無色の太陽

島原大知

本編

第1章


太陽は無色だ。

画家の岸谷礼人は、そう確信していた。

カンバスに向かい、思い通りの色を探しても、陽光を表現する術は見つからない。

鮮やかな黄、深みのあるオレンジ、輝くような白。どの色を使っても、描かれた太陽は生気を失っていた。

まるで、光を放つことを拒んでいるかのように。


アトリエの窓から差し込む西日に、礼人は眩しそうに目を細めた。

真っ白なカーテンが、風に揺れている。

夕焼けのグラデーションが、部屋に不思議な色合いを与えていた。

マゼンタ、オレンジ、エメラルドグリーン。

窓辺に置かれた植物たちが、一瞬だけ太陽の恵みを受けているかのように見えた。

「君たちは、僕よりずっと太陽を理解しているんだろうな」

呟きながら、礼人はカンバスに視線を戻した。

目の前の太陽は、やはり生気がなかった。


ため息をつきながら筆を置くと、礼人は部屋の隅に置かれた本棚に歩み寄った。

大学時代のスケッチブックが、埃を被って眠っている。

カバーを開くと、色とりどりの風景画が飛び出してきた。

同じ場所を、朝昼晩と描き分けたものだ。

光の移ろいを追いかけ、必死でキャンバスに向かっていた頃の自分を思い出す。

あの頃の僕は、もっと自由だった気がする。

そう感じた時だった。


不意に、インターホンが鳴り響いた。

「はい、どちら様ですか?」

ドアホンの向こうに、見覚えのある顔が映る。

「あれ、三田さん…?」

大学時代の恋人、三田久美子だった。

「岸谷君、お久しぶり。いきなりごめんね」

少し照れたように笑う彼女は、学生時代とほとんど変わらない。

「いえ、全然。どうしたの、急に?」

「実は、岸谷君に会いたくなって。話があるの」

「話?」

「うん。久しぶりにゆっくり話がしたいなって思って」


玄関のドアを開け、礼人は久美子を迎え入れた。

20年ぶりの再会に、少し居心地の悪さを覚えつつも、彼女を部屋へと通す。

「ごめんね、急に押しかけちゃって」

リビングのソファに腰かけながら、久美子は申し訳なさそうに言った。

「いいよ、気にしないで。それより、元気そうで何より」

「岸谷君こそ、画家として活躍しているみたいね」

「まあね。でも、最近は上手くいかなくて…」

悩みを打ち明けると、久美子は不思議そうな顔をした。

「どうしたの?昔は、太陽の絵ばかり描いてたのに」

「太陽が、描けなくなったんだ。どうしても思い通りの色が出ない」

「そうなんだ…」

俯く礼人の手を、久美子がそっと握る。

「岸谷君、覚えてる?大学の頃、よく二人で夕日を見に行ったこと」

「…うん」

「あの時、岸谷君が言ってたよね。太陽に色なんてないんだって」


はっとする。

そう言えば、僕はそんなことを言っていたような気がする。

「太陽は、光を反射しているだけ。本当の太陽の色は、無色なんだ」

学生時代の自分の言葉を、久美子が繰り返す。

「だから、岸谷君の絵に色がないのは当然なんだよ。太陽の本当の姿を描こうとしてるんだから」

優しい眼差しで、久美子が微笑んだ。

その瞬間、全てが繋がった気がした。

無色。

透明。

真っ白な光。

太陽が持つ、絶対的な孤独。

僕が探し求めていたのは、そういうものだったのかもしれない。


「三田さん、君は…」

「私も、ずっと岸谷君のことを考えてたの。太陽みたいな人だなって」

恥ずかしそうに頬を赤らめる久美子。

瞳の奥に、揺れる想いを見た気がした。

「正直、今でも岸谷君のことが…」

その言葉に、礼人の鼓動が早くなる。

大学時代、初めて恋に落ちた相手。

今でも、彼女に対する想いは色褪せていなかった。

「俺も、君のことが好きだ。昔から、ずっと…」

我慢できなくなったように、礼人は久美子を抱きしめた。

小さな体が、胸に収まる。

柔らかな髪が、頬に触れた。

「岸谷君…」

うっとりとした声が、耳元で囁かれる。

まるで、太陽に包まれているような温かさだった。

「久美子、よかったら…今日は帰らないでくれないか?」


夕焼けは、いつの間にかアトリエを赤く染めていた。

二人の距離が、ゆっくりと近づいていく。

20年越しの想いが、ここにある。

礼人は感じていた。

自分の中の太陽が、久美子という存在によって輝き始めたことを。

真っ白な光は、これから二人を照らし続けるだろう。

無色の太陽。

それが、岸谷礼人の愛の形なのかもしれない。


窓の外では、太陽が静かに沈んでいった。

世界から光が失われる瞬間。

だが、二人にとってはまだ、新しい光が生まれようとしている。

孤独を超えた、本当の愛の始まりを予感させるように。


第2章


朝日が差し込むベッドルーム。

白いシーツに、二人の影が重なる。

凛とした空気の中で、久美子はゆっくりと目を覚ました。

隣で眠る礼人の寝顔を、じっと見つめる。

昨夜の情事が、まるで夢のように感じられた。

「おはよう」

かすれた声が、静寂を破る。

「おはよう、岸谷君」

思わず頬が緩むのを、久美子は隠せなかった。


キッチンでコーヒーを淹れる久美子。

マグカップを持って、アトリエへと向かう。

「ほら、あったかいのができたわよ」

「ありがとう」

礼人は笑顔で受け取ると、一口飲んだ。

「うまい。君の淹れるコーヒーは、昔から最高だ」

「ふふ、光栄ね」

カップを置くと、久美子はカンバスに目をやる。

そこには、鮮やかな黄色の太陽が描かれていた。

「岸谷君、この絵…」

「ああ、朝からちょっと描いてみたんだ。久美子がいるから、何だか筆が進むんだよ」

はにかむように言う礼人に、久美子の心が熱くなる。

二人の想いが通じ合った証のように、絵には生命が宿っていた。


穏やかな日々が、音もなく過ぎていく。

朝は二人でゆっくり朝食を取り、昼間は礼人が絵を描く傍ら、久美子は読書や散歩を楽しむ。

夜は、お気に入りのワインを傾けながら、語り明かす。

まるで、新婚生活のようだった。

「私、こんなに毎日が楽しいなんて思わなかった」

「俺もだ。君といると、何もかもが輝いて見える」

幸せに満ちた時間。

二人は、心の底からそう感じていた。


ある日の午後、久美子が買い物から帰ってくると、アトリエから聞き慣れない声が聞こえてきた。

「先生、この作品は素晴らしいですね。光があふれているようです」

「ありがとうございます。最近、インスピレーションに恵まれていまして」

丁寧な口調で応える礼人。

ドアを開けると、見知らぬ男性が立っていた。

「あ、帰ってきたのね。紹介するよ、こちらは美術商の佐伯さん」

「はじめまして、佐伯と申します。岸谷先生の作品を拝見しに来ました」

握手を交わし、久美子は不思議な胸騒ぎを覚えた。

「で、先生の新作はいかがでしょうか。このシリーズ、かなりの反響がありそうですよ」

「そうですね。もう少し時間をいただけますか」

「もちろんです。先生のペースでいきましょう。それでは、また伺います」

佐伯が帰った後、久美子は礼人を見つめた。

「岸谷君、あなたの絵、評価されているのね」

「ああ、最近はギャラリーからのオファーも増えてきてね。久美子のおかげだよ」

「私は何もしてないわ。岸谷君の才能が、開花しただけ」

そう言いながら、久美子は言葉を飲み込んだ。

実は、体の調子が少しずつ悪くなっていることを、彼女は誰にも話していなかったのだ。


「岸谷君、ちょっといいかしら」

リビングのソファに座る礼人を、久美子が呼ぶ。

「なに?」

隣に座ると、久美子は真剣な表情で礼人を見つめた。

「私ね、もうすぐここを離れなくちゃいけないの」

「どうして?」

「私…体の具合が悪くて。検査に行ったら、がんだって言われたの」

絶句する礼人。

信じられないという顔で、久美子を見る。

「嘘だろ?そんな、急に…」

「ごめんなさい、黙ってて。でも、岸谷君を悲しませたくなかったの」

涙ぐむ久美子に、礼人は強く抱きしめた。

「馬鹿だな、君は。俺に何も言わないで…」

「私、岸谷君と一緒にいられて本当に幸せだった。だから、最後まで笑顔でいたかった」

「最後だなんて、言わないでくれ。君はこれからも、俺と一緒にいるんだ」

必死に言葉を絞り出す礼人。

だが、久美子の決意は固かった。

「ありがとう、岸谷君。あなたと過ごした日々は、私の宝物」

そっと唇を重ねる二人。

悲しみと愛おしさが、混じり合う。


そして、久美子は姿を消した。

残されたのは、彼女の残り香と、無情な現実だけ。

絶望に打ちひしがれる礼人。

アトリエに篭って、ひたすら絵を描き続ける。

真っ赤な夕焼け。

冷たい月明かり。

全てが、久美子を失った悲しみに彩られていた。

「久美子…君はどこにいったんだ…」

空虚な部屋に、嗚咽が響く。

岸谷礼人という男の、魂の叫びだった。


カーテン越しに差し込む朝日。

まぶしさに、礼人は目を開けた。

机の上の置時計が、七時を指している。

「久美子…?」

隣を見ると、そこにはもう誰もいない。

白いシーツだけが、冷たく光を反射していた。

彼女が残したのは、かすかな体温と、小さな手紙だけ。


「礼人へ」

震える手で、封を開ける。

そこには、久美子の想いがつづられていた。


「礼人、ごめんなさい。

私は、あなたに嘘をついていました。

体の具合が悪いのは本当だけど、がんだなんて嘘。

でも、私には時間がないの。

あなたと出会えて、本当に幸せでした。

二人で過ごした日々は、一生の思い出。

ただ一つ、心残りがあるとすれば、

あなたを悲しませてしまったこと。

どうか、私のことは忘れないで。

でも、前を向いて生きて欲しい。

あなたには、素晴らしい才能がある。

それを、世界中の人に知ってもらいたい。

私は、空の上からあなたを見守っているから。

いつか、また会える日まで。


愛をこめて

久美子より」


涙が滲む。

久美子への想いが、胸の中にあふれる。

苦しくて、悲しくて、でも温かい。

彼女が残してくれた、かけがえのない宝物。

「久美子…ありがとう」

手紙を胸に抱き締め、礼人は立ち上がる。

悲しみは癒えないかもしれない。

だけど、前を向いて歩いていかなければ。

二人の思い出を胸に、新しい一歩を踏み出すために。


窓の外には、暖かな陽光が注いでいた。

無色の太陽は、今日も礼人を照らし続ける。

久美子への愛が、彼の道標になるように。


第3章


真っ白なキャンバス。

礼人は、そこに向かって立ち尽くしていた。

筆を持つ手が、かすかに震える。

「久美子…」

彼女の名前を呼ぶと、胸の奥が締め付けられる。

まるで、心臓を鷲掴みにされているような痛み。

失った大切な存在への、深い喪失感。

それでも、彼は筆を取った。

久美子との思い出を、絵にすることが礼人の使命だと感じたから。


パレットに、絵の具を載せる。

赤、青、黄。

三原色が、白い面の上で輝いている。

それらを混ぜ合わせ、オレンジ、グリーン、パープルが生まれる。

色彩の饗宴。

かつては、それだけで心が踊ったものだ。

だが今は、悲しみの色合いにしか見えない。

「こんな色じゃ、君を表現できない…」

呟きながら、礼人は筆を走らせる。

明るい色調の向こうに、見えない影を感じた。


一日中、礼人はカンバスに向かい続けた。

食事も、睡眠も忘れて。

ただひたすらに、絵を描く。

久美子の面影を追いかけるように、筆が踊る。

溢れる想いを、一心不乱にぶつける。

真っ赤な夕陽。

冷たい月明かり。

彼女と過ごした日々の思い出が、色となって現れる。

「久美子、君はどこにいるんだ…」

ふと我に返ると、目の前には見知らぬ絵が広がっていた。


そこには、一人の女性が佇んでいた。

薄闇に包まれ、静かに微笑んでいる。

まるで、この世のものとは思えない美しさ。

見る者の魂を揺さぶる、神秘的な佇まい。

「これは…」

絵を前にして、礼人は息を呑んだ。

描かれているのは、紛れもなく久美子だった。

しかし、それは現実の彼女とは違う。

まるで、この世ならざる存在のように、崇高な美しさを放っている。

「久美子…君は、こんなにも美しかったのか」


絵の中の久美子は、悲しげな表情を浮かべていた。

どこか寂しそうで、孤独を感じさせる。

だが、その瞳の奥には、強い意志の光が宿っている。

生きることへの、揺るぎない意志。

そう、久美子は最期まで、生を全うしたのだ。

たとえ時間が限られていても、精一杯生きる。

そんな彼女の想いが、礼人に伝わってくる気がした。

「君は、最後まで輝いていたんだね」

涙がこぼれる。

愛する人を失った悲しみと、彼女の生き様への敬意。

相反する感情が、胸の中で渦巻いた。


「先生、この絵は…」

アトリエを訪れた佐伯が、絵の前で立ち尽くしている。

「ええ、これが最新作です」

「素晴らしい…光と影の対比が、見る者の心を打ちます」

感嘆の息を漏らす佐伯に、礼人は微笑んだ。

「題名は、『無色の太陽』。太陽は、光を反射しているだけ。本当の色は、透明なんです」

「なるほど。それが、この絵の本質なのですね」

しみじみと絵を見つめる佐伯。

彼もまた、この絵に魂を揺さぶられているのだろう。

「先生、この絵は特別な存在ですね。まるで、愛そのものを描いているようです」

「愛…そうかもしれません」

久美子への想いが、自然と絵となった。

それが、この作品の核心だと礼人は悟った。


佐伯が絵を持ち帰り、個展の準備が始まった。

忙しい日々の中で、礼人は久美子を思い続ける。

彼女との思い出が、制作への原動力になっていた。

「久美子、君のおかげで、僕は前に進めるんだ」

心の中で呟くと、不思議と温かな気持ちになる。

まるで、久美子が微笑んでいるような気がした。


個展の当日。

ギャラリーには、大勢の人が訪れていた。

「岸谷先生の新作は、素晴らしいですね」

「光と影の表現が、心に染みます」

来場者たちの感想が、礼人の耳に届く。

皆が口を揃えて、『無色の太陽』を褒め称えている。

「ありがとうございます。この絵には、大切な人への想いが込められているんです」

微笑みながら、礼人は答えた。

久美子への愛が、多くの人の心を打ったのだと感じる。


ふと、ギャラリーの片隅に目をやると、見覚えのある姿を見つけた。

小柄な体躯、優しげな笑顔。

まるで、久美子が立っているようだった。

「…久美子?」

思わず駆け寄るが、そこにいたのは見知らぬ女性だった。

「あの、どなたかと勘違いされたようで…」

「あ、すみません。ちょっと、知人に似ていたもので」

「そうですか。でも、先生の絵を見ていると、大切な人への想いが伝わってきます。きっと、その方も先生の作品を喜んでくださっているはずです」

初対面の女性の言葉が、礼人の心に染みた。

そう、久美子もこの絵を見たら、喜んでくれるだろう。

今はもういないけれど、彼女は礼人の心の中で生き続けている。

二人の絆は、決して消えはしない。


「久美子、君への想いは、これからも僕の中で輝き続ける。

無色の太陽のように、透明で、強く。

君と過ごした日々は、一生の宝物だ。

だから、これからも前を向いて生きていく。

君が、そう願ってくれているはずだから。

いつか、また会える時まで。

今は、心の中で君を感じながら。」


心の中で誓いを立てる礼人。

悲しみは、少しずつ癒えていくだろう。

でも、久美子への愛は色褪せない。

二人の思い出は、永遠に輝き続ける。

まるで、無色の太陽のように。


ギャラリーの窓から、夕陽が差し込んでいた。

オレンジ色に染まる空。

その向こうで、久美子が微笑んでいるような気がした。

「ありがとう、久美子。

君は、僕の人生に光を与えてくれた。

だから、これからはその光を絵に込めていく。

君への想いを、世界中に届けるために。」


礼人の心に、新たな決意が芽生えた。

久美子との愛が、彼の人生を照らし続ける。

まだ見ぬ未来に向かって、歩き出すために。


窓越しに差し込む夕陽は、いつもより優しく輝いているようだった。

無色の太陽が、二人の愛の軌跡を照らし出すかのように。


第4章


個展から数ヶ月が経った。

礼人の日常は、以前の穏やかなリズムを取り戻しつつあった。

朝に目覚め、コーヒーを淹れ、アトリエで制作に没頭する。

だが、何かが決定的に変わってしまったことを、彼は感じずにはいられない。

「久美子…」

ふと、彼女の名前を呼ぶ。

返事がないことを、頭では理解しているのに。

心のどこかで、まだ彼女の存在を求めてしまう自分がいる。

「情けないな、俺は」

苦笑しながら、礼人は筆を走らせる。

キャンバスの上に、鮮やかな色彩が躍動し始めた。


今日は、久美子の月命日だった。

礼人は、小さな花束を持って墓地に向かう。

冷たい風が、頬を撫でていく。

空は青く澄み渡り、どこまでも高く感じられた。

「久美子、今日は君の月命日だ」

墓石に花を供えると、礼人は静かに語りかける。

「君がいなくなって、寂しい日々が続いている。

でも、不思議なことに、君への想いは日に日に強くなっていくんだ。

まるで、君が俺の中で生き続けているみたいに。

だから、安心して。

俺は、君との思い出を胸に、これからも前を向いて生きていくから。」

風が、ヒューと音を立てて吹き抜けていく。

まるで、久美子が返事をしてくれたような気がした。


墓地を後にし、公園のベンチに腰を下ろす。

木々の間から、優しい日差しが差し込んでいる。

目を閉じると、久美子との思い出がよみがえってくる。

公園で手を繋ぎ、笑顔で散歩したこと。

ベンチに並んで座り、将来の夢を語り合ったこと。

些細な日常の一コマが、かけがえのない宝物に思えた。

「久美子、君との思い出は、いつまでも色褪せないんだ」

心の中で呟くと、胸が熱くなる。

悲しみは、確かにまだ残っている。

だが、それ以上に、彼女との絆を感じずにはいられない。

永遠に、心の中で生き続ける絆を。


ベンチから立ち上がり、礼人は歩き始める。

行き交う人々の表情は、どこか生き生きとしているように見えた。

喜びも、悲しみも、全てを受け入れて生きている。

悲しみから逃げずに、立ち向かっていく強さ。

久美子もまた、そんな風に生きたのだと思う。

最期まで、精一杯生きる。

そう決めた彼女の、勇気ある選択。

「俺も、君に負けないように生きなくちゃな」

空を見上げて、礼人は心に誓った。

悲しみも、喜びも、全て受け止めて、前に進んでいく。

二人の思い出を糧に、人生という名の絵画を描き上げるために。


アトリエに戻ると、佐伯からの連絡が入っていた。

「先生、朗報です。あの美術館から、個展の依頼が来ました」

国内でも有数の美術館からのオファー。

礼人は、言葉を失った。

「『無色の太陽』を見た館長が、ぜひ先生の個展を開きたいと。

先生にしか表現できない、愛の世界を伝えたいそうです」

佐伯の声は、興奮に震えている。

礼人も、心の高鳴りを感じずにはいられない。

「…やります。久美子への想いを、もっと多くの人に届けたい」

絵を通して、愛の尊さを伝えていく。

それが、礼人の使命だと感じた。


美術館での個展に向けて、礼人は新たな制作に取り組み始めた。

『無色の太陽』を中心に、久美子をテーマにした作品群。

光と影、喜びと悲しみ。

相反する要素が融合し、新しい美を生み出していく。

まるで、人生そのものを描いているかのように。

「久美子、こうして君を描いていると、君が傍にいるような気がするんだ」

ふと、呟いた言葉。

返事はないけれど、心の中に温かな感覚が広がっていく。

永遠の別れなんてない。

心の中で、いつも共にいる。

そんな確信を、礼人は絵の中に込めていった。


個展の初日。

美術館には、大勢の人が訪れていた。

「岸谷先生の絵は、心を揺さぶります」

「愛する人を失った悲しみが、伝わってきます」

「でも同時に、希望も感じられる。人生は、悲しみだけじゃないんだと」

来場者たちの感想が、礼人の耳に届く。

みんな、それぞれの想いを胸に、絵と向き合っている。

「久美子、君への想いは、こうして多くの人の心に届いているんだ」

礼人は、絵を見つめながら微笑む。

悲しみも、喜びも、全てを包み込む大きな愛。

それを、彼は絵という形で表現したのだ。


個展の最終日。

閉館間際のギャラリーに、一人の女性が訪れた。

「岸谷先生…」

見覚えのある顔。

以前、個展で出会った女性だった。

「先生の絵を見るたび、勇気をもらえます。

悲しみに向き合う強さ、それでも前を向いて生きる希望。

先生は、絵を通してそれを教えてくれる。

本当に、ありがとうございます」

崇高な思いを込めて、女性は礼人に頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとう。

君のような人がいてくれるから、絵を描き続けられるんだ」

目頭を熱くしながら、礼人は微笑んだ。

久美子への想いを絵にすることで、

多くの人の心に希望を届けられる。

それが、礼人の生きる意味なのかもしれない。


美術館を後にし、夜空を見上げる。

冬の澄んだ空気の中、星が瞬いている。

「久美子、愛してる」

静かな夜に、愛の言葉を響かせる。

空に向かって、精一杯の声で。

今はもういないけれど、永遠に心の中で生き続ける人へ。

「これからも、君への想いを絵に込めていく。

悲しみも、喜びも、全部引き受けて。

だって、それが俺の生きる道だから」

深く息を吸い込み、冷たい空気を胸に満たす。

悲しみは癒え、新しい一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。

まるで、久美子が背中を押してくれているような。

無色の太陽は、今夜も優しく、強く輝き続けている。

二人の愛の証として。永遠に。


第5章


春の訪れを感じる陽光が、アトリエの窓から差し込んでいる。

カンバスに向かう礼人の表情は、以前にも増して生き生きとしていた。

「久美子、今日は君の誕生日だね」

筆を走らせながら、彼は微笑む。

「君がいてくれたから、俺は今こうしていられる。

君への感謝の気持ちを、この絵に込めるよ」

真っ白なカンバスが、次第に色彩に満ちていく。

鮮やかなブルー、ビビッドなイエロー、深みのあるグリーン。

まるで、大地が春の息吹に目覚めるように。

命の躍動を感じさせる、力強い筆致だった。


絵を描き終えた頃には、陽は傾きかけていた。

オレンジ色に染まる空。

まるで、キャンバスの中から飛び出してきたような色合いだ。

「今日の夕焼けは、君の誕生日を祝福しているみたいだ」

窓辺に立ち、礼人は空を見上げる。

街並みが、柔らかな光に包まれている。

遠くの公園では、チューリップが一斉に咲き誇っているだろう。

春の訪れを、清々しい空気が運んでくる。

「季節は巡って、また新しい命が芽吹く。

君が教えてくれたんだ。

人生も同じだって」

風が、ヒューヒューと音を立てて吹き抜けていく。

まるで、久美子が頷いているかのようだった。


翌朝。

いつものように、礼人は墓地へ向かう。

参道の脇には、可憐な花が咲き乱れていた。

春の陽射しを浴びて、ひときわ美しく輝いている。

「久美子、春が来たよ。君の好きな季節」

墓石の前に、花束を手向ける。

白いユリの花が、清楚な美しさを放っている。

「あの日から、もう一年が経つんだね。

辛いことも、悲しいこともあった。

でも、君がいてくれたから乗り越えられた。

今は、心の中で君と共に歩んでいる。

これからもずっと、君は俺の中で生き続ける。

だから、安心して」

春風が、そよりと頬を撫でていく。

久美子の優しさを感じるような、温かな感触だった。


公園のベンチに腰を下ろし、礼人はスケッチブックを開く。

木々の新緑が、瑞々しい輝きを放っている。

風に揺れる葉の音が、聴こえてくる。

カラスが、高い空を悠然と舞っている。

「ここで久美子と、よく絵を描いたっけ」

ふと、過ぎ去った日々を思い出す。

二人で見つめた風景。

二人で追いかけた夢。

全てが、色褪せることなく蘇ってくる。

「今でも、こうして絵を描く時は君を感じられるんだ。

俺の心の中で、君はいつも微笑んでいる。

だから、これからも絵を描き続けるよ。

君が、そう望んでいるはずだから」

そう呟きながら、礼人は木漏れ日を描き始める。

まだら模様の光が、スケッチブックの上で踊っている。

かつて、二人で見つめた光景が、今はここにある。


スケッチを終え、礼人は美術館に向かう。

個展の打ち合わせだ。

新作の展示についても、話し合う必要がある。

「先生、新作はどうですか?」

珈琲を啜りながら、佐伯が尋ねる。

「ああ、順調だよ。今回のテーマは、『春の訪れ』」

「素晴らしいですね。先生の絵から、生命の息吹が感じられます」

満面の笑みを浮かべる佐伯。

「久美子さんへの想いが、先生を突き動かしているのでしょう」

礼人は、静かに頷いた。

「彼女は、俺の中で生き続けている。

だから、これからも精一杯絵を描いていく。

久美子への愛を、みんなに届けるために」

「先生の思い、必ずや多くの人の心に響くはずです」

力強い佐伯の言葉に、礼人は目頭を熱くする。

「ありがとう。君のような理解者がいてくれて、本当に助かるよ」

二人は、しっかりと握手を交わした。

新たな一歩を踏み出す、固い決意を込めて。


夜、アトリエで一人静かに過ごす。

満天の星空が、窓の外に広がっている。

「久美子、今日も一日頑張ったよ。

君への想いを胸に、これからも前に進んでいく。

悲しみも、喜びも、全部受け止めながら。

そして、それを絵にしていくんだ。

みんなに、生きる勇気を届けるために」

星明りを浴びながら、礼人は心の中で誓う。

悲しみを希望に変える力を、

絵という形で伝えていく。

それが、彼の生きる意味なのだと。

「君は、俺の永遠の太陽だ。

無色でありながら、心を照らし続けてくれる。

だから、これからもずっと、輝き続けるんだ。

俺の中で、君は永遠に生き続ける」

窓辺に立ち、深く息を吸い込む。

冷たい夜風が、全身を包み込む。

まるで、久美子が抱きしめているような、

温かな感触がする。

「愛してる、久美子」

静かな夜空に、愛の言葉を響かせる。

そこには、悲しみを乗り越えた先にある、

新しい人生が待っているのだから。

無色の太陽は、今夜も優しく、強く輝き続ける。

二人の絆は、永遠に色褪せることはない。

春の訪れとともに、新しい希望の光が差し込んでいた。

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無色の太陽 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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