5.鏡の世界

  きょうは心身ともに疲れた。


 いつもよりずいぶんと早い就寝時間だというのに、一同はあっという間に眠りに落ちた。


 だが……地べたに横になるのは寝心地が悪かったのか、それとも寝るのが早すぎたのか、類が目覚めてしまう。


 そこは緑が生い茂ったジャングルではなく、非常灯と火災報知機の赤ランプの光が目立つ夜の校内だった。


 正面には横長の鏡が設置された水飲み場があり、女子トイレと男子トイレがある。その向かい側は自分たちが通う二年三組の教室だ。

 

 掲示板には文化部が作成したポスターや、学生に必要な情報が掲載されたビラが貼られている。何もかもいつもどおり見慣れた校内の光景だ。珍しくもなんともない。むしろ落ち着くくらいだ。


 類は掲示板から自分に視線を移した。白半袖のワイシャツに黒いズボン、夏の制服を着ていた。


 (なるほどね。ここは夢の中か。どうせなら理沙と一緒にいる夢が見たかったな)


 ふたたび掲示板に目をやった。


 夏休み前と同じポスターとビラ。


 けれども何かがちがう……。


 首を傾げて掲示板を見つめた。「文字が反転してる」と、後方から綾香の声がしたので振り返った。すると全員が廊下に立っていた。


 類は、綾香から掲示板に視線を戻した。

 「違和感があったのは、文字が反転しているせいだったのか……」


 夢にしてはやけに現実味を帯びている。しかし、現実であるはずがない。ここは夢の中。全員が揃って同じ夢を見るはずがないので、綾香との会話もさほど気にしなかった。もちろん反転した掲示板の文字も然り。朝を迎えれば忘れているか、奇妙な夢だったと思う程度だろう。真剣に考え込んでも意味がない。


 「制服を着たみんなと一緒にいる夢を見るなんて……」明彦が独り言を言う。「疲れているのにレム睡眠なんだな。脳が日中の記憶の整理をしているなら、サバイバル系の夢を見るはずなのに。まあいいや、どうせ夢だし。それにしても、夜の校内だなんて、ずいぶんと平和な夢だ。現実もこうだと最高なのに」


 類は、理屈っぽいところまで現実と同じだと思った。だが、夢の中だからといって、ピエロの姿をした明彦がおどけていたら、反転した文字よりも奇妙だ。

 「まともなお前でよかった」


 明彦は首を傾げる。

 「まともな俺? まともじゃない俺ってなんだ?」


 綾香はいつものセーラー服を見つめた。

 「汚れて血がついた服よりマシだけど、本当にへんな夢。でも夢なのにリアル」


 類は綾香に顔を向けた。

 「マジでお前といるみたいだもん」


 「やめてよ。同じ夢の中にいるわけないじゃん。非現実的な話は嫌いだって、いつも言ってるでしょ」じっさいに類と会話しているような気がした。しかし、絶対に起こり得ないので頭を切り替えた。「夢の中の類にマジになってどうするの? 馬鹿らしい」


 「俺とお前が同じ夢の中いるなんてありえない」


 「そうだよ、そのとおりだよ。調子が狂うから話しかけないで……」

 (マジで調子狂うなぁ。へんな夢……)


 類と綾香が奇妙なやりとりをしていたとき、純希と翔太が頭を触り合っていた。チクチクした短髪の毛の感触が互いの指先に伝う。


 翔太は首を傾げた。

 「なんだか気持ち悪い……」


 純希は自分の両手を見つめて、握ったり開いたりを繰り返してみた。

 「感覚がある……」


 道子は結菜の肩にそっと触れてみた。すると、じっさいに触れているかのような感触が指先に伝わった。驚いた道子は結菜の肩から手を離した。


 「本当に目の前にいるみたい。感覚がある。みんな同じ夢の中にいるっていうより、夢じゃないみたい。現実だよ」


 結菜は否定する。

 「ありえないよ……」


 掲示板に歩み寄り、ビラを指した。

 「なんだか、鏡越しに見てるみたいだよね? 反転した文字を見てどう思う?」


 「べつに何も思わないよ。体に疲労が蓄積されてる。だから奇妙な夢を見る。それだけのこと……」と、言いながらも動揺する。


 こんな奇妙な体験は初めてだ。眠りつけば夢を見ることもある。が、しかし、ここは夢というより、道子が言うように本当に現実と変らない。違いはただひとつ、反転した文字。


 頭が混乱する……重苦しいため息をついた。旅客機は墜落するは、奇妙な夢の中にいるは、最悪の日だ。いまの自分の顔は疲れた表情だろうな……と、ふと水飲み場の鏡を見た。だが、顔どころか影すら鏡に映っていなかったのだ。みんなの姿も映っていない。


 「え!?」鏡に手をつき、覗き込んだ。「どうして!?」


 一斉に結菜に目をやった。


 明彦が尋ねた。

 「どうかしたのか?」


 鏡を指さす。

 「へんだよ。誰も映ってない」


 全員が自分たちの姿が映っていない鏡を覗き込んだ。


 そして綾香が、姿が映らない鏡と、文字が反転した掲示板のポスターやビラを確認した。

 「なんだか……鏡の中から現実世界を覗き込んでいるみたい……」


 道子が綾香に訊いた。

 「それって、あたしたちが鏡の中にいるってこと? それなら全員が鏡に映らない理由も説明がつく」


 綾香は非現実的なことは信じない。眠れば現実世界の学校にいる、そんなこと起きるはずがない。目覚めれば奇妙な夢を見ていた、と、思うだけだ。

 「パラレルワールドってやつね」


 硬質な植物、このリアルな夢、何もかもが恐怖だった。

 「みんな同じ夢の中にいるんだよ! もっと真面目に話し合うべきだよ! 奇妙な世界に迷い込んだのよ、あたしたちは! もしかしたらツアー会社が関係しているかもしれないじゃん」


 「熱くならないでよ。ネバーランド海外は単なるツアー会社。馬鹿らしい」

 

 双眸に涙が浮かんだ。

 「本当に怖いの」

 

 翔太も真剣な面持ちで全員に尋ねた。

 「おまえら、本気でこれが夢だと思うか? なんか変だよ。類も明彦も純希も、超常現象みたいな話は一切信じないのはわかってる。綾香も超現実主義ってことも。だけど、いま目の前で起きていることが現実なんじゃないの? つまり俺たちは夢の中じゃなくて、いま向き合って話し合っている。これは紛れもない現実」


 これは翔太が言うように明らかに現実。現実に近い夢というより現実だ。類は落ち着いて考えたい。

 「もしかしたら墜落のショックで頭がおかしくなっているだけなのかもしれない。目覚めれば……そう、これは俺の夢。みんな異なる夢を見ている」

 

 「ここが夢ならいいけど……」と、言った道子は、スチール製のオブジェのように硬質な植物の話をした。本当は黙っておくつもりだった。理由は救助隊が来たら、この島に二度と足を踏み入れることはないので、言う必要はないと思ったからだ。


 全員があり得ないと言わんばかりの表情を浮かべた。そしてそれと同時に不安を感じたが、椰子の実は解体できた。それなのに何故、道子が触れた植物だけが異様に硬質だったのか……実際に椰子の実を解体した明彦がその疑問を口にした。


 「実際に椰子の実を食べた。あれがスチールみたいに硬かったら、俺の力じゃどうすることもできなかった」


 類も明彦の言葉に納得する。

 「たしかに俺らは食べた。気のせいとかじゃないの?」

 

 「気のせいじゃない。マジだよ。目覚めればわかる。その辺の植物を触ってみるといい」


 ここは現実の学校と大差ない。このまま朝が来ないのではないだろうか……と、不安に駆られた結菜の表情が曇る。

 「目覚めなかったらどうしよう」

 

 スマートフォンの目覚まし時計をセットしたのは純希。

 「ジャングルにあるスマホが教えてくれる……ここが夢の中なら目が覚める」


 明彦は蛇口に視線を下ろした。ここが夢の中だとしても、すべてにおいて感触がある。もしかしたら、水が飲めるのではないだろうか……と、水道の蛇口を捻ろうとした。だが、どれだけ力を入れても蛇口は回らない。


 それを見て類は、明彦に訊いた。

 「水が出ないの?」


 首を傾げる。

 「うん。どうしてだろう? 蛇口がビクともしない」


 道子は言った。

 「何をしても無駄だと思うよ。ここは鏡の裏側にある世界なのかも……だとしたら、あたしたちは幽霊みたいな存在になる。だから何ひとつ動かせない」


 明彦は訝しげな表情を浮かべる。

 「鏡の裏側の世界……そんなの聞いたことないよ」


 道子は類に言った。

 「ねえ、合言葉を決めない?」


 類は理由を訊く。

 「合言葉? なんのために?」


 道子は全員が同じ夢の中にいると確信している。目覚めたときに確かめ合うならこれが一番よいと考えた。

 「全員が学校の夢を見ていた証拠になるでしょ?」


 「いいけど、合い言葉は何にする?」


 明彦が言った。

 「だったら鏡の世界でいいんじゃないの?」


 道子は納得する。

 「鏡の世界、それはいいかも」


 類が一同に確認する。

 「みんな、目覚めたら合言葉は鏡の世界だ。いいな?」


 「いいよ」と返事した全員はこれ以上、疲れたくない。話し好きの純希ですらひとことも喋らなかった。身体も疲れているのに、頭も疲れる。仕方なく横になり、目を瞑って時間が経つのをひたすら待った。


 退屈な古典の授業よりも時間が経つのが遅い気がした。現実世界でも寝て、夢の中でも寝る。こんなにも奇妙な夢を見たのは初めてだ。


 しばらくして腰を上げた類は、教室の引き戸の硝子窓から壁時計を確認した。やはり、文字盤の数字も反転していた。


 <5時58分>


 「ここの時間は現実と同じだったりして……」類は再度確認する。「訊いてもいいかな? 合言葉は?」


 全員が声を合わせた。

 「鏡の世界」


 「目覚めて覚えていたら全員が同じ夢の中にいたことになる」


 純希は、現在の時刻を告げた。

 「六時だ、目覚まし時計をセットした時間が来たよ」


 不思議なことに、どこからともなく、スマートフォンの目覚まし時計のアラーム音が聞こえた。その瞬間、一同は身体がどこかへ引き寄せられるような感覚を覚えた。

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