マクシミリアンの憂鬱。

本編75話 マクシミリアン視点のお話です。


――――――――――――――――――――――――――――


 ベアトリスを心から愛してしまっていると自覚したマクシミリアンは、食事もままならなくなっていた。


 ――いや待て。彼女は人間の娘だぞ? しかも、私がこの手で赤子の時に祝福を与えた子だ。

 それを考えると、どう考えても気持ち悪い。ずっと王城で彼女が努力していた姿を見ていたからこそ、これはどちらかといえば親戚のようなもので、真剣に愛を囁けるような立場にいない。この気持ちは墓まで持って行くべきものだ。

 結婚に至った理由だって、ヴェヌスタを怒らせないためだ。国のためとか彼女の、彼女の実家の面々のこの先の愛のためだとか言いくるめたが、正直ヴェヌスタの機嫌を損ねたくないというのが第一だった。あの時は、本当に2年ほどしたら解放するつもりだったのだ。


『やっぱり、人間の娘をエルフの私の元にずっと置いておくのは違うと気付いた。』


 彼女を自由にして、同じ速度で老いていける人間と添い遂げさせるのが自分の愛だと主張して、どうにかするつもりだったのだ。本気でそう思っていたのだ。


 なのに、まさか本気であんなに若い娘に惚れてしまうとは。


 別に潔癖というわけではないし、女嫌いでもない。相手が自分に向けてくる愛に同じだけの量で応えられないというのと、周囲に生じる諸々が面倒だという理由で恋愛から縁遠かっただけで、モテないわけでもない。立場上あちこちに種を蒔くわけにもいかないから自重はしていたが。


 ――それで、自覚したところでどうするんだ。本当に愛してしまったと伝えるか? いや、そんなことを言われてもビーは迷惑だろうが。

 あくまでも、契約上の妻として愛するという話はしてあるから、感情を隠して「形式上の妻」を愛している振りで接することはできる。しかし。

 ――2年後、あの子を手放せるのか?

 自問すれば、無理だ、とすぐに脳裏に浮かぶ。これは、もう何度も頭に過ったことだ。しかし今までは、ただひたすらに大切にして甘やかして、保護者の立場で見守り、ここでずっと面倒を見てもいいのでは? というくらいの気持ち――のつもりだったのだ。

 自覚してしまえば、なにが保護者のようなもの、だ、と自分を殴りたくもなる。

 約束の期間、彼女に手を出さないように耐えるのは可能だろう。そんなに軟な精神力ではない。

 しかし、その後、ここを出て行った彼女がほかの男に笑顔を向けて愛を囁いて、それどころかどこの馬の骨とも知れない男の腕の中で愛を知るのだと思うと腸が煮えくり返る。

 いやはやどうしたものか。そんなことで頭がいっぱいになってしまっていたマクシミリアンは、ベアトリスの表情に気付いていなかった。


「あの、マクス様?」


 おどおどと話しかけられたマクシミリアンは、数度瞬いて彼女の方を見た。妻として愛しい、のではなくて、愛しい妻なのだと自覚すれば今までも可愛らしく見えていた彼女が余計にきらきらして見えてくる。


「ん……あ、ああ、ビーか」 

 

 あまりに余裕のない自分に呆れて、苦笑いが浮かぶ。少し落ち着こうと思って、崩れていた姿勢を正す。そんなマクシミリアンを見ていたベアトリスの表情が強張った。どうしたのかと声を掛ければ、彼女の目元がわずかに歪んだ。

 マクシミリアンはギョッとする。ベアトリスの顔が、今にも泣きだしそうに見えたからだ。彼女は胸を押さえると、マクシミリアンの機嫌を損ねるようなことをしたのではないかと尋ねてくる。


「いや、ビーはなにも――」


 していない、と言いかけたところで、自分と妻の間に広がっている空間の広さに気付いた。普段は、少しでも手を持ち上げれば彼女に触れられるような近さで座っているのに、今日は無意識に距離をとってしまったようだ。

 ――もしや、この距離感に彼女はショックを受けたのか?

 もしもそうならば、なんといとおしいことか。近くに座り直してそっと手を伸ばして、彼女のほっそりした手に重ねる。びくんと怯えるように跳ねた指に自分の指を絡めて握ると、彼女は肩まで揺らした。これは嫌悪感からではないだろう。親指の腹で彼女の手を撫でれば、ベアトリスは恥ずかしそうに視線を下げる。しかし、逃げようとはしない。むしろ彼女から少し身体を寄せてきた。

 

「すまない。私の態度のせいだな」


 マクシミリアンは素直に謝罪を口にする。


「少し考えなくてはいけないことがあって……つい思案にふけってしまった。あなたとふたりで過ごせる時間だというのに、失礼なことをしたね。不安にさせて悪かった」


 安心させるように彼女の手を両手で包めば、下から窺うような視線を送ってきたベアトリスは「今悩んでいらっしゃることは……魔族のことではないのですよね?」と聞いてくる。マクシミリアンは頷いて、今のところ問題はないと告げる。ルミノサリアの各地から、異常なしという報告が来ている。異界への扉は、固く閉ざされたままだ。


「ならば、マクス様はなにについてそのようにお悩みなのですか?」


 続いてベアトリスから問われた内容に、マクシミリアンは口籠った。


「……その……コレウスから、少々指摘されたことがあってなぁ」


 よもや、見かねた臣下から否定できない現実を見せつけられただけだ、とも言い難い。しかし、話を誤魔化そうとすれば、またベアトリスは不安になってしまうかもしれない。彼女の手を持ち上げたマクシミリアンは、愛しさがこみあげてくるのを感じながらその手に頬を寄せる。温かい。滑らかな肌。細い指が、自分の指をそっと握ってくる。

 ベアトリスの手の甲に口付ければ、堪らなくなって熱い息が漏れる。

 言わなければいけない。しかし、彼女の負担になりたくもない。自覚したのは、自分のベアトリスへの気持ちだけで彼女が自分をどう思っているかはわからないのだ。結局土壇場で「これは、私の中でしか解決のできない問題だから、ビーが気にすることはないよ」などと誤魔化すような言葉が出る。だが、そんな言葉でどうにかなるのなら、そもそも直接聞いてきたりはしないだろう。想像通り、ベアトリスは思いつめたような表情で言ってきた。


「私は、マクス様の妻ではないのですか」


 マクシミリアンは息を呑む。

 ――妻だ。あなたは、私の愛しい妻だ。


「……っ。どうしたんだ、いきなり」


 人間から比べたらずっと長生きしているくせに、と自嘲が漏れる。多分、うまく笑えてはいない。

 妻として愛すると言ったことが、彼女の枷になっているのではないだろうか。あの言葉のせいで、妻として振舞わなければいけないと生真面目な彼女が思い込んでしまった可能性はないか。そんなことを考えれば、あの時婚姻という以外の形を取れる可能性もあったのでは、と今更ながら後悔が押し寄せる。

 しかし、そんなことを考えているマクシミリアンを、ベアトリスはいつもの真面目そうな顔でまっすぐと見てくる。


「まだ未熟な私ではなんのお役にも立たないかもしれませんが、妻としてマクス様を支えさせていただきたいのです。秘密保持などの関係で、私には話せないこともたくさんあると思います。そのようなことを無理矢理に聞き出すつもりも、立場をわきまえずしゃしゃり出るつもりもありません。しかし」


 ――なにを言い出した?

 マクシミリアンは、彼女の真意がわからない。


「私は、あなたの妻です。ベアトリス・シルヴェニアです。マクス様を――心から大切に思っているのです。ですから、そのように思い悩まれているのを見ると胸が痛くなります。少しでもお役に立ちたいのです。せめて、私のそばでは気を張られることのないような、そのような関係になりたい……と思うのは、身の程知らずでしょうか」


 ――ああ、それは……

 あの時約束した、という責任感から来るだけの言葉ではないだろう。マクシミリアンの安堵できる場所になりたいという発言には、彼女の愛が見えた。

 ――そんなことを言われては、余計に手放せなくなるではないか。

 このように真っ直ぐに支えたいと言われたのは初めてだ。生まれ落ちた時から持てる者だった。すべてを持っていた。周囲のエルフにとって、マクシミリアンは庇護の対象ではなく畏敬の対象だった。

 ――私を大切だと言ってくれるのか。休める場所になってくれると言うのか。

 こんなに若い、無力にも思える人間の娘がなんと心強いことか。

 ――これは、もう駄目だ。

 抗えない。


 逡巡を払うように大きく息を吐いて、マクシミリアンは両腕を広げる。


「私の腕の中に来てくれるかい?」

「はい」


 幼い子供のように体重を預けてきたベアトリスの身体を、そこに彼女がいるという実感を深めながらゆっくり抱き締めていく。

 絶対に離さない、と言ったら、あまりにも重いだろうか。そこまで考えていなかったと言われるだろうか。

 ――彼女に振られたら、嫌われたら、私どうなってしまうのだろうな。

 多分虚無に襲われるのだろうと思えば、誰もが畏怖するエルフの王の威厳はどこにいってしまったのやら、と笑いがこみあげそうになる。


「ビーは、私の妻だ」


 噛み締めるように言葉にすれば、彼女からは肯定が返ってくる。


「……私の愛しい妻だ。この2年間の契約の間だけでも、あなたを甘やかして愛したいというのは前から伝えていたと思うが」


 ベアトリスの腕が、遠慮気味に背中に回される。存外に強く抱き返されたマクシミリアンは、息が詰まりそうになる。もちろんそれは、彼女の力のせいではなくて。

 小さく震えているように思える彼女の身体をもう一度しっかりと抱き直して、マクシミリアンは胸の奥に甘いさざなみのようなものが生じるのを感じていた。こんなにも華奢で年若い人間の娘なのに、その体温は深い安堵を与えてくれる。鼓舞してくれる。この温もりさえあればなんでも出来てしまいそうな気がする。

 ――いや、そもそも私には出来ないことの方が少ないのだが。

 不得意な魔術の範囲であっても、自分の配下にはそれぞれのスペシャリストが揃っている。彼らも自らの腕のようなもの、と思えば、出来ないことなどほぼなかった。

 それでも、ベアトリスが隣にいてくれたら、マクシミリアンには怖いものなどなくなってしまうだろう。……彼女を失うこと以外は。


「甘やかすばかりではなくて、私も、あなたに甘えて良いのだろうか?」


 つい口からこぼれた情けない言葉に、彼女は勢い込んで頷いた。


「はいっ! 頼りないとは思いますが」


マクシミリアンは、どうにも今この瞬間、自分の中に生じている感情がうまく説明できなかった。これは確かに幸せなのだろう。でも、切なくて苦しい。彼女は人間で、自分はエルフだ。先を思うと、世界が暗くなってしまいそうだ。

それでも。それでも、なのだ。今、ベアトリスがここにいてくれるというのなら、それで十分だと思わなければいけない。


「ああ、こんなに細い身体では、寄りかかったら折れてしまいそうだな」


 笑ったマクシミリアンは、ベアトリスの頭を抱え込んだ。顔を上げようとしたらしいベアトリスが少しだけ藻掻くような動きをする。妻の肩口に顔を埋めたマクシミリアンは、熱い吐息を止めることが出来なかった。


「折れません」


 しばらくして、彼女は静かに、しかしはっきりとそう言った。マクシミリアンは、また喉の奥で低く笑う。


「あぁ、そうだな」


 抱き締めれば頼りなくも思える娘に支えられている。これからは妻に甘えてくださいますか? という言葉に揶揄いは一切含まれていなくて「もう甘えているさ」とう呟いたマクシミリアンは、愛する妻の名前を繰り返し繰り返し呼んだのだった。

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