ファミコンからPS5へ

加賀倉 創作(かがくら そうさく)

ファミコンからPS5へ

 突然ですが……


 荒い画質は嫌いですか?


 画質のいい動画が好きですか?


 それとも、中程度の画質が好きですか?


 画質の話になると、私はつい、ファミコンの、「ドット絵」を思い浮かべてしまいます。


 一九八三年に任天堂(所在地、京都府京都市南区)より発売された、家庭用据置すえおきゲーム機の元祖、ファミコンは、ドット絵という、ドット一つを一画素として用い、いかに少ない情報で文字やイラストを描くかという、浪漫ロマン溢れる表現方法のもとに成り立っていました。


 そのドット絵というのは、フランス刺繍ししゅうやクロスステッチのようなもので、絵的には大雑把なはずのに、少しドットがずれるとそれが何かわからなくなってしまうという、繊細せんさいでもある、撞着語法オクシモロンの申し子のような、味わい深い存在です。


 そして今や、テレビゲームは大幅に進化し、中でもプレイステーションファイブ(通称、PS5ピーエスファイブ)というゲーム機は、「4Kヨンケー」と呼ばれる、約八二九万画素という非常に高い解像度に対応しています。


 そんなふうに、世の中には色んな画質がありますが、私は全部好きです。


 あ、これから画質にまつわる話をしていきますね。


 どうか、お付き合いくださいませ。


 まず、荒い画質の、好きなところを。


 ちょっと見づらい、かもしれません。でも良さもあります。映画やミュージックビデオなど映像作品ではよく使われる手法ですが、画質が荒いと時代感が出ていい味のある表現になるという効果があります。最近でも『Y2K』のようなふるきを温める風潮、時代逆行する、ノスタルジーを求めるような表現が流行るくらいですしね。


 第二に、高画質の好きなところを。


 やっぱり綺麗な映像はいいです。初めて「IMAXデジタルシアター」なるもので、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を鑑賞した時は衝撃でした(ちなみに私は、オリジナル三部作、プリクエル三部作、シークエル三部作、どれも違った面白さがあって好きですよ)。その宣伝文句にもある、驚異的なシャープネスで、映像の細部までクリアに再現され、とてつもないリアリティを生み出していました。そんな綺麗な映像美には、思わずうっとりして、のめり込んでしまいます。


 そして最後は、中画質の好きなところ。


 可もなく不可もない画質。でも、これがまた、いいんです。まぁ、少し視点が変わりますが。私の場合、動画投稿プラットフォーム『YouTube』などで、たくさんの、様々なジャンルの動画を見あさるタイプで、でもあんまり映像が荒いのは嫌だなぁと、我儘わがままな人間です。その上、できるだけ通信量は抑えたいという、かなり無理のあるジレンマを、常に抱えています。そこで選ぶのが中画質なんですよね。そこまで画質にはこだわりはないけど、気にならない程度の画質で、とにかくデータ量は抑えてスマホの支払い料金を安くしたい。そんなニーズにぴったりマッチする、価値ある選択肢だと思います。


 ……というのは。


 実はチロリロリンです。


 あ、これ、東進ハイスクールの偉大な英語講師、永田達三ながたたつぞう先生が、よく使用される独特の用語で、「イントロダクション」的な意味合いがあります。あまり深く気になさらないでください。ただの好みです。


 で、本題です。


 今回のテーマは、先ほどあげたような、映像の解像度そのものではなく、「物語」や「言葉」の解像度に関してです。


 すみません。何言ってるか、よくわかりませんよね。


 順を追って、説明します。


 まず、「物語」の解像度について。


 私事ですが……


 私は、物語が大好きです。


 映画、アニメ、ドラマ、漫画、小説、そして音楽の歌詞や詩なんかにも、物語が詰まっていたりしますよね。

 

 そんな物語の、好きなタイプについて語らせていただきます。


 タイプと言っても色々あります。


 魅力的なキャラクター、圧倒的な世界観、独特の絵柄、叫びたくなるような技名、思わず共感する心情描写、怒涛の展開、などなど。


 それらについては、また別の機会で語らせていただくとして、ここではプロットというか、話の構造のようなものについて、考えていこうと思います。


 そこで、僭越せんえつながら、具体的な作品の例を挙げさせていただきます。


 かの有名な漫画『進撃の巨人』。


 全編、アニメ化もされていますね(私は最初、アニメから入りました)。


 この作品は本当に大好きで、あまりの美しい物語構造に、初見時は、いや繰り返し見ても、度肝どぎもを抜かれました。


 どんどん話が進むにつれて、ストーリーのあちこちに散らばっていた点と点とがつながり線となって、立体になり、さらにはこの三次元の世界に住む我々には想像もつかないような高次元、多次元、宇宙のような存在に発展していくかのように、謎が解けていく。


 具体的なストーリーのネタバレ無しだと、そんな表現になりますかね。


 この、点という諸要素が集まって最終的に巨大な宇宙を形成するような様を、私はよく、話の「解像度が上がる」という言い方をします。


 まぁ、あくまで持論です(私よりも遥か先に同じようなことをおっしゃっている方がいたら、すみません)。


 とにかく、この「解像度が上がる」という現象に対して私は、クリスマスの七面鳥ターキーの皮膚の如く文字通り鳥肌が立ち、脳内麻薬が大量に分泌され、得も言われぬ高揚感を感じ、無性に、異常なまでに、ワクワクしてしまうのです。


 次は、もう少しミクロな視点から。


 「言葉」の解像度もあります。


 それは、単なる言葉の平易へいいさや難解さ、の話とはちょっと違います。


 ここで例を一つ。


 初学者が一歩踏み出しにくい、難しい題材があったとします。


 それは例えば、相対性理論だとか、量子力学だとか、エントロピーだとか、正直言って手の出しにくい、人によってはオカルトの類と結びつけてしまいかねないような、でも実際は大変興味深い分野のこと、ですかね(実は私はそれらを完全には理解できていません。すみません、ニュアンスが伝われば、と思って例にあげさせていただきました)。


 それらを学ぶ時、その内容を、概論がいろんとか、導入部分のみとか、ざっくりとか、「わかりやすく」シリーズ的な感じで紹介したものがあって、それを学んだ、とします。


 あ、もちろん、それ自体は決して悪いことではないはずです。私もよく利用させていただきますし。


 何せ、新しいものに触れる選択をしているのですから、尊いことです。意味ある行いです。


 でも、それら概要的な何かが、あまりに、過度に噛み砕かれた言葉で、優しい言葉だけで説明され、それで分かった気になるのは、一定の危険性や思わぬ事故を伴います(何度もしつこいように言いますが、それが絶対的にダメと言っているわけではありません)。


 もちろん、世界の未来のために、あらゆることの門戸もんこを広げることは重要です(執拗しつよう反復リフレインをどうかお許しください)。


 しかし、ものによってはあまりに稚拙ちせつで、わかり易過ぎる形でそれを学んでしまうと、ゆがんで理解してしまったり、偏見を持って曲解してしまったり、勘違いしてしまったり、誤った考えに繋がってしまったり、その誤りを周りに広めてしまう可能性が高くなります(私自身も常にその危険性を頭の片隅に置きながら生きておりますが、間違いがあればご教示くださいませ)。


 そこで、私が声を大にして言いたいことがあります。


 まず、ある程度、狭い、限定的な、よりその分野に特化した適切な専門用語を交えた説明を積極的に取り入れるべきではないか。


 そして、情報を提供する側も極力、行間ぎょうかんみ取ることや脳内で言葉足らずな部分を補完することを、聞き手や学習者にゆだね過ぎないようにするべきではないか。


 これら二点です。


 これで伝わるか不安なので、これまた例え話をしてしまおうと思います。


 「してしまおう」というのは、ここでの自身の主張に反して、をしようとしていることに対するアイロニーです。

 

 そして先に突っ込みの手札を消費させることで、自衛しています。

 

 言い訳をすると、生憎あいにく自分の考えを一言で表す「解像度の高い」言葉が、私の辞書に存在しないのです。悪しからず。


 英語で例え話をしてみましょう。


 えて英語で考えるのは『英語の真髄』の著者でもある永田達三先生へのリスペクトの意味も込めて、です。冒頭でそのお名前に触れましたので。あと、学生時代、専門が「英米学」でしたので、その影響もあります。


 こんな文があります。


 I want to "do" it.


 という、一見なんの変哲へんてつもない英文。


 これは、「私はそれがしたい。」とでも訳せるでしょう。


 ちなみに、この段階では、「私」は具体的に何をするのか、前後の文脈もないので、想像するのが難しいです。


 それに、「do」という、今や小学生から英語の授業で学ぶほど初歩的な、この動詞の後ろに来る名詞には、無限の可能性がありますからね。


 ではここで、先ほどの英文にマイナーチェンジを加えてみます。

 

 I want to "play" it.

 

 これだとどうでしょう。


 こうなると、「play」という単語の性質から、「何をするのか」、ある程度パターンが思い浮かんできませんか?


 具体的に見ていきます。


 「play the guitar」だと、「I」はギターを弾くのかな? それに他にも楽器はたくさんあるなぁ、と考えられます。


 「play soccer」なら、「I」はサッカーするのかな? でも他にもスポーツはたくさんあるなぁ、となります。


 「play the role of……」になれば、「I」は何かしらの立場、役回りを引き受けるのかな? それとも、「I」は学生演劇だか、王立劇団なのか、規模はわからないが、とにかく役者なのかな、それともドラマや映画の俳優なのかなぁ、なんて想像力を働かせることができますよね。


 これらのように、「play」という単語を使えば、単に「do」とした時よりも、狭い意味で、より具体的なイメージが思い浮かびます。


 これが、私の言いたい、言葉の「解像度が上がる」という現象です。


 さらに続けます。


 I want to "conduct" it.


 これならどうでしょうか。

 

 この「conduct」という動詞は、「do」や「play」よりも、やや硬い響きのある動詞だと思います。


 「実施するとか」、「実行する」とか、「行動する」とか、そんな感じでしょうか。


 またまた具体的に見ていきます。


 「conduct a survey/investigation」だと、「I」は何か調査をするのかなぁ。その調査は学術的なものかなぁ、市場調査のようなものかなぁ。でも「I」は刑事か何かで、何か警察的な調査、捜査をするのかなぁ、なんて考えられます。


 「conduct a orchestra」なら、あぁ、「I」は指揮者をされている方なのかなぁ、と想像できます。


 「conduct a interview」であれば、「I」は企業の人事の方で面接官かな、なら場面は就職面接だろうか? はたまた「I」はどこかの記者で、誰か有識者ゆうしきしゃや事件の当事者に聞き取りしようとしているのかなぁ、とかなり具体的なイメージが湧いてきませんかね。


 以上のように、使う言葉を、より限定的な、狭い意味を持つものに変えていくと、「I」についての「解像度が上がる」のを分かっていただけたのではないでしょうか。


 最後に、総括そうかつを。


 何かを新たに学び始める時、自分のレベルにおそらく丁度、合っているであろう教材よりも、一段階、欲を言えば二段階、レベルの高いものを選んでやると、最終的に、より具体的な形の、より良い結果につながるのではないかと思います。


 その理由は、ここまで論じてきたことからも分かる通り、何かをする、ということは、自身が現時点で持っている情報の「解像度」の影響を、強く、受けるからです。


 もちろん、そこに時間的な制約があったり、要求される知識量や理解度に明確な目標ラインがあるのなら、そんな躍起やっきになって意識を高めなくてもいいかもですし、無理にその基準を大幅に超えて取り組む必要性は下がると思います。


 しかしながら、状況に応じて、「解像度」を意識的に選ぶことは、きっと、人生を豊かにすると、私は信じています。


 


 【御礼】ここまで読んでいただきありがとうございました。たまには、小説ではなく、こういった説教じみた、論説文のような作品も書いていこうと思います。なぜなら私は、『進撃の巨人』に出てくる、小さな無垢むくの巨人のように、ちょこまかと走り回り、手当たり次第に人を食らう人間ですので(ハンニバルのようなカニバリストではありませんよ)。別な言い方をしますと、未知のものにとにかく手を出してみて、口へ運び、咀嚼そしゃくして、飲み込み、胃に入れ、消化して、自分の血肉に変換することで、自分の見える世界の「解像度を上げていく」というのが、私のやり方なんですよね(インプットって大事です)。では明日もお会いしましょう。あ、先ほど消化したものが、そこまで迫ってきて……さよ!(お下劣げれつを、深く謝罪いたします)

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