第一章 第三話

 決闘はアデライーダをほんのりと満足させたが、それも一時のこと。


 十日ほど絶食不眠を続けた頃には、また精神的に困窮しきっていた。


「なんで誰も支援してくれないのかしら……」


 夜闇の中で愚痴るアデライーダ。


 結局、彼女の支援要請に首を縦に振る魔物はなく。恥を晒している現況が世間に広がる前に、黄金竜の領から離れるしかなかったのだ。


「ちょっとでもいいから甘いものを食べられるといいんだけど……」


 もはや何度目かわからない甘いものへの渇望が口から漏れる。大魔王様は本当に甘味が大好きなのだ。


「……ん?」


 ふと、アデライーダが遠く――彼女の感覚では遠くではないが――を見た。


 森の中の獣道を、人間の少女が息を切らせてうずくまっている。もっとも、アデライーダの興味を引いたのは少女自身ではなかったが。


 とん、とアデライーダが跳ぶ。音を置き去りにした跳躍は木々を越え、しかし大気を従えた大魔王はそよ風一つ起こさせない。故に、倒れていた少女はいきなり現れた大魔王の異常性に気付くことはなかった。顔を上げたら目の前に誰かがいた、くらいの印象だ。


 結果として。


「た、助けて下さい!」


 仮にも大魔王相手に、人間である少女は縋ってきた。もっとも、仕方のないことではあるだろう。少女の全身は土埃に塗れ、髪と衣服を汚している。その汚れぶりは白い髪や衣服がくすんで、夜闇の中に消えてしまいそうなくらいだ。これだけ疲労困憊していては、見た目は人間と同じアデライーダを誤認するのも仕方ないと言えた。


 ただ一つ。


 少女が抱きかかえている剣だけが、鞘から溢れ出るほどの輝きを見せている。


「あなた、なに?」


「え、あ、フ、フアナって言います!」


 アデライーダの問いかけに、あわあわと答える人間の少女――フアナ。この状況で質問されたのは自分だ、とフアナが解釈するのは当然ではあるが、しかしアデライーダはフアナを見ていなかった。見ているのは、人間の少女が抱きかかえている剣。アデライーダの素性を察知し、敵意を込めた輝きを放つ白い剣こそ、大魔王が興味を抱いた存在の片割れである。


 そんな事とはつゆ知らず、フアナは言葉を続けていく。


「わ、わたし、魔物にお金を渡さないといけなくて、でも、この剣を渡すわけにはいかなくて」


「魔物って、近くを走ってる彼でいいの?」


「え、えぇ、もう、近くに!?」


 この言葉に慌てて起き上がろうとして、転倒するフアナ。実際のところ大魔王の視力の「近く」など人間の尺度ではあてにならないのだが、フアナがそれを知る由もない。


 そして、アデライーダはそんなフアナを見ていない。見ているものはこちらに向かってくる魔物だ。アデライーダは黄金竜の領地を離れ、今は人間の国にいるはずである。にもかかわらず、魔物が走ってくるのは魔領とは真逆の方向、人間の国の中心から。このこともまた、大魔王の興味を引いていた。


「はぁ、はぁ、げほっ」


 起き上がることもままならない状態で、フアナは咳き込むことしかできない。だがそれでも、決して剣を手放さそうとしない様子に、ようやくアデライーダはフアナを見た。


「そんなに大事なものなの?」


「は、はい!

 だけど、村に借金取りの魔物が来て、村のみんなは私がこの剣を隠してたからって、魔物に告げ口して…………」


「ふぅん……」


 息を切らせていることもあってフアナの言葉はたどたどしいものだったが、アデライーダは状況を理解した。言葉から推測するに、こちらへ走ってくる魔物は人間の村からフアナを追いかけてきたということになる。


「下がりなさい」


「えっ?」


 事情を確かめたくなったアデライーダは、魔物を待ち受けることにした。


 フアナが困惑しながらも這いずって、木の陰に隠れる。そのまま呼吸を整え、ようやく立ち上がれるくらいになって、フアナの頭の中で、疑問が浮かび始めた。いつまで経っても、魔物が現れない。


「あの……魔物。近くまで来てたんですよ、ね?」

「来てるわよ」


 そんな気の抜けた会話を終えてようやく、魔物が二人の前に姿を現した。


 筋骨隆々の身体を粗雑な武具で硬め、太い首の上には豚鼻の頭を乗せた魔物。オークの一体である。


「あァ……?

 『借金持ち』がもう一人増えてんじゃねえノ」


 オークの言葉に、アデライーダはほんの僅かに眉を吊り上げた。


 アデライーダに刻まれた黄金竜の呪詛が、目の前の相手に対して反応している。つまり、このオークは黄金竜の配下と見て間違いはない。


「おい、その高そうな服と後ろの女の持ってる剣をよこしなァ。

 そうすりゃちょっと痛い目に遭うだけで済ましてやるゼ」


 ヒヒヒ、とオークは粗野な笑いを浮かべると、これ見よがしに手に持った槍を振り回して威圧してくる。どうも、相手が二人ともただの人間だと思っているらしい。オークにはよくある鈍感さだ。


 だが自分が大魔王だと気づかれなかったこと以上に、アデライーダの気に障ったことがあった。


「情けない、それでもオーク?」


「ハ?」


「他者の呪詛に頼って戦いを挑むのが、そんなに楽しい?」


 鈍感とは、恐れを知らないということでもある。


 優れたオークは死を恐れず、数多の戦場に挑み――そして、生き残った一握りのオークは、強き種族に比する強さを得る。そういったオークは往々にして魔王に取り立てられ、大敵との戦いを任される。あるいは武を誇るために、魔王に挑む。どちらにせよ強者との戦いに喜びを感じ、散っていくのだ。大魔王であるアデライーダが知るオークとは、まさに戦士の種族であった。


 だが彼女が知るのはかつての、そして上澄みのオークであり。勝利の栄光を勝ち取れずに落伍していったオークたちのことなど知りもしない。


「馬鹿ガ。

 俺がやりたいのは戦いじゃなくて、ただ好き放題に殴って奪って殺すことに決まってらァ!」


 求めるのは戦いではなく暴力を振るうことであり、そのためにはむしろ相手が弱いほうがよく、栄光よりも目先の欲を満たすために生きる。それが今の多数派な、死線を知らぬオークだ。


 見下したようにオークが高笑いをすると、その足を踏み出して二人の『借金持ち』に迫る。後ろで息を呑むフアナをよそに、アデライーダはオークを睨みつけ……舌打ちをした。


 本来ならこれだけでオークは消し飛んでいるのだが、何の効果もない。それどころか、オークの所持品である槍や鎧にすら何の影響もない。ただ遠方の、オークに影響が出ない範囲でのみ地面に僅かな亀裂が入っただけである。


「まったく」


「オ……おっ?」


 そんなことがあったとは気付く様子もなく突き出されたオークの槍を、アデライーダは棒立ちのまま、手のひらだけを向けて受ける。するとオークの身体がふわりと浮いて、押し戻された。槍が砕けた様子がなければ、オークが転ぶ様子もない、気遣いに満ちた優しい押し方だった。


「……参ったわね」


 もちろん、アデライーダだってしたくてこんな気遣いをしたわけではない。力を込めようとすればするほど呪詛が反応してしまい、ただの槍を防ぐために限界まで脱力させられた結果だ。配下を相手にしてもこの影響力なのだから、黄金竜の呪詛には唸らざるを得なかった。

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