第13話 再起

 ある晴れた日の昼下がり。


 レムとルミネは連れ立って、病院の敷地内の庭を歩いていた。

 珍しく、レムからルミネに声をかけてのことだった。


 先月まではまだわずかに芝生を覆っていた雪も融け、暖かな陽気が差し込んでいる。

 気温もこのところ冷え込むことはなく、春を迎えたといっていい様相だった。


 レムは深呼吸して、乾いた芝生の青っぽい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 ルミネもそれに倣うように空気を吸い込む。

 それから二人は顔を見合わせるように微笑んだ。


 レムがここに来たばかりの頃は、どんな景色を見ても灰色に包まれているかのようだった。

 だが今は、一切が豊かな彩をもち、驚きとなってレムの目に飛び込んでくる。


 隣にいるルミネが、そうさせてくれるのだ。


「ルミネ」

「なに、レム」


 レムはルミネと肩を並べるようにして、柔らかな芝生の上を歩く。

 ルミネの歩調に合わせるように、ゆったりとしたスピードで進む。


「私、決めたんだ。もうちょっとパルスオペラを続けてみようって」


 そして昨日からルミネに伝えようと思っていたことを言う。

 ルミネはちょっと驚いたような仕草を見せたあと、うん、と頷いた。


 レムはゆっくりと、自分の気持ちを整理しながら言葉を探るように、パルスオペラを続ける理由を話す。


「今まで、勝って他人に認められることだけが全部だって思ってきたんだ。でもルミネを見て、それだけが全部じゃないって思ったんだよね。それで……でも、それがなくなっても、私まだ歌うことがそんなに嫌いじゃないなってわかったから。どうなるかわかんないけど、また新しい気持ちでやれると思うから」


 その間ルミネは、自然に溢れてくるレムの言葉を静かに聞いていた。

 

 レムは、庭の真ん中まで歩いてきたところで足を止めた。

 息を合わせたかのように同じタイミングでルミネも一緒に立ち止まる。


 次に言うべき言葉を言うのは、流石に勇気が要った。

 ルミネの前でいい加減なことは言えない。言いたくなかった。

 

 ふぅ、と小さく息を吐いてからもう一度空気を吸い込む。

 それから意を決し、ルミネの方を向いて宣言する。

 

「だから私、手術を受けることにした」


 二人の間に一瞬の沈黙が流れる。


 レムは今まで、先生にまだ痛みがあるとか体調が微妙に悪いとかの小さな嘘を言って、手術の予定日を決めないままここまで来ていた。


 復帰することも、外の世界に戻ることにも自信が持てなかったからだ。

 だが、今は不確実で先の見えない世界に向けて、前を向いて一歩を踏み出す勇気がある。


 一方で、手術を受けるということは、長期療養を目的としたこの病院から専門の病院へ転院することになる。

 この決断が別れを意味することは、レムも、ルミネも理解していた。

 レムが手術を受ける意志を病院側に伝え、転院の同意書にサインをすれば、二人がともに居られる時間はあとわずか、ということになる。


「うん、いいと思う」


 それでもルミネは、迷うことなく頷いてレムの決意を後押しする。

 きっとうまくいくとか、大丈夫とかいった希望的観測をルミネは口にしなかった。


 未来は輝かしく明るいものとは限らないことは、ルミネが一番良く知っている。

 それでも前に進むという決断は、一寸先すら見通せない嵐のまっただ中へ勇気を持って自ら踏み出すに等しい。


 嵐を踏破することだけに意味があるのではない。

 勇気を持って嵐に挑む高潔な魂こそが、どんな過酷な運命にも侵されないものである――そう信じているルミネだからこそ、ただ笑顔とともに肯定ひとつを返す。


「レムがそうするって、決めたんだもんね」

「うん」


 ルミネの言葉を聞いたレムは、安心したような、あるいは救われたような気持ちになった。

 

「私がこうして、もうちょっとやってみようって思えたのも、ルミネのおかげ」

「そうかなぁ」

「そうだよ。あなたに会わなかったら、私は何で苦しんでいるのかだってわからないままだったんだよ」


 入院してからの数か月、レムの視線の先にはいつもルミネがいた。

 その背中を追うことで己を顧み、新たな一歩を踏み出す決意ができた。


 レムはちょっとためらってから、ルミネの両手に自分の両手を重ね合わせる。

 嵐と暗闇に襲われたあの日、ルミネがそうしてくれたように。


 ちょっと驚いたような表情をしたルミネと視線を合わせる。


「だから、ありがとう」


 今度は自分から、あの紅に輝く命の灯を迎えにゆく。


 レムがルミネに対して抱く様々な感情は、とても一言で言い表せるものではなかった。

 だがその一端を伝えるに留まるとしても、レムは感謝の言葉を口にすることを厭わなかった。


「レム」


 ルミネはレムの名前を呼んだきり、その場で立ちすくんでしまった。

 ルミネの手に重ね合わせたレムの手は、強く握られている。


 レムの決意を尊重することは、ルミネの揺らがぬ意志であることに変わりはない。

 ルミネは、レムと一緒に居る間、自分の考えを押し付けがましく言うことは一度もなかった。


 だがらといって、別れが近づいているということを簡単に受け入れられるわけではない。


「そんな顔しないで。別に今生の別れってわけじゃない」

「……うん」

「前、言ったよね。もしパルスオペラができれば、どんなに私がすごいか見せてあげられるって」


 一緒に病院のコンサートホールでパルスオペラを観劇したあの日のこと。

 ルミネにからかわれてつい勢いで口にしてしまった言葉を、レムは今でも覚えていた。


「絶対に復帰して、ルミネに私のパルスオペラを見せに戻ってくる。約束する」

 

 アッシュブロンドの長髪が、庭を吹き抜ける涼やかな風を含んでふわりと舞い上がる。


 誰よりも大切で、嘘をつけない相手――ルミネへ宣言する不退転の決意。

 そしてそれは再会を約束し、己の未来を信じる行為でもあった。


「レム、私は……」


 ルミネはちょっと意外そうな表情を見せてから、目を伏せる。

 何を言うべきかと迷っているようだった。


「大丈夫、心配しないで、待っていて」


 レムはルミネの手をぎゅっと握り返した。

 ルミネの不安へ寄り添うように。

 孤独にはしないと、伝えるように。


 ルミネは少し黙ったあと、伏した目線をレムへと合わせる。


 わずかな躊躇い。

 まだ何をレムに言うべきか、言葉を探しあぐねているようだった。

 

 だが、触れているレムの手指の温かさ、そして投げかけられた穏やかな微笑みがルミネを強く促す。

 そしてルミネはついにうん、と小さく頷いた。

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