憧れは空に

遊者

憧れは空に

何時からだろうか。超高層ビル群に囲まれて空を見れなくなったのは。


何時からだろうか。夢を幻想の様に話し始めたのは。


何時からだろうか。あれだけ美しく見えた空が、汚れたように見え始めたのは。


何時からだろうか。憧れが無くなり、ただただ意味の無い毎日を消化するようになったのは。


もう思い出せない。それくらい前の出来事になってしまった。でも、もし願い事が叶うならば俺はこう願う。


過去に戻って空を飛びたい。阻むものが無い空を、澄んだ空気に満ちた大空を大きな翼で飛翔したい。


「はぁ」ため息を吐いて空を見上げる。手にはコーヒー。そして携帯電話。服装はスーツ。俺はどこにでもいる長所も短所も無い平凡なサラリーマン。


夢を追いかけるのを止めて、幻想ばかりを見るようになった典型的な敗北者。過去の栄光ばかりを追い求めるどうしようもない愚か者。


そんな俺を見下ろす四角い曇り空。この東京には未来なんてない。あるのはどす黒い感情と機械仕掛けになった人間達だ。


早足で歩く人たちを俺は公園のベンチに座ってみているだけ。契約の一つも取れなくて上司の怒鳴り声に怯えている。


「世界は変わったな」小さい頃は空は大きかったし、人との距離が近かった。でも今は機械でつながるのが当たり前で距離は遠い。感情を伝えるのでさえ機械を使っている。


空を蝕むビルを見上げるだけの俺に鳥たちは歌うことを止め、空を飛ぶことも止め。路上に散らばった欠片を食べている。この世界に自由なんてないのかもしれない。


いや、小さい頃は気が付かなかっただけなのかもしれない。自由なんて無いってことを。


じゃあいつから俺たちは自由が無いことに気が付いたのだろうか。恐らくは成長の過程で理解したのだろう。嘘ばかりを吐くテレビに地下まで根を張ったバクテリア。純粋な心を汚すには十分だった。


「子供のままで居たかったな」無理だと分かっていても呟いてしまう。あの何もわからないままで馬鹿をやっていた頃に戻りたい。汚い世界なんて知らないあの頃に。


「戻りたいのかい?」どこからともなく声が聞こえた。辺りを見回してみるがそんな素振りを見せる人間なんていなかった。皆が死んだ目をして携帯電話を見ている。


幻聴か?最近は休めていないからそのせいなのかもしれない。休みたいが契約の一つも取れない俺に休みなんて贅沢な事できるわけがないよな。


「幻聴じゃないよ」また、声が聞こえた。今回ははっきりと。方向はビルとビルの間。路地裏の中だ。この公園は小さいんだな。目の前に建物がありやがる。これじゃ子供が遊べない。


「誰だ?」誰も居ない路地裏に声を飛ばす。俺の声は反響をしながら中に吸い込まれていった。


「知りたかったらおいで」回答にもなっていない返事が路地裏から聞こえた。声の感じからして女か?気分転換に行ってみるか。今日はどうせ契約なんて取れないだろうからな。


ベンチに置いていた鞄を持ち上げて路地裏に足を運ぶ。こんな道に入るのは中学生以来だろうか。あの頃から勉強、部活ばかりに追われていて遊ぶなんてことできなかった。


倒れたゴミ箱に散らばった使われなくなったもの。そこからは強烈な臭いを放っている。そんなものに群がる本能が消えた烏たち。


俺もいつかはあんなふうになるのだろうか。そんなことを思いながら横を通り過ぎる。


歩き始めてから数分が経った。時折聞こえてくる声を頼りに俺は進んでいく。時には上から、時には下から声が聞こえてくる。俺は追うように建造物を上ったり下りた理を繰り返している。鞄は邪魔だから置いてきた。中には大事なものなんて入っていないからいいだろ。


塀を飛び越えたり、トタン屋根の上を歩いたり、梯子を上って人が住んでいるのかもわからない家の上を歩いたりする。幼い時にした小さな冒険に似ている。


あの頃は世界がなんでも綺麗に、そして大きく見えた。吸い込まれるほどの深々とした緑を携えた山々。果てしなく続く空に白い線を掻く飛行機。小遣いで貰った百円が財宝に見えた。


今は今日だけを生きるように適当に生きて、銀行の通帳で判断されているような気がする。こんなことを考えるくらいには社会の毒を吸ってしまったのだろう。


「まだ着かないのか」カンカンと音を立てながら俺は金属でできた階段を上っている。声はこの上から聞こえているんだが、一向に音源に辿り着かない。一定の距離を保ってそのまま離れているみたいだ。


「ここからの眺めも悪くないな」少し疲れた俺は踊り場で休憩することにした。目の前にはここよりも低い建造物で埋め尽くされている。東京タワーは相も変わらず大きい。


「鞄を持ってくるべきだった」鞄を置いてきたことを今になって悔やむ。あの中には俺の好きな飲み物が入っている。あれだけでも持ってくればよかった。ポケットは空いているからそこに突っ込んでしまえば荷物にならないし。


「ふぅ~」気休めにポケットから煙草を取り出して一服する。これを吸うきっかけもこの東京に来てからだ。上司との付き合いで吸わされて今では立派な矢にヤニカスだ。


口から吐き出された煙は薄くなりながら曇り空に混ざっていった。灰はそのまま踊り場の金属の上に溜まっていく。こんな所誰も来ないだろうから吸い殻も捨てて行っていいだろ。


「って、そんなことはしないって決めたんだ」煙草を吸う前に誓ったことを思い出して俺は地面に落とした灰と吸い殻を集めて携帯灰皿に捨てた。


俺がこれを吸うときに誓ったことは迷惑をかけないことだ。吸っている時点で迷惑だと思うがそういうことは極力避けるってことだ。吸い殻を地面に捨てない。灰も落とさない。人が近くにいるときは吸わない。


嫌いだったころに決めたことだ。これを破ったらあの頃の俺が睨むだろう。


「さて、また上がりますか」体を伸ばして階段を上り始める。ここは何の建物だろうか。部屋らしきものは見えないし、何かを作るための足場だったのだろうか。それとも外に着けられていた階段なのか。


だとしたら俺は今不法侵入をしているってことか。ま、ここまで来たら引き下がれないな。もう不法侵入まがいのことは何回もしているし。さっきと違うとすれば認識しているかどうかってことくらいだな。


「やっと屋上か」終わりが見えなかった階段の先に一筋の光が見えた。もう足は疲労で上がらない。ふらふらした足で俺は開きかけていた戸を開ける。


先にはコンクリートでできた屋上が広がっていた。落下防止のための柵が付けられてはいるが朽ちていてなかったり、折れたりしている。


「こっちだよ」俺のことを呼んでいた声が聞こえた。この屋上からで間違いないのだろうが、人の影が見当たらない。録音された音声か?でも俺がいた公園からとは距離がありすぎる。


「どこにいる!?」声を張り上げて辺りをもう一度見まわす。しかし目に入ってくるのはここよりも高い建物だけ。隠れられるところなんてない。


「目の前だよ」目の前?目の前には誰も居ない。あるのは見覚えのある二足のシューズだけ。


「なるほどな。お前は俺だったのか」俺はようやく思い出した。俺はあの日、空に憧れたてここに来た。そして俺は落ちた。


でも思い出せないことがある、なんで俺は空に憧れていたのだろうか。まあ、行ってみれば分かるこことか。


「ただいま」俺は一本の煙草に火を付けて落ちた。名前も姿も何もない人間がただ一人、しらに憧れて身を落とした。煙と混ざりあいながら分厚い雲の中に吸い込まれるように。

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