37

 病院に戻ると手術室の前のベンチに静香さんが座っていた。


「お母さん!」


 深雪ちゃんが駆け出す。

 静香さんが腰を浮かせ、深々と頭を下げた。


「洋子ちゃん、本当にありがとう」


 父の方を見て、泣きそうな顔で頭を下げる。


「洋子ちゃんのお父様ですね。この度はお世話になってしまい……なんと言ってよいのか……本当にありがとうございました。看護師さんには説明を受けたのですが、どうも良く分からなくて……主人にもやっと連絡がとれましたので、もうすぐ来ると思います。深雪までお世話になってしまって」


 父がゆっくりと近づき、ベンチに座るように言った。


「娘からお嬢さんを病院に連れて行きたいと聞いたので、それなら車があった方が良いだろうと思ってついてきただけですから。しかし、打ちどころが悪ければ大事になっていたかもしれません。間に合って良かったです」


 静香さんが両手を握りしめてコクコクと何度も頷いた。

 私はその時の状況だけを説明し、父が医師の診断を伝えていると、バタバタという音をさせて、葛城の父が駆け込んできた。

 おっさん、病院の廊下は走っちゃだめだと習わなかったか?


「深雪!」


 最初に出たその言葉に私は怒りと絶望を感じた。


「おじさん……沙也さんが……」


 父が私の肩を引き寄せ、無言で『言うな』と止める。

 その声でやっと気付いたのか、抱きしめていた深雪ちゃんを離し、私たちの方を向いた。

 静香さんが紹介すると、バツが悪そうな顔で口を開く。


「お世話になったようで、申し訳ありません。あとは家族の方で対処しますので、どうぞお引き取り下さい。後日改めてお礼に伺います。かかった経費などもお支払いしますので」


「あなた!」


 静香さんが目を見開いておっさんに詰め寄る。

 深雪ちゃんが怯えて、静香さんの腰に抱きついていた。


「ああ、奥さん。大丈夫ですよ。しかし葛城さん、うちの娘も心配しているんです。手術が終わるまでは待たせてもらいます」


 おっさんの顔色は悪く、焦って来たのだとはわかる。

 わかるが、沙也の心配をして来たのでは無いのもわかってしまう。

 もしかしたら沙也の携帯から掛けていたから出なかったのか? と勘ぐってしまう私は、性格が歪んでいるのだろうか。


「洋子、私たちはあそこで待とう」


 父が少し離れたベンチを指さした。


「うん」


 私を座らせてから、父が飲み物を買って来ると言ってロビーに向かった。

 おっさんの横に座った静香さんが、小声で何か言っている。

 怯えた深雪ちゃんはお母さんから離れず、ちらちらとこちらを見ている。

 私が安心させたくて肩を竦めて見せると、コクンと小さく頷いた。

 父が戻ってきて、葛城達に小さい紙パックのお茶を渡している。

 お! 深雪ちゃんにはオレンジジュースじゃないか……気が利くなぁ、うちのおやじ。


「ほれ、お前も飲め」


 横に座りながら渡されたのは、深雪ちゃんと同じオレンジジュースだった。

 ここにきてまさかの子供認定……へこむ。

 深雪ちゃんのパックにストローを挿してやってから、静香さんがこちらに来た。


「何から何まで、本当にありがとうございます。それに……葛城が大変失礼な物言いをいたしました。あの人も気が動転しているのだと思います。どうか許してやってください」


「いえいえ、私も娘がこんなお怪我をしたと聞いたら冷静ではいられませんから、お気持ちはわかりますよ。そろそろ手術も終わる頃でしょうし、お嬢さんの顔を見たら私たちは帰りますので」


「申し訳ございません」


 ふと見ると、おっさんが掌で顔を覆って俯いていた。

 その横で、所在無げに深雪ちゃんがジュースを飲んでいる。

 手術中のランプが消え、ストレッチャーに乗せられた葛城が出てきた。

 顔中ぐるぐる巻きの包帯だろうと思っていたが、顔の中心部に巨大な蛾が張り付いているような状態だ。


葛城……体を張って笑いをとっている場合じゃないぞ?


「大丈夫か?」


 鼻で息ができないのだろう。

 口を半開きにして、困ったような顔をしてこちらを見ている。

 先生が話し始める。


「手術自体は難しいものではありませんが、年若い娘さんですからね。傷が残らないように経過観察する必要があります。もし寝返りを打ったりして鼻血が出ると窒息する可能性もゼロではないので、今日は入院して下さい。明日には戻れますから準備などは必要ないですよ」


 静香さんが大きく頷く。

 ああ……良かった。

 息を吐いた私の肩に父がポンと手をのせた。

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