SWing

とべあきら

第1話  SWing 

 うだるような暑さ、窓から差し込む日の光、そして、そこかしこから聞こえる蝉の声。日が昇りきってからようやく始まった僕の睡眠は、それらの妨害によって、あっけなく終わりを迎えた。

 Tシャツは汗でぐっしょりと濡れ、ところどころで肌に張り付いて気持ちが悪い。空気はカラッとしていて、風は少しも吹いていない。入道雲の浮かぶステレオタイプな真夏の空は、毎日飽きもせずに晴れ渡り、暑さと不快感を日本中にばらまいていた。

 枕元に転がったスマートフォンを見ると、時刻は間もなく十六時になろうかというところだった。ふと、本のページをめくる音が聞こえ、僕は驚いて体を起こした。

「ああ、起きたの?」

 僕の机に座って漫画雑誌のページをめくっていたのは、幼馴染のイサムだった。こんなにも暑い日だというのに、ワイシャツには汗のしみひとつなく、タータンチェックの制服のズボンも、まるで新品かのように、皺なんてどこにも見当たらなかった。

「……人の部屋で、何してんだよ」

「これ、届けに来ただけ」

 イサムはそう言って、立てかけたラケットバッグからプリントの束を取り出して、机に置いた。

「……いつも悪いな。ありがと」

 薄い青緑のフレームの眼鏡の奥で、一瞬だけイサムと視線が合った。まっすぐに見つめてくるそれから逃げるように、僕は慌てて目を逸らした。

「それよか、部活は? 大会があるって言ってなかったっけ」

 居心地が悪くなって、僕は話題を変えた。

「次が県大会。でも、今日は先生からプリントを渡すように頼まれたから、休んできた」

 事もなげに言うイサムに、僕は返す言葉を見つけられなかった。この時ばかりは、沈黙をかき消してくれる蝉の声がありがたかった。

「ねえ、ヒロ。明日は、学校来る?」

 その言葉に、胸の奥で何かが痛んだ。起きたばかりで喉はからからで、声が出なかった。うまく返事ができなかったのは、そのせいだったに違いない。


 その夜、僕は夢を見た。幼い頃の夢だった。今よりももっと空が高くて、もっと世界が広かった頃だ。

 僕は家のタンスからタオルを取り出して首に巻き、公園で見つけた長い木の枝を振り回していた。まだ世界を何一つも理解していないヒーロー気取りは、枝切れひとつで本当に世界を救えると思っていた。

 イサムと出会ったのも、ちょうどその頃だった。近所の公園で、イサムはよくいじめられていた。ビニールのシャトルとおもちゃのラケットを使って、一人でバドミントンをして遊ぶイサムの姿は、ほかの子供たちからは、少し異質に映ったのだろう。

 ヒーロー気取りだった僕は、そんなイサムを助けなければと、正義感に駆られていた。


 思ったよりも、寝覚めは悪くなかった。夕方まで寝ていたにも関わらず、昨晩はぐっすりと眠ることができた。夜の間にうまく眠れたのは、久しぶりのことだった。

 着替えてリビングに降りると、母さんは僕の姿を見て固まっていた。無理もなかった。僕が最後に学校に行ったのは、もう二か月も前のことだったのだから。


 家を出て、道順を思い出しながら通学路を歩く。相変わらず蝉の声はうるさかったが、暑さの方は幾分かましだった。

 小さい頃からヒーローに憧れていた僕は、将来本気でそれになれると信じていた。しかし、小学校を卒業して中学に上がると、僕を取り巻く環境は一変した。一つや二つ年が違うだけの人間を先輩と呼び、敬語を使わなければならず、テストでは順位を付けられるようになった。周りと同じ制服を着させられ、将来の夢を語るよりも、どんな高校に進学するかの方が重要視されるようになった。僕にとって、それは窮屈でたまらないことだった。

 それでも、なんとか我慢して、中学校は卒業することができた。いつの間にかよく笑うようになったイサムと同じ高校に進学し、しばらくはそこにも通っていた。

 しかし、僕の心が限界を迎えるのに、そう長くはかからなかった。入学してすぐの自己紹介で、将来はヒーローになりたいと言った僕を見たクラスメートの視線は、一生忘れることはないだろう。


 気づけば、僕はもう校門の目の前まで来ていた。まとわりつくような嫌な汗をかいていたのは、暑さのせいだけではなかった。

 周囲を歩く生徒たちの声が、いやに大きく聞こえる。知っている顔は一人もいない。僕は地面を見つめたまま、足を前に出すことだけに集中することにした。

 世界は目まぐるしく変化している。そこはまるで、僕の理解のすべてを超越した、異世界であるかのようだった。そこでは、僕だけが異端であった。


「ヒロ、来てくれたんだね」

 聞き慣れた声がして、机に突っ伏した顔を上げた。そこには、隣のクラスにいるはずのイサムの姿があった。

「……なんでいる」

「そりゃいるよ。同じ学校だもん」

「クラス違うだろ」

「昼休みだし、ちゃんと来てるか心配で、見に来たんだよ。どうせ、弁当持って来てないでしょ?」

 総菜パンを片手に、イサムが屈託のない笑みを浮かべた。僕はそれをひったくって、また机に突っ伏した。

「俺からの奢りだから、気にしなくていいよ。ヒロが学校来てくれた記念」

「気分わりぃよ、その記念」

 半分だけ顔を起こして見ると、イサムはまだ笑顔を浮かべていた。

「イサム、俺といると浮くぞ」

「気にしないよ。俺が一緒にいたいから、こうしてるんだ」

「……お前、変わったよな」

「ヒロのおかげだよ」

「んなわけあるか。俺なんか、何の役にも、誰の役にも立たねぇよ」

「そんなことないよ。少なくとも俺にとって、ヒロはいつまでもヒーローなんだから」

「……やめろよ」

「部屋にこもってないでさ、学校来なよ」

「やめろって!」

 賑やかだった昼休みの教室が、途端に静まり返る。僕が机に手を叩きつけて大きな音を出したせいだとすぐに気付き、後悔する。

「……ごめん、ちょっと無神経だった」

「……俺、一人で食うわ。怒鳴って悪かった」

「ヒロ、ごめん。でもさ、そんな暗い顔してないで、笑おうよ。毎日笑って過ごせば、辛いことなんて、なんとかなるよ」

 それは、かつてどこかの世間知らずなヒーロー気取りが、気弱ないじめられっ子に言った言葉だった。


 長い一日が終わり、ようやく放課後となった。すぐに帰宅してもよかったのだが、昼休みのこともあったので、僕はイサムの部活動を少し覗いてみることにした。

 体育館の中央にあるコートでは、顧問らしき教師が、イサムにノックを上げているところだった。一年生ながらに団体戦レギュラーで、エース。それが、かつていじめられっ子だったイサムの今だった。先日行われた市の大会では、個人戦で優勝したらしい。女子生徒が熱い視線を送っているのも、イサムにレギュラーの座を奪われたであろう先輩部員が、憎しみを込めた視線を送っているのも、その理由は想像に難くなかった。


 十八時半を回った頃、イサムがようやく校門に姿を見せた。太陽はようやく沈みかけて、魚の鱗のような雲が浮かぶ空を、オレンジ色に染め上げていた。部活動帰りの生徒も、もうほとんどいない時間だった。

「あれ、ヒロ。どうしたの?」

「……昼間のアレ、ちゃんと謝ろうと思って」

「いいよ。俺だって悪かったんだし」

「そういうわけにはいかねぇよ」

「……うん」

「イサム、制服は?」

「部活終わってから着替えるの、面倒くさくて。だから、ジャージのままなんだ」

「……そっか」

 本当かとは聞けないままに、どちらからともなく、僕たちは歩調を合わせて歩き出した。家に来るたび新品同様だった制服が、頭をよぎる。

「なんで、いつも笑ってんだよ」

「何さ、突然」

「お前、無理してないか?」

 僕の問いに、イサムは答えなかった。

 しばらく沈黙が続いたところで、イサムが口を開いた。

「……俺は、待ってるんだ。ヒーローを」

「ヒーローなんて……」

 その言葉の続きが、僕の口から出ていくことはなかった。胸の奥にこみあげる何かを押し止めて、僕は言った。

「……来るといいな」

 西日に照らされて、僕とイサムの影が長く伸びて、ゆらゆらと揺れていた。何故だかそれを見ていられなくなって、僕は空を見上げた。眩しいくらいのオレンジ色の光が、僕の瞼の中できらきらと反射して、いつまでも輝いていた。

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