喧嘩魚

筑前助広

本編

 僅か半刻で、魚籠びくが鮎で溢れそうになった。

 これも新しい釣法ちょうほうのお陰だと、桐山大炊介きりやま おおいのすけは、内心でほくそ笑んだ。

 嘉穂藩かほはん城下の西を流れる、穂波川ほなみがわの上流である。初夏の爽やかな陽気であるが、人里離れた山奥の渓流には、大炊介以外の太公望たいこうぼうはいない。


(眉唾であったが、中々どうして見事なものだの)


 と、大炊介は囮の鮎を活きのよいものに代えて、再び三間二尺の竿を出した。

 これは鮎の友釣りという釣法ちょうほうで、鮎の縄張りに囮とする鮎を侵入させ、追い払おうと体当たりしてきた所を、囮に忍ばせた鈎で引っ掛ける仕組みになっている。喧嘩魚と呼ばれる鮎の習性を逆手に取ったのだ。

 この仕掛けは、江戸詰めから戻った甥に教えてもらったので、藩命で赴いた伊豆の瀧源寺ろうげんじで、法山志定ほうざん しじょうという虚無僧に手ほどきを受けたそうだ。話を聞いた時は「鮎とて馬鹿ではないのだ。左様なことなどあるものか」と一笑に付したが、甥には己の不明を詫びねばなるまい。


(しかし志定という奴は、大した策士よ)


 それと同時に、鮎という生き物の哀れさを痛感する。寄れば争い、魚籠という名の地獄へ堕ちるのだ。しかも、その釣法の名が〔友釣り〕という皮肉。


「まるで、伏魔殿で蠢く執政たちのようだわ」


 と、大炊介は独り言ちに呟き、低い声で笑った。


「まぁ、わしにはもう関係のないことだがな……」


 権力を失った大炊介には、もう釣りしかない。家族も、守るべき家門も、既に無くしている。

 釣りを始めたのは、とおになるかどうかの頃だった。それから四十年余り、ずっと毛鉤を用いる〔ドブ釣り〕でやって来た。釣りは好きだが、巧いとは我ながら言い難く、坊主の日も珍しくない。勿論、家の者たちもその腕前を知っていて、「夕飯を釣ってきてくださいまし」などと釣果に期待する声を、ついぞ聞くことはなかった。むしろ、釣って帰ると驚くどころか、どこかであがなったのかと疑う始末で、己の腕をそこまで信用されていないのかと、笑えるほどだった。

 その自分が、この釣果。人生も黄昏を迎えようかとする時に、このような釣法に出会うのも、人の世の皮肉というものであろう。


「おっ」


 右手にしたたかな魚信アタリを感じて、大炊介は竿を立てた。 

 三寸と八分はありそうな、丸々とした若鮎だった。苔をたらふく食っていたのだろう、色艶がよく輝いて見える。

 この時期の鮎は若鮎と呼ばれ、脂が乗っている上に骨が柔らかく、頭から全て食べることが出来る。当然、香魚こうぎょの所以たる瓜の香りも存分に楽しめる。

 もう少し季節が進むと、若鮎は落ち鮎となる。雌は腹に卵を孕むが、全体的に痩せて味は落ちる。それはそれで大炊介は好きだが、やはり鮎は若鮎が一番だ。


(さて、ここらで腹ごしらえをするかの)


 大炊介は竿を仕舞うと、日々自由が効かなくなる腰を二回拳骨で叩いた。

 釣具箱には、釣り具の他に塩や長串を忍ばせている。鮎はその場で食うのが一番旨いのだ。

 まず、鮎を粗塩で揉み洗う。これで、川魚特有のぬめりを取るのだ。この作業を不要だと言う者もいるが、釣りを教えてくれた父は、このぬめり取りを丹念にしていた。


(思えば、親父と最後に釣りをしたのはいつだったかのう……)


 確か十五の秋。父は十六になった正月に、一揆の責任を負って切腹したので、十五で間違いない。

 父が切腹したことについては、納得をしていた。郡奉行こおりぶぎょうだった父は、首席家老・三瀬図書みつせ ずしょの命令で民百姓から種籾すら搾り取る苛政に加担し、筑前全体を揺るがした大一揆を引き起こしてしまったのだ。

 父の切腹と、四百石から七十石への大幅な減知。一揆を引き起こした為政者の一人として、その責任を負うことは当然であり、それが武士の在り方である。我が父であるが、もし自分が時の家老であれば、切腹も止む無しだと考えたであろう。

 しかし、当の図書には何のお咎めも無かった。それどころか、処分の二日後には、一族郎党を集めて宴まで催し、その場で「桐山は忠義者よ。わしの代わりに腹を切ったのだからの」と嘯いたという。それが、大炊介には許せなかった。

 いくら三瀬家が、藩主・原田家に連なる一門衆とは言え、これでは蜥蜴とかげの尻尾切りだ。悪辣な図書に復讐を誓ったあの春が、全ての始まりだった。

 今になっては思い出すことも少ない、遠い記憶だった。それを頭から振り払い、今度は鮎の腹をしごいて糞を絞り出した。これをしないと、鮎と一緒に砂を喰う羽目になる。

 串は、踊り串に打った。串を口から入れ、鰓から一度串先を出し、それから縫うようにして、尻尾の後ろから先が抜けるように刺す。他にも串の打ち方はあるらしいが、大炊介はこれしか知らない。

 四半刻で全ての鮎に串を打ち終えると、大炊介はふくべの酒に口を付けた。

 喉が鳴る。背後の弥山岳ややまだけから吹き降ろす風は清らかではあるが、それでも季節は初夏である。何もせずとも、鬢に汗が伝う。


「酒は残しておかねば、奴に叱られるな」


 そう呟き、道具箱から塩を取り出した。塩はぬめり取り用の他に、一度焼いた塩も持参していた。身に振りかける塩は、焼いて水分を飛ばした方が具合はいい。

 大炊介は串を持ち、一尺ほどの高さから塩を振りかけた。量は、塩辛く感じない程度。この量を誤ると、鮎の風味や香りが失われてしまうから難しい。満遍なく振り終えると、ひれと尻尾に化粧塩を施した。これで焦げを防ぐのだ。

 後は、焼くだけである。強火だが遠火。一刻ほど掛けて、じっくりと焼く。勿論、その間も鮎から目を離してはいけない。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「待たせたな」


 声がして振り向くと、色白で歳の割り若く見える顔がそこにあった。

 千葉多聞ちば たもんである。首席家老の地位にあり、城中では裃で偉そうに振る舞っているが、今日の格好は編笠に軽衫かるさんと、隠居の好々爺とも見える気軽な格好だった。


「遅いぞ、多聞。お陰で、一人で用意してしもうたわ」

「まぁそう言うてくれるな。一藩いっこくの宰相ともなれば、色々忙しいのだ。世捨て人のおぬしとは違う」


 苦笑いをする多聞に、大炊介は「何が宰相だ」と鼻を鳴らした。この男は、今や嘉穂藩七万石を支える大人物となっているらしいが、遅刻癖は昔と変わらない。

 この男は、人を待たせても気にも留めない。名門千葉家の血がそうさせるのだろう。世間が自分中心に回っていると思っている節がある。

 それでもこの男と付き合っていたのは、その短所を補って余りある魅力があったからだ。多聞には、どこか人を惹きつける不思議な魅力があった。今では全く感じないが、若い頃には確かにあって、それが大炊介と多聞を繋ぎとめていた。


「鮎か」

「そうじゃ。まずは、これで腹拵えと思っての」


 焚火の傍に腰を下ろした多聞に、大炊介は瓢を差し出した。


「おお。喉が乾いて堪らん。ここまで来るのは骨だったぞ」

「おぬしはご城府で偉そうに座っておるだけだからの。身体が鈍っても仕方あるまい」

「歳だ」

「わしはこの通りよ。身体はまだまだ衰えておらぬわ」


 そうは言ったものの、大炊介もこの場所に辿り着くまでに些か苦労した。

 この釣り場は、城下から四里ほど南に位置し、険阻な山間やまあいにある。互いに五十路を迎えた身空には、些か厳しいものがあった。

 鮎から、芳ばしい香りがしてきた。そして、鰓や口から脂が染み出してくる。それが下に零れ落ち、焼ける音もまた堪らない。


「この香りがいいのう」

「昔は、二人でよく食ったものだ」


 鮎の香りが、元服前の剣と恋に燃えていた、遠い昔日せきじつを脳裏に蘇させてくれる。

 多聞とは、七つからの付き合いだった。まだ自分が弥太郎やたろうと呼ばれ、多聞が小近太こきんたと呼ばれていた頃。多聞の家ずっと江戸詰めで、宝暦五年の夏に国元への役替えがあり、隣の屋敷に越してきたのだ。

 それ以来だ。共に藩校・志興館しこうかんで学び、剣は一刀流の芳根道場で競い、休みとなれば釣りにも出掛けた。傾城街で女を覚えたのも、そして心から惚れた女も一緒だった。

 だた、その女には二人揃って振られた。女は自分でも多聞でもなく、身分も権力も持ち合わせていない、平凡な小役人を選んだのだ。今は五人の子宝に恵まれ、幸せそうに暮らしているのを見ると、その選択は誤ってはなかったと思う。

 とにかく、多聞は何かにつけて好敵手であり、そして誰よりも親友だった。図書への復讐も、共に誓ってくれた。


「そうだの……」


 父の死から十七年後。大炊介は先に中老となっていた多聞の引きもあって若年寄に昇進すると、手を取り合って復讐を遂げた。謀略に次ぐ謀略で図書を失脚させると、かつての一揆に対する罪を問い腹を切らせたのだ。


「三瀬図書、切腹を申しつける」


 一度だけ多聞と視線を合わせ、平伏する図書に向かって言い放った。

 その時、一生涯を賭した復讐が終わったと思った。しかし、それは本当の地獄の始まりであった。それを予見していたのか、腹を切る直前に図書がこう言い放った。


「若造ども。早晩、お前達のいずれかが、この場に座ることになろう。それも、もう片方の手によってだ」


 多聞との関係が変わったのも、あの瞬間からだった。二年後に大炊介は庄内しょうないの新田開発の功によって中老に登って多聞と肩を並べると、今度は出世競争という名の暗闘が始まった。

 首席家老の座は一つ。そして恋とは違って、勝敗は明確。敗れた者は、勝った者の権力に屈するしかない。自分も多聞も、お互いの意地と若さ故の野心から、引くことが出来なかった。その戦端を開いたのは、大炊介だった。


隼之助じゅんのすけ様の襲封はいかがなものかと……」


 その一言だった。その一言で、暗闘は表立った対立が変わった。

 当時の藩主だった原田種周はらだ たねちかが急な病に倒れると、執政会議の場で後継ぎを定める話し合いが持たれた。

 後継ぎ候補は三人いた。亡くなったさきの正室の子と側室の子。そして継室の子。多聞が率いる千葉派は、継室の子であり弱冠十二歳の隼之助を推し、当然大炊介も同意すると多聞も思っていたのだろうが、大炊介は正面から異を唱えた。


「隼之助様は文武に秀で、英邁との声も高こうございますが、御家のご嫡男はさきの御正室・心紹院しんしょういん様の子、正助まさすけ様でございます。君主としての道もお殿様の傍でしっかりと学んでおりますし、御年十九と年齢も申し分ございません」


 そう一息で言い終えた後、大炊介は多聞を見据えた。

 多聞は苦虫を噛み、如何にも「飼い犬に手を噛まれた」と言いたげな表情だった。

 今思えば、多聞には自分に対して優越感があったのではと思う。確かに身分は違う。しかも、大炊介は一度は七十石まで減知された身の上である。若年寄に昇進させ、執政府入りをさせたという経緯もある。幾ら親友とは言え、多聞は自分を格下に見ていたに違いない。

 家督相続の争いは、流血を伴う抗争に繋がり、更には御家騒動の寸前まで発展した。伸長著しい千葉派に対抗出来たのは、大炊介の背後に、かつての敵であった三瀬家などの一門衆の後押しがあったからだ。

 だが結果として、敗れたの大炊介だった。隼之助が、幕府の命で家督を相続したのである。

 敗れた要因は二つだった。まず継室が、一橋家の出身ということ。そして、多聞が多額の銭を幕閣にばらまいたことにある。

 その銭に出所は、博多の富商・但馬屋卯兵衛たじまやうへいだった。密偵に探らせたところによると、多聞に資金提供をした見返りは、藩内の水運事業の独占権であり、それが真実であったことは現状を見れば納得出来る。

 まず多聞は、但馬屋に命じて鯰田なまずたという村を河岸として整備し、遠賀川を利用する河川舟運の拠点を創り上げた。

 急速に行われた工事に、領内の百姓が何百人も使役された。それにより鯰田は村から湊町へと変貌し、藩庁からは役人が派遣され、鯰田奉行所も設置された。当然藩庫も潤ったが、それ以上に利権を独占する但馬屋が潤い、更にそこからの献金で多聞とその一党の懐も潤った。

 政事には銭が必要だ。大炊介も、綺麗事を言う気はない。図書を失脚させる為に、汚い手を使ったこともある。しかし、現在の嘉穂藩政を見ると、河川舟運の利権を独占する但馬屋を中心に回っているようにしか見えない。多聞は但馬屋を使っているようで、使われている。つまり多聞は、博多の資本にくにを売ってしまったのだ。そのことを指摘し、馬鹿野郎と面罵したかったが、政争に敗れた大炊介にはその術が残されてはいなかった。

 隼之助の命で多聞が首席家老になると、大炊介は罷免されて隠居に追い込まれてしまったのだ。折角七十石から五百石まで戻した知行も、再び七十石まで減知された。ただ死罪や配流などの咎めが無かったのは、多聞の温情に他ならないと、処分を言い渡した使者に言われた。「故に、これ以上は歯向かうな」とも。

 そのことについて、多聞に礼を言う気は毛頭なれなかった。勝者の、しかも多聞の情けを受けるなど屈辱以外の何物でもなかった。

 そして何より、七十石というのが、多聞の強烈な嫌味にしか思えなかった。「所詮お前は、七十石程度の男だ」と。「俺の力で五百石になったが、歯向かったので七十石に戻ったのだ」と、言われているようだった。

 あの時に多聞が切腹を命じていればと、つくづく思う。いや命じられずとも、自らの意志で腹を切っていれば、今日という日を迎えなかったはずだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「食え」


 大炊介は、多聞に鮎を差し出した。程よい焦げ目と香りに、多聞が屈託のない笑みを見せる。自然、大炊介も頬を緩ませていた。

 お互いに笑顔を向け合うのは、いつぶりだろうか。隼之助の襲封に反対した時か。図書を切腹させた時か。それが思い出せないほど遠い。

 半刻、二人は鮎を無心で貪った。咀嚼する毎に、口に広がる脂と香り。そして、少し苦みがあるはらわたも、酒を進める旨味がある。


「鮎の茶漬けが食いたいものだ」


 多聞が、串を焚火に投げ捨てながら言った。


「そうだのう。ほぐした鮎の身を冷や飯に乗せて、出汁をかけて」

「薬味は山椒か」

「いや、わしは山葵じゃ」

「ふむ。どちらも喉が鳴るわ」

「幸い、まだ鮎は残っておる。生き残った方が、鮎の茶漬けを食えるということにせんか?」


 その提案に、多聞は頷いた。


「やはりやるのか?」

「もはや後に引けんじゃろ。我々の為に、何人も死んでおる」

「そうだな」


 大炊介は、口に残った骨を吐き出すと、刀を手に取って腰を上げた。それを見て、多聞も立ち上がる。

 今から、かつて親友と信じ合った男と斬り合いをする。その為に、こんな山奥まで呼び出したのだ。

 事の発端は、二カ月前だ。大炊介の跡目を継いだ秀一郎しゅういちろうが、多聞の嫡男・十之介じゅうのすけに侮辱されたことに端を発する。


「負け犬の子。お前の親父は腹を切る度胸も無い」


 それに激昂した秀一郎が、十之介に果し合いを申し込んだ。しかし、十之介は自ら刀を抜くことはなく、五人の取り巻きに命じ、その場で秀一郎を膾切りにしてしまった。

 その報に大炊介は腹を立て、死を覚悟して藩主に訴えようとした。しかし、それより前に動いたのは、次男の吉次郎きちじろうだった。兄想いで剣術達者だった吉次郎は、料亭帰りの十之介を襲い、取り巻き共々斬り捨てたのだ。そして、その場で腹を割いてしまった。

 お互い後継ぎを全員失った今、残された道は一つだけだった。


「こうして立ち合うのは、久方振りかな?」


 多聞が言い、大炊介は頷いた。最後に剣の腕を競い合ったのは、曩祖八幡宮のうそはちまんぐうでの奉納試合だった。

 お互い十八の歳だった。あの時は小手を打って大炊介が勝利したが、所詮は竹刀でのこと。真剣とはまた違う。特に多聞は、図書との暗闘で何人も斬っている経験がある。


「正直、おぬしが果たし合いを受けてくれた時は驚いたぞ」

「見くびるなよ、大炊介。わしは武士だ。けじめぐらいは知っておる」

「ふふ。まだ肝は腐ってないと見ゆる」

「ふん、減らず口め。今日という今日は、その息の根を止めてやる」


 すると、大炊介は莞爾として笑った。


「つくづく、わしとお前は喧嘩魚よ」

「それが我らの青春だったのだ」

「小近太」

「弥太郎」


 お互いに幼名で呼び合うと、ほぼ同時に鯉口を切った。

 どうして、こうなってしまったのか。避ける道は無かったのか。多聞と手に取り合って藩政を導く、そんな道は無かったのか。

 共に遊び、共に学び、共に剣を競った。復讐を誓い、図書の打倒も果たした。その夜は、しこたま酒を飲んだ。そうした多聞との在りし日が頭を過ぎる。


(いや、最早どうにもなるまい)


 これが運命さだめだったのだ。

 まだ周囲には、まだ鮎の香りが漂っている。何とも不釣り合いな。そう多聞に言いたがったが、大炊介は言葉に出さなかった。


<了>

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