空港にて

棚霧書生

空港にて

 頭が痛い。空港のソファに横になって目をつむった。出発の時間は迫っている。

 どうせなら熱が出ていて、搭乗を拒否される状態になっていてほしい。そしたら、言い訳しやすい。あの人たちにも自分にも。日本に帰国しなかったのは、急に発熱して飛行機に乗れなかったからなんだと。

 先日、父が死んだとの連絡が母からあった。高校を卒業して家を飛び出してからほぼ絶縁状態だったにもかかわらず、まだ俺をあの家の人間として扱いたいらしい。

 葬儀には出なくてもいい、だけどせめて一度顔を見せに戻ってきなさいと文面にはあった。連絡はメールできたから、気づかなかったことにして無視してしまうこともできる。俺は航空券をとって空港まで来てもまだグズグズと迷っていた。

 体が鉛のように重い。頭が痛いし、腹もムカムカしている。父が亡くなったことを知らされてから睡眠時間は途切れ途切れになり、それが不調を引き起こしているのは明らかだった。父の死が特別辛いわけではない、ただこのところ俺に降りかかっている不運の最初の一つがそれだっただけのことだ。

 耳にワイヤレスイヤホンを押し込んで、気に入りの洋楽プレイリストをかける。陽気なビートが鼓膜を揺らしているのに、それは脳みその奥までは届かない。黒いダマのような悶々とした想いが思考の中央を占領していた。

 家族と上手くいかなくなった始まりは俺が音楽を好きになったところからだった。うちは元々仲の良い家族ではなかった、ほどほどにみんなが与えられた自分の役割を演じる。父なら父役、母なら母役、息子なら息子役を。日常生活という舞台が破綻しない程度に俺達は協力して暮らしていたと思う。それが嫌だったわけじゃない。だけど、それが上手くいっていたのは中学生までのことで、俺はその頃には音楽に目覚め、将来は音楽に近しいところで働きたいと考えを持つようになっていた。音楽にのめり込む俺に父はあまりいい顔をしなかった。チャラチャラしてるとか仕事にできるわけがないと言われたのを覚えている。

 否定されればこちらもいい気はしないわけで、俺と父の仲は冷え込んだ。母は父の言うことに従う人だったので、家に味方はいなかった。

 高校生になってからは音楽から派生してダンスとミュージカル劇にもハマった。熱中していた。大学はショービジネスが学べる東京にある大学に行くことを希望していた。

 しかし、父の許しが出なかった。高校生の俺は真剣に向き合って説得すれば、わかってもらえるはずだと思っていた。いま考えると随分と甘い見通しだ。結局どれだけ言葉と心を尽くしても、俺の意思が尊重されることはなかった。

 東京の大学に行くのなら社会の役に立つことを学べる学部でないと金は出せない。その言葉はつまり、父の中では音楽やショーといったものは社会に役立つものとしてはカウントされていないことを表していた。

 心底父が嫌いになった。俺を認めないならまだしも、エンタメを下に見ている態度がなにより気に食わなかった。その日のうちに俺は家を出た。もう一分一秒でも、この人とは一緒にいたくないと思ったのだ。

 俺は祖母宅に居候させてもらって卒業まで高校に通った、それから大学には進学せずアルバイトで貯めた金でショービジネスの本場、アメリカに渡米した。振り返れば思い切った決断をしたものだ、しかし当時の俺には選択肢がそれしか見えていなかった。父に否定された東京の大学に行くよりも、さらにもっと父が嫌いそうなことをしてやると反抗心の炎が燃え盛っていたのだ。

 アメリカに来てからは大変だったが、楽しくもあった。良くも悪くも何もかもが新鮮で刺激的で、若い俺は興奮させられた。アルバイトをしながら、音楽やショービジネスについて学んだ。必死にがむしゃらに、頑張った俺は夢を叶えていた。先週までは映画や演劇の音響を受け持つ会社に所属して、バリバリ仕事をしていた。

 先週、レイオフされた。アメリカでレイオフは珍しくないけれど、実際にされると精神的にくる。最近、アメリカの映画業界にはAI技術が本格的に進出してきている。役者の顔や体の動きや発声、演技を一度学習させればオリジナルとなった役者がいなくても画面上ではその人そっくりのAI役者を動かすことができる。契約で役者には学習時の一度のみ報酬が支払われ、あとは契約元が何度その人のデータを学習したAI役者を使っても金銭は発生しない。この仕組みに役者側が危機感を覚え、組合を巻き込んだストライキが始まった。ドラマや映画の撮影はもちろんストップ。音響をやっているうちの会社の仕事もほとんどがなくなってしまった。

 レイオフされた直後に、父の訃報を受けた。仕事が続いていれば、航空券さえとらなかったと思う。

 俺は疲れているのだろう。自分に能力はあると思っていたが、こうもあっさりと首を切られると不安にもなる。俺はこれからもアメリカでやっていけるのか。

 ストライキが明ければ仕事は戻るのだろう。真面目に職を探して、また音楽とエンタメに携わる場所を見つければいい。そう頭ではわかっている。

 悪天候のため飛行機が遅れているとのアナウンスが空港ロビーに流れた。帰国の一歩目に踏み出すかやめるかの締め切りが引きのばされて、心中で安心すると同時に焦燥がさらに増していくのを感じた。

 腹は減っていなかったが朝から何も食べていないのも体に悪いと思って、売店で軽食を買った。パサパサと乾燥したパンが口の中の水分を奪っていく、付け合わせで入っていたミートボールはほとんど味がしなくて粘土みたいだった。水で流し込むように無理矢理食べているとむなしい気分になった。

 何をするでもなく、ただソファに座ってぼーっとする。どこにも行きたくない。何もしたくない。そんな気持ちだった。空港の置物として、雇ってくれないだろうかと馬鹿なことを考える。映画ターミナルの主人公のモデルであったといわれるマーハンカリミナセリは空港で二十年近く暮らしていたそうだ。彼だけでなく住む場所を失った人が空港を拠点にする例はいくつか聞いたことがある。

 俺も空港で暮らしていけないだろうか。とにかく動きたくない。動いたら、現実も一緒に動き出してしまう。

 若いときは行きたい場所も目標もあった。でも、今は……。

 暗い気持ちに沈みかけたそのとき、耳にピアノの音が届いた。空港に置いてあるストリートピアノの音だった。誰かが弾いているのだ。

 有名なアニメ主題歌のメロディがたまに音を外しながら流れてくる。上手いとは言いがたい、だけどその音には愛嬌みたいなものがあった。

 誰が弾いているのかはわからない。どんな気持ちで演奏しているのかも。ただ待ち時間が暇で仕方がないから、手慰みにピアノに触ったのかもしれない。けれど、俺はそのピアノの演奏を聴いて、ほんのちょっとだけ笑った。笑うことができた。俺がここで動かなかったら、音楽やエンタメに力がなかったことになってしまうじゃないか。

 俺は姿勢を正してスマホを手にとった。飛行機が遅れているから到着時間もズレるけれど、そっちには必ず行くと母にメールを送って、そのあとはレジュメの下書きを書き起こしていく。


終わり

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空港にて 棚霧書生 @katagiri_8

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