あの山を越えたら

塩ぱん

あの山を越えたら

 雲取山は東京都の最高峰、二千メートルを越える山だ。


 その雲取山に登りたいと突然メッセージが届いたから、菜桜なおは目を丸くしてスマホの画面を凝視した。送り主の乃理子は、菜桜がたびたび登山に誘っても全く応じないどころか、興味ないとまで言い放ったのである。

(でもなんで雲取山?)

 乃理子が山に登りたいというのも驚きだが、マイナーで上級者向きの雲取山を指定してくるのもまた驚きである。東京にはアクセスがいい、お手軽な高尾山がある。ミシュランで取り上げられてから混みすぎるのが難点だが、初心者の乃理子には打ってつけのはずだ。もしかして菜桜が知らないところで、登山を始めていたのだろうか。


 週末、東京の西のはずれにある武蔵五日市駅へ二人は電車で向かっていた。立川で乗り換えた青梅線は、朝早いというのに登山ウェアに身を包んだ老若男女でいっぱいだった。今日は快晴で、気候もいい五月。絶好の登山日和だ。


 指定した電車に乗ってきた乃理子の姿を見て、菜桜はまたも驚いてしまった。ちゃんとした登山の格好で来るんだよ、靴も履きなれた靴にするんだよと注意したものの心配していたのだ。おしゃれな服が大好き、靴は基本ヒールばかりの乃理子だ。登山とはかけ離れた服で、可愛い靴でも履いてくるのではなかろうか。大体雲取山を指定してきくせに、乃理子の登山経験はゼロだった。上級者が泊まりで登る雲取山など、到底無理である。それならばと途中までケーブルカーで行けて、サンダルでも登れる山と揶揄される高尾山を勧めたのだが、そんなものには乗りたくないと言う。おまけに人のいない山を登りたいなどと、面倒な注文までつけてきた。

 そこで乃理子でも登れて、人もあまりいなさそうな日の出山を菜桜は思いついたのだった。


 指定した中央線に乗って来た乃理子は、パーカーにジャージ、古びたスニーカーという格好だった。乃理子はジーンズどころか、パンツ姿すら菜桜に見せたことがないと思う。それがジャージ。しかもよく見ると紺地に白のラインが入った、スクールジャージだった。スニーカーも、ダサさと古さから、高校の時のものかもしれない。そして驚くべきは、乃理子の顔だった。いつも念入りなブローでカールさせている肩下の髪を無造作に後ろに一本で束ね、すっぴんだった。登山にすっぴんはさして珍しいことでもないが、乃理子がすっぴんとは。おまけに目の下にはうっすらクマを浮かべ、口をきゅっと結んで口数も少なくどこか不機嫌そうだった。

 完全に訳ありである。


「なんで急に、登山なんかしようって言いだしたの?」

「いいじゃん、私が山登ったって。菜桜はずっと誘ってきてたでしょ」

「そうだけど・・・・・・」

 全く腑に落ちない答えを貰い、菜桜は隣の乃理子の表情をちらりと盗み見る。リュックを前に抱えてつり革をぎゅっと掴んでいる乃理子は、下唇を噛み頬を少し膨らませていた。

「なんかあったの? 仕事とか、彼のこと?」

 菜桜の言葉に、乃理子の腕がピクリと動く。当たりか。しかし乃理子は言葉少なに、即座に否定した。

「別に」

 そう言われたら、菜桜は何も言えなかった。無理に聞き出すのは好きじゃない。言いたいことがあったら、乃理子から言ってくるだろう。菜桜はそっかと言葉を返して、徐々に緑が多くなっていく車窓に視線を移した。


 終点の武蔵五日市駅は、多くのハイカーで賑わっていた。しかし彼らの殆どはバス停に並びだす。バスで山に向かったり秋川渓谷に行くようで、駅から歩いて日の出山へ向かっているのは菜桜と乃理子の二人を含めてほんの数組だけだった。

 住宅街から登山道に入ると、新緑が目に飛び込んでくる。

「山登りっていうか、山の中にある道を歩くって感じだね」

 菜桜の横を歩く乃理子が、ぽつりと呟く。

「まだ山に入ってすぐだからね」

 菜桜は苦笑いをする。


 菜桜は二年前、小さな出版社に就職した。それと同時に休日の気分転換として始めたのが、登山だった。週末は月に一回程度、友だちや彼と、時には一人で奥多摩や秩父の山に出かけている。大学時代の友人の乃理子にも何度か声をかけたが、ずっと断られていた。


 山の中に入るにつれて、登山道の周りを高い木々が覆い始める。木の間を風が通り抜け、汗ばみ始めた体に当たる。鼻を土と草の匂いがくすぐり、とても心地よかった。一方で早くも乃理子の歩みが徐々に遅くなっていく。

「ノリ、大丈夫? 休憩する?」

「大丈夫よ」

 乃理子は何かに張り合うように、すぐに菜桜の提案を断る。しかし普段運動をしていないのに、無理をして頑張られても困るのだ。

「頂上はまだずっと先だしさ、取り敢えず座ろうよ」

 少し先にあるベンチを指さすと、乃理子は素っ頓狂な声をあげる。

「えっ、ずっと先?」

 こんな調子で、よく雲取山なんて上級者向けの山を指定してきたものだと思う。


 ベンチに座った乃理子は、ペットボトルの水を飲んでふっとため息をつく。その顔は、やはり頬がこけており肌につやもない。

 菜桜の視線を感じたのだろうか。乃理子が振り向き、菜桜の顔を見た。

「なに急に登山なんて、らしくないことしてるんだろうって?」

 乃理子は言いながら立ち上がると、さっさと山を登り始めた。菜桜は慌てて水筒をリュックサックにしまい、乃理子の後を追う。

「急に登山に目覚めたとか?」

 なわけないよねと思いつつ菜桜が聞くと、追いつかれた乃理子は目を細めて軽く菜桜をにらんだ。

「山登ったら、そこには違う世界が広がってる気がして」

「・・・・・・詩人じゃん」

 乃理子が悩んでるのは分かった。その内容を聞くべきかどうか菜桜が迷っていると、急に視界が開けた。道の先に東屋があり、その向こうには山に囲まれた街並みが見える。

「頂上!?」

 乃理子はぱっと目を輝かせて、東屋の先の手すりに駆け寄る。嬉しそうに下を眺める乃理子の横顔を見た菜桜は、すまなそうに言った。

「ごめん、ただの展望台。頂上はまだ尾根をずーっと歩いて、階段をたくさん上がった先」

「ええーっ!?」

 案の定、乃理子は手すりの上に崩れるように上半身を乗せた。

「だから高尾山で、ケーブルカーに乗ろうって言ったのに」

 言わんこっちゃないと菜桜が呟くと、乃理子はキッと顔をあげて頬を膨らませた。

「自分の力で登りたいのよ」

 負けるもんかと言わんばかりに、再びさっさと乃理子は歩き始める。菜桜は小さくため息をつき、後を追う。

「ねえ、やっぱりなんか──」

 あったんでしょうと言いかけた菜桜の言葉に被せて、膨れっ面の乃理子がぼそりと呟いた。


「優くん、奥さんも子どももいたの」


 全く予期していなかった乃理子の告白に、菜桜の目が点になる。言葉としては理解できるのだが、うまく呑み込めず文字が頭をすべっていった。ぽかんとする菜桜に、乃理子は大きな声を上げて再び言った。

「だからあ、優くんが私を二年も騙してたの! 子どもなんてねぇ二才なんだって!」

「はっ、はあああああ! なにそれ!?」

 ようやく内容がすとんと脳内に落ちてきた菜桜は、両手を頭に当てて悲鳴を上げる。それに被せるように、乃理子が叫び返した。

「『なにそれ!?』は、こっちのセリフ!」

 顔を歪ませ、目には涙をにじませていた。その表情と言葉に、菜桜ははっとする。そうだ、驚きと怒りは菜桜よりも当事者の乃理子の方がずっと大きいはずだ。

「それ、ずっと全然知らなかったの?」

「当り前じゃない!」

 乃理子は手の甲で、目尻からこぼれた涙を乱暴にぬぐう。確かにこんな話、陽気な観光客であふれた高尾山でするものではない。


 乃理子は大学卒業直前に、バイト先の居酒屋で声をかけてきた──ナンパしてきた、客の「優くん」と付き合い始めた。二人は二年になるが、菜桜は「優くん」に会ったことは一度もない。彼の都合がつかず今に至るのだが、実は家庭があったというのなら納得である。

 しかも子どもが二才とは! 付き合い始めたときは、子どもが生まれた直後か直前か。どちらにせよとんでもない話である。


「なんでそれ分かったの? 向こうが急に言ってきたの?」

 菜桜の言葉に、乃理子は強く首を振った。

 気配を感じて菜桜が顔を上げると、三十代くらいの男女の二人組が山から降りてきた。すれ違う彼らに、菜桜はこんにちはと挨拶したが乃理子はそれどころではない。口をぎゅっと横に結んでうつむいたままだった。

 相手の男女は、申し訳なさそうに菜桜にそっと挨拶を返した。遠くから、菜桜と乃理子の叫ぶ声も聞こえただろう。どう見ても菜桜と乃理子は、曰くつきの二人だった。

 

「休みの日に、ちょっと遠くのショッピングモールに行ったの。そしたら偶然見ちゃったの」

 家族三人、仲良く買い物をしてるところをか。

「人違いじゃないの? それか奥さんじゃなくて、優くんとお姉さんとか」

「それ、優くんも最初同じこと言った」

 菜桜は乃理子の言葉に目を丸くする。もう彼に問い詰めたのか。以前写真で見せてもらった、優しく笑う彼の甘い顔を思い浮かべる。

「二年も付き合ってて、間違うと思う? ご丁寧に私と一緒に買ったTシャツ着てたし。お姉さんとやらとは手ぇ繋いでるし!」

 それは完全に黒だ。その状況で、とっさに嘘を言ってごまかそうとしたのか。甘い顔で優しそうに笑うあの男は。

 登りで息も上がっているのに、興奮して畳むように話すから、乃理子は苦しそうに肩で息をする。リュックの脇からペットボトルを引ったくると、歩きながらぐいと水を飲んだ。


「そりゃ今思えば、実家住みだからって家に連れていってもらえなかったし。デートは私んちか、ドライブで遠出ばっかだし! 思い当たることはたっくさんあるけど、まさか付き合おうって言ってきた相手が、妻子もちだなんて普通思わなくない!?」

「・・・・・・だよね」

 多分違和感は、乃理子のなかに時折あったのだろう。その違和感を少しずつ積み重ねながらも、好きという気持ちが全てを打ち消してきたのではないだろうか。もし菜桜なら『あれは妻じゃない、姉だよ』というその場しのぎのごまかしにでさえ、すがってしまうかもしれない。自分の身に置き換えると、二年も気づかないなんてバカだねとは到底言えなかった。


「その場で問い詰めはしなかったんだね、優くんと奥さんの前で」

「できるわけないじゃん!」

 登山道の先に長い階段が見えた。興奮して話しているせいで、乃理子の息は荒い。取りあえず一休みしようと、道の端にあるベンチに乃理子を誘った。

 並んで座ると、菜桜はリュックからパインの飴を一つ取り出して乃理子に渡した。乃理子は引きちぎるように包装を破くと、飴を勢いよく口に放り込む。そして同時に歯ぎしりするように、ガリガリと音を立てて飴を噛み砕いた。

 その様子を目を丸くして菜桜が見つめるのも構わず、乃理子はペットボトルのふたを開け、勢いよく水を飲んだ。登山の時はあんまり一気に飲まない方が・・・・・・と菜桜は思ったが、さすがに今、口にすることはできなかった。


 乃理子は肩を上下させて、大げさなくらい大きなため息をついた。そしてゆっくりと視線を地面に落とす。そこにある石ころを、何も言わずギラギラとにらむように見つめていた。菜桜も黙って、隣の乃理子をそっと見ていた。

 

「だってさ」

 長い長い沈黙のあと、乃理子がぽつりと呟く。下を向いたまま、スニーカーを履いた足をぶらぶらとさせた。

「その場で言い寄ったらさ、全部そこで終わっちゃうじゃん」

「──ノリ」

 菜桜がため息混じりに名前を呼ぶと、乃理子は小さく鼻をすすった。


 奥さんと子どもと一緒にいる彼の前に出ていって、その場でなじれば絵に描いたような修羅場だ。妻は、夫と乃理子に怒り狂うだろう。だけど何も知らなかった乃理子だって被害者だ。二人と子どもを裏切り続けていた彼だけが悪者で、公衆の面前で二人がキレたらさすがに開き直って逃げはしないだろう。散々もめた挙げ句、興奮した二人にビンタでもされて、それこそ土下座とか──

「奥さんの前で罵って、全部ばらしてその場で終わらせられるほど強くないよ、私」

 さっきの怒りと勢いは、いつの間にか乃理子から消えていた。うつむいたまま、か細い声を出す。

 

「だけど二人きりの時に、彼には聞けたのよね」

 問いつめて、彼が咄嗟についた嘘を嘘だと言い切る。それでも十分強いと思うけれど。

 

 登山に、休みすぎは禁物だ。ペースが乱れるし、疲れも増してしまう。菜桜はベンチから立ち上がると、乃理子を促した。乃理子は両方の指でマスカラもシャドウもつけていない目をゴシゴシとこすり、ゆっくりと立ち上がった。

 そして道の前にある長い階段を見上げる。乃理子の口からうえーっと小さなうめき声が漏れた。階段は長すぎて、その先が全く見えない。


「優くんは、奥さんにはもうとっくに愛はないって。別れようと思った時に、私と出会ったんだって」

 足元を見ながら、一歩一歩踏みしめるように二人は階段を上がっていく。

「すぐに別れたかったけど、子どもが生まれたばっかだったし、もう少し大きくなってから・・・・・・って思ってたら二年経っちゃったって」

「なにそれ」

 菜桜は眉間に皺を寄せ、顔を歪める。ずっと別れそびれている嫁と、手を繋いで買い物なんかするだろうか。

「好きなのは私だって。今回のことをきっかけに離婚するから、もう少し待って欲しいって」

 並んで階段を登る乃理子が、菜桜に顔を向けた。目に力を入れて、ぎゅっと口を固く結んだ顔。その表情を見て菜桜は小さくため息をついた。

「どうすんのよ、ノリは」

 菜桜が尋ねると乃理子は顔を前に戻し、リュックのベルトを両手でつかんだ。

 ピーヒョロロロと、頭のずっと上で鳴くトンビの声が辺りに響き渡る。前にも後ろにも人はおらず、聞こえてくるのは鳥の声と二人の息づかいと土を踏みしめる音だけだった。


「やめろって言わないんだよね、菜桜は」

 視線を斜め上に向けて、木々の隙間から見える空を仰ぎながらぽつりと乃理子は呟いた。

「そんなロクでもない男やめとけ、不倫なんてやめとけって言わないんだよね」

「だってそんなの、私が言うことじゃ・・・・・・」

 乃理子が決めることで、菜桜があれこれ言っていいものではない。大体やめられるものなら、こんなところで菜桜に相談するまでもなく、もうやめているだろう。

「まだ好きなんでしょう? 彼が」

 乃理子は何も答えなかった。

 いい人だから好きになるわけじゃない。騙されたと分かっても、今まで好きだった気持ちが、一瞬で消えるわけじゃない。菜桜は分かってる。人を好きになるって、理屈じゃない。

 だからやめろなんて、軽々しく口にできない。


「他の友だちとこんな話しても、そんなクズ男やめろ! ってきっと言われるんだよ。そして気づかなかった私はバカだって。そうすると、私は絶対やめたくなくなっちゃう。悪く言う友達から、優くんのこと守りたくなっちゃう」

 意地っ張りな乃理子らしい。だけどやめろと言われて燃えるというのは、一種の真理かもしれなかった。

 女って何でもすぐやめろって言うじゃんと、乃理子は続ける。

「だったら一人で考えればいいって思うけど、だけどそれも、しんどくて・・・・・・」

 乃理子の声が徐々に歪んで、掠れて途切れた。うつむき、目を押さえる両方の手の隙間から涙が次々と流れ落ちていく。

 

「好きなの。私はバカで、優くんはクズでどうしようもないけど、まだ好きなの! やめた方がいいって一番思ってるのは、私なの! だからどうしたらいいか分からないの!」 

 菜桜はそっと乃理子の後頭部に手で触れた。柔らかな髪が小さく震えていた。

 

 ふわりと風が通り抜ける。菜桜の髪が、肩の上で揺れた。顔を上げると目指す先の木々が途切れ、日が差し混んで明るくなっていた。

「ノリ、頂上だよ。ほら!」

 菜桜は階段の先を指差す。乃理子は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、菜桜の人差し指が差す向こうを見た。

「もう?」

 ふいに現れた頂上に、乃理子はぽかんと口を開ける。

 まだなのと散々文句を言っておいて、もう? も、ないものだが。乃理子は背負ったままリュックのサイドのポケットから小さなタオルを取り出し、豪快にごしごしと顔を拭いた。


「私さあ、頂上って岩がゴツゴツしていて、それを手でつかんで登っていくのかと思ってた」

 今まで泣いていた乃理子が急に突拍子もないことを言うから、菜桜はええっと眉をハの字にする。

「初心者がそんな山、無理に決まってるでしょう」

 菜桜が呆れているうちに、二人は『日の出山 九〇二.〇m』と書いてある山頂標識の前にたどり着いた。


 山の頂上は大きくひらけていた。下には多くの山々が連ね、その向こうには多摩の街並みもよく見える。遥か遠くには、都心の高層ビル群が青空の下ぼんやりと霞んで見えた。

 どちらともなしに、二人の口からため息が漏れる。

 低い山だって、登ってきた頂上で景色を眺めると、胸に清々しい達成感があふれ、安心感がじんわりとこみあげてくる。苦しくても足が痛くても平日の仕事の疲れがちょっと残ってても、これがあるから菜桜は山に登るのだった。


 ちらりと振り返ると後ろで数組の登山者が、コーヒーを飲んだり写真を撮ったりしていた。一人で景色を楽しんでいる人もいる。

「やっほーって叫んでもいいよ」

「ばか」

 敢えて人がいるのを分かっていて菜桜が言うと、乃理子は鼻で笑って返した。

「でもいい景色」

 涙で腫れた目をそっと細めて、乃理子は広がる景色を眺めた。菜桜も同じように周りの山々と、眼下に広がる街を眺める。きゅっと高くそびえる棒のような建物は、給水塔だろうか。向こうの山の中腹には、大きな立派な建物が見える。あれはどこかの学校だろうか、それともホテルだろうか。菜桜がそんなことをぼんやりと思いながら景色を眺めていると、突然隣から耳をつんざくような大きな声が聞こえてきた。

 

「やーっほーっ!」


 ぎょっとして横を見ると、恥ずかしそうに小さく舌を出した乃理子がいた。

「結局叫ぶんかい」

「ばかやろうって叫んだ方が良かった?」

 乃理子の問いに、菜桜はなに言ってるのと苦笑いを浮かべた。いい大人が山びこなんて。後ろの方で休憩してる登山客はどう思ってるだろう。彼らの反応が恥ずかしくて、菜桜は振り返ることができなかった。


 叫んだことで吹っ切ったのか。今度は景色を見ながら、乃理子は歌まで歌い始めた。英語の歌。往年の人気映画、サウンド・オブ・ミュージックの『Climb every mountain』だ。日本語のタイトルは『全ての山に登れ』。


「マリアは不倫じゃないけど?」

 菜桜は笑いながら、乃理子に忠告をする。

 映画では、オーストリアの修道女見習いのマリアが、母を亡くした七人の子どもたちの家庭教師になる。いつしか子どもたちの父親とマリアは、惹かれ合ってしまう。彼には婚約者がいるのに。自分の気持ちに悩むマリアに修道院長は「あらゆる困難を乗り越えて、夢を見つけなさい」と言って、この歌を歌ったのだ。

「いいでしょ、山を登ることは困難を乗り越えることだって、歌ってるのよ」

 それで今まで全然経験したことのない、登山をしようと言い出したのか。


「それにね、ラストのシーン」

 乃理子に言われて、学生時代に見たサウンド・オブ・ミュージックのラストを菜桜は思い浮かべる。

 ナチスから逃がれるために、結婚したマリア夫婦と子どもたちはオーストリアから山に登り、スイスを目指す。みんなで岩山を登るなか、バックに流れていたのがこの『Climb every mountain』だった。

「だから岩山に登りたかったのね」

 元々指定してきた雲取山の頂上も、東京と埼玉、山梨の境にあった。乃理子は国境越えをする彼らに、自分を重ねたのだろうか。

 山を越えたら新しい世界が待っていると、新しい自分になれると。


「ねえ、ノリ」

 菜桜は白い歯を見せてにやりと笑うと、目を細めて企みの表情を浮かべた。

「彼らはスイスに逃げようとしてたけど、オーストリアのザルツブルクから山越えしたら、たどり着くのはナチスのいるドイツだよ」 

「えっ、まじ!?」

 乃理子は大きな声を上げて、目をまん丸くした。

「まじまじ、山のふもとにはヒトラーの別荘があるよ」

「ええーっ!?」

 にやにやと笑いながら真実を話す菜桜に、乃理子は大きく口を開けて愕然とする。

「あたし、それやりたくて山登ってきたのに・・・・・・」

 困惑と戸惑いを目に浮かべて、乃理子は再び目の前に広がる景色に顔を向ける。ショックだったのだろう、がっくりと肩を落としてうつむいてしまった。


「・・・・・・ふっ」

 しばらく下を見ていた乃理子が、突然肩を震わせた。

「ふっ、ふ・・・・・・っ」

 堪えきれないかのように、声を漏らす。泣き出すのかと菜桜が心配し始めた次の瞬間、乃理子は勢いよく天を仰ぎ、大きな声で笑い出した。

 

「あーっはっはっはっ!!」

 手を叩いて目に涙を浮かべ、辺りの空気を震わせるほど豪快な笑い声を上げる。

「もう、ばっかじゃーんっ!」

 そしてさっきのやっほーに負けないくらいの声で、遠くに向かって叫び声をあげた。

 その後も止まらないようで、ひいひいと笑い声をあげ続ける。不安げに乃理子を見つめていた菜桜も、つられて笑い始めた。乃理子が笑い続けるから、菜桜の笑いまで止まらなくなった。


 笑いながら、乃理子が振り返る。頬に涙の跡をつけたま、突き抜けた笑顔で言った。

「私、あんな男やめるわ! 絶対やめられると思う!」

 菜桜も、もう周りの目を気にせず笑いながら返す。

「ノリならもっといい男、捕まえられるって」

 乃理子はうん! と顔をくしゃくしゃにして笑顔でうなずいた。


 さあっと音がして、風が頂上を吹き抜ける。

 青空の下の世界は、キラキラと眩しく輝いていた。

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