第10話 私たちの普通
顔合わせが終わってから、二人でお互いの両親を駅まで送った。実家の方向が違うが、レストランの最寄り駅までは一緒だった。
四人を見送って、姿が見えなくなるとどちらともなく深く息をついた。
「今日はありがとうね、紗奈ちゃん」
「シノさんこそ、お疲れ様」
「紗奈ちゃんこそ。結構疲れたんじゃない?」
「それはシノさんでしょ。無理してなかった?」
そう言った途端だった。
「あー、もう! こんな服、今すぐにでも脱いじゃいたいわよ!」
爆発したようにシノが叫んだ。道行く人が数人振り向いている。
「シノさん、シノさん。落ち着いて」
「はっ、ごめんなさい。つい。慣れない格好すると駄目ね」
口調がさっきまでの作ったような男性のものではなく、いつものシノに戻っていて、格好はそのままなのに紗奈子はなんだかほっとした。
「その格好もかっこいいと思うけど」
だから、軽口を叩くことが出来た。
「あら、そう?」
「でも」
一目、男性の姿を見たときから紗奈子が思っていたことがある。
「いつものシノさんの方がずっとずっと素敵に見える。うん。あっちの方がすごく似合ってる。シノさんって感じがする」
思ったより力が入ってしまった。ふんっと鼻息が荒くなってしまう。どうしても伝えなければと思ったのだ。
「だって、すごく無理してる感じだったから。私は、いつものシノさんの方が好き。いつものシノさんの方がかっこいいに決まってる。シノさんらしくてすごくいいと思う」
断言する。
一呼吸置いて、シノは噴き出した。
「え、何? 私、何かおかしいこと言った?」
「違う。違うのよ」
端正な顔をくしゃりとさせて、シノが泣き笑いのような表情になる。
「ありがとう、紗奈ちゃん」
その少し震えた声に、シノが本当に泣きそうなのだということが紗奈子にはわかった。
「大丈夫? シノさん」
「うん。大丈夫。ちょっと歩きましょうか」
そう言ってシノは歩き出す。
「紗奈ちゃんは、ちゃんとわかってくれるのね。アタシが無理してたってこと。アタシの親ってああでしょ。アタシが男の格好して、しっかりした人間な方が安心する訳よ。いつものアタシじゃ、安心出来ないってそう思ってるのよ。それに、こっちの格好の方が無理してるなんて思っても無いの」
シノが空を仰ぐ。
「母が言ってたみたいにね、私の兄は本当にしっかりしてるのよ。普通にしっかりしたところに就職して、普通に結婚して子どももいて。びっくりするくらい普通でちゃんとした人間なの。ま、そういう兄がいてくれて安心っちゃ安心なんだけどね。だって、アタシ、こんなんでしょ? うん。だからね。今日はもう思いっきり騙してやろう、見せつけてやろうってって思った訳よ。結婚して真っ当な男になりますってね。これで文句なんて言わせないって、そんな感じ」
シノが振り向いて悲しそうに笑う。そして、すぐに前を向いてしまう。
紗奈子は、シノにどんな声を掛けていいのかわからなかった。シノと知り合ってこれまで、色々と話をしてきた。だけど、シノがそんなことを考えていたなんて知らなかった。
こんなに普通を連発するシノも初めてだ。
「普通って何」
思わず言ってしまう。知らず、語調が荒くなる。
「普通ってそんなにいいこと?」
言ってしまってから思う。紗奈子にそんなことをいう資格があるのか、と。
紗奈子だって『普通』に捕らわれていた。
普通に結婚して両親を安心させようと思っていた。
普通にシノが男性の格好をしてきてくれて正直ほっとした。
普通に見られたくて、見た目だけでも普通の女性みたいに生きたくて、こんなことをしてしまった。
そんな紗奈子が、シノにそんなことを言っていいのか。
だけど、
「そうね。うん。普通がいいとか悪いとか、そんなのアタシにもわからない」
シノは言った。
「でもね」
シノが続ける。
「いつもの格好が私にとっての普通なのよ」
その言葉はすとんと、紗奈子に胸に落ちた。
「普通って人によって違うのよ。それが普通なの。でもね、その誰かの普通を人に押しつけることで人を不幸にすることがいけないことなんだわ」
紗奈子は頷いた。他の人の言葉なら全く響かなかったのかもしれない。だが、今日のシノを見て、その後でのこの言葉だ。
シノのことを誤解していた。強い人だと思っていた。ただ、自分の好きなことを周りに流されないでやっている人なのだと。憧れてもいた。
強い人だという印象は変わらない。だが、それだけではない。脆い部分だってあった。それを包み隠して、尚強いのだと知った。
「嬉しかったわ。紗奈ちゃんが、いつものアタシの方が素敵だって言ってくれたこと」
すっと歩く速度を落として、シノが紗奈子に並んだ。それからにっこりと笑う。
「それは、本当にそう思ったから」
「そういうところよ」
「そういうところ?」
思わず聞き返してしまう。
「アタシってこんなんでしょ? だから、どうしても人から少し距離を取られることも多いのよ。でも、紗奈ちゃんは最初から普通に接してくれたでしょ。名前だって、アタシが呼んで欲しいって言った名前ですぐに呼んでくれた。シノさんってね。茶化したりもしなかったでしょ?」
「そうだっけ?」
「だから、それが嬉しかったの。紗奈ちゃんって、偏見みたいなもの、あんまり無いじゃない。ちょっと淡々としてるとこあるけど。登録の写真もね、男の姿にしたらどうですかって西原さんには言われてたの。でも、しばらくは普段通りのアタシでやってみようって思ったの。西原さんはちゃんと同意してくれたわ。だって、契約って言っても一応は結婚だもの。私のことを理解してくれないような人とは出来ないわ。話し合いだってろくに出来ないかもしれないもの」
シノが微笑む。その笑顔が男性としても魅力的なのではないかと思ってしまったが、紗奈子は口に出さなかった。
前に西原に言われたとおり、話し合いも出来ないような人とは結婚できない。それが契約結婚であったとしても。それは紗奈子だって同じだ。
「シノさん、私のこと買いかぶりすぎ」
そこまで言われるとさすがにむずむずしてくる。
「さっきの言葉を借りるなら、それが私の普通ってだけ」
紗奈子が言うとシノは笑った。
「それより、色々悩んだりしながら自分のやりたいことを貫き通してるシノさんの方がすごいと思うけど?」
「あら、でも今日は曲げちゃったわよ」
「今日のは曲げたって言わないでしょ。私からは戦ってるように見えた。すごくかっこよかった、シノさん。あ、男の格好が、じゃなくて戦ってる姿が、ね。それとさっきから素敵だって言ってるのは格好だけの話じゃないからね。生き方、みたいなものかな」
「ま! 今度はこっちが恥ずかしくなってくるじゃない」
シノがぱたぱたと顔を仰ぐ仕草をする。
嘘じゃない。自分の居場所を守ろうとして戦うシノは本当にかっこいいと思った。男としてとか女としてとか、そんなものは関係ない。人間として、だ。
「だから、契約結婚とかしちゃうのも私たちの普通じゃない? それと」
どうしても、シノに伝えたいことがあった。
「さっきはありがとう。お父さんに言ってくれたこと。すごく、嬉しかった」
「だって、女だから男だからなんて、そんなことで性格なんて変わらないってアタシはよく知ってるもの。でも、きっと紗奈ちゃんのお父さんにとってはアレが普通の考え方なんでしょうね。でも、アタシ達はまた違うんだもの。お互いに得意なことなんて違うに決まってるじゃない? そんなの当たり前よ」
さらりと、本当に当たり前のようにシノは言う。そんな当たり前みたいにシノのくれた言葉が、紗奈子にはとても嬉しかった。
「ね、シノさん」
紗奈子は出来るだけ明るい声を出す。
「何か甘いもの食べに行かない? いいお店だったのになんだか食べた気がしなくて。あの状態じゃ味わってる余裕も無かったから」
「あら、いいわね」
シノの顔がパッと輝く。
紗奈子は、幼い頃によく遊んでいた女友達とするようにシノと目を見合わせると、二人で子どもみたいに笑った。
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