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 兄の帰省で慌ただしくて確認できていなかったが、母の言っていた『静香さんの赤ちゃんが大変みたい』の真相は、どうやら双子という事だった。

 健康状態に問題があるわけではなさそうだが、静香さんが仕事を辞めるとなると、あのクソオヤジは必死で稼がねばなるまい。

 三女傑のために馬車馬のごとく……同情を禁じ得ない。


 兄に私のバイトの話をすると、午前中に済ませて昼から一緒に帰ってこいと言われた。

 葛城に提案すると超ノリノリになったのは想定内だったが、深雪ちゃんも行く気バリバリなのにはちょっと困った。


「だめ? ねえ、洋子ちゃん……深雪も行きたい。いい子にしてるから」


 静香さんは止めてくれたが、葛城にも懇願の眼差しを向けられ、妥協案として『いい子で勉強する』ということを条件にした。

 帰って兄に言うと問題ないというが、母にも相談することにした。


「大丈夫じゃない? 飽きるようなら事務所に連れてきなさい。誰かが遊んでくれるわよ」


 我が家族は私以外には寛容なようだ。

 翌朝から6時起床に変更し、勉強は後回しにして家事を全てこなしていく。

 9時には家を出て、買い物をしてから葛城家に向かい、夕食の準備をして昼前には三人で戻るというパターンにした。


 静香さんの分だけ昼食を準備して(カレーだが)三人でバスに乗った。

 葛城の家と我が家はバスを使えば、多少時間はかかるが乗り換えが無い。

 バス停から我が家までの間にスーパーもあるので、買い足すものにも困らないのだ。


 家に着くとすぐに昼食の準備に入る。

 とは言っても簡単なメニューだし、朝のうちに下準備はしてあるからすぐできる。

 兄が気を利かせて食卓の椅子を二つ増やしてくれていた。

 6人で囲む食卓は賑やかだ。

 いつもは食が細い深雪ちゃんも、ご飯のお代わりをして葛城に頭を撫でられて嬉しそうだ。

 兄が2人に話題を振った。


「深雪ちゃんは何年生なの?」


「四年生です」


 お~! 敬語喋れたんだ! 知らんかった。


「勉強は好き?」


「う~ん……あまり好きじゃないかも」


 この正直者! 敬語の次は忖度を教えねばなるまい。


「沙也ちゃんは勉強好きだよね?」


「はい、洋子ちゃんのお陰で楽しくなってきました」


 葛城……愛い奴め。


「僕は勉強がすごく楽しい。大学に入ってからもっと楽しくなった。知らないことを知るというのもそうだけど、同じ道を目指す者同士の議論がめちゃくちゃ楽しいんだ」


 そうか、大学というのはそういう楽しさがあるんだね。


「高校までは一般的な知識というか、マクロな教育だろ? その中からどの教科に興味を持ったのかや、何をしている時が楽しいのかを早く見つけた方がいい。大学は選んだ道をミクロ的に教えてくれるんだ。その中で何かにハマる人もいる。有名なのは『モルディ博士』と呼ばれている助教なんだけど、黴の研究に人生を捧げている面白い人さ。気のせいか無精ひげが青っぽい」

 

 母が呆れながら口を開く。


「その人の家って黴だらけなのかしら」


「いや、むしろものすごく清潔にしてるらしいよ。家にはいる時は除菌を徹底するんだってさ。多分ペットにしている黴たちに影響を与えないためだろうね」


 全員が無言になった。

 ペットのカビって……名前も付けてそうでちょっと引く。

 カビ夫? カビ子かな? ん? そもそも雌雄があるのか?

 

「さあ! 始めようか」


 兄が立ち上がりソファーに向かった。

 私と葛城が食器を流しに運んでいると、母が後はやるからと気を遣ってくれる。


「宿題は終わった?」


 頷く私と俯く葛城。

 どうやら数学はそのままのようだ。


「じゃあ葛城さん……ああ、葛城さんが2人いるから沙也ちゃんと呼ぶね。沙也ちゃんは宿題からやろうか。洋子は何をする予定?」


「私は英語かな」


「わかった。深雪姫は?」


 まさかの姫認定!


 物凄く驚いた顔で振り向いた深雪ちゃんが、ゴソゴソと鞄の中からひっぱり出したのは『夏休みの友』だった。

 懐かしい! まだあるんだね。


「ちょっと見せて? ん? あまり進んでないねぇ。じゃあ続きからがんばろっか」


 深雪ちゃんは頷いて兄の隣に正座した。

 そうだね、ソファーじゃテーブルに届かないもんね。

 深雪ちゃん、姫と呼ばれたからって、そのお兄ちゃんは王子様じゃないからね?


「じゃあそれぞれ始めよう。僕もここで一緒にやるから、分からないところがあったら遠慮なく言ってね」


 兄が取り出したのは全文英語の分厚い本だった。

 あの厚さ……うたた寝枕に丁度良さそうだ。

 全員の視線などお構いなしに、兄は栞のところを開いて、ノートに書き留めていく。

 チラッと見ると書いているのも英語文だった。

 時々手を止めて辞書を開いている。


「お兄ちゃん、その本はなあに?」


 深雪ちゃんの声に兄が顔を上げた。


「これはね『シートン動物記』だよ。深雪ちゃんくらいの時に読んだけど、原書で読むともっと面白いんだ」


 聞いた深雪ちゃんより私の方が興味を持った。


「原書だと違うの?」


「訳者の力量と解釈に左右されるから、作者が本当に伝えたいことはなかなか見えてこない。その点原書はそれを直に感じることができる」


「英語力かぁ」


「うん、英語は大事だ。頑張りなさい」


 返り討ちにあった気分だ。

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