Good bye!

学生、カップ、変化

 キッカケさえあれば、ちょっとした出来事の積み重ねで人は変わる。貰った時は新品でも、不慮の事故で生じたキズと錆びつくほどの歳月で、新品とは似ても似つかぬ古びた優勝カップになるように。

 有機体が腐っていくように。

 夏の日差しを前にすれば、尚更に。



 あくる朝、金属ごみ指定袋を背負って僕は家を後にした。ゴミ捨て場は橋を渡った先にある。ずっと何かに足を取られながら、踵からアスファルトに沈ませていく。

 優勝カップがモロに露出しているので、出発は可能な限り早くした。金ぴかに光る物を袋に包んで歩いていると、泥棒になったような後ろめたい気分になる。

 木の葉がふわりと肌をなぞってすれ違った。芯までは凍えないひんやりとした朝の風が、袋の中の金属と錆のような匂いを運んでいく。


 自室のカーテンのように、叢雲が朝日を閉ざしていた。今年も夏が死んだ。こうした形でこの季節と別れたのはこれで二度目だった。


 吐いた息は白く濁り、中空に消える。


「ん?」


 寒くはない。ただ、吐いた息が白い。今月はまだ九月のはずだった。手首の血管がどくりと脈打つ。内側から得体の知れない熱が湧く。


 不気味に思いながらも足を進めて、むしろ歩幅は大きく、一歩の間隔は早くなり、気が付けば対岸まで渡りきっていた。

 息の行く先を見ていた視線を下に落とすと、正面に一人、男が立っていた。


「よ」


 軽く左手を挙げて、待ち合わせに遅れた友人を快く迎えるような面持ちで。息が止まる。白いモヤが途端に晴れた。


「……、」

「あら? オレのこと忘れちゃった?」

「そうだな。ずっと忘れたかったんだって、最近になって気付いたよ」

「ひっでえ」


 タッハハ、カバネはいつもそう笑う。


「急にいなくなりやがって。お前はいつもそうだ。真っ先に僕を引っ張り出してくる癖に、いつも最後には置いていく」

「だーもう昔のことをぐちぐち言いやがって! 終わったことじゃねえか、もう許してくれよ」

「……まあ、そうか」


 それから話題は二転三転した。全て高校時代の話だった。ふと、三年の頃の担任が交通事故で全治五ヶ月の大怪我をした、という話をすると彼は目を丸くした。


「へェーイノ先が! あの人は車に撥ねられても受け身取ってピンピンしてそうだけどな」

「どうも轢かれたらしい」

「なら仕方ないか。まあ、今度会った時にオレの分もよろしく言っといてくれよ」

「言える訳ねえだろ」

「タッハハ」

「……否定しないんだな」


 数分ほど続いていた応酬がここで途切れる。五秒置いて、たはァ、と笑っているのか困っているのか判別しない息を洩らした。


「あのさァ、だってオレもう死んでるワケ。仮にオレが化けて出て、ただでさえ今際なイノ先の寿命縮めちゃったらどうすんのさ」

「じゃあなんで今になって僕の前に来た」


 先の沈黙とは違う。いつも考えなしに僕を引き回していたあの男が、言葉を選ぶような思考をしている気がした。


「ここが地元じゃねえってことは、オマエ一人暮らししてんだよな? ちゃんと自炊してんのか」

「なんだよ急に」

「天ぷらを作ったことは?」

「ヤダよ揚げ物なんか」

「そーか。じゃあオマエにとっておきの話を教えてやる。オレは小学ン頃、鍋に油を引いたことがある」

「まさか自力で天ぷらを作ろうとしたのか?」

「お袋が揚げても美味いんだから、オレがオレの為に揚げた天ぷらはもっと美味いに決まってるからな──それで、まあ引火した」

「おう」

「もっと驚けよ。いやとにかく、オレは慌てて水を持ってきたワケ。そんでそれを鍋にぶちまけようとした瞬間、オレはお袋にぶっ飛ばされた。DVじゃねえぞ? なんでだと思う?」

「高温の油が拡散するからだろ」


 にやりと正面で笑みが浮かぶ。


「なんだよ、もう分かってんじゃんか」

「……は?」


「二年。いいか、二年だ。それがお前に必要だった療養期間。それまでは下手に水もかけてやれねえ」


 そう言って踵を返した。また置いていかれる。昔と同じように。


「もう癒えてるみたいな言い草だな……!」


 小さくなった背中に言葉を投げる。距離が空いたからではない。アイツはあの頃から変わっていない。同年代より一回り大きかったはずの背中を、僕はいつの間にか見下ろしていた。

 気楽なグッド・バイ! ──そんな文言をプリントされているシャツを、アイツは後ろ前に着ていた。襟首に日焼け跡の境目が見える。かつては僕も、同じ模様をプリントしていた。


 高校の入学式──校舎の端──足跡のついた自分の制服──百円玉が転がる音──蛇のような笑み──人が人を殴る音──翻った学ラン──人を殴る人を殴る音──太陽みたいな、カバネの笑み。


 この二十年の中で、最も密度の濃い三年間だった。アレを経ずして僕はいなかっただろうと断言できるほどに。

 僕とカバネが仲良くなるのにそう長い時間は必要なかった。玉の汗のように眩しかった日々は今でも目の裏に焼き付いている。

 お互い未経験のままに強豪のテニス部に突撃したこと、授業を抜け出して海で遊んだこと、文化祭で王子様とヒロインの役を演じたこと、修学旅行でくじに細工を仕掛けて好きな女の子と肝試しに行ったこと──ある大会で、優勝候補を破って一位に輝いたこと。


 共に駆け抜けているつもりだった。その実、一から十までアイツの好奇心に引っ張られて、なすがままに足を動かしているだけだった。

 どこへ行こうか、どう走ろうか。そんなことを考えている暇は一秒たりともなかった。傍から見て明らかだったはずのその事実は、カバネが死ぬまでついぞ気付くことはなかった。

 それは大会が終わった直後のことだった。


 つまるところ、僕は今際で熱湯の只中ただなかにいることを察したカエルだった。寸前で気付いたところで、じわじわと茹で上がっていく未来を前に為す術はない。

 アイツと積み重ねてきたもの全てから、じわじわと牙を突き立てられていた。


「オマエはもう大丈夫。優勝カップを抱えてここまで来たのがその証だ」


 見れば、ゴミ捨て場はすぐそこにある。


「……、いいのか?」

「? 何だよ今更。そんなの持ってたって辛いだけだろ? オレが言うなって話だけど、オレとオマエの選手生命は心中したんだ。

 トラウマでグリップを握れなくなったプレイヤーにトロフィーなんてなあ? さっさと捨てて別の趣味に打ち込んじまうのが賢明だね」


 事も無げな返事だった。僕がその答えに辿り着くのには二年を要したのに。今ですら、その正しさに自信が持てないのに。


「……ここまで来ておいて、だけどさ、これ、唯一のお前との思い出の品なんだよ」

「だろうな。俺たち一家まとめてあの世逝きだったし。思えば写真とかも撮ったことねーな」


 でもさ。

 カバネが、振り向いた。


「オマエとオレの思い出は、本当は辛いんだよ。どれだけ過程がキレイに見えても、血まみれの最期が最悪じゃないはずないだろ」

「……」

「もうオマエも気付いてんだ。だからトロフィーを捨てようとした。いくら洗っても、オマエにとっちゃこのトロフィーは真っ赤っかでさ、ずっと錆びついた匂いがするんだろ──?」


 事実で傷口を抉る音。

 ただ苦しい。何事もなかったかのように帰りたい。決別するのにこんな思いをする必要があるのなら、何もかも曖昧なまま、綿で首を縛られるように緩やかに苛まれていたい。


 でも──カバネはきっと、それ以上に痛かったはずだ。

 延々と首を絞められる方が辛いとか、そういう話ではなくて。ただ、そうしておかないと、僕はアイツ──カバネの親友でなくなる気がした。

 証を捨てることになっても、それだけはずっと貫いていたかったから。


「ま、あんま心配すんなよ。死んで分かったことだけどよ、人間って本当に忘れたくないモンはちゃんとココに残ってる。形ある思い出なんて無粋だぜ。

 ──分かるか。オレは、オマエを、赦す」


 そう言ってドンと胸を叩いた。そうした仕草に、そうした言葉に、今まで何度も背中を押されてきた。


「幽霊は違うのか」

「まーな。つーかオレ、もうダメっぽい」

「そっか。なら早く済ませよう」


 優勝カップの入ったゴミ袋をぶんぶんと回して投げ入れる。硬い音が二、三度して、それはあるべき場所へ収まった。


「おし、そんじゃ」


 再開した時と同じように片手を上げ、カバネは僕の帰路と真反対の方向へさっさと歩き出してしまった。

 死にゆくカバネはもう屍となるのだろう。


「次に会うのは百年先か」

「先に地獄で待ってるぜ」

「あっちの鬼によろしく伝えてくれよ」


 今度こそ小さくなった背中の上に、サムズアップが浮かび上がる。天を突く親指はくるりと反転し、真下──ではなくシャツを指差した。


『気楽なグッド・バイ!』




Fin.

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