織り成す世界の文脈異常共(イレギュラーズ)

北村陽

[エピソード・コラン-序章]

第1話 すべては俺の考え一つから

 ――もしも、あの物語の登場人物になれたら。


 誰もが思いそうなこと。


 ――血の呪いに侵されるという代償によって得られた力と魔剣で魔族相手に立ち向かう勇者だったり、かつて影を体現すると言われていたほどの実力を兼ね備えた初老の暗殺者だったり、その天真爛漫さから周囲の男を一様に魅了し学園のトップまで上り詰める貴族令嬢など。


 物語の登場人物というのは、いつだって魅力的な者ばかりだ。その存在は物語という世界に彩を与えて、誰かの心を突き動かす原動力になる。

 でも当の本人はそのことに気づいていない。何故なら誰一人として自身の生き様が物語として誰かに見られることになるなど思いもしないからだ。


 ――ならば、こうして何かしらの作品として形にしてみれば、彼らもそのことに気づけるのではないのだろうか?


 それは小説で、漫画で、アニメで、音楽で。他にも挙げようと思えばいくつもあるだろう。


 俺は形として、まずは物語を書いてみることにした。

 物語の構成や展開、登場人物や舞台となる場所や世界観など。こういったことを考えていると自然と手が動き出す。

 そうすると出来上がる、一つの物語。

 こうすれば、誰かが作品に出合うと同時にその中に出てくる登場人物というのは生き物のように動き出す。まぁ、こうなるかどうかは書き手の技量次第なのだが。


 ――でも、俺は自分自身の物語を見ることはできなかった。所詮物語の中に閉じ込められた登場人物と同じだった。


 それは俺が創造主だから。単純な理由だった。

 すべては俺が創り上げたもの、だからあっと驚くような展開もなければ、面白さに富んだ新鮮さもない。

 非常に退屈だ。俺は暇が大嫌いだった。

 知っている物語の中の登場人物として動くのも、もう飽きた。

 そう思った時、ふと一つの考えが閃いた。


 ――そうだ。だったら一つの創り上げた未完の物語の登場人物として、たくさんの主人公たちが織り成す世界に身を委ねてみるのはどうだろうか。


 俺の知らない展開、俺の知らない結末。

 俺がその土台となる世界の設定を書き上げて、完全に理を逸脱しない程度にまで存在を落としてその世界に紛れ込む。

 こうすれば後は周りが勝手に俺をそいつが創る物語に巻き込んでくれるはずだ。


 ――そうなると、登場人物たちは世界を改変できる能力があった方がいいな。いや、ここは小説らしく――『改稿』と表現したらかっこいいかもな。


 気づけば手が動いていた。

 湧水のごとくアイデアが溢れ出てきた。

 空白に文字が書き連ねられると同時に、周囲に世界が構築されていった。


 ――これで俺は退屈な思いをせずに済むはずだ。あっ、そうだ。


 俺はとある考えを思いついた。


 ――せっかくだから、俺は今までのことを忘れて一から一人の人間として始めようか。主人公という立場を捨てたくて堪らない、でも誰かの物語の登場人物になりたい強欲な存在として。


 そう思った時には、既に俺の意識は白くもやがかかっていた。


 ――舞台は学園青春ファンタジー。不思議な力を持つ登場人物たちは何を為して、何を成していくのだろうか。そして俺は、どのような選択をするのだろうか。



 誰も知るはずのない俺の考えは、削除されていくこれまでの世界と共に儚く消え去っていった。



【――瞬間。『世界』が、産声を上げた】


《――エピソード・『』の、本格始動だ――》








――――――








「ねぇ――間違っても、私のことは好きにならないようにね」


 なんの脈絡もなく発せられたその言葉は、特に意味がないように思えた。

 そもそも俺はお前に対して下心丸出しで接したことなんて一度もないのに、ましてやラブの方の好きになるだなんてあり得ない。

 それにしても、自分のことを好きにならないようにと自分で口にできる精神性は凄まじいと感心すら覚えてしまう。どんだけ自分に自信があるんだ?まぁ、メインヒロイン級の黒髪ロングストレート系美少女に変わりないのだが。


「いきなりどうした。暇だからって、俺をからかってるのか?」


 少女は首を横に振った。


「いいや、違うよ。昨日、動画で見たんだー。男女の仲はいともたやすく拗れるんだって、恋愛感情があると特に」


 屈託のない笑顔と共に、心底どうでもいい言動の理由が述べられた。

 本当に、彼女にとっては「昨日推しの新曲MVが出てちょーよかったんだぁ」程度の感覚で言ったのだろう。


「ふーん。でもそれ、複数人の男女グループに言えることだろ」


 彼女との会話を意図的に途切れさせる。

 この場には、二人しかいなかった。美少女と俺、たった二人。


「......」


 するとまるで誰かが気を利かせたように窓から風が吹いてきた。春の心地いい風、このまま季節が変わらなければいいのに。

 最近は春と秋が短すぎて嫌になってくる。


「はぁ......」


 静かになった空き教室は、去年度までだったら先輩たちが賑やかにしていた。

 高校一年生だった俺たち二人と、三人の三年生の先輩で活動をしていた漫画研究部。活動といっても、漫画を描いていたのは文化祭が行われる6月だけだった。

 きっと、顧問の先生はある意味大変だっただろう。活動実績が少なすぎると部を存続させることはできないからだ。


「なぁ、漫画が描ける新入生が来なかったらどうする?」


「んー?大丈夫でしょ。古谷がストーリーを考えて背景を描く、私が人物を描く。これでいいじゃん」


 そう言って正面の人物画担当は暇そうに裏紙にペンを走らせていた。

 どうせまた、俺の横顔を描いてるんだろう。部室だけでなく、暇さえあれば誰かの顔を顔を描くのがこいつの癖だ。


「俺に人物を描かせる気はないんだな」


「だって古谷が「かく」人物って、無機物みたいなんだもん」


 絵のタッチのことを言っているのか、それともキャラクターに魅力がないと言っているのだろうか。

 まぁ、恐らくその両者だろう。悔しいけど自覚がある。

 言い返すことができないほどに、彼女――『浪川来藍こらん』の描く人物は魅力的だった。

 何と言うか、現実的で健康的な肉付きで人物を描くため躍動感があった。特に身体のラインとか。極端なボンキュッボンな絵柄が苦手な俺にとってぶっ刺さるものがあった。


「あのな、いくらお前が俺の先生だからって、少し酷評しすぎじゃないのか?俺だって、去年までとは違うんだから」


 ――そーだそーだ。お前がうますぎるのがいけないんだよばーか。

 俺を援護する心の声を浪川にも聞かせてやりたい。だが浪川は一切興味のないご様子で御筆をお飛ばしになられていらっしゃいました。


「ふーん。でもそう言う割にはなかなか私に見せてくれないじゃん。その去年とは違う自分とやらをさ。――グサッ」


 浪川はそう言ってペンの先で俺の心臓を貫くように先端を効果音と共に俺に近づけた。

 物理的に効果はなくとも俺の心にその言葉は深々と突き刺さり、回復不可能確定会心の継続ダメージを与えてきやがった。


「うっ......それは、まだ俺が満足いってないだけだ。今はまだその時じゃない」


「けち。なんだかんだ楽しみにしてるのに」


 ――そんな俺が絵を描くきっかけになったのは、中学三年生の時に浪川が描いた一枚の絵だった。


 美術の授業で人の喜怒哀楽を表現した顔の絵を鉛筆で描けというありがちな課題が出た。俺を含めて大半の生徒は笑った顔の絵を描いた。だが、浪川だけは違った。彼女が描いたのは虚ろな目をしながら静かに涙を流す少女の顔だった。

 初めてそれを見たときの驚きを、俺は今でも覚えている。

 一般的な感性であれば、悲しさを表現する場合は表情を歪ませるものだ。しかし、浪川はそれを視線を向ける先やわずかに開いた口などの細かな要素で表現した。

 言うまでもなく当時の俺と浪川は同じクラスで、浪川に対する印象は友達としゃべりながらよく笑っているというものだった。俗に言うスクールカーストの上位勢だった。だからその絵を見た時に感じた意外性は大きいものだった。


「......誰も見学に来ないな。まぁ、部室で駄弁っているだけじゃあ当然か」


 静かな空き教室に少女と二人きり。シチュエーションとしてはこの上ないものだが、退屈というのは大嫌いだ。かと言って別に野郎共とウェイしたいわけでもない。

 きっと俺は隠居してから人生が楽しくなるタイプの人間なんだろう。


「一応去年先輩たちが描いた勧誘ポスターを掲示板に貼ってはいるんだけどね」


 始業式は午前中に終わったため、俺たちは弁当を食べ終えて部室で新入部員をひたすらに待っていたのだった。

 今は時間にして一時過ぎ。春の陽気のせいだろうか、じわじわと眠気が襲ってきやがった。


「ふぁあ......寝る。お休み」


 昨日の寝てない分を回収しないと、俺は今晩楽しくなれない。血が止まらず骨と骨が過度に当たらないベストポジションを探して腕枕に飛び込んだ。


「ん、私も寝よう」


 するとふぁさぁっと、浪川の髪がぼろく冷たい木の机の表面に広がる音が聞こえた。

 新入部員が来るも来ないも時の運。そう諦めて俺は目を閉じた。




――――――




 ――長時間変な姿勢で寝たからだろうか、体が痛い。ベストポジションだったはずなのに。あれ、聞きなれない声がする。まさか、この部に新入部員がっ!


「あはは、そうなんですね。よかったです、部活の雰囲気がのほほんとしてて」


 顔を上げた先にいるのは新入生の見学者だろうか、その女生徒は机を挟んで浪川と相対するように椅子に座っていた。 


「そうでしょ?だからあそこで寝ている牛さんみたいに――」


「誰が牛さんだ、こら」


 もーぉ。お前も寝てただろーぅ。さすがにこれは俺の表向きのキャラに反するため声に出して言えなかった。


「あ、やっと起きた」


 俺が机に伏した状態で浪川の言葉に口を挟むと、女生徒は俺を見てペコっと頭を下げた。

 最近にしては珍しく行儀のいい子だ。浪川と違って足も閉じて座ってるし。


「えーと、漫研へようこそ。俺はこの部活の副部長の『古谷秀樹』だ」


 字面だけならすっごい優秀そうな名前を、緊張しているであろう女生徒にささやかな立場上の挨拶を添えて披露する。


「ふるや、先輩ですね。初めまして。『橘ひまり』です」


 浪川よりも小柄な橘という少女は、髪形などの見た目や第一印象から感じ取れる雰囲気において、浪川とは対極の存在であると思えた。

 互いに軽く自己紹介を済ませると、まるで何かの舞台装置のように再び窓から生暖かい風が吹いてきた。浪川の長い髪が風になびく。


「そうだ、ひまりちゃんは漫画描いたことある?」


 浪川はそう言うと、席を立って部室の隅にある紙束を持ってきた。


「実はイラストしか描いたことがなくて......これは一体なんですか?」


 よし、食いついてくれた。余程部員を確保したいのか、浪川が珍しく導線を作った。


「これは俺たちや先輩たちが描いてきた漫画だ」


 過去の作品は紙にプリントアウトしたものを纏めて保管していた。活動が活発的に行われていた代では冊子として業者に発注したものを保管していたが、今の人数状況では到底無理だ。部費が足りなさすぎる。


「読んでもいいですか?」


「あぁ」


 橘は紙束をペラペラっとめくると、集中しているからか口が半開きになっていた。可愛い。


「――すみません、この一番最後の作品って......」


「あ、それは去年私と古谷が共同で描いたやつだよ。私の担当はセリフと人物、古谷のは背景とストーリー構成」


 橘が開いているページには、俺と浪川が去年の文化祭で展示するために共同制作した漫画が載っていた。

 タイトルは『願い呪わば彼方まで』。俺たちが全12ページに描いたのは、願う意思が力となる魔法の世界で、紆余曲折あって愛する思いが歪んでしまった魔王の最後だった。

 橘は再び読むことに集中しているのか、また口が半開きになっていた。やっぱり可愛い。


「――読み終わりました。浪川先輩、ありがとうございます」


 ページ数が少ないからか、橘はすぐに読み終えた。橘は紙束を浪川に返すと、満足そうな表情をした。


「ま、感想は後で聞かせてくれると嬉しいな」


「はい。あ、一つ質問いいですか?」


「ん、何なりとどうぞ」


「お二人はいつから漫画やイラストを描き始めたのですか?」


 橘の質問に、俺と浪川は顔を見合わせる。


「いつからかぁ。俺はそうだな......漫画はこの作品が初めてだし、イラストというか模写を中三からひたすらやっていたって感じかな」


 受験勉強そっちのけでひたすら描いていたっけ。おかげでいつも右手の側面は煤で真っ黒だった。とは言えもちろん、合格したのはなんちゃって進学校じゃない、正真正銘の県内屈指の県立の進学校だ。意外と誇りに思っている。


「私も、漫画はこの作品が初めてだね。イラストは......私、昔から授業中にクラスメイトの横顔を描く悪い趣味があってね。いつからかはわからないけど、それを何年間も続けてたって感じかな」


 さすが鬼才浪川来藍。その実力は鍛錬によって得たのではない、センスで掴み取ったと言い切ってみせた。


 俺たちの回答を聞くと、橘は「なるほど」と小さく相槌を打った。


「まぁ、あれだ。漫画は別に描いたことがなくたって問題ないと俺は思うから、興味があればぜひ漫研に入部してくれ。部員が少なくて困っているんだ」


 もし俺たちの言葉のどれかに気に食わないセリフが混ざっていたら大変だ。そう、俺たちには君の力が必要なんだ!我ながら相変わらず、心の中と実際の態度があまりにも乖離しすぎている。


「そうそう。今の部員は私とこの根暗のっぽだけだから、ひまりちゃんみたいな女の子が入ってくれると嬉しいなぁ」


 とても俺を貶しているとは思えないほど優しい声で、浪川は顔の前で手を合わせて橘を見つめた。


「ふふっ、古谷先輩が、根暗のっぽ......ふふふっ」


 浪川の言葉が相当ツボにはまったのか、橘は顔を手で覆っていたが声音から笑っていることが丸わかりだった。いいよな、こういう物静かそうな子が笑ってくれるのってさ。いくらでも笑いものになってやりたい。が、浪川にそう差し向けられるのは別だ。


「おい、浪川。そういうお前は『ぽらん』という不名誉なあだ名があるんだからな」


 報復攻撃を開始。だが予想に反して依然と浪川の表情には余裕があった。


「お、古谷。それで報復のつもり?」


 目を細めていたずらな表情を浮かべて、浪川はずいっと俺に一歩踏み入れた。


「ぽらん......?どういう意味ですか?」


「ん」


 俺は紙に浪川のフルネームを漢字で書くと、橘に見せた。


「これは、浪川先輩のフルネームですか?」


「そう。浪川の下の名前の読み方は『こらん』、そしてこいつの性格は自己中心主義で自由すぎるくらいのマイペース。つまり、『ちゃらんぽらん』だ」


 ちゃらんぽらんなぽらんちゃん。命名したのは浪川の友達か誰だか忘れたが、なかなかのネーミングセンスだと感心したっけ。


「だからぽらんなんですね」


 ――浪川に対する報復を終える。

 すると俺が橘にそう説明したのが不服だったのか、浪川は座っている橘の後ろまで移動すると、まるで俺を非難するような眼差しで見つめてきた。


「ひどいよねー。私がちゃらんぽらんじゃなくてみんなが忙しそうにしているだけなのに」


 おい、ずるいぞ。そうやって俺を敵と認識させて私可哀想でしょムーブをするのは。反則だ!俺だって優勢そうなそっち側に着きたいのに。


「こら、浪川。あまり橘にベタベタするな。困っているだろ」


「んー?だってひまりちゃん、あったかそうなんだもん」


 まったく俺の言葉を聞いていないのがはっきりとわかる返事だった。「――だって」以降の理由らしき供述が全て私欲で埋め尽くされている。そんな浪川はさりげなく橘に腕を回していた。

 ――正直、春にしては厚手の服装や橘のぽわぽわとした雰囲気からあったかそうではあるが。


「ふふ、でも嬉しいです。浪川先輩と仲良くなれたような気がして」


「ほら、ひまりちゃんもこう言ってるでしょ?女の子には女の子なりの仲良くなるやり方があるの。男子は黙って」


 ――ガルルルルゥ。浪川のセリフの最後にそう付け加えておいた。本当に、女子を味方につけた女子の怖さといえばこの上ない。戦略的撤退を余儀なくされた。


「そういう過度なスキンシップが苦手な女子の方が多いと思うんだけどなぁ」


 心ばかりのお返事を浪川に聞こえないようにボソッと一つまみ。

 浪川はすっかり橘のことを気に入った様子だった。橘も、浪川が仲良くなろうとしたがっている雰囲気を感じ取ったのか、本心から嬉しそうにしていた。

 ――これが女子というか、浪川なりの距離の詰め方か。平和だな。見ているだけなら心穏やかだ。


「あ、すみません。私この後バイトの面接があるので......」


 猛獣ぽらんに捕縛されている橘が、身に着けた腕時計を見ると顔を上げて浪川に恐る恐るそう言った。


「おっ、偉いじゃん!それでどこに応募したの?」


「私の実家近くのカラオケ屋です」


 そう言って橘はおよそ北辺りの方角を指さした。


「ってことは、駅の近くか」


 おおよその位置は見当がついた。いつも地形特有の突風にさらされてドミノ倒しになった学生のママチャリが目立つあのカラオケだ。俺もよくその被害に遭っていた。


「何だか古谷がそう言うとストーカーみたいでやだなぁ」


「俺いつそんなことしたっけ」


 まるで橘を俺の脅威から守るように、浪川はぎゅっと橘に回した腕を押し当てた。浪川の中での俺の評価ってもしかしてかなり悪いのか?


「まぁ、放してやれよ。可愛い後輩が面接に遅れたら大変だろ?」


 すると浪川は僕の言葉に返事することなく橘を解放して机の上に置かれた紙を一枚持ち出した。


「ひまりちゃん、これ入部届だから、もしこの部に入りたいなーって思ったらここの空欄をすべて埋めてこの教室に持ってきてね」


 てきぱきと、そう言って浪川は橘に説明と共に入部届を手渡した。


「ありがとうございます。今日一日考えたうえで入部を決めますので、その時はよろしくお願いします。先輩」


 天使のような笑顔を向けられて、浪川は感激したように僕を見た。僕も至近距離であれをくらっていたら同じようにキャパを超えた感情を誰かにぶつけたくなるだろう。


「まぁ、気になることがあればいつでも聞きに来てくれ。入部期限はないんだし、ゆっくり考えるといいよ」


 何とも副部長らしい優しさ溢れる言葉であることよ。おそらくこの感じからして橘は入部してくれると思うが、一応念のためにこう言っておいた。


「はい。今日はありがとうございました。では私はこれにて失礼します」


 橘は一礼すると開きっぱなしの扉に手を掛けた。


「うん。バイトの面接頑張ってね!ひまりちゃん」


「はい。では」


 手を振る浪川にぺこりと頭を下げて橘は廊下の奥へと消えていった。すると先ほどまでの賑やかさからか、途端に静けさが際立つような感覚になった。まるで俺が想像する倦怠期のカップルのそれと似たような空気感だった。


「......浪川、これから何か予定でも?」


「私は友達が多いから、古谷と違って」


 あるないの返事じゃなく棘のある心ない言葉が返ってきた。何だか今日の浪川はいつもよりもつんけんしてる気がする。そんなに俺と久しぶりに会ったのが嬉しかったのか?


「じゃあここに長くいない方がいいな。鍵当番はお前だし」


 この部室の鍵を持っているのは浪川だ。だからこの部室が開いているということは浪川がここにいるということでもある。さすがにこれ以上ここにいて浪川からよーく効くありがたい言葉を受け取っていると、そのありがたみが薄れてしまうような気もしたので帰ろうと思った。


「まぁ、私はもう少しここに残るけど、古谷は?」


「俺は帰れるのなら早く帰ってあれこれしたいからな、げへへ」


「......不潔」


「ん?一体何をご想像でいらして」


 そんな他愛のないやり取りをしながらも、俺は着々と部室を出る準備を済ませていた。脱いだ学ランを着て、筆記用具をしまって、財布はあるしスマホもある。家の鍵とチャリの鍵もよし。完璧だ。明日は土曜日。何をして過ごそうか。


「そんじゃ、俺はこれにて――」




【――瞬間。『空気』が、書き換わった】




「――待って!」


「ん?」


 突然、浪川は扉に手を掛けた俺を席から立ちあがって呼び止めた。


「......」


 呼び止めておいて、その静けさは一体何なのだろうか。

 今日は誰か舞台装置係でも雇っているのか、待ての声に反応するように全開の教室の窓に風が差し込みカーテンがはためいた。

 散り掛けの桜の花びらが、一枚二枚と部室の床の上を舞い散った。


「どうした、浪川」


「......」


 どこか、浪川は緊張した面持ちで俺を見ていた。まるで何かを急に思い出して心配になったような、そうでもないような。

 日の光で白んだ窓辺が逆光となって、立ち上がった浪川は影を滲ませるように映っていた。


 ――嫌な気配がした。


「ねぇ、古谷。古谷ってもしかして――」


「――あっ、電話だ」


「......えっ?」


 浪川の会話を遮るように、マナーモードのスマホのベルが的に鳴り響いた。

 俺はスマホを取り出して、通話終了ボタンをタップした。


「すまん、すぐに来いってゲーム仲間の呼び出しくらった!それじゃあ!」


「えっ?ちょっと古谷っ――」


 扉を勢いよく閉め半ば強引に浪川との会話を断ち切り、俺は一人廊下を早足に突き進んでいった。

 始業式はとっくの前に終わったというのに、校舎中は新入部員を勧誘する『顔無き顔』で埋め尽くされていた。


「おっと、すんません」


 途中曲がり角で『顔を花弁に挿げ替えた教師』とぶつかりかけた。浮かべる花を変化させて何かを俺に対して言っていたが、俺には花言葉がわからないので理解できなかった。


「にしても、ほったらかしにしといただけあって新入生が多いな」


 ――俺はやっとのことでモブひしめく騒がしい校舎を抜け、外へと出ることができた。


「......やっぱりお前か」


 すると校門を抜けた先、一つの人型をした影がぽつり俺を見ていた。だが影は瞬きを一度するとあたかも初めから存在していなかったかのように姿を消した。

 今目に映るのは、顔無き顔の群れと夏のようにコンクリートを茹る暑さだけだった。まだ四月だというのに、学ランを着たことを後悔していた。


「さて、汗かき上等だ――」


「――あれ、古谷だ。もう帰るのー?」


 突如背後から声を掛けられる。振り返ると、体操服に身を包んだ現実には存在しないはずの銀髪を生やした女生徒が俺を見ていた。銀髪蒼眼に透き通るほどの白くしなやかな体格。とても生徒会運営班に所属しているとは思えない運動部顔負けの身体能力を持った同級生――『有佐ありさ途乃香とのか』は、頬と首筋に汗を垂らしながら首に掛けたタオルでそれらを拭った。


「そうだ。てか、なんで体操着なんだ?それに運動でもしてきたみたいだし」


「あー、バスケ部がランニングしてるとこを見たらつい走りたくなってねー。どう?古谷も一緒にって――あーっ!逃げた!」


 逃げたのではない。やるべきことがあるから帰るのだ。

 有佐と話しているといつの間にか山を登らされたり、あてもなく自転車で旅をすることになったりと、大変な目に遭うので逃げただけだ。

 ――訂正する。やっぱり、俺は逃げていた。


「もう......。じゃあねー!ふるやー!また来週の月曜日ー!」


 俺は振り返ることなく右手を大きく振って返事をした。

 目指すは駐輪場。朝早くから確保しておいた一番校門に近い場所に置かれた愛自転車『シューティング・スター号』に鍵を差し込み、心のエンジンを掛けた。


「ったく、いつもは急かさないくせに」


 野球部らしき顔無しの隊列が横切るのを待って俺はペダルを踏みこんだ。男はいつだってギアは上から二番目。体を横に揺らしながら奴の待つ自宅を目指していった。

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