5

この信号を渡れば駅だ。赤信号に感謝しつつ永遠に赤のままであってくれなんて馬鹿げたことを思う。もう少しで信号が変わる。そんなタイミングで俺が惚れてしまった魔性の女は俯いたまま身を寄せて言った。



「も、もう少し、一緒にいたい…です…。」



完敗だ。理性は欲望に負けた。そして男として美玲に負けた。腰に回していた腕に力を込めてさらに体を密着させる。耳元に口を寄せて周りに聞こえないよう問う。



「俺んちでいいですか?」



声を顰める必要などないのだが周りに聞かれたくなかった。それは恥じらいなどではない。これは2人だけの『始まり』のきっかけになる大切な確認なのだ。

美玲が頷いたのを確認すると俺は美玲の手を掴んでそのまま地下鉄の入り口へと向かった。金曜日、繁華街、この時間と条件が揃えば空いているホテルを探す羽目になる滑稽な光景が目に浮かぶ。美玲の想定とは違うかもしれないが、家の方が利口だ。


電車に乗り込むと美玲を壁側に立たせてその前に立った。もう必要ないのに掴んだ手を離せずにいた。無言のまま互いに俯いている間に時間が過ぎていく。電車には20分弱も乗るというのに、もう何駅かで着いてしまう。そんなタイミングでまたこの魔性の女は言うのだ。



「黒田さん、手大きい…。」



まるで今気づいたかのように掴まれた手を持ち上げて俺の手をじっと見つめている。そりゃ身長からして俺の方が大きいに決まってる。何を今更。やっと離せずにいた手を離して必死に平然を装おうとする俺を他所に、今度は美玲が両手で俺の手を掴んだ。促されるまま手を開けば、そこに自分の手を重ねる。



「わ、全然違う…。」



確かに俺の第一関節までしか美玲の指先は届かなくて、大きさが大分違う。というか、本当に勘弁してくれ。よくある「わ〜! 〇〇くんの手大きい〜!」ってやつなんだろうか。美玲の場合素でやっていそうなのがタチが悪い。いやこの場合よくあるヤツでも今の俺には効果抜群すぎる。超効く。マジで勘弁してくれ。



「何かスポーツやってました?」

「バスケ…。」

「背高いですもんね…。」



俺の手をまじまじと見つめながら呑気に喋り始めた美玲に困惑する。なんで急にそんな普通なんだ。まともに顔を見れなくて盗み見るように美玲を見ると、酒のせいか思っていたよりも顔が真っ赤だった。



「ふっ。」

「へ?」

「顔真っ赤。」

「あ、お酒飲むとすぐ顔に出ちゃうんで…。」



美玲は恥ずかしそうに笑った。俺の手を離すして自分の手の甲を両頬に押し当てるとまた可笑しそうに笑う。



「本当だ、ほっぺすごく熱い。」



もうなんだっていいや。喜んで絆されよう。どうしたってもう俺の方はベタ惚れなんだ。今はただ一緒にいるこの時間が愛しい。

電車を降りる頃には少し酔いが冷めたらしく、人が少なくなったことも相まってか美玲の足取りはしっかりしていた。


コンビニに寄りたいと言う美玲は何を買うつもりなんだろうか。というのも、さっきからずっと考えていた。俺は絶賛そのつもりなわけだが、美玲の意思を確認していない。いやあんな風に言われたらそう受け取って問題ないはずだが、目の前で避妊具を買うのはその気満々すぎないか? とはいえ全くの想定外で在庫を切らしている。ビール棚を見ながら全く違うことを考えていると、お茶を持った美玲が戻ってきた。



「いる物ありました? 手土産代わりに一緒に買いますよ。」

「や、えっと。」



とんでもないことを言い出す。これで1人でレジに行くのが困難になってしまった。むしろ俺が買うからコンビニから出て待っててくれ…とは時間的に言いたくない。美玲は唸って悩む俺に首を傾げて「お菓子見てきます」なんて言って離れていった。

勘弁してくれの連続すぎて頭が爆発しそうだ。俺ってこんな恋愛下手だったか? いや待て…。そもそもこんなに順番をすっ飛ばしたこともなければ、こちらからなんてないかもしれない。恵まれていた自分に気が付いて、そして諦めた。いざとなったら風呂に美玲を押し込んでダッシュで買いに来よう。

結論に至れば話は早い。しかしお菓子売り場に向かうも美玲の姿がない。コンビニ内を一周すると美玲は化粧品売り場にいた。



「玉寄さん?」



不思議に思って声をかけながら美玲の視線をたどると、その先にあったのは宿泊用のスキンケアセットだった。



「あ、えっと、いる物ありました?」



ペットボトルを握り締めながら言う姿は明らかに動揺していて、その手は微かに震えている。酔いが冷めてきて自分の発言を後悔しているんだろうか。その姿を見たら我が儘な自分が顔を出した。



「特には。玉寄さんは、他は?」



見ていた物が何か分かっていてそんなことを言うなんて、なんて意地の悪い。「もう少し一緒にいたい」と言われた段階で、口調から美玲がどれだけ勇気を出してくれたのか分かったのに。

少し俯いた美玲のペットボトルを握る手にさらに力がこもる。俺は狡い。この期に及んで美玲に選択権があるように見せている。逃げ道なんて塞いでしまえばいいのに、敢えてそれが残っていると見せているのだ。



「家、スキンケア用品ないですよ。」



元々もう帰す気などないというのに。後ろから通り過ぎざまに片腕を美玲の腹に回すと美玲は完全に固まった。



「じゃ、あ、これ…。」



震える手で取ったそれとペットボトルを美玲の手から抜き取ると、流れで避妊具も手に取ってレジへと向かった。会計を終えても美玲は来なくて、化粧品売り場に戻ると先程の場所で固まっていた。



「玉寄さん。」

「あ、はい! あ、お金…!」



なんて慌てる美玲の手を取ってコンビニを出た。



「黒田さん…!」

「少しくらい甘えてください。一応上司なんで。」



うわ。自分で言ってダサさにゲンナリした。こんな時に役職を持ち出すなんてダサすぎる。「ありがとうございます」なんて返す美玲も美玲だ。でももうこれで、遠回りながら意思確認は完了だ。

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