受け継がれる熱き問題意識――澁澤龍彥『唐草物語』と花田清輝『自明の理』――

 熊本大学に澁澤龍(渋沢竜じゃないヨ! 澁澤龍だヨ! 特にの字間違えるよネ!)研究者の先生がいらっしゃって、その先生が「ちょっぴりアカデミックな澁澤龍彥ファンクラブ」的な集まりを興された。


 この集まりは〈参加費無料〉かつ〈ZOOMによる活動がメイン〉という地方在住者でビンボーな私に優しい条件が揃っていてヒジョーに助かっている。

その点「三島由紀夫研究会」だとか「泉鏡花学会」だとかいうような立派な〈学会〉になると〈会費・入会金〉がかかる(その分「会報」で論文が読めたりリアル会場で発表聴いたりできるヨ!)から入るのに逡巡してしまう。

特にリアル会場での発表なんぞは私が住む県が会場になることはまずありえないのだからお金を払ってもどうせ行かないと思うとますます入るのが難しくなる。


 去年の十月だか十一月だかにこの会で

「澁澤龍彥と花田清輝」という題目の研究発表があった。

この発表は主に『夢の宇宙誌』と『復興期の精神』についての比較分析であったと記憶している。

なお、藤井貴志『〈ポストヒューマン〉の文学 埴谷雄高・花田清輝・安部公房、そして澁澤龍彥 』(国書刊行会、二◯二三年)というなにやらコムズカシイ研究書もある。

藤井貴志先生は頭がマジで良いからヘタに語るのはホント、無理ですな(滝汗)。

先生は『芥川龍之介 〈不安〉の諸相と美学イデオロギー』(笠間書院、二◯一◯年)という芥川論の著書もあるけれど、これまた難物で――(汗汗)。


 そういう流れで――マアちょっと、なんと言いますか――私もハナダとシブサワのに関するをダラダラ書いてみようと思ったのですよ。

今日はそういうお話です。


 花田清輝の初評論集(本人は『復興期の精神』をエッセイ集としているから、こっちもエッセイ集と呼びそうな気もする。またラストに「小説」を収録している点もジャンルレス)『自明の理』(一九四一年。昭和十六年ですネ。ちなみに講談社文芸文庫など収録の『錯乱の理論』は『自明の理』の改題)は、

「形式論理」的な「自同律」(机とは机である。ペンとはペンである。私とは私である)などの原理を「自明の理」とした上で、この「自明の理」を再検討しようとする。


 こう言うとややこしくて厄介だからもう俗物の単純さを発揮して雑に〈解釈〉(間違った理解をしている可能性が高いから〈要約〉とは言えない)することにする。


この本は〈絵画や言語芸術などの表現は「自明の理」としてのを避けられない以上、現実の持つ情報をそのままを再現できない〉という問題意識から発し、「紋切り型をもって紋切り型を制す」などの前衛芸術の方法論を確立しようとする。


 この問題をハナダは一冊の中で繰り返し様々な角度から論じているのである。


 そこで花田清輝が既に前近代的な「物語」と近代的な「小説」を対置させて「小説」の形式論理性を批判している点に注意する。


「物語」と一般的に言うと「おお、ストーリーのことかな。ストーリーはプロットと比べて出来事が〈理由〉や登場人物の意思などの説明なく並べられている奴だ!」と思ってしまうけれど、「小説」と対置させる場合は意味が異なる。


 この場合において「物語」に対応する英単語は「ナラティブ narrative」だ。

かく言う私も「ホント英語とかよくわかんねーしカンベンしてくれヨ」ってな感じなのだが、しょうがないから勇気を振り絞って解説すると

「ナラティブ narrative」を動詞形にすると「ナレート narrate」となり「ナレーター」という外来語で親しまれている通り「語る」という意味を持つようになる。


「ナラトロジー」といえば「物語論」という批評理論の一分野のことであり、「語り手とは何者か」だとか「読者は何者か」だとか「物語の要素はいくつあるのか」だとかいうような「小説」に限らない「語り」を問う。


 適当にイメージで言っちゃうと(もとより私は「適当にイメージで言っているだけ」なのだが!)、

「ナラティブ」は「ストーリー」と比べてより「語り・語り手」の存在を重視する。


だから「ストーリー(筋書き)」は出来事の連続として「小説」の中に堂々と入っているけれど、

「ナラティブ(語り)」は三人称で淡々と語られるような近代的「小説」の場合「あるんだけど、(三人称のとしてのの存在を一旦は忘れて貰うように)なかったことにされがち」である。


 三人称視点は三人称視点でも「語り手」「作者」を顕在化させて物語の合間に註釈やら感想やらを混ぜ込む太宰治「道化の華」(第一作品集『晩年』収録。面白いですヨ!)みたいな事をしちゃう場合は「神視点」だとか「作者視点」だとか言って区別しなければなるまい。


 もうこの時点で頭がこんがらがっちゃいそうだがまだ続く。


「前近代的」と前述した「物語ナラティブ」だが、いったいどうしてそれが「前近代的」なのか?

ということを解説しなければ私は安心して眠れないのである。

やれやれ、説明好きとは困ったものだ!


 日本古典文学、特に平安時代の「物語」においては「草子地」と呼ばれる「語り」がある。

これはいわゆる「語り手」(そのまま「作者」になるとは限らない。例えば『源氏物語』においては年老いた女房の語りを採用しているとされる)によるコメントである。


 特に話の区切りに「マア、このお話はこういう感じがいたしますわネェ。読者諸君いかがでしょうか」といった具合で登場人物の行動や出来事の〈良し/悪し〉などを批評してみせる。

読者からすればこの「草子地」によるレビューこそがありがたい指標で、「なるほどこうやって鑑賞すれば良いのか」という読みのお手本的な機能すら持っていたかもしれない。


 とはいえ、別に日本古典文学の話を持ってこなくても昔話の読み聞かせをイメージしてもらえれば事足りるであろう。

「読み聞かせ」と言えば淡々と絵本の文字の部分を音読するようだが実際には大抵そうはいかない。

やはり最初と最後、あるいは細かい区切りに沿って聴衆に呼びかけることが多い。


 あるいは昔話の出だし

「昔々ノオ話ヨ」なんてのも「語り手」から聴衆への呼びかけとして良いだろう。

上手くできた三人称視点の「小説」なら

「舞台になっている時代を『昔々』なんて呼びかけなくても情景や人物の描写だけで上手に理解させてやる!」

という方向で努力するであろう。


 ちなみに『源氏』の註釈で知られる玉上琢弥たまがみ・たくやは「物語は女房などによる読み聞かせを前提として生産・消費された」と考えていた。

そうした環境だからこそ「草子地」が活きるというものである。


 いわゆる「メタい」要素というのは前衛的に見えるけれど実際にはこうした「前近代性」への先祖返りとして解釈することができるのである。


 さて、澁澤龍彥『唐草物語』(一九七九年)は前掲『自明の理』(一九四一年)のおおよそ三十八年後に発表された作品である。

しかしここで澁澤は「物語」に挑んでいるのである。

しかも「小説」と対立する「ナラティブ」としての「物語」に挑んでいるのだ。


『唐草物語』の読者であれば説明不要であろうけれど、この書物に収録された「小説」(?)はいずれも半分「エッセイ」的な――言うなれば「嘘エッセイ」のような構成を持っている。


 たとえば「遠隔操作」はもはやほとんどエッセイであらすじだけ述べれば「京都旅行したシブサワが京都のK大学の仏文学者麻田(生田耕作のことか)に会う話」といって良い。

「金色堂異聞」は鎌倉から平泉へ行く旅行記と見せかけて「タクシードライバーが藤原清衡だった」という嘘っぱちをぶち込んでくる。


 〈客観性〉の装いのもと三人称視点で極めてリアリスティックに描いた近代的小説というものをハナから馬鹿にしているが如くである。


 この本の「新編ビブリオテカのためのあとがき」が面白い。

「小説というより、私の書くものは物語と読んだほうが近いであろう。『唐草物語』とは、うまい題名だと自分でも思っている」とあるのだ。


 三年後に出された『魔法のランプ』(一九八二年)にもこうした「小説」対「物語」の構図が見える。

「一頁時評」の「物語は不可能か」がそれにあたる。


「最近、小説ぎらいの私を喜ばせるに足るような小説が、相前後して三つ出た」というのがその書き出しだ。


ジョン・パースとイタロ・カルヴィーノについて

「二人は、物語というものが不可能になっていることを実感している世代なので、その作品に構造上あるいは形式上の、いろいろな工夫が凝らしてある」

とし、

「パースとカルヴィーノとに共通した関心は、小説の根源に横たわる枠物語ということの意味であった。

枠物語は私も大いに関心があるが、作家がこれに対してあまり神経質な配慮を店すぎると、次第にわずらわしく、

〈中略〉

物語は不可能か、とあらためて問いたいような気持である」

と述べる。


「枠物語」とはまさにメタい要素のことで、「小説を書いている私を書いている私……を書いている私」というような「入れ子構造」、あるいは(この場合は「小説を書くこと」に対する)「自己言及性」を持つ。


「草子地」のように「物語」の外に「語り手」を顕在化させる手法もまた一種の「入れ子構造」である以上、平安期の物語はいずれも「枠物語」であるということになる。


 パースとカルヴィーノの「世代」に対する言及が示す通り、「物語は不可能か」と問う澁澤はもちろん「フィクショナルな散文芸術というだけで何を書いても『小説』として生産・消費されてしまう近代において物語は可能か?」という問題意識を持っている。


 それは近代の創り上げる〈制度〉(たとえば〈軍隊〉や〈国民国家〉のような)としての「小説」に対して前近代に立ち返ることで「物語」的なメタい要素を取り戻そう、あるいは覆面を付けた黒子のごとく無視されねばならぬ「語り手」を今一度復権させようという試みである。


 私の目的は澁澤の近代批判に対する花田の先見性をアピールしておくことにある。

つまり澁澤は花田の「播いた種をせっせと拾っていた鴉に過ぎない」(芥川龍之介『西方の人』)といったところである。


〈ハナダ/シブサワ〉という比較にはこうした問題意識の継承に焦点をあてたを考えることも可能ながら、

シブサワによる深化に焦点をあてて両者のを浮き彫りにすることも可能であろう。


 じっさい例の「ちょっぴりアカデミックな澁澤龍彥ファンクラブ」では「シブサワは中学生でも読めるのにハナダは晦渋だ。そのはいかにして生まれたのだろう?」という議論が交わされた。


 ハナダの幾重にも韜晦(シブサワはこの漢語に「ミスティフィケーション」とルビを振った)された批評文に対してシブサワの単純さは大きな違いである。


 シブサワの会では「ハナダは戦中から終戦直後の時代背景も相俟って上手くウラの意味とオモテの意味を使い分けなきゃ検閲に引っかかったんじゃないか」という意見も提出され、なかなか興味深かったことを述べておく。

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