主観性の呪縛

源なゆた

主観性の呪縛

 作家と編集者、読者は、前世紀からずっと、奇妙な関係にある。


 一応断っておくが、ここでう作家、というのは漫画家も小説家も、あるいは他の創作者も含む。話の上では同じことだからだ。

 編集者や読者も、何かしらに置き換え得る。


 閑話休題はなしをもどして

 

 大御所作家もしばしば言及するように、あるいは今となっては古典的な漫画『バクマン』で(概ね幸運な類型パターンが)描かれていたように、編集者は、作家自身を除けば一番最初の読者だ。

 いや、身内に読んでもらうということもあろうから、一番最初の客観的な読者、と言った方が良いかもしれない。

 いやいや、客観的であるべき読者、と言う方が更に的確か。

 編集者とて、主観性からは逃れ得ない。


 作家とてそうだ。自分で面白いと思うもの、ないし「面白いと思ってもらえるだろう」ものを書く。

 前者は当然主観だが、後者も、客観性に寄せたでこそあるものの、でしかない。「面白いと思ってくれるはずの読者」は作家の想像の中の存在であるが故に。

 流行り廃りに迎合しようが拒絶しようが――『雛形テンプレ』を使おうが使わまいが――結局出てくるのはが絡むものに過ぎない。


 そうした謂わば『主観性の呪縛』が、しばしば、作家と編集者――「ウケるもの」「売れるもの」を狙うたるべき両者――を、歪な関係にすることがある。


 編集者という立場について考えてみよう。

 編集者とは、雑誌や書籍を制作する役割の者、というのが一般的なところだ。

 編集者自身が取締役等を兼ねる場合もあるにはあるだろうが、基本的には、安定した報酬を得られる勤務者サラリーマンだ。

 関わった作品が売れようが売れまいが、編集者にとっての「最低限」は保証されている。……仕事自体を全くしておらず、しかもそれが会社に露見しバレた、といった場合、その一作に左右される程の弱小出版社の場合、あるいは当然ながら一定以上の刑事罰を受けた場合等を除けば、そうそうその『安定した身分』を失うことはない。

 そのの編集者が「だく」と言わなければ、作家が作品を世に出すことは出来ない。

 この仕組みを「力関係だ」とした場合、現実には極稀にしか存在しない(はずだ)が、暴露ネタとして扱われるような事例が出ることになる。


 と、これだけでは、編集者を単なる悪として見るような誤読を誘うかもしれないので、もう一度、『安定した身分』という点について見直したい。


 作家は一般に『安定な身分』である。兼業作家故に安定している、という者もあろうが、それはこの際く。

 対して編集者は前述の通りしている。

 そのによって、編集者が求める作品は、しばしば『完璧主義の誤謬』にハマることがある。

 作家にとっては「これを今出せなければもはや生活が成り立たない」という場面ですら、編集者にとっては「より勝算の高い商品に出来ないか」場面に過ぎない……ということがあるのだ。


 勿論、商業出版というものは生き馬の目を抜く世界であり、出版に際して会社が背負う不確実性リスクは無視出来る要素ではない。

 仮に担当編集者が「諾」と言っても、その上で様々な関門を潜り抜けなければ、出版に至ることは無い……というのは容易に想像出来るだろう。

 よって、編集者にとっては「に『諾』と言わせ得る」作品でなければならない……というのは当然のであり、思考であり、帰結だ。

 必ずしもではない。ただ、これも先に触れたに過ぎない、というだけで。

 結果的に、ある出版社ないし編集者には却下された企画が、別の出版社ないし編集者の「諾」を得て大当たりだいヒット、ということもある。




 そこでは、様々な仕組みを考え出した。


 常に作家に対して編集者を配置し、「大当たり」の取りこぼしを減らす。

 更に規模を大きくし、作家から企画・作品を直接受ける編集会議をいくつも設け、徹底的に議論し、全体の質を上げる。

 自然発生したWeb投稿サイト等を利用あるいは模倣して作品募集の試行回数を増やし、時には「既に当たったもの」を拾い上げる。

 いずれの案においても、良い作品をした者には奨励金を出す。


 当然これらには様々な問題が併発した。

 まず単純に、人件費コストがかかり過ぎた。それまでの人員と同等の制度では質も量も確保出来なかった。

 そして作業内容的には、文芸賞の類と大差無かった。

 更にはに一部Webサイトの仕組み、が絡んだ上で競争原理が働き……独立してしまった。

 の誕生だ。


 根本的に出版社とは、『紹介する者』だ。

 旧くは江戸の町の瓦版、あるいは西洋の吟遊詩人としても良い。

 何かしらの情報を仕入れ、それを伝える者……その形がいくらか変貌したものに過ぎない。

 故に、同じ役割を別の形でこなせるのであれば、出版社である必要性は無い。


 プロ読者が作品を見出し、紹介し、それが広まる。

 この単純な形が、直接作家に対して支援する所謂『投げ銭』文化と相俟あいまって、最初は辛うじて、次第に太太と、成立した。

 目の確かなプロ読者にも愛好者ファンが付くという、新たな時代の到来だ。


 勿論もちろん出版社・編集者も、手をこまねいていたわけではない。

 人員の不足にはAIを用いて対処するのが既に常道であり、当初こそ混乱も起きたが、次第に昇華され、遂には安定した。

 作品の募集にせよ発掘にせよ洗練にせよ、如何なる作業においても適切に運用されたAIは当然有用であり、「編集者の主な仕事はAIの調整だ」とまで言われる程になった。

 更に時代が進むと、複数のAIを統合管理するAIが開発された。各々のAIに対し、特定の趣味嗜好に合わせた調整を行ってくれるAIだ。

 そればかりか、従事者が人間であればおそらく存在したであろう『ブレ』までをも勘案かんあんし、絶妙に作品選別までもやってのける、高度にAIまでもが登場した。


 プロ読者の側も、当然AIを活用するようになった。

 自分の好みを忠実に反映させた選別AI。の嗜好を的確に読み取るAI。両者の整合性を持たせるAI。

 全ての作業がAIによって自動化し得た。


 かような状況下で、作家だけがAIを活用しない、などということはなかった。

 前二者と同様、AIによる情報収集、整理選別、代筆、と進んでいくのは当然の流れだった。




 こうして、我々はと呼ばれるようになった。

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主観性の呪縛 源なゆた @minamotonayuta

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