琥珀色の彼女は空に飛んで

えんがわなすび

彼女の自転車

「ちょっといい?」

 ざわざわと帰り支度をする騒がしさの中、その声は不思議とすんなり耳に入ってきた。

 ランドセルに教科書を詰める手を止め顔を上げると、すぐ目の前に机を挟んで田中さんが立っていた。窓から差し込む夕日が、彼女の黒髪に反射してきらきらと輝いて見える。

「梶くん家、自転車屋さんだよね」

 ちょっと相談があるんだけど。

 もう一度念を押すみたいに田中さんは言う。色白の顔に小さく咲いたような唇が、きゅっと僅かに力を入れたように見えた。


 僕の家は自転車屋さんだ。

 お爺ちゃんが始めたらしいということは、随分前に聞いていた。

 小さな町の、小さな自転車屋だ。客も近所の子供や、ママチャリを求めてやってくる主婦なんかが多い。

 パンクしたタイヤを修理したり、汚れた車体を綺麗にしたり、たまに客でも何でもない低学年の子がお爺ちゃんと一日喋って帰っていったりする。そんな自転車屋さんだ。


「そうだけど……」

 自分でも思ったより小さな声が出た。

 田中さんに話しかけられるのはこれが初めてだった。

 田中さんは大人しくて、僕はちょっと話しかけづらい空気を感じていた。実際そうなのか、彼女と誰かが一緒にいるのをあまり見たことはない。

 ただ浮いているとか、誰かにいじめられているとかそういうのではなく、なんというか彼女は丘の上でひっそりと咲く野花のような雰囲気だった。

 そんな彼女の口が空気を求めるように動く。

「あのね、自転車のことで相談があるの」

 あまり聞きなれない田中さんの声は、窓から差し込む夕日みたいに、どこか透明で妙に耳に馴染む。

「えっと……パンクとか、そういうのだったらお爺ちゃんに言ってもらえたら直してくれるよ」

「そういうのじゃなくて」

 田中さんがふるりと頭を振る。それに合わせて肩口に揃えられた髪がさらさらと踊った。

 彼女は何かを言おうとして止めてを何度か繰り返し、それからちらりと教室に視線を送る。

 最後の授業が終わった教室内は既に人は疎らで、整列された机は歯抜けみたいになっている。誰かの、ばいばーいという声が廊下に消えた。今日は部活動がない日だ。

 同じように視線を辿っていた僕は、いつの間にか田中さんの目がまた僕を捉えていたことにびくりと肩を揺らす。失礼だったかなと思ったけど、彼女は気にしてないみたいだった。

「修理とかそういうのじゃなくて、見てもらいたいの。梶くんに」

 僕に。そう言った田中さんの目は夕日に煌めいていて、いつかどこかの図鑑で見た琥珀みたいだった。


 ◇


「これ、私の自転車」

 そういって田中さんが駐車場の奥から出してきたのは、何の変哲もない自転車だった。

 薄っすらと青みがかっているようだけど、ほとんど銀に近いような色をした自転車。最近買ったようには見えず、あちこちに少し傷が入っている。

 けれど、それより僕の心臓はさっきからどぎまぎと太鼓のようにうるさかった。

 同級生の、それも女子の家――正確には玄関前の道路で敷地にも足を入れてないけど――に来ているのだ。誰かに見られたら揶揄われるに決まっている。小学生の僕には、これは大冒険だった。

 そんな僕の心情なんか、当たり前だけど知らない田中さんはスタンドを起こして自転車を立てかける。かちゃんという聞き慣れた音が辺りに広がり、なんとか僕は平静を保った。

「それで、この自転車がどうしたの?」

 自転車から田中さんに視線を向ける。彼女は僕と目を合わす前に、その場ですとんとしゃがみ込んだ。アーモンド形の目が、下から覗き込むように自転車を見上げている。

「うん、あのね。この自転車が空を飛びたいって言うの」

「えっ?」

 僕の口から素っ頓狂な声が飛び出る。

 聞き間違えだろうか。自転車が、空を飛びたい?

 僕らの横を車が音を立てて通り過ぎる。その風が彼女の黒髪を煽るように吹き抜け、踊った毛先が止まってから漸く田中さんは僕と視線を合わせた。

 立っている僕との身長差で上目遣いの瞳が射貫く。

「この自転車が、空を飛びたいって言うの」

「え……っと、それは、つまり、自転車が言葉を話すの?」

「うん。この前、そういう夢を見て」

「ゆ……あ、夢、ね」

 夢。なんだ、夢の話か。

 それはそうだ。自転車が空を飛びたいだなんて言うわけがない。小学生の僕にだってそれくらい分かる。

 何故だかどっと力が抜けて、僕は思わずしゃがみ込んだ。意図せず田中さんと同じ姿勢で横に座った形になる。

 ふっと息を吐いて顔を上げれば、琥珀のような色をした瞳と目が合ってどきりとした。彼女は真剣とも無表情ともとれる顔で僕を見つめていた。

「それで、どうやったら飛べるか相談したくて。梶くん家、自転車屋さんでしょ?」

「え、いや、まって。夢の話だよね?」

 当たり前のように並びたてられた言葉に狼狽える。確認するように尋ねれば、そうだよ、と至極のんきな声が返ってきた。

「でも、この子が空を飛びたいっていうのは夢じゃないと思うの。ね?」

 まるで同意を求めるように自転車に目を向けた田中さんの横顔は、もうすぐ沈みそうになる夕日を受けて暗い影を落としている。

 その顔に何と返せばいいか分からなくなった僕は、舌の根が張り付いたように動かない口をどうにか開けて、「お爺ちゃんに聞いてみる」と絞り出すだけで精一杯だった。


 逃げるように田中さんの家から帰ってきて、ご飯を食べてお風呂に入り、散々悩んだ挙句、僕はこっそりお爺ちゃんに「自転車で空を飛ぶにはどうしたらいいか」と聞いてみた。

 田中さんの夢の話を信じているわけじゃないけど、あの横顔がずっと頭から離れないのだ。

 お爺ちゃんは僕の言葉に盛大に笑ってそれから、

「翔太が大きくなる頃には、空を飛べる自転車もあるかもなぁ」

 と、酷く優しい顔で目を細めたのだった。


 ◇


 次の日の放課後。

「梶くん、どうだった? お爺さんに聞いてくれた?」

 何の迷いもなく田中さんが聞いてきたことに、僕はランドセルに詰める教科書を取り零しそうになった。

 田中さんはやっぱりあの夕日のような透明な声で、「自転車飛べるかな?」と場違いな言葉を出す。正直、この会話を他の誰かが聞いていなくて良かったと思った。教室は昨日と同じく既にまばらにしか人が残っていない。

 僕は小さく息を吐いた。

「あ、うん……そのことなんだけど」

 視線をゆっくり上げた僕は、そこで言葉に詰まった。

 僕が思っていた以上に、田中さんの目は真剣味を帯びていたからだ。

 彼女の瞳が、夕日を受けて琥珀に煌めく。少し濡れたように表面が波打ち揺らめいて、それがゆっくりと瞬いた。

 教室のざわめきが遠い。

 お爺ちゃんの言葉と、田中さんの横顔と、少し廃れた自転車がぐるぐると僕の脳を旋回して。それからまた舌の根が張り付いたように動かない口をどうにか開けて、僕は。

「坂道とか、良いんじゃないかな」

 自分の放った言葉に後悔した。



 見下ろした町並みは心なしか随分と小さく見えた。

 この町で一番の坂の上に、田中さんと僕は並んで立っている。時折坂の下から風が吹き上げる。

「ほ、ほんとにやるの?」

 僕は隣に立つ田中さんを見る。彼女はあの薄っすら青い銀の自転車のハンドルを持ちながら、小さく頷いた。反動でさらりと髪の毛が踊る。

 お爺ちゃんからは良い答えが貰えなかった。その一言が言えなかった僕が苦し紛れに言った、「坂の上から思い切り自転車で降りれば、空も飛べるんじゃないかな」という馬鹿な言葉を、田中さんはそのまま信じた。信じて、僕と一緒に今、坂道に来ている。

 色白の顔に小さく咲いたような唇が、きゅっと僅かに力を入れて坂の下を見る。そんな顔を見た僕は、とうとうここに来るまでにあの話は出鱈目だということを言い出せずにいた。

「あ、あのさ――」

「梶くん、見ててね」

 僕が言葉を選んでいる間に、田中さんがひらりと足を上げて自転車のサドルに跨る。まるで鳥の羽のように広がったスカートがふわりと視界を釘付けにした。

 彼女の黒髪が、夕日を受けてきらきらと輝いている。

 琥珀が瞬く。

 色白の細い手が、合図を送るようにポンとハンドルを叩いた。

 その時僕は


 ――行こう


 田中さんのものではない、誰かの声を聞いた気がした。


 小さな足が地を蹴る。

 あっと思うより早く、車輪は彼女を乗せて坂道を滑り降りた。

 その背はまるで誰かに押されているようにぐんぐんスピードを上げている。田中さんのスカートが風に殴られているように、ぐちゃぐちゃに暴れているのだけがよく見えた。

 その姿をぼけっと見ていた僕は、自転車が坂道の半分くらいまで来たところでハッと我に返った。

 この坂を下りきったところは信号のない四つ角だ。

「た、田中さん! スピード! 落として!」

 堪らず声を上げて、僕は半ば転がるように走り出した。このままのスピードで飛び出したら、万が一横から車が来た時に避けられない。

 僕は下り坂でバランスを崩しそうになった体をなんとか持ち上げる。力を入れて握り込んだ掌が汗ばんでいた。

 その間にも、田中さんの背中は風に乗った鳥みたいに速度を増して離れていく。彼女は大きく両足を広げて、まるで本当に鳥になったかのように風を受けていた。

 その姿が、とうとう坂の下に辿り着く。

「たな――」

 僕がもう一度叫ぼうとしたのと、田中さんが坂道を下りきったのと、右の角から鈍色のトラックが突っ込んできたのは、たぶん同時だった。


 ――……


 ひゅっと息が詰まる。

 僕の目には、トラックが、彼女を轢いたようにしか見えなかった。

 一瞬にして止まった思考と一緒に足が止まりそうになって、それでも走り出した。たぶん僕の顔は真っ青だった。

「たなかさんっ!!」

 金切りのような声が夕日に混じる。僕の声だということを遅れて理解した。

 縺れる足を無意識に動かし辿り着いた坂の下で僕が見たものは――


 ――何もなかった。

 想像していた光景は、何もない。

 絵具を撒いたような赤も、千切れた肉の塊も、薄っすら青い銀の欠片さえ。何一つ、そこには存在していなかった。

「え……?」

 僕の口から息のような言葉が出る。心臓が大きく脈打ってはち切れそうだ。喉の奥が焼けるように痛い。

 崩れるようにその場にへたり込んだ僕は速度の落としていないトラックの走行音を左耳で聞きながら、夕日が落ちるまで呆然とするしかなかった。



 結局、田中さんは見つからなかった。

 見つからない、という表現が正しいのか分からない。何故なら彼女は。


「え? 田中さん? 何組の田中さんのこと?」


 何故なら彼女は、消えてしまったから。

 あまりクラスの子と喋っているところを見ないような子だった。

 それでも記憶にある中で彼女と会話をしていた子に聞いても、首を傾げるだけだった。いつの間にか彼女の席が消えていて、点呼で担任の先生が彼女の名前を呼ばなくなった。みんなは彼女がいなくなったことさえ知らないみたいだった。

 彼女の家にも一度行ってみた。もしかしたら僕の知らない間に転校とか、そんな何かが起きていないか少しでも期待したからだ。

 でも、そんなことはたぶん、なかったんだろう。

 彼女の家は、確かに彼女の苗字を掲げた表札があった。けれど、本当にそこに女の子が住んでいたかは確認することはできなかった。

 怖かったんだと思う。消えた彼女を認めることが。


 ざわざわと帰り支度をする騒がしさの中、僕はランドセルに教科書を詰め込む。

 窓から差し込む夕日が視界を焼いて眩しく、思わず窓の外を見た。

 空には沈んでいく茜を横切るように雲が一筋流れている。

 彼女は、自転車は、あの時本当に空を飛んで、どこかにいってしまったんだろうか。

 琥珀色に染まった白い雲を見ながら、僕は一人で教室を後にした。

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