第9話

 やっぱり夢じゃなかったか……


 翌朝。

 目を覚ました美玲は、自室のワンルームの簡易ベッドとは似ても似つかない、お姫様が寝るような天蓋付き寝台の天井をぼんやり見上げた。

 かなり古いものだが、ちゃんと立派だ。

 スマホがないので今が何時かはわからないが、この明るさから察するに、七時くらいだろうか?

 普段五時半に起きている身からすると、かなり遅い時間だが、それだけ疲れていたということだろう。


 とりあえず、身なりを整えなくちゃ。


 ごそごそと起き出すと、そばの低い台の上に着替えの服らしいものが置いてある。広げてみると、着やすそうな水色のワンピースと、そのベースの下着のようだ。

 ひらひらドレスでないことは助かったが、最近家では高校時代のジャージ、出勤時はデニムと綿シャツ。仕事では会社のユニフォームと、スカートなど履いたことがない美玲なので、身につけてもなんだか脚の辺りが頼りない。

 その横に靴下が置いてあり、履いてみると上質の毛織物で、膝の上までぴったり包んでくれるので、ようやくほっとできた。

 靴は美玲のはいていた運動靴の横に、踵の低いくるぶしまである革靴が置いてある。

 履いたことのない靴を履くのは嫌だったので、美玲はいつもの運動靴に足を滑り込ませた。綺麗めワンピースとはコーディネートがチグハグだが、仕方がない。

 昨日使った浴室には洗面台と水差し、櫛もあったので、顔を洗うと髪をとかし、いつものようにうなじで一つに括った。


 さて、これからどうするか。


 とりあえず空腹だ。

 と、思った途端、「失礼します」と昨夜のメイドさんがやってきた。

「ご朝食をお持ちしました」

「ありがとうございます! いただきます!」

 並べられた料理たちは、ありがたいことに、昨日公爵が言っていたような豆のスープと固パンではない。

 素朴な味だったが、焼き立てて柔らかく、落とし卵や温野菜、それに多分ヨーグルト的な発酵乳のデザートもついている。中でも、ポタージュのようなスープは絶品だった。

 公爵はあの容姿で粗食、召使いもそれに準じていると言っていたが、美玲はどうやら別枠らしい。

 しかし、美玲はあることに気がついた。

「あのぅ?」

「はい」

 振り返った美玲に、壁際で控えていたメイドは最小限の返事で応じた。

「あなたは昨夜遅くまで、私のお世話をしてくださってましたけど、ほとんど寝ていないんじゃ……」

「……え」

「お疲れなのじゃありませんか? 突然私みたいなのが出てきちゃって……」

 メイドはしばらくぽかんとしていたが、やがてにっこりと微笑んだ。

「失礼しました。お嬢様が、あまりに意外なことをおっしゃるものですから。使用人の睡眠時間など気にするお客様などいらっしゃらないので」

「いえ、気になりますよ! 私お客様じゃないし! いくら残業代が出ても、勤務時間オーバーなら申し訳ないし! お年寄……年長者ですし!」

 この世界の労働環境を確かめないと、安心できない、と美玲は食い下がる。

「そうですか。確かにこの家の使用人は年配者が多いですから……でも、人前に出るのは、ほとんど執事のセバスティンさんだけですし、ご主人様は夜にしか活動されません。それに、ここではそんなに大変な仕事はございませんの。ご主人様は贅沢はなさいませんし、外出もなさいません。私どもは交代で休める様になっておりますので、お気遣いいただかなくても大丈夫でございますよ」

「……はぁ、よかった」

 高校時代からバイトに明け暮れている美玲だが、あまりに疲弊しすぎると、いくら若くてもパフォーマンスが落ちる。長く働くには労働環境とは大切なものなのだ。

「ところで、お名前を伺ってもいいですか? なんとお呼びしていいかわからないので」

「私はトーメと申します」

「わかりました。トメさんですね」

 結局、呼びやすいように呼んでしまうのはどこの世界でも一緒のようである。

 コンコンコン

 その時、慌ただしいノックの音がした。ドアの向こうで焦る気配が窺える。トメも不思議そうな顔をしていた。

 誰も答えないでいる間にセバスティンが入ってきた。やはりかなり焦っているようだ。

「お嬢様! ご主人様が……」

 よく訓練された執事が最大限の動揺を見せていた。

「はぁ。公爵様が?」

「すぐにこちらにおいでになります!」

「え!?」

 驚いたのはトメである。

 そういえば、リュストレーは人嫌いの女嫌いだったな、と美玲は思い出した。

 トメが身を隠すより早く、勢いよく扉が開く。

「ミレ! まだいたか!」

 そこには、昨日の姿のままのリュストレー公爵が立っていた。

「よかった!」

 リュストレーはずかずかと美玲の前に立つと、繁々と見つめながら、なぜか彼女の周囲をぐるりと一周している。

「なんで回ってるんです?」

「昨夜のあれは夢かもと思ったから」

「夢だったらいいな! とは私も大いに思いますけどもね! 残念ながらまだいるんですよ、仕方なく。それに、女性の部屋に入るんですから、ノックくらいしてください」

「のっく」

「ノックですよノック! 知ってますよ、この世界にもノックの習慣あるって、トメさんも、セバスティンさんしてたし!」

「……ああ、そうか。そなたは怒っているのだな」

「いや別に、怒るというか……ところで公爵様」

「リュストレー」

「リュストレー様、普段は夜しか活動しないとおっしゃっていましたが、今は朝ですよ。どうしたんです? あ! そうか!」

 美玲は大きくうなづいた。

「私を元の世界に帰す方法を思いついたんですね!」

「いやそれはない」

「ないんかーい!」

 勢い込んだ美玲は、どこかの舞台芸人のようなツッコミをしてしまう。

「ただ……」

「ただ?」

「いなくなっては困ると思った。仕事をしながら朝までじりじり待って、人が動く気配がしたからここに来てみた」

「私がいるかどうかを確かめに?」

 リュストレーのガウンの袖には昨日はなかったインクのシミがついている。よくみると削げた頬ににもいくつか飛んでいるようだ。しかし、この程度で彼の美貌は損なわれることはない。

「そうだ」

「じゃ、じゃあもういいでしょう? いるんだから。あなたは昼間は眠っているのでしょう? もう寝てください。メイドさん達が困っていま……あれ?」

 いつの間にか、部屋には二人だけだった。セバスティンもトメもいない。

「二人ともどこに?」

「私がそなたの周りを回っている間に、出ていったぞ」

「あ〜そうですか。とりあえず、ご飯の続き食べてもいいですか?」

 すっかり脱力した美玲は、食べかけの朝食の残りを食べようと、椅子に座った。リュストレーはその様子をじっと見つめている。

「あの〜、たったまま見られると落ち着かないから、座ってもらえます?」

「わかった」

 リュストレーは存外素直に、近くの長椅子に腰を下ろし、足を組んだ。着ているものはいい加減だが、顔がいいのと足が長いので、大変サマになる。

「はら立つわぁ」

「そなた、何を食べている?」

「多分、穀物のポタージュスープと、卵とサラダ。あと果物の入ったヨーグルトですかね。たくさんありますから、食べます?」

「卵など、味も忘れたな。野菜も乳製品も好かぬ」

「なら、私だけいただきますね! 残したら作ってくれた人に悪いもの」

 不思議な朝だった。

 日本から召喚された美玲は異界での食事を心ゆくまで楽しみ、この世界の高貴な住人リュストレーは、何も食べずに彼女をひたすら見つめている。

 一見調和が取れていない二人。

 しかし、流れる空気は意外にも穏やかだった。

 


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