渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」(河出書房新社、季刊誌「スピン」にて連載中)――詩はいずくにありや――

「存命の現代詩人で〈詩で食っていけてる〉のは谷川俊太郎しかいない」というホントかウソかわからない話がマコトシヤカに語られ続けている。


 もちろん嘘なら嘘で構わない。

ネームバリューだけで言って、若手でも最果タヒとか文月悠光とかは十分詩で食っていけてるのではないか。


 けれども「詩は食えねえ」という共通認識は強固だ。

詩というやつは金にならないのである。


 中原中也の『山羊の歌』でも宮沢賢治の『春と修羅』でも、あるいは萩原朔太郎の『月に吠える』でも大量に部数が出て大いに売れ印税がガッポガッポと入ってくる、というワケにはいかなかった。


 大傑作の詩集でも大して売れない。

もはや「◯◯万部売れてる作品なら面白いんだろう」という本の選び方をする読者や、

「売れ線でいくか趣味に走るか迷う」と苦悩する作者は有り得ない。


読者は「俺だけがこの作品を理解できるんだ。それでいんだ」という力強いオタク的アングラ志向で本を読み、

作者は「本業の合間に趣味で詩集を作れば良い」とハナから諦めているのである。


 そうした土壌を「ジャンルとして死んでいる」と言っても良いのだが、

それでもちゃんと良い詩集は産まれ続けるのだから「商売として死んでいるけどナゼか才能を安売りする奴が集まってくる」のが詩というジャンルなのである。


「金にならなくても職業化できなくても平気で優れた作品を創る」という人間はちょくちょく出てくる。


しかし結局のところ金になるところに才能が集まる側面もあるのだから詩の文学賞や出版社はどんどん増えたほうが良い。



 とはいえそんなイメージも徐々に崩壊しつつある。

「詩」はまだまだだが「短歌」がブームになっているのだ。


 たしかに短歌なら俳句と比べて感傷的な「エモい」詠みが可能な上に詩と比べて短いからSNSとの相性が良い。


 SNSなどで好きになった詠み手の歌集を買う場合「歌集」というアイテムに魅力があるからそこで更に沼にハマる。

「詩集」と同様「歌集」もまた二百ページほどの薄さのくせに値段が高い。二千五百円くらいする。

しかしその分装丁が美しいのである。


 歌集は文字数が少ないから目を通すのもラクである。

ラクで満足感があるのだ。

その軽やかさは贈答用にも合うかもしれない。

ちょっとした祝い事にわざわざ歌集を送る、というのはいかにも感傷的で現代の雰囲気に合っている。


 渡辺祐真の「詩歌の楽園 地獄の詩歌」は「詩歌」(つまり口語自由詩から短歌俳句川柳までの韻文全て)にアプローチする。

〈どうにかして「詩歌」を理解しやすく親しみやすい文化として紹介できないものか〉いう試みを毎回していて非常に面白い。


 渡辺祐真のことを私はネオ高等遊民のYouTubeで知った。

その頃渡辺氏は「スケザネ」というカタカナで活動していたものである。

Twitterで大人気な読書アカウントのスケザネさんが哲学YouTuberネオ高等遊民とコラボ、というような企画であった。


 とんでもなく蔵書量の多い人で『小林秀雄全作品』を全部読んでいて講談社学術文庫の『古今和歌集全評釈』を三回だか六回だか読み直したという変わり者だ。


 今では書評家として文芸誌で名前を見るようになり、単著として『物語のカギ』という本も出しているらしい。


「詩歌の楽園 地獄の詩歌」は二◯二二年の「スピン」第一巻から始まり現在第六回までが発表されている。

河出書房新社の「スピン」は多くの図書館に置いてあるからバックナンバーを引っ張り出して文献複写してしまえばいい。

図書館の文献複写はコピー機に十円だとか二十円だとかお金を入れなければならないがそれでも必要な出費である。


 先に第一回から第六回までの各回のサブタイトルを列挙しておく。


「第一回 短歌ブームから考える短歌の射程」


「第二回 庶民のテペイズマン」


「第三回 散歩するように詩歌を読む」


「第四回 『古池や蛙飛び込む水の音』を通して考える俳句鑑賞のカギ」


「第五回 俳句と短歌って何が違うのだろう?」


「第六回 意味を抑えて、音を楽しめ」


 第一回は短歌の話で第二回は川柳、第三回は詩、第四回は俳句、第五回は俳句と短歌、第六回は詩歌全般とそれぞれフィーチャーされるジャンルが違っている。


 表題の「詩歌の楽園 地獄の詩歌」とは高浜虚子の俳句観をベースにしている。

虚子は「陰鬱なもの悲惨なもの」を描く地獄の文学(小説など)と「心を花鳥風月に寄する」極楽の文学(俳句など)を分けて考えた。


 小説という多層性を活かして深く深く現実社会の問題を掘り下げるメディアと詩歌(虚子の場合は特に俳句)という軽やかに楽しく風物や言葉と戯れるメディアの性質の違いを虚子は認識していたのである。


 けれども当然ながら「花鳥風月」といっても人間味を一切無にすることは不可能であり現実の地獄性を完全無視した「地獄のない極楽」というものも怪しい。


 渡辺は虚子に川野芽生の言説を引き合いに出して考える。

川野芽生は「天上を描きながら、常に地獄を見据えている」のである。

〈一般的に共有されている「錯覚」を否定し自分だけの「あきらかなもの」を視るためにあえて「龍」や「天馬」を詠む〉というやり方だ。


 それは「人間を慰めるための花鳥風月」「地獄があるからこその極楽」といった虚子的な文学観とは違い「花鳥風月を詠み上げるための苗床としての人間」「地獄を作るための極楽」という方向性である。


 詩歌の「地獄」性と「極楽」性の両面を編み込んで「詩歌の楽園 地獄の詩歌」というネーミングだ。


 第一回ではこうした虚子と川野の対比のみならず「短歌ブーム」とそうした「ブーム」から外れる平岡直子の歌について書かれている。


「短歌ブーム」系の作品群は私の興味を惹かないからどうでもいい。

ただ平岡直子の歌は面白いのがある。


「わたしのからだに鏡はひとみしかなくてこんなにきみを好きだというのに」

という破調の歌は良い。


「肉体の物質化、それ故の他者への希求と受容」ということらしい。


 第二回は「庶民のテペイズマン」として川柳の話である。


 俳句と同じ〈和歌〉→〈連歌〉→〈(純正連歌)/俳諧の連歌〉という流れは知っていたが、ここから派生して川柳が生まれる過程はよく知らなかった。


 俳諧の一方式として「前句付け」が流行した。前句付けとは「提示された五七五または七七(前句)に五七五七七になるよう言葉を付け足す」というやり方だ。


「師匠が前句を出題し、弟子たちはそれに合うような句を付けて、師匠に採点してもらう」というのが連歌の練習として最適だったのである。


 そこから発展して「著名人が大々的に前句を発表し多くの人々が付句する」という遊びが生まれた。良い句を思い付けば景品が貰える。


 前句を出題する俳諧師たちの中でも特に人気だったのが柄井川柳からいせんりゅうである。

川柳とは柄井川柳からきている。

しかしジャンルとしての「川柳」を確立したのは明治時代の柳人阪井久良伎さかいくらきである。


 阪井久良伎は尊敬する柄井川柳の名から取った「川柳」を文芸ジャンルとして盛り上げようとした。

だから「川柳」が生まれたのは明治時代である。


 渡辺は現代の柳人として暮田真名くれだまなを挙げ、その川柳を三首提示している。


「音楽史上で繰り返される寿司」

「良い寿司は関節がよく曲がるんだ」

「モナリザの肩の隣に寿司がある」


 の三句である。

私は結構面白いと思うのだが、つまらないという人もいるだろう。

とりあえずふざけているのは分かるが句としての意味はよくわからない。

多分意味はないのだろうと思う。


 

「音楽市場で繰り返される」「関節がよく曲がる」「モナリザの肩の隣にある」といった部分はまだ理解できるが「寿司」がくっ付けば一気に意味不明になる。

渡辺はこの「飛躍」に注目し、「事物を通常とは異なる関係に置く」というシュルレアリスムの技法で解説しようとする。


 第三回は「散歩をするように詩歌を読む」。

これは高原英理の『詩歌探偵フラヌール』の解説が中心となっている。


 フラヌールとは遊歩者のことで十九世紀のパリ、「パサージュ・クヴェール」(だいたい商店街のこと)を歩く人々に対して使われた言葉である。

たしかに商店街なら用もなく歩いても怪しまれず、また空間に情報量が多いから飽きずに事物や人間を観察できる。

これが遊歩者の発見なのだ。


「『詩歌探偵フラヌール』でもう一つ忘れてはいけないのが、小説という形式だ。詩集や歌集ではなく、小説の中に詩が溶け込んでいる。

だからこそ、詩との向き合い方を学べる絶好の作品にもなっているのである」


 詩を鑑賞法わからなければ登場人物の「メリ」と「ジュン」の冒険や会話を真似ればいいのだ。


 第四回は俳句だ。

「古池や蛙飛び込む水の音」の革新性はそれまで「水中で鳴くのが風流な生き物」 として描かれてきた「蛙」に「音を立てて水に飛び込む生き物」というイメージを新たに付け加えた点にある。


 しかし実は蛙が古池に飛び込んだところで「水の音」はしないのである。

ヌラヌラした皮膚と円錐形の体型が水面に触れる際の衝撃を最小に押さえているからだ。


 だから芭蕉の言う「水の音」は彼の心の中で聞こえた(気がした)音だったのである。


 しかし「古池や」が身に染み付いてしまった人たちに「蛙は水に飛び込んでも音を立てない」と言ったところで

「蛙といえば音を立てて水に飛び込むやつだ」という連想やイメージまでは塗り替えられない。


 俳句に必須の「季語」というのはこうした古い名句が作り上げたイメージをどんどん堆積させていくのにピッタリなシステムである。

皆が同じ風物を詠みまくればイメージやキャラクターが共有され、斬新なイメージの提示はより効果的になる。

「季語」は時も場所も越えてしまう。俳人たちの共有財産なのである。


 第五回は「俳句と短歌って何が違うのだろう?」というタイトルで、

短歌の漫画である大白小蟹おおしろこがに『うみべのストーブ 大白小蟹短編集』と

俳句(実際には川柳)の漫画である管野カラン「かけ足が波に乗りたるかもしれぬ」を対比させる。


 だいたいの傾向として短歌の方がロマンチックで俳句の方がリアルという感じがする。

渡辺はさまざまな「短歌」と「俳句」を比較する言説を引用したうえで「俳句は短さゆえに情景を切れ味鋭く詠む方向に特化し、

一方の短歌は思いを詠むことに先鋭化していった」とまとめている。


 第六回は「意味を抑えて、音を楽しめ」。

「意味を抑えて」とは「要点をおさえる」というのではなくて「意味を読み取ろうとする脳の働きを抑えて」の意味だろう。


 セザンヌやゴッホの絵画のあのヘンテコな絵柄やタッチが目に飛び込んでくる感じ。

あのように「描かれる対象」の認識より「技法や物の見方など」の情報が優先して頭に入ってくれば良い。

そうすれば「意味が分かった。よし次の詩を読もう」という風に作業的に詩を消費せず、もう少し深入りできるようになる。


 渡辺は「何を描いているか」だけではなく「どのように描いているか」に意識を向けるために「音」に注目する読み方を提案している。


「君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」

の「s音」の軽快さ、「ゴジラ」の「g音」の力強さなど、音韻のもたらすイメージは大きい。


以上六回。

「スピン」は十六号限定で発行するようだから「スピン」が終わるまで連載をするなら「詩歌の楽園」は全十六回も続くことになる。

だからまだ半分もきていないのだ。


 しかし書けそうなネタはいくらでもある。

たとえば詩歌の出版社や雑誌について書く、同人誌について書く、文学賞について書くといった具合である。

ジャンルでも散文詩や詩的散文(こっちは小説として扱われる事が多い)には全く触れられていない。


 また北欧や中東の国々など、あまり馴染みがない国の詩歌に注目するのも良い。

詩は文化や言語に密着しているから、色んな国の「韻の踏み方」や「定型」といった様式の違いを比較していくだけで面白い。


「何が面白いのか」「何が良いのか」を解説するのはどんなことでもかなり難しい。

詩歌という訳のわからない芸術であればなおさらである。

渡辺はそのほとんど不可能に近い説明に挑んでいる。

ゆるりと、軽やかに詩歌を語る文を読むと心がのびのびとしてくる。

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