いた言葉がどのように整理され、洗練された形で再構築されているのかを感じ取ることができた。そのすべてが書籍の形式になっており、目の前にはきちんとした章立て、見出し、そして流れるような文章が展開されていた。自分のアイデアと言葉が、本としての具体的な形を取り始めているのを見て、磯部は大きな興奮を覚えた。自分の作品が本当に出版されるという事実が、彼にとっては夢のように感じられた。確実に無理だと思うがなんかの拍子にこの本が本屋にたくさん並べられて、長年の売れ続けることを磯部は妄想した。それによってさらなる自分の夢である企業が実現することも。


磯部は最後に自分の夢のこれからしたい夢をあとがきに付け加えることにした。こうやって宣言することで逃げられないようにするためだ。


また、本の表紙に関しても重要な決断を下した。磯部は自身のポートレート写真を表紙にする案を考えていたが、自分自身の写真を表紙にすることに違和感を覚え、「痛々しい」と感じていた。そこで彼は、よりプロフェッショナルで芸術的なアプローチを取るため、イラストレーターに依頼してオリジナルの表紙絵を作成してもらうことを提案した。彼は藤原にメールを送り、このアイデアについての意見を求めた。彼は表紙が読者に与える第一印象が非常に重要であると考えており、専門的なイラストレーターによる美しいデザインが、本の魅力をさらに高めると信じていた。


藤原からの返答を待つ間、磯部はイラストレーター選びにも着手し、自身の本のテーマに合ったスタイルや以前から気になっていたアーティストのポートフォリオを調べ始めた。


すると「ピンポーン」という音が家の中に響いた。出ないでおこうと思ったが、中ではスピーカーで音楽を流しているため、いることは気づかれている。音楽を一時停止し、急いでズボンを引っ張り上げて玄関へと向かった。ドアを開けるとどうやら自転車用のカメラマウントを届けに来た配達員だった。いつも置きはいなのになぜ今日は対面受け取りしないといけないのだろう。しかも「サインをお願いします」と言いながら、汚らしいボールペンでサインすることまでも求められた。


その間磯部は部屋の中が見えないように、ドアを少し閉めて開く面積を狭めようとした。しかし、配達員のおっちゃんは何の躊躇もなくドアを大きく開けてきた。この行動に磯部は少し戸惑いつつも、おっちゃんはドアを閉められるのを阻止しようと体を前に出してドアを押さえた。


「ちょっと、何してるんですか?」と磯部がたずねると、配達員は簡単に「すみません、ちょっと風で」と言い訳しながらすぐに引き下がり、磯部に荷物を渡して急いで去って行った。


カメラマウントが届いたのは嬉しかったが、磯部悠太はその装着が思ったより面倒そうだと感じた。部品を一つ一つ確認しながら、どのように自転車に取り付けるかを考えた。しかし、取り付け作業はすぐには着手せず、「明日も時間があるから、ハーバーランド周辺での撮影に行く準備をしよう」と心に決めた。


その時、磯部は突然、前の土曜日に警察署で断られた運転免許の住所変更のことを思い出した。その日は予定外の事態で更新手続きができず、再訪する必要があったのだ。外はすでに晴れており、天気も良かったため、「今日中に運転免許の住所変更をちゃっちゃと済ませてしまおう」と決意し、自転車のカメラマウントの取り付けは一時置いておくことにした。


藤原はそのころあいかわらず眠そうにしていた。昨日のビュッフェで少し胃もたれしたので、朝食は食べず薬を飲んできた。藤原はいま神戸の衰退していくまちのなかで空き家を利用したコワーキングスペースを使ってまちを再生しようとしている起業家を取り上げていた。今度その人にはインタビューしに行くつもりだった。その人は他にも空き家をもっと有効活用しようとしているらしく、正直うらやましくもあった。こんなちまちまする仕事で弱小通貨になりつつ円を稼ぐよりはよっぽど、やりがいのある仕事だろう。胃もたれが彼の思考をさらに尖らせた。


その頃、藤原誠一はいつものように眠そうな様子を見せていた。前日のイタリアンビュッフェで少し食べ過ぎてしまい、胃もたれを起こしていたため、朝食を抜いて胃薬を飲んでしのいでいた。彼は現在、神戸の街の中で進行する衰退に対抗する一環として、空き家を利用したコワーキングスペースのプロジェクトに取り組む起業家について取材を進めていた。この起業家はただの空間提供にとどまらず、空き家をもっと有効活用して地域を再生しようという野心的な計画を持っていた。


藤原はその起業家にインタビューをする予定で、詳しい話を聞くことに非常に興味を持っていた。起業家は空き家をさらに多くのコミュニティ活動や創造的な事業に利用しようと計画しており、そのアイディアの先見性と実行力に藤原は心を引かれていた。彼は自身の日々の編集作業と比べ、そうした大きなプロジェクトに取り組むことがどれほど意義深く、やりがいのあるものかと考え、自分も商店街再生に挑戦したいという気持ちが強まっていた。


その日、藤原誠一は胃もたれのために軽めの食事を選び、近くのコンビニでサラダを買って昼食とした。彼の心は磯部からのメールによって、更なる思索に引き込まれた。磯部は、自分の本の表紙にイラストレーターによるアートワークを採用したいと考えていたが、これは藤原にとって予想外の提案だった。一般的に、YouTubeクリエイターの出版物では表紙にその人物の顔写真を用いることが多い。


藤原は、磯部の提案に潜むリスクを認識しており、ファンが顔を見て購入するという点を無視すると売上げが落ちる可能性があると懸念していた。そのため藤原は丁重に磯部にそのことに対するお願いのメールを入れてた。

「表紙についてもう一度話し合いましょう。ファンの期待と売上げへの影響を考慮に入れて、最良の選択をしたいと考えています。」そして今度またあって話すために予定を聞き出した。


そして磯部の本の完成が近づいている中で、藤原は今後彼との直接のやり取りが減るかもしれないと感じていた。彼らの共同作業はいよいよクライマックスに差し掛かっていた。藤原はメールを送信後、磯部からの返答を待ち、その間に自身の他の編集作業に集中することにした。


火曜日、今週末からゴールデンウィークが始まるということで、世間の浮かれぐらいがわかるXでのつぶやきをみて藤原はため息をついた。幸いなことに磯部からの最近のメールで、表紙の写真を自分のものを使うことに関して彼が同意してくれたことがわかり、少し安堵した。そして、両者は本の詳細をさらに話し合うために、来週の水曜日に会う日程を設定した。


藤原はこのミーティングで、特に本の帯とインフルエンサープロモーションについて深く議論することを計画していた。彼は本の帯について、単なる装飾ではなく、読者に強い印象を与える挑戦的なメッセージを盛り込むことを考えていた。彼は「孤独と反骨心を抱える迷惑をかけるなと抑圧されてきた人へ」というような、挑戦的なメッセージを帯に入れることを提案するつもりだった。そのメッセージには藤原の気持ちが入り込んでいた。


磯部は、新しいカメラマウントを自転車に設置し、ピンマイクを服にしっかりと固定した。これで彼の神戸市内の自転車周遊動画の撮影の準備が整った。彼は長田区の自宅から出発し、最初の目的地である柳原蛭子神社へと向かった。


神社に到着すると、彼はまず境内に設置されている情報看板をカメラに映し、自分が事前にスマートフォンに保存していたメモを参考にしながら、視聴者に向けて解説を始めた。「ここにいるえびすさまは、右手に釣り竿を、左手には大きなタイを抱えています。元々は漁業の守り神として崇められていましたが、後に商売繁盛の神様としても信仰されるようになりました。こちらの神社は、実は西の宮神社の分社で、西の宮神社はこのえびす神社の本宮とされています。今後の動画では、西の宮神社にも訪れて、その場所の魅力を皆さんにお伝えしたいと思います。」


磯部はさらに、神話の背景に触れ、「古事記によると、えびすさまはイザナミとイザナギの最初の子であり、奇形として生まれたと伝えられています。このような背景も含め、えびすさまは多くの人々に愛され、様々な逸話が語り継がれています。」と説明を加えた。


カメラを回しながら神社の魅力的な部分を映し出し、磯部は視聴者が神社の歴史とその文化的重要性を理解できるように努めた。エンタメ成分はハーバーランドでバランスをとることにした。


柳原蛭子神社での撮影を終えた後、磯部悠太は10分間自転車を漕ぎ続け、次の目的地である能福寺へ向かった。彼の計画では、この寺も動画で取り上げる予定であったが、時間の制約から詳細な探訪はできないことを認識していた。


能福寺に到着すると、磯部は寺の外観とその周辺の風景にカメラを向けた。特に、この寺の大仏が一番の見どころであるため、彼はその大仏を背景に解説を始めた。「こちらは能福寺。特にこの大仏は神戸に住んでいる人には有名で、兵庫大仏として名が知られているらしいです。そこそこ迫力あるでしょ?まあ今回はさっとみておくだけにとどめて、次はハーバーランドに行きます。」


磯部はその後、この動画のメインのハーバーランドに行き、昨日調べたことをカンニングしながら説明した。彼はこれまで一つ一つの事実を暗記して語る方法を取っていたが、カンニングを使うことで、よりスムーズに情報を伝えることができると感じたため、これからはその手法を使うことにした。そして自転車を止め館内を軽く紹介し、「大したことないただのデートスポットだ。」とさっきと一変した少しする止めのコメントを残し、視聴者が突っ込んでくる余白を作った。


そして磯部は「ジャムおじさんのパン工場」というアンパンマンのキャラクターの形をしたパンを提供する、いかにも商業主義的なパン屋にいき視聴者が喜びそうなシーンも取ろうとした。ここは前回祖母と訪れたことがあるので、磯部にとって二回目の訪問であった。それなのに彼は新鮮なリアクションを軽やかにとって見せた。「ほらみてみ、あれ。アンパンマンのパン屋だってこれは行くしかないな。自分全種類買い占めていいですか?」


このパン屋は、最近になって特に人気が高まり、長蛇の列ができるようになったという。火曜日の昼間にも関わらず、店の前には若い女性やおばさんたちがパンを買い求めるために列をなしていた。磯部は彼女たちを撮影しながら、「こいつらは気楽でいいな」というコメントを心の中でつぶやき、視聴者にその場の楽し気な雰囲気を伝えようとした。


磯部は「ジャムおじさんのパン工場」での買い物を進めるうちに、動画映えしそうなパンを慎重に選んだ。彼の選んだものはは、定番のアンパンマン、圧倒的にデザインのクオリティの高いどきんちゃん、そして気休め程度のメロンパンナのパンだった。これらのカメラに映るとさらに色鮮やかでバランスよく見えそうなことから、これらを購入することに決めた。

見た目のクオリティーは確かに高いのは認めるが、いくらなんでもこれが一個400円するのはぼったくりだ。磯部は前回祖母がキャラクターデザインで選ばず味でカレーパンマンを選んだことを思い出して思わず笑いそうになった。そういう人にとってここは全く価値のないところである。


そして購入したところの動画を取り、磯部はそのまま近くにあったベンチに座った。隣は「神戸アンパンマンこどもミュージアム」になっていて、そのため平日にもかかわらず、小さな子供がいっぱいいた。「まだゴールデンウィークじゃないのに、こんな人がいっぱいいるなんてねぇ。こりゃゴールデンウィークになればすごいことになるでしょうね。」といいながらメロンパンナのかわいらしい表情舌パンを箱から取り出しパンを箱から取り出し、カメラにみせつけ豪快に頬張った。「ああ、メロンパンナのお顔が、、、」といって大げさに泣きそうな演技をした。周りに座っているおばさんは少し驚いた様子で、こちらをちらりとみて席を立ってアンパンマンミュージアムと反対方向に去ってしまった。


そこで磯部の変なスイッチが入った。「ヒヒヒヒーン、ヒヒヒヒヒヒヒーン」と馬の物まねをしながらパンをむしゃむしゃと食べていった。ものの三分ですべてのパンを食べきることができたのでこのシーンはフル尺で仕えそうだった。彼はその場を後にし、近くにあるアンパンマンの銅像のところまで歩いていき、カメラを自分に向けながらファイティングポーズを取った。そして、銅像にカメラを向けまるでボクシングの試合前のように、アンパンマンの銅像に向かって「おっやるきか?」とジャブの素振りをして見せた。磯部は自宅へ戻る途中、自分と同年代ぐらいの男視聴者に「ゆうたさん、こんな所でなにしているんですか?」と茶化しながら話しかけられたので、冗談交じりに「うるせぇ。」と答えた


磯部悠太はその日の撮影を終え、自宅に戻るとすぐに日常の疲れを落とすために服を着替え、ベッドに横になった。彼の部屋の隅に置かれたスピーカーからは、彼が愛する平成ポップスが流れ始めた。UAの「情熱」やPUFFYの「アジアの純真」など、今聞いても斬新さを感じる曲を選んだ。


この音楽を背景に、磯部は目を閉じて一時のリラックスタイムを楽しんだ。音楽に身を任せながら、彼はその日の撮影の疲れを少しずつ癒していった。約一時間ほど音楽を聴き続けた後、彼はスマートフォンを手に取り、今日撮った動画の確認を始めた。

動画のチェックを終えると、磯部は再びベッドにもたれかかり、今度はパソコンでアニメを視聴することにした。


藤原は、まもなく訪れるゴールデンウィークに心を躍らせていたが、今年の休みがやけに短いことに頭を悩ませていた。彼は窓の外を眺めながらぼやいた、「今年のゴールデンウィーク、ちょっと息抜きする間もなく終わっちゃうな。」


とはいえ、彼の休日の過ごし方はもう決まっていた。藤原は心の中で独り言を言うように計画を立てた。「まあ、どうせ休みの日はいつものルーティーンだ。本を読んで、映画を見て、スーパーで買い物して、晩餐を作る。それぐらいしかやることがない。」


そして、映画選びにも頭を悩ませていた。「映画はどうしようかな。また『スター・ウォーズ』のマラソンでもするか? それとも映画館で公開されている面白そうなのを見に行くか。しかしわざわざゴールデンウィークみたいな人の多い時に映画館にいかなくてもね。無難に『スター・ウォーズ』にしよう。 毎回こんなことで休みを無駄にするのか。」


藤原誠一はパソコンの画面に映るニュースを見ながらため息をついた。「ああ、贅沢なんて望むべくもないな。この円安が進む一方で、せめて夏にはどこか外国の地を踏んでみたいものだ。でも、いまの円で考えたらベトナム旅行でも厳しいかもしれないな。昔はよかった。円が強かった時代には、ちょっとした海外旅行も夢じゃなかった。今じゃ、旅行どころか外食するにも躊躇する始末だ。この国、どんどん沈んでいく気がする。景気は下がりっぱなし、物価は上がりっぱなし。まったく、子供がいなくて本当に良かった。子供がいたら、もっと苦しんでいただろうね。それにしてもこの時代にわざわざ子供を産む人たちは一体全体、何を考えているんだろうか?未来が暗いとわかっているのに、無謀にも希望を持とうとする。気が狂ってんだろうな。」


ゴールデンウィークの初日、藤原誠一は自宅のソファに沈んでいたが、ニュースでドル円相場が史上稀に見る1ドル=158円の水準に達したと報じられているのを見て、さらに気分が沈んだ。「もう、どこにも行けないな。こんな円安じゃ...来月あたりの物価上昇がほんとにこわい。」彼はブツブツと愚痴をこぼした。


そのうえ、テレビで流れる大谷翔平のホームランのニュースもますます不快にさせた。「またか、またホームランか。勝手にやってろ。」と、藤原は遠い目をしてリモコンでチャンネルを切り替えた。


最近、彼はテレビを見ることが格段に減り、YouTubeの視聴時間が増えていた。その一因は磯部の本の執筆プロジェクトに関わっているからでもあるが、テレビのニュースがどうにも彼には堪え難く感じられていた。明るいニュースが続く大谷や外国人による日本への称賛、日本食の人気など、それらがあからさまに現状を美化し、国内の厳しい現実を覆い隠しているかのように思えてならなかった。藤原はこの休みを『スター・ウォーズ』などの映画を見ると計画していたが、円安のことにいろいろと調べることに必死になっていた。


磯部悠太の日々は、休日や曜日に縛られることなく流れている。彼には一般的な「ゴールデンウィーク」という概念がほとんど意味を成さない。磯部は今週あげた神戸周遊動画の2本の再生数とコメントをじっくりと観察していた。そっから読み取れたのは再生数も順調でコメントには「こういうのが見たかった。」などという好意的なコメントが多いのに、登録者数が減ってしまっていることだった。もちろんその好意的なコメントの中には「こういうのは求めてない。」とかいう否定的なコメントも紛れ込んでいた。こないだまで30万を超えていた登録者数は今は29万人台になってしまっている。この小さな後退が彼には大きな懸念材料となっていた。磯部はあんまり登録者を意識しないように動画作りを行うことを心がけていたが、やっぱり心のどこかでは気になる節があった。


ゴールデンウィークの日曜日藤原は昨日に引き続き不平を漏らしながら、パソコンでYouTubeを見ていた。中年男性がお金をだまし取られることに嘆いている動画を見た。4000万近くだまされてしまったらしい。藤原もこの男にはバカだなと思ったけれど、なによりもだました側の若い女の方にかなりムカついていた。コメントではこのだまされた中年男性をバカにするコメントが多く、それは自分がバカにされている気がした。世の中の人は非モテの少し世間と感覚の違う人に対する扱いはひどい。最近知ったがそういう人のことを「弱者男性」と呼んでいるらしい。その「弱者男性」という言葉の意味は多義的で収入が低い男、病気もちの男、非モテの男、中年で独身の男、そして自分が気に入らない男の意味でよく使われているようだった。私も非モテで中年で独身であり、収入もそれほど高くなくので「弱者男性」として決めつけられることもあるだろう。


今日は日曜日だが、ゴールデンウィークなのと、なんとなく体がだるかったので、毎週日曜日に言っていたイタリアンレストランに行くことはやめた。行かないと決めたのはいいが、習慣の力とは偉大なもので一回行かないと決めても罪悪感がどんどん湧き出てくる。藤原は本を読んでみるが、ページをめくる手が止まる。テレビをつけてみても、料理番組が画面を埋め尽くし、まるで彼を嘲笑うかのようだ。「ほら見ほら、自分の生きがいをせずに来週をのりきることができるのかい?」と第二の自分が煽るように言っている気がした。その怪物を「うるせぇ。」という言葉で押さえつけようとしても無駄だった。それで藤原は理解した。週一回の決まった時間のイタリアンレストランが自分の最大の生きがいだったってことに。



完成こうができる。姉に見せたくなる

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

萌黄の館 夜の断層線 清水 京紀 @kyouka29

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ