くずれ桃のカミサマ

綿野 明

1992

 平成四年、九月一日。転校初日。


 五年二組はなかなかに雰囲気のいいクラスのようだった。そう見える、というよりは、クラスメイトたちがそう言っていたのだ。


「三組はいじめとかやばいっちゃけど、うちは仲いいけん。よかったね二組で」

「てゆうか、やけん二組に入れたっちゃろ、先生たちも」

「たしかに」


 休み時間のたび机の周りに集まっては、わいわいと噂話に興じている。わたしはそれをぼんやりと聞き流していたが、帰りの会の直前に声をかけてきた、優奈という子の話は他とは少し種類が違った。


「ね、モカちゃん。今日終わったら遊べる?」

「……モカ?」

「モモカやけん、モカちゃん。ね、裏の山、まだ行ったことなかろ? ばーりやばいとこあるけん、つれてっちゃー」


 片付けることを「なおす」と言うらしいのはどこかで聞いて知っていた。「はわく」が箒で掃くことを指すのは今日覚えた。しかし「ツレテッチャー」は全く初めて聞いた言葉だった。ストレッチャーの仲間かと思っていたが、曖昧に頷いていると、優奈は帰りの会が終わるなり「早くはやく、こっち」とわたしの手を引いて体育館の裏に向かって走り出したので、店の名前か何かだったのだろうか。いやまて。


「ツレテッチャー。つれてっ、ち、やる。連れてってやる……なるほど」

「なん言いよーと?」

「ナンイーヨート」

「あっ、んと、なにを言ってるの、って意味。ごめん、わからんかった?」

「いや、大丈夫。いま覚えた」


 創立百何十年とか言っていた気がする。表側の校門は金属の柵がついた新しいものだったが、こちらは古い石の門に木の扉がついたものである。大きな南京錠がかけられているその門を、優奈は当たり前のようによじ登って越えてゆく。


「え、ちょっと」

「早く!」


 向こうで彼女が手を振るので、わたしは念入りに周囲を見回してひとけがないことを確認し、門に手をかけた。ささくれが指に刺さらないよう慎重に体重をかけて、鉄棒の要領でぴょんと体を持ち上げると、上にまたがって、飛びおりる。


「上手い」

「ありがと」


 門の向こうは森だった。八月半ばに越してきたときはなんて暑いところだろうと思ったが、空気が湿っていないからか、案外日陰はさらりと涼しい。森の中はグラウンドの木陰よりずっとひんやりとしていて、汗が引いてゆくのが心地よい。


「涼しいね」

「やろ」


 やろ、は、でしょ、と同じ意味らしい。「どこ行くと?」と試しに言ってみると、優奈は嬉しそうにもう一度「上手い」と言ったあと、「裏山の神様のとこ」「ばりやばいけん」と目を剥いて笑ってみせた。


「大人は絶対行っちゃダメって言うっちゃけど、一回は見とかんと」

「なんでダメなの?」

「マガツカミだからって」

「なにそれ」

「しらん。でも、めっちゃおもしろいっちゃん。うちも、あとリンとかリョウスケとかとも何回も行っとーっちゃけど、みんな大丈夫やったけん、大丈夫よ」


 そう自信満々に話す優奈を、わたしは「『ちゃ』が多いな」と思いながら見ていた。一度家に帰らなくていいのだろうかと今更ながらに思ったが、まあ彼女は気にしていないようだし、問題ないのだろう。かく言うわたしも、夜まで両親とも仕事である。優奈も同じなのかもしれない。


 一見獣道のような細い山道だったが、ところどころ石を並べて階段にしてあったり、朽ちかけた木の手すりがあったりするので、人が作った道らしい。三十分は歩いただろうか、というところで、見上げた木の幹に千切れたしめ縄のようなものがぶら下がっているのを見つけた。藁で作ったようなロープに、菱形が連なったような白い紙が下げてある。


「ねえ、あれ」

「そう、神様やけんね」

「あの木、御神木なの?」

「ううん。このへん全体を囲っとったやつと思う。ここまでが神様の陣地らしい」

「……ふうん」


 鳥居じゃなくて、しめ縄なのか。なんとなくそう思ったが、違和感というほどでもなく、わたしはおざなりにうなずいて優奈の後に続いた。


「あとちょっとやけん」

「うん」


 だが、先を行く優奈が「あっ、やば!」と慌てた様子で自分の足元を見下ろし、突然「ごめん、うち帰る」と言い出したのでわたしは困惑した。


「どうしたの」

「切っちゃった、ここ」


 見ると、飛び出した枝に引っ掛けたらしい。膝の少し下あたりに小さい引っ掻き傷があって、血がにじんでいた。


「絆創膏あるよ」


 わたしは背負ったままだったランドセルのポケットから三毛猫柄の絆創膏を取り出し、彼女に渡した。優奈は「あ、可愛い。ありがとう」と言ってそれを脚に貼り付けたが、しかし「でも、そうじゃないっちゃん」と首を振った。


「血が出とったら、行っちゃいかん……えーと、ケガとか、生理とか、鼻血とか、なんでも。血が出ていたら、行ってはいけません。絶対です。そう決まって、いるんです」


 かなり辿々しい標準語で優奈はそう言って、「やけんごめんけど、帰るね」とすまなそうに眉を下げた。


「モカちゃんは見てきーよ。ちがう、見ていきなされ。あとほんとにちょっとやけん。あ、触ったらいかんよ。そーっと見て、帰るだけね」

「いきなされって」


 わたしはちょっと笑ったが、優奈が本当に「ばいばい!」と手を振って来た道を引き返し始めたので、迷った末、先へ進むことにした。森は深く、変な鳥の鳴き声が常に聞こえている。足元で行列を作っているアリは関東に比べてやたら大きい。この調子なら黒くて触角の長いアイツもでかいのだろうか、と考えてしまってぞっとした。絶対に家に出てほしくない。マンションの五階だから大丈夫だろうか。


 五分ほど坂道をのぼったところで、またしめ縄があった。今度は千切れていない。いかにも結界という感じのが一本。どこまでかわからないが、長くぐるりと張り巡らせてある。そして十メートルくらい先にまた一本。


「大丈夫なのかな、これ、入って……」


 わたしは少し怖くなってつぶやいたが、返事があるはずもなく、何度も行ったが大丈夫だったという優奈の言葉を信じて、一歩、しめ縄の内側に踏み込んだ。おかしな音はしない。空気は澄んでいて、いつしか鳥の声が止んでいる。


 が、あたたかい、と思った。


 少し肌寒いくらいに涼しかった森の空気が、とぷんとあたたかくなったのだ。温泉につかったように。けれどそれだけである。まあ日当たりのせいかな、と思って、わたしは気にせず歩を進めた。


 十メートル先の二本目のしめ縄を超えると、次は五メートル先に同じものがあった。それを超えると、次は二・五メートル先。半分、また半分と距離を縮めてゆくそれは、次第に縄で作られた天井のような有様になってきた。ボロボロに破れた、白い菱形の紙がいくつもいくつもぶら下がっていて、異世界に迷い込んだような気分になってくる。京都の、なんという神社だっただろうか。参道に沿って無数の鳥居がぎっしり並んでいる、そういう光景をテレビで見たが、あれをもう何段階か気味悪くしたような景色である。


 そして最後の縄の真ん中に、それはあった。


 わたしの部屋に入れたらギリギリ天井につっかえるくらいの大きさの、巨大な水入りのシャボン玉のような、とてもへんなものである。


 いや、シャボン玉というのは少し違うかもしれない。あんなふうにパンと表面が張った形もしていない、どちらかというとぶよぶよしているし、虹色にかがやいてもいない。水まんじゅうの方が近いだろうか、それか、カエルかなにかの――


「卵……?」


 半透明の膜に木漏れ日が落ちて、ゆらゆらとやわらかく複雑に光が屈折する。じっくり見ると、奥で何かが動いているようだった。かげろうのようにゆらめく、透明な何かが、ゆっくりと回るように動いて、こちらに顔を向けた。


 手を伸ばしかけて、その指先に小さな傷を見つけ、わたしはとっさにその手を口に突っ込んで流れた血を舐めとった。どこかで棘でも触ったのだろうか。痛みはなかった。早く帰らなきゃ、と踵を返しかけて、卵の中の何かと目が合った。と思ったが、気のせいかもしれない。ようく見れば見るほど卵の中は透明で、何か生き物がいると感じたのも、木漏れ日の加減でそう見えただけという気がしてくる。


 くるり、くるりと動いて、ゆらめいて、おどる。

 ああ、なんてきれいなんだろう。


 わたしはなんだか頭の奥がぼうっとしてきて、夢うつつにふらふらと、卵に近寄った。あと一歩で鼻先がくっつく、という距離までくる。甘い香りがした。花のような、くだもののような……ああ、これは桃の香りだ。


「わたし、モモカっていうの。桃の香りと書いて、桃香」


 そうささやくと、卵の中のなにかがキュゥと可愛らしい声で鳴いた気がした。わたしは首をかしげてじっとその瞳を覗き込み、「ほしいの?」とそっとたずねた。


「かわいそうに、お腹が空いてるんだね。こんなところに封印されて、ほったらかされて」


 人差し指の腹を、親指の爪でぎゅっと押した。ぷっくりと赤い雫が指先に盛り上がった。わたしはそれを、そうっと、繊細な膜を破らないようにやさしく、卵にふれさせた。中の何かがちゅるっと泳いで、細い舌でわたしの血を舐めた。


 その次の瞬間の光景を、わたしはこれからずっと忘れないだろう。まるで魔法のように、大きな卵がうつくしい薄桃色に染まったのだ。朝顔の汁で作った色水のように、ううん、それよりもずっとずっと甘やかで綺麗な色に、それは姿を変えたのだ。宝石のようだと思って、どんな高価な宝石もこの卵には劣るだろうと考え直した。


 それと同時に、ひどいめまいに襲われた。立っていられなくなって、その場に尻餅をついた。卵の中の何かが、きゅるりと泳いで低くなったわたしの顔に自分の顔を近づけた。心配してくれているようだった。


「大丈夫……ちょっと、くらっとしただけ」


 わたしはそう強がって、ひどくふらつきながら立ち上がった。「また来るね」と手を振って、わたしは気力を振り絞って山を降り、家へ帰った。すっかり暗くなっていて、お母さんが帰ってくる時間に間に合わなかった。叱られるかと思ったが、お母さんはわたしの様子を見て顔色を変えた。「どうしたの、真っ青じゃない!」といつになく強い口調で問われ、わたしは「友だちと公園で遊んでたら、急に具合が悪くなって」と弱々しく嘘をついた。


「日射病ね。九州の日差しは強いから」


 お母さんはテキパキとそう言って、わたしにスポーツドリンクを飲ませ、脇の下を氷で冷やすように言った。クーラーのきいた部屋で寝ていると気分がマシになってきたので、そういうことでおさまった。


 明日から帽子をかぶって行くように言われたので、わたしは素直にうなずいて自分の部屋に引っ込んだ。明日の放課後もあの子に会いに行こうと決めていた。





 次の日、優奈に昨日はどうだったかと尋ねられたので、「わたしも指に棘を刺しちゃって、途中で引き返したの」と答えておいた。彼女は「残念やったね」となぜか嬉しそうに言って「ケガが治ったらまた一緒に行こ」と目をかがやかせた。


「そうだね」


 わたしはうなずいたが、優奈と連れ立ってあそこに行く気なんて毛頭なかった。あのうつくしい生き物を彼女に見せずに済むにはどうしたらいいのか、頭の中であれこれと策をめぐらせていた。


 とりあえず指の怪我が治った次の日に、体育の授業で派手に転んだ。広範囲にすりむけた傷を痛そうに目を細めて見ながら、優奈は「また今度やね」と残念そうに言った。わたしは「ごめん、せっかく誘ってくれてるのに」と殊勝なふりをして言った。優奈は「全然! 脚痛くない? 保健室行こう」とわたしを心配してくれた。


 そんな彼女を欺いて、わたしは毎日あの子のもとへ通い続けた。具合が悪くなったのは、はじめの三日くらいだった。最近は貧血も起こさないし、むしろ前よりも体が強くなった気がする。山道を走っても全然疲れないし、傷の治りも早くなっているようだ。ただ、顔色が悪いとあちこちで言われるようになった。優奈もわたしを山に誘わなくなった。むしろひどく気に病んだように彼女は言う。


「うちが誘ったけん……モカちゃんが怪我した場所が、もしかしたらカミサマに近すぎたんかもしれん。ねえ、神社でお祓いしてもらおう。うちのせいでモカちゃんが呪われたら」

「大げさだよ。わたしは大丈夫だって。全然体調悪くないし」


 ほら、とぴょんぴょんその場で跳ねてみせると彼女は引き下がった。やれやれ、とため息をついてわたしはその日は山へ行かずに下校した。ピアノのレッスンがあったのだ。指の運動みたいな曲ばかりで楽しくもなんともないが、行かないと怒られるので行くしかない。


 優奈が行方不明になったと聞かされたのは、その次の日だった。クラスは騒然としていたし、大人たちも深刻な顔をしていた。警察が何人も学校に来たし、その日は集団下校になった。


 だからわたしは、一度家に帰って荷物を置いてから、裏山へ向かった。


 嫌な予感がしたのだ。わたしは一気に山を駆けのぼった。あの子の元へたどりついて、わたしは悲鳴をあげた。


「ダメ! ぺっしなさい!」


 うつくしい薄桃色だった卵が、どす黒い赤色に染まっていた。わたしは半狂乱になって卵を揺さぶった。


「出しなさい、早く!」


 卵はわたしの命令に従った。どろりとした粘液とともに吐き出されたのは、やはり優奈だった。全身が赤黒い変な色になっている。わたしは優奈の体を背負って、卵に向かって言った。


「ダメでしょ、変なもの食べちゃ!」


 近くの貯水湖に優奈を捨てて帰ってくると、さすがに少し疲れた。どこかの枝で引っ掛けたのか、膝の下あたりに深い傷があった。薄桃色の液体がだらだらと流れているその傷口を見て、わたしはすぐにあの子のところへ走った。


「ほら、こっちを飲みなさい。いい子だから」


 ぐるん、と卵の中の生き物が体をひねってこちらを向いた。脚を押し付けると、汚い色の舌がわたしの血をすすった。舌先がゆっくりと元の綺麗な薄桃色に戻ってゆくのを見て、わたしは胸を撫で下ろした。


「よかった……これからはママの血だけを飲むんだよ、シラモモ」


 そう言って卵の上から撫でてやると、シラモモはキュゥと喉の奥を鳴らして目を細めた。もう少し叱ってやる必要があるかと思っていたが、我が子の甘える顔を見て、わたしはすっかりほだされてしまった。


「よしよし。いい子だね、シラモモ」


 少しずつ色と実体を持ち始めたシラモモの大きな瞳に、わたしの顔が映り込む。我が子とお揃いの薄桃色の瞳にわたしは満足して、治ってしまった膝の傷をそっと撫でた。


 明日はもっとたくさん血をあげよう。そうしたら少し早く色が戻るかもしれない。汚くなってしまったこの色がすっかり薄桃色に染まりきるころ、この子は孵るから。


 なぜだかわからないが、そうはっきりとわかった。それはわかるのに、自分が帰る家の場所はなぜだかちっとも思い出せなかった。わたしは微笑みをうかべて、ゆっくりと卵を撫でた。熟れてくずれた、皮だけでは形を保てなくなった濃密な桃の香りがした。


(了)

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