第3話 手紙には物語を添えて

 俺はお爺ちゃんが部屋を出た後、ベッドの上に正座して、届いた茶封筒を急いで開けた。

 中には手紙が入っているのであろうひまわり柄の封筒と、味気ない白く薄い封筒に入った、本らしきものがあった。

 俺はまず本から取り出した。新刊の小説のようだ。

「『オリオンの夏休み』ねえ……聞いた事無いな。笹木美佳って誰だっけ?」

 笹木美佳という作家の名前には僅かに聞き覚えがあった。とりあえず本は枕の上に置いて、手紙の封を開ける。その瞬間、封筒の柄であるひまわりの香りだろうか、中からいい匂いがした。

 中には便箋が二枚。パッと眺めた時、読みやすく整ったその字は大人の女性が書いた物だと感じたが、読み進めるとそうではないようで驚いた。


 ☆ ☆ ☆


 カケル様

 初めまして。私は森川夕夏もりかわゆうかといいます。中学二年生です。岐阜県の可児市……ってわかりますか? わからないですよね。かに市って読みます。田舎です。もしかしたら岐阜県もわからないかもしれませんよね。名古屋のある愛知県の北なんですよ。

 突然こんな手紙と本が届いて、驚かせてしまったかもしれません。実はカケルさんが飛ばした風船に付いていたメッセージカード、拾ったのは二年前なんです。二年前に飛ばしたのでしょうから、当然ですよね。

 でも、お手紙書くのが恥ずかしかったですし、なんて書いたらいいのかわからなくて。それでもなんだか捨てるわけにもいかず、ずっと机の引き出しに仕舞っていました。

 それで、なぜ今になってお手紙を書いたのか。まず、それを説明しようと思います。

 私は去年、一番仲が良かった友達とケンカして、一年近く話もしないようになってしまったんです。そんな時に読んだのが、笹木美佳さんの「オリオンの夏休み」です。

 とても素敵なお話でした。物語は男の子同士の友情が書かれていたんですが、私にもすごく共感できるところが多くて。それで、どうしてもこの物語をケンカしている友達にも読んでもらいたくなって。そんなきっかけで仲直りができたんです。

 それ以来、私たちは、この物語の主人公の名前を、お互いのニックネームにして呼び合ったりしたんですよ。

 それでですね、なんだか私も友達も、この本のおかげで成長できたような気がするんです。そんな時、カケルさんのメッセージカードの事を思い出しました。

 ――早く大人になりたい。

 初めて見た時、なんだか切なかったです。あのひと言が、私の胸にもずっと刺さっていました。私も早く大人になりたかった。いいえ、今でも早く大人になりたいと思っています。

 ですから、物語が好きな私が、カケルさんにも読んでもらいたいなって思った本を、プレゼントさせてもらえたらなって思ったのです。

 迷惑だったら言ってください。本、読むの嫌いな男子多いですもんね。でも、良かったら読んでみてください。

 小学生の頃の先生が言っていました。「物語は、読み終わったらそれで終わりではありません。読んだ人の心の中で、物語は成長を続けます。そして、読んだ人の成長も助けてくれます」って。

 でも、風船を見つけてから二年が経ってしまっています。もしかしたら、私なんかよりずっとカケルさんは大人になっているかもしれません。繰り返し言いますが、迷惑だったら言ってくださいね?

 あと、図々しいようですけど、お返事を一回は貰えると嬉しいです。安心します。本読んだ感想も聞けたら嬉しいです。

 この物語がカケルさんの中でも成長していきますように。

 それではまた。勉強、部活(何してるのかな? 私はソフトテニスです)がんばってください。

 森川夕夏より


 ☆ ☆ ☆


「心の中で成長する物語? なんだよ、それ」

 俺はなんだかその言葉にピンと来なかったし、本を読むのも正直面倒だなと思った。でも、この森川さんが想像した通り岐阜県の場所さえ知らなかった俺にとって、やっぱり知らない遠くの土地で暮らしている女の子は、とてもミステリアスで魅力的な感じがした。

「読んでみるか……」

 先に返事を書きたい気持ちはあるけど、本を読んで少しでも感想を書かなくちゃみっともない気がする。柔らかい枕に沈んだ本を持って、俺はその物語の世界に足を踏み入れた。


 最後まで読み終えると、不思議な感覚になっていた。

 今までこんな本なんて読んだ事もない。読書感想文の宿題なんかも、全部は読まず、適当にページを開いて、そこにあったセリフを写したり、適当な事を書いていたりした。

 漫画じゃない本なんて、退屈なだけだと思っていたのに。何だろう、この感覚は。

 最初から引き込まれた。教科書なんかと同じ文字で書いてあるとは信じられないほど、それは美しかった。なぜそう感じたのか分からないけど、文章が一枚の……いや、連続して表示されるスライドショーの美しい写真の様に広がっていた。

 文字しか見てないはずなのに、目の前には無限の空間が展開されているようだった。

 時計を見ると、読み始めて二時間が経っていた。あっという間だ。ゲームをしている時よりもあっという間に過ぎていった時間。

 その物語は、海人かいと雪人ゆきとという二人の男子が、その運命と闘いながら友情を育てていくような話だった。正直現実にはあり得ない話の連続だった。それなのに、俺は共感して、切なくなって、感動した。

 俺の中では、物語が終わった今も、海人や雪人たちが成長しているのだろうか。それはまだ分からないけど、確かにこの物語の登場人物たちとずっと一緒に居たい、そう願っていた。


 ☆ ☆ ☆


 森川夕夏様

 お手紙ありがとうございました。それにこんな素晴らしい本まで。

 正直びっくりしました。僕は漫画ばっかりで、小説なんか読んだ事ありませんでした。森川さんの先生が言ってたって言葉、なんとなく分かる気がしました。本当に僕と一緒に成長していくような気がしました。

 その理由を考えていました。

 僕は漫画が好きでいつも漫画を読んでいるんだけど、小説は絵が無いですよね(当たり前か)。それが逆に良いんだと思いました。

 絵が無いからどんな世界か、どんな顔をしているか、自分で想像するしかないです。だから余計に心の中に海人や雪人が入って来ます。違うかな? て事は、同じ物語を読んでも、森川さんの中のキャラと、僕の中のキャラは違うかも。そう考えると、ちょっと不思議でした。

 実は、僕も友達とケンカしました。いや、ケンカって言うほどじゃないと思うけど、気まずい感じです。学校も二日連続でサボっています。

 部活、陸上部なんだけど、それはサボった事あるけど、学校をサボったのは初めてです。ちょっと行きにくくなっちゃって。

 でも、明日、この本を持って、学校に行こうと思いました。その友達にも読んでもらいたいからです。友達はゲームバカだけど、小説を初めて読んだ僕でも、面白くてあっという間に読んじゃったから友達も読んでくれると思いました。

 あ、感想、書いてないですね。書きます。

 僕がもし海人だったら、雪人を許せなかっただろうなと思いました。逆に、雪人だったら、海人から逃げていただろうなと思いました。僕は自分の本音をハッキリと言えません。何が本音かも分からないかもしれません。二人は、自分の本音も、相手の本音も、しっかり分かり合えたから、夏休みの最後の朝に、オリオン座を見れたのだと思いました。

 どこかで少しでもずれていたら、二人は殺し合ってたんですよね。そうならなくて本当に良かったと思いました。いつか、雪人が地球に帰ってきて欲しいなと思います。

 では、また手紙書きます。本当にありがとう。

 カケルより


 ☆ ☆ ☆


「ふう」

 便箋の代わりに切り取ったノートへと書き綴った、俺が生まれて初めて書いた手紙は、必死に言葉を絞り出したにもかかわらず、ノート一枚分と少しで終わってしまった。

 それを何度も読み返し、おかしな所がないか確認した。

「なんかバカっぽいな」

 普段文章を書かないから、何がどうバカっぽいかもわからなかったが、これしか書けないのだから仕方がない。

 二枚の紙を三つに折り、机の上に置く。

「お婆ちゃん、封筒ある? あと切手も」

 部屋を出てきてそう言った俺に、一瞬驚いたお婆ちゃんだったが、すぐに笑顔になっていた。まっすぐ俺の目を見て。


 翌朝、カバンに手紙と「オリオンの夏休み」を入れる。

 教科書はほとんど学校のロッカーの中だ。

 リビングからトースターの焼き上がりを知らせる音が聞こえる。着替えを済ませた俺は、部屋のドアを開けた。

 コーヒーの香りが眠っていた頭の神経を一斉に働かせ始める。実際にコーヒーの香りや、カフェインには脳を活性化する働きがあるらしい。でも俺の場合、それが成績には直結していないようだ。

 もう一度大きく息を吸った。

 昨日泣いた後にあれだけ動くのを拒んでいた横隔膜が、スムーズに下へと膨らむ。肺胞のひとつひとつにコーヒーの香りが行き渡るのを感じた。

「おはよう」

 お爺ちゃんも、お婆ちゃんも笑っていた。

「おはよう」

 朝だな、と思った。


 いつもよりも一本早いバスに乗った。バスを降りて、まだ涼しい空気を頬に受けながら早足で歩く。バス停から学校まで一キロ近くある。それも上り坂。普段は億劫なその坂道も、今日は踏み出す足が軽い。

 バス停から校門まで、クラスメイトの誰とも会わずに着いた。いつもより三十分も早い。

 教室に入ると、まだ五人しか来ていなかった。

 いつも遅刻ギリギリにタカシと駆け込む教室とは景色が違った。

 窓からは、学校裏の茂みをすり抜けて届く朝日が、教室の全てを金色に輝かせる光を溢れさせている。

 窓際の席では、マキが座って本を読んでいた。

 元々明るめの色をしているマキの髪が、朝日を透かして赤みがかった金色に見えて、とても美しかった。

 その光景に見とれているとマキが顔を上げ、その目が俺の目と合った。

 マキは読んでいた本に、自分で作ったのであろう四つ葉のクローバーを貼り付けた栞を挟んで閉じた。そして、その読みかけの本を机の上に置いて俺の方へと歩いてくる。

 俺は思わず視線を外し、自分の席にカバンを置きに向かった。

 その俺の袖口を二本の指で掴んで、マキが俺の耳元で小さく囁いた。

「二十分したら戻る。私が教室に戻ってきたら、みんなの前で謝って。この前はわざとじゃなかったって。いい?」

「あ? ああ……」

 なぜマキはそんな事を言うのか。なぜ今謝れと言わないのか。そもそも当人は今の段階で、全く怒っていなかったのが不思議だった。

 俺はカバンの中から「オリオンの夏休み」を出し、椅子をめいっぱい後ろに下げ、足を机の上に投げ出して、再び初めから読み返した。

 俺はこの物語が向かう先を知っている。

 雪人が何者か知っている。

 それでも再び読み返すと、最初に読んだ時と違う印象を受けていた。

 教室の喧騒が耳に入ってきても、それを処理する脳は、文字の解読と、その情報から描かれる想像の風景を作り出す事に使われていて、雑音を完全にシャットアウトしている。

 名前を二度呼ばれた。

 三度目に呼ばれた時に、初めてその前の二度も自分の名を読んでいたのだとやっと気づいたほどに本の世界に入り込んでいた。

 その声と同時に、机の上に乗せていた足を掴まれて、乱暴に床へと叩きつけられた。顔を上げると、上気したカッパの顔があった。

「お前は先生を無視して、バカにしてるのか!」

「ってぇな、いきなりなんだよ!」

「マキには謝ったのか? あぁ?」

 カッパにそう言われ、俺はマキの席の方を見た。そこには既にマキの姿がある。

「あ、いつの間に……」

「ブツブツ言わずにさっさと謝れ。男だろうが!」

 出た、カッパの男だろう発言。男子に厳しく女子に甘い。中学生の女子に媚びてどうしたいんだよ、ロリコン野郎。

 つい頭に来て、カッパを下から睨みつけた。

「なんだ? 本なんか読みやがって、どうせお前が読むような本だ、くだらん本だろう」

 カッパは時々あからさまに機嫌が悪い。

 直接生徒に手を上げる事はないが、机を蹴りあげたり、生徒が授業中に落書きしているノートを破いたりする事なんていつものことだ。

 俺はカッパの手が本に伸びて来たのを察知し、本を机に仕舞おうとした。

 しかし、一歩遅かった。

 白と淡い青を基調に描かれた美しいオリジナルのカバーは、カッパの手に掴まり無残に破れた。

「――っ!」

 俺の頭は過去ない程に沸騰し、一瞬で目の前が真っ白になった。

 耳の奥で、パーンと何かが大きく弾ける音がした。

 机を両手で思い切り叩く。

 教室中にその大きな音が響いた。

 勢いよく立ち上がると、身体に押され、机が前に倒れた。

 また大きな音が教室に響く。

 カッパに体当たりを喰らわそうとした瞬間、二人の声が響いた。

「カケル!」

「先生!」

 タカシとマキ。二人の声で、真っ白だった視界に色が戻ってきた。

 まただ。

 また。

 全然成長しない。

 たまらなく恥ずかしかった。

 それでも、逃げ出したい気持ちだけは必死に堪えた。

「カケル、机戻せよ」

 タカシの声は穏やかだった。

 とても安心できる声だ。

 ――机戻せよ

 タカシに言われた言葉を心の中で反芻すると、不思議と落ち着いてきた。

 ゆっくりと机を戻す。

 あの本が倒れた机の下敷きになっていた。

 ページは折れ曲がり、カバーは破れている。

 確かにカバーに手を掛けたのはカッパだ。

 でも、こんなにしたのは俺自身だ。

 昨日袋から出した時に香った、新しい紙とインクの匂いはもうしない。

 変わり果てたその本のページを、力なくパラパラとめくって破れてないか確かめた。

「あ、オリ夏……」

 マキがそう呟いたのが聞こえた。そうか、マキはこの本知っているんだな。いつも本を読んでいるマキだ。同じ年の森川さんが贈ってくれたこの本も、マキなら読んでいても不思議じゃない。

「先生、今のは酷いです! それにカケル君はもうとっくに謝ってくれました。あれだって元々は先生が酷い言い方したからじゃないですか?」

 予想外の援軍だった。

 普段はおとなしいが、同性からの人望があるマキの訴えに、教室にいた女子が徐々に呼応していった。

「それに、くだらん本っていうのも撤回してください! 私もこの本読みました。とてもいいお話でした。それなのに、こんな……酷いですよ……」

 とうとうマキは泣きだしてしまった。

 本当にすぐ泣く奴だ。今まで鬱陶しいだけだったマキの涙も、この時だけは頼もしい武器に見えた。

「あ、謝ったんならそれでいい。だ、だいたいだな、姿勢が悪い! 足なんか机の上に上げて。本を読むならちゃんと座って読め!」

 そう言って教壇の方へ向かい、何事もなかったかのようにホームルームを始めようとしたカッパに、今度はタカシが問い詰めた。

「先生は謝らないんですか?」

「あ?」

「本破っといて。先生は謝らないんですか?」

 教室中からそうだ、そうだと声が上がる。

 何とか黙らせようとしたカッパだったが、それは収まらなかった。

「いいって! いいよ……、もう」

 腹の底から叫んだ俺のひと言で教室は静まった。

「俺が足を上げてなかったら、俺が無理やり本を仕舞おうとしてなかったら、本は破れなかったんだ。……それに、マキにもまだ謝ってない」

「カケル君……」

「マキは……マキは人が少ない時間に謝らせるんじゃなくて、みんなが揃ったぐらいに、みんなの前で俺に謝らせて、俺が謝った事の証人をいっぱい作ろうとしたんだ。……そうだよな? なんでさっきああ言ったのか、今分かったよ。マキ、本当にごめん!」

 俺はマキに向かって頭を膝に付くくらい下げて謝った。

「俺、オリ夏……って呼んでんだな、この本の事。うん、俺、この本の事、マキと話してみたい。タカシとも。今日はさ、タカシにも読んでもらおうと思って持ってきたんだ、これ。タカシも、こないだはごめん!」

 タカシにも同じように頭を下げた。

「怪我しなかったからいいって事にはなんないよな、二人とも。先生もすみませんでした!」

 最後はカッパに向かって頭を下げた。気持ち良かった。スッとした。

 大きな声で謝り、頭を下げて本当にスカッとした。

 椅子や机に八つ当たりよりずっと。

 静まり返った教室の中で、マキがパチパチと小さな拍手をした。

 それが教室中に広がった頃、いつからそこに居たのか、教頭が教室の前の扉を開け、カッパを呼んだ。

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