10.実験

 波の音が響く夜の海辺は、月明かりに照らされた―――理沙と約束した二十一時、五分前。


 雨が降ったり止んだりの繰り返しだったが、いまは満天の星空。葉を茂らせた木々の梢に覆われていない夜空は、宝石や砂金を散りばめたかのように煌びやかだ。


 数光年、数万光年前―――星々が放った光を眺めている七人はまだ十七歳。星の寿命に比べれば刹那の存在。それでも全力で人生を駆け抜けたい。


 生きたい―――ずっと―――生きていたい―――


 だからこそ、この島から脱出する方法を模索する。


 綾香と道子の仲直りのあと、おもいきりはしゃいだ一同は、日が暮れてから鏡の世界で今夜やるべきことを話し合った。


 まずは理沙に鏡を叩き割ってもらう。作業自体は簡単だ。しかし、器物破損はおおごとだ。一階は理沙が待機している倉庫がある。そのため、先生が行き交うと厄介なので避けたほうが無難だ。それなら、使用頻度が低い二階の家庭科室にあるキャスター付きの姿見を割ってもらおうと考えた。いつも教壇の近くに置いてあるので、夏休み中も同じところにあるはずだ。鏡を割り終えたあとは、理沙にツアー会社について調べてもらう。島の謎を解き明かすために、ゆっくりと時間をかけて調べたいので、鏡を割る作業を先に行うことにしたのだ。


 「時間だ」類がスマートフォンの画面で時間を確認した。「眠ろう」


 一同は砂浜に横になって目を瞑った。疲れているとはいえ、類は寝つきがよいほうではない。だが、同時に全員が眠りに落ちた。これにも島の不思議な力を感じた。


 その後すぐに鏡の世界で目を覚ますと、昨夜と同様に自分たちが通う教室の前だった。背を起こした一同は廊下に歩を進め、階段を下りて、一階の倉庫へ向かった。


 鏡の世界からでは物を移動させられないことを事前に理沙に説明していたので、倉庫のドアは開いていた。そのまま歩を進めて暗い倉庫に足を踏み入れると、スマートフォンの画面の光を利用して、こちらの世界を照らす理沙の姿が鏡に見えていた。


 理沙があえて消灯している理由は、類たちが現実世界に帰ってくるまでのあいだ倉庫にこもる予定なので、校外に蛍光灯の光が漏れないようにしたいからだ。


 やむを得ない事情だが、夜の校内は心細くて寂しいはずだ。類は理沙を見つめた。こんなにも暗い場所で七人を待っていてくれる理沙を愛おしく感じた。


 今夜、鏡を割ったら理沙を抱きしめられるだろうか、と真剣に考えてしまうほどに―――


 類は鏡に映る理沙の顔を撫でてから、鏡に息を吐きかけて文字を書き、自分たちの到着を知らせた。

 

 《おまたせ》


 鏡に映し出された反転した文字を見た瞬間、理沙は満面の笑みを浮かべた。

 「類!」


 類は、息を吐きかけた鏡に手のひらを押し当てた。


 すると理沙は、鏡に映る類の手形に、自分の手のひらを重ねた。

 「大好きだよ」


 類も自分の想いを素直に伝えた。

 《おれも大好きだ》


 類が書いた文字の上部に《イチャつくな》と新たな文字が現れたので、理沙は驚いた。

 「もしかして、綾香?」


 綾香は鏡に息を吐きかけて返事を書く。

 《ご名答! 綾香様参上!》


 理沙から綾香の姿は見えないので、文字が現れたところを見つめて言った。

 「本当に綾香なんだよね?」


 綾香は返事を書く。

 《もちろん!》


 類は綾香に言う。

 「何が綾香様参上だよ。雰囲気ぶち壊しなんすけど」


 綾香は類に言う。

 「あたしたちがいること忘れないでよね」


 揃って類に顔を向けた。


 結菜が注意する。

 「イチャつき禁止」


 類は適当に返事する。

 「はいはい、わかってるよ」


 結菜は鏡に息を吐きかけて文字を書き、理沙に伝えた。

 《元気だから心配しないで 結菜》


 理沙は目に涙を浮かべた。心配していた友達と鏡を利用してやりとりができる。本当は全員の声が聞きたい。それでもLINEやメールと思えば寂しくない。


 理沙は訊く。

 「みんなもいるの?」


 《ここにいるよ》


 類が一同に言う。

 「みんな、理沙にひとこと書いてやれよ」

 

 明彦が類に返事した。

 「もちろん、そのつもりだよ」


 一同は鏡に寄せ書きをする。


 《協力頼む! 明彦》


 《あたしからもお願い! 綾香》


 《必ず帰る 結菜》


 《おれたちは元気だ 純希》

 

 《理沙に会いたい 道子》


 《待ってて 翔太》


 最後に類が書く。

 《みんな生きてる 安心して》


 理沙は安堵の涙を流した。それぞれ異なる筆跡。鏡の向こう側にはみんながいる。

 「うん」


 明彦が類に言った。

 「早速本題に入ろう」


 「そうだな」


 類は真摯な面持ちで鏡に文字を書いた。

 《今夜は ふたつ頼みがある》


 理沙は訊く。

 「どんな?」


 《ひとつは家庭科室の姿見を割ってほしい》


 「姿見を割る? どうして?」


 《鏡が割れるとおれたちの世界で何が起きるか知りたいんだ》


 「大丈夫なの? 万が一、とんでもないことが起きたらどうするの?」


 《たぶん大丈夫 みんなもそこまで心配してない》


 「それならいいけど……」胸騒ぎを感じた。だが、類が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろうと思った理沙は、つぎにするべきことを訊いた。「もうひとつは?」


 《ツアー会社について調べてほしい》


 理沙は目を見開き、鏡に両手をついた。

 「それ、あたしも調べたほうがいいって考えてたの。事故となんらかの関わりがあるなら見過ごせない」


 《島の謎を解くにも必要な情報だから》


 「わかったよ。じゃあ家庭科室の姿見を割ったあと、ネットでツアー会社の『ネバーランド 海外』について調べるのがあたしの仕事ってことね」


 《うん ごめんな》


 「あたしは類の彼女だよ。大好きな彼氏と友達のためならそのくらい任せてよ」


 《ありがとう 心強い》


 類は一同に言う。

 「家庭科室に移動しよう」


 一同はうなずいた。


 純希が指の関節を鳴らした。

 「俺たちをこんな目に遭わせたのがツアー会社なら、意地でも見つけ出してぶん殴ってやる」


 明彦が思わず笑う。

 「賛成。島から脱出したあとの俺たちの目標ができたな」


 綾香が言う。

 「全員でフルボッコだね」


 「いいね、それ」綾香の言葉に笑みを浮かべた類は、理沙に合図した。《出発!》


 理沙は、倉庫から廊下に足を踏み出した。それに続いて一同も廊下に出た。


 暗い校内の廊下を歩く理沙は、職員室の向かい側に設置された水飲み場の鏡に顔を向けて、不安げな表情を浮かべた。

 「類、いるんだよね?」


 類は、鏡に息を吐きかけて返事を書く。

 《もちろん》


 純希は廊下を歩きながら鏡に映る理沙を見て、ふと疑問を感じた。

 「映る範囲はかぎられているのに、俺たちはその範囲に関係なく移動できる。まるで学校と鏡に閉じ込められているみたいだ」


 類が純希に言った。

 「校内から出ようとしても出れないし、お前の言うとおり、学校と鏡に閉じ込められた世界って言うべきだろうな」


 一同は職員室を横切って階段を上がり、家庭科室に向かう。理沙が家庭科室の引き戸を開けたので、こちら側の世界の引き戸も同じように開いた。


 家庭科室に足を踏み入れた一同は、教壇の前に置かれたキャスター付きの姿見の前に立った。掃除道具を収めたロッカーの中から雑巾を挟むモップを取り出した理沙が、こちらに向かって歩く姿が鏡に映った。


 「みんないる?」


 鏡に息を吐きかけた類は、指示を書く。

 《スリーカウントのあとで割って》


 「わかったよ」理沙は力をこめてモップを握り締めた。「こんな不良みたいなことするの初めて」


 一同は念のために手を繋いだ。


 類が言った。

 「いよいよだな。実験開始」


 理沙はカウントを取る。

 「三……二……一、割るよ!」


 理沙がモップを振り上げた瞬間、反射的に目を瞑った。その直後、鏡が割れるけたたましい音が室内に響いた。恐る恐る目を開けた一同は、足元に散乱した鏡の破片を見て拍子抜けした。


 何も起きないだろうと思っていたが、本当に何も起きないとは……


 繋いでいた手を離した一同は、屈んで割れた鏡の破片に目をやった。ひとつひとつの破片に、室内の天井や理沙の顔が映っている。


 一番大きな鏡の破片に息を吐きかけた類は、理沙に無事を知らせた。

 

 《やっほー》


 鏡にスマートフォンの画面の光を向けて文字を確認した理沙は安心した。

 「何も起きなかったのね?」


 《うん》


 類とやりとりする理沙は鏡を照らし続けた。現実世界で照らされているスマートフォンの画面の光がこちらの世界にも届く。類の足元の破片も光に照らされた。そのとき、一同ははっとする。室内が映っている鏡の破片の中に、一枚だけ黒い靄(もや)に覆われた奇妙な鏡の破片を発見したのだ。


 一同は黒い靄に覆われた鏡の破片を凝視した。


 類が言った。

 「なんだこれ?」


 明彦も首を傾げる。

 「なんだろう……」


 鏡の世界で何が起きているのかわからない理沙は訊く。

 「倉庫室に戻って旅行会社について調べようか?」


 類は鏡の破片に注目しながら、理沙に返事を書く。

 《まって》


 理沙は首を傾げた。

 「何かあったの?」


 類は鏡の破片を見続けた。やがて黒い靄は徐々に消えていき、家庭科室とは異なる背景が映し出された。


 だだっ広い床。古びた壁紙。家具ひとつ置かれていない殺風景なリビングルーム。しかし……どこかで見たことがある。初めてではない。


 類と純希は顔を見合わせて、同時に声を発した。

 「死神屋敷!」


 きのう明彦がたとえ話で口にした ‟死神屋敷” 。類と純希が撮った心霊画像は、魔鏡を背にして撮っている。まさに、この鏡の破片に映る背景は、魔鏡の中からリビングルームを覗いたかのようだ。


 だが……どうして……足元に散らばる鏡の破片に廃墟のリビングルームが映っているのだろうか……。


 一同は、不気味な光景に息を呑んだ。


 道子は語気を強めてふたりに言った。

 「あんな気持ち悪い画像を待ち受けにするからだよ! 祟られたんだよ、絶対!」


 類の顔が青褪める。

 「そ、そんなこと言ったって、あのときは心霊現象なんか信じてなかったし、明彦に言われるまで死神屋敷に行ったことも写メを撮ったことも忘れてたんだよ」


 道子は目を見開き、信じられないと言わんばかりの表情を浮かべた。

 「え? あの心霊画像を削除してないの?」


 「してない……」


 純希も言う。

 「俺も……いままで撮った大量の画像の中に埋もれてる」


 道子は慄然とする。

 「ありえない……」


 明彦は言った。

 「例え画像を見つけても、今更、無駄だよ。だって、俺たちの鏡の世界と、死神屋敷の鏡の世界が繋がってしまったんだから」


 理沙が鏡の破片をノックするように叩いた。

 「もしもーし、どうなってるの?」


 類はまた同じ返事を書く。

 《待って》

 

 ただでさえ怖い夜の校内。鏡の向こう側に類や友人がいるとわかっているものの、静寂な空間に恐怖を感じる。

 「わかったよ。なるべく早くしてね」


 《ごめん》と返事を書いたそのとき、類の頭の中に声が響いた。


 助けて―――


 誰か私を救って―――


 私はひと殺し―――


 囁いてくる声に深い孤独を感じた類は、怖くなって取り乱した。

 「誰かが、俺の頭の中で誰かが喋ってる!」


 綾香が類に訊く。

 「どうしたの?」


 類は混乱する。

 「声が聞こえる! 頭の中に声が! 女の子の声が聞こえる!」


 一同はざわめいた。


 綾香は類を落ち着かせようした。

 「しっかりして、類!」


 寂しい―――


 鏡の世界から私を出して―――


 逢いたい―――


 愛しているの―――


 人殺しの罪と罰は鏡の世界―――


 何度も繰り返す声が止まったのと同時に、類は悪寒に襲われた。

 「寒い……」


 「大丈夫、類!」


 綾香が声をかけた直後、まるで足元に散乱した鏡の破片のように、類の体が木端微塵に砕け散り、廃墟が映し出された鏡の中に吸い込まれてしまったのだ。


 鏡の破片から魔物が飛び出すよりも最悪な事態に、一同は悲鳴を上げた。


 綾香は廃墟が映し出された破片を拾い上げようとした。だが、鏡の世界からでは、物を移動させることができないので、当然、拾い上げることもできない。


 「うそ! 類! 類!」動揺し、涙を流した。「どうしよう、類が! 類が!」


 純希が慄然とする。

 「どうなってるんだよ、おい……」


 こちらで起きた戦慄を知る由もない理沙は待ちくたびれていた。

 「まだなの?」


 理沙が知れば取り乱してしまうと考えた明彦は、類のふりをして文字を書いた。

 《もう少し》


 異なる筆跡に異変を感じた。

 「類じゃない。類の身に何かあったの?」


 身震いが止まらない結菜は、明彦に顔を向けた。

 「隠しきれないんじゃない?」


 明彦は唇を結ぶ。 

 (言うべきか……)


 翔太が不安を口にする。

 「このまま類が帰って来なかったらどうするんだよ……」


 「どうするって……」動揺する純希。「マジでどうしたらいいんだ……」


 理沙は鏡に向かって語気を強めて訊いた。

 「類はどこなの! 嘘つかないでよ!」


 誰もが混乱する。


 純希は明彦に言う。

 「理沙に伝えよう。理沙にも知る権利がある」


 事実を伝えないのはむしろ無責任。類のふりをした明彦は、鏡の破片にひとことだけ書いた。

 《消えた》


 「消えた!? 消えたってどういうことなの!」明彦の返事に理沙は慄然とした。「嫌な予感がしてたの。だけど類が大丈夫って言うから……」泣きながら言った。「あたしたちは類を待つ。一時間でも二時間でも、たとえ一ヶ月でも二カ月でも一生だって待つの! だって、類があたしを置いてどこかに行くわけないもん!」


 鏡の破片に理沙の涙が零れ落ちた。不安げな表情の一同は、廃墟が映し出された鏡を見続けた。だが、そこに類の姿は見えない。


 黙って類を待ち続けるしかないのだろうか……。類の精神は砕け散ってしまったのだろうか……。


 重苦しいため息をついた綾香は、頭を抱えた。

 「どうしたらいいの?」


 なんとかなる、本当にそう思いたかった。


 肉体から分離した意識が消えてしまえば、類は眠ったまま一生目覚めることはないのだ。


 「あいつならきっと言う、なんとかなるって―――」明彦は藁にも縋る思いで言った。「頼むからなんとかなってくれ―――」



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