第6話

「だから、外国の伯爵夫人グラフリンなんですってば、お母様!」

「外国でも“緑の森グリューデン”なんて土地は聞いたことがありません」

「あの話し方は絶対、外国の方よ。ねえ、リリ!」

「リリ、そうなの?」

「変わった話し方をされてはいました。お嬢様を姫と呼んだり、お坊ちゃまを公子と呼んだり……。印章指輪テールヤクリンをお持ちだったのも事実です」

「あら、お姫様だなんて」

「しかし奥様、爵位保持者ご本人ではなく、そのご伴侶が印章指輪テールヤクリンをお持ちということに違和感を覚えました」

「確かにねえ。王家の方々や公爵家のご息女なら、持ってるかもしれないけど。伯爵アルムくらいの階級の家柄だと考えにくいわねえ」

「何か事情があってお預かりしてるのよ」

「王立博物館の立入り禁止区画に裸で閉じ込められていたなんて、どういう事情?」

「だからそれは言ったように、追いはぎが……」

「アニエ。もし盗品の印章指輪テールヤクリンを持っているだけだとしたら、どうするつもり? あなたはね、来週には“お披露目”を控えているのよ。スキャンダルとは無縁でいなさい」

「人助けしただけなのに……」

「それは認めます。でも、お客様として迎えるかどうかはクロードが──あなたのお父様が帰ってきてから、彼が判断します」

「お父様ならきっと認めてくれるから安心」

「だから心配なのよ……ねえリリ、他に気づいたことは?」

「エルフのことをよくご存じのようでした、奥様。もしかしたら高い教養をお持ちなのかもしれません」

「そうねえ……分かりました。私がその方のお見舞いに行きます。そこで彼女が何者か見極めて、クロードに私の意見を伝えます。それから、アニエ」

「はい、お母さま」

「社交界デビュー前の女性たるもの、弟を連れているとはいえ、付き添いもなしに外出するものではありません」

「リリが付き添いしてくれたわ」

「それはせいぜい商家、中流階級で許されることです。外出したいなら、使用人でなく、しかるべきご婦人に付き添いを頼みなさい。うちのように、爵位を授かろうとしている家柄であれば尚更、すでに上流階級のふるまいをしておかなければならないのですよ」

「……はい、お母様」

「それじゃ、あなたが拾ってきた伯爵夫人グラフリンとやらに会いに行きましょう」


 館の一室で、ミュリエラはベッドに寝かされていた。

 ゆっくりとこれまでのことを思い出す。

 あの博物館とやらから、馬車で少女の住む屋敷へと運び込まれたのだが、その途中、目にするもの全てが驚きの連続で、ミュリエラは戸惑わされっぱなしだった。


 まず、街並みがとてつもなく整っている。

 ミュリエラが船と見紛った馬車の乗り心地の良さも、馬車の造り以上に、道路がきちんと舗装され、手入れも行き届いていることが影響しているようだ。


 屋敷に着いてからも驚きは止まらない。

 あの少女──アニエはただ「屋敷」と呼んでいたが、ミュリエラの目には王家の離宮か何かにしか見えない煉瓦と大理石でできた白亜の館に到着すると、その中から使用人と思われる者たちが飛び出して一行を出迎えた。

 その使用人たちがみな「制服」らしきお仕着せを着ているのも驚いた。

 主人や客は着飾り、それ以外の召使いは単に目立たない──ただそれだけの区別しかなかった自分の時代と比べると、文明的な洗練と優美で勝負にならない。

 召使いの中にエルフが多いのも気になった。使用人として人間に仕えるエルフは、リリだけではないようだ。

 アニエから何か指示を受け取ると、数人の「メイド」──この時代では女性の使用人をこう呼ぶらしい──がミュリエラを丁重に担いで部屋に通し、ベッドに寝かせたのだった。


 次に驚いたのは、衣服だ。

 当初、ミュリエラはアニエを見て、盛大に着飾った姫君と思ったものだが、どうもこの時代においては、あの装いでも最高のものではないらしい。

 統一されたデザインのお仕着せを使用人たちにまで配っているのだから、その豊かさたるや、舌を巻く。

 また、メイドたちに驚くべき手際の良さで着せられた下着や寝間着、さらには寝かされたベッドの寝具に至るまで、肌触りの良さと清潔感には度肝を抜かれた。

 それらに用いられた布地は、使い込まれた亜麻布のように柔らかくありながら、踏まれていない雪のように白く、かつ毛織物のように暖かい。ミュリエラは感嘆して、この布は何かとメイドに尋ねたが、彼女たちは「木綿ボミュムです」と怪訝そうに返事をして「やっぱりシャナじゃなきゃ駄目だったかしら……」とひそひそ話をしながら退室していった。


 わからないことを尋ねても、その答えがまたわからない。

 ミュリエラは、かつて【中原最大の賢女】と呼ばれた自分も、ここでは何一つ知らない穴居人なのだと思い知った。


 だが、それでも。


 体力は消耗しているのに、興奮は抑えきれない。

 見るもの全てが新鮮で、知的好奇心をいたく刺激される。

 あの「博物館」なる建物だけではない。今こうして寝かされている部屋の造りひとつとっても、ミュリエラには想像もつかない技法や工法の産物だった。

 できるものなら、ベッドから飛び起き、這いつくばって床の材質から何から何まで調べ上げてやりたかった。


「なるほどのう。柱や壁を丈夫に作る技術が発達すれば、そのぶん小さく、繊細で優雅に仕上げられるというわけなのじゃな……」

『ミュリエラ様。お体のほうは?』

 ミュリエラが唯一身に着けていた衣服──ビブリオティカは、ぼろぼろではあるものの客人の持ち物として認識されたらしく、きちんと畳んでベッドの傍らのテーブルに置かれている。

「ああ。大丈夫じゃよ。腹にいくばくか入れたおかげかの」

 ベッドに寝かされたミュリエラには、椀に入った麦粥が供されていた。「衣」と「住」でこれだけ驚かされたのだから、「食」ではどんな甘露にありつけるかとわくわくしたのだが、こちらは塩味をつけただけの粥で、がっかりした。

「なんにせよ、ひと心地はついたな。ではビブよ。話し合おうではないか」

 ミュリエラは千年間の出来事をビブリオティカに尋ね始めた。


『百年はつつがなく過ごせました。ミュリエラ様が私にかけた≪屋根失縁≫のおかげで風雨に晒されましたが、布地の片はしに至るまで、擦り切れることもほつれることもなかったのです』

「おぬしには≪不朽≫の魔法がかけてある。それが効いている間は、色あせもしなければ火に投じても焦げ目ひとつ付かぬのじゃ」

『百年目までに、あのほら穴は草に覆われてしまっていましたが、致命的な環境にまでは至っていませんでした。ミュリエラ様はすぐご帰還なされるものと思っておりましたが……一年、二年と過ぎ……気づけば百二十年が経っておりました』

「山火事も炭焼き窯も無かったのか。ではなぜ、わらわは……」

『ですが、異変は百年が経つ前から起こっておりました』

「と申すと?」

『千年前、ミュリエラ様がおっしゃっていた、魔力の減少です。その減り方は私にも検知できるようになり、百二十年経つ頃には世界に満ちる魔力は三割に落ち込んでいました』

「なんじゃと……」

『百二十二年目に、山火事が起こりました。≪屋根失縁≫の呪いは百年目に効力が切れていましたので、私は倒木の下敷きになり、朽ちた木や葉に折り重なられて、二百年過ぎるころには土中に埋まってしまいました』

「そのころの魔力は?」

『二割をとうに切っておりました』

「百二十年で三割、二百年で二割を切る……ふうむ……」

『やがて≪不朽≫の魔法も弱まり始めました。私が【道具箱】の中の物品を魔力に変換する方法の研究を始めたのも、この頃です。世界の魔力減少は続き、四百年を過ぎる頃には希薄なものとなり、六百年ごろにはほぼ皆無になっておりました』

「恐ろしい話じゃ」

『辛うじて、魔力変換の研究が間に合い、≪不朽≫の魔法を補うことによって、私は命脈を繋ぎました。それもやがて尽きるとは理解しておりましたが、お預かりした品々を“食い”、ミュリエラ様の知識をお守りしながら、土中でご帰還をお待ちしたのです』

「ビブよ」ミュリエラはビブリオティカに語りかけた。

『はい、ミュリエラ様』

「心細かったであろう。すまぬ」

『私は道具です。心細さとは無縁でございます』

 ミュリエラにはそれは嘘だとわかった。自ら魔法を研鑽するほど主体性のある知的成長を遂げたのなら、多少は喜びや悲しみの感情も身に着けているはずだ。

『……九百十三年目に状況が変化しました。掘り起こされたのでございます』

「ほう?」

『私を掘り起こしたのは農夫です。すでにその時、緑の森グリューデンと呼ばれていた一帯は農地に変わっていました。農夫はしばらく私を外套として用いていましたが、私の本体──留め具の装飾に目をつけ、酒代のカタに売り払ったのでございます』

「流転の人生じゃな……」

『それから、何回か人の手を渡り歩きました。最終的に、古物収集を趣味とする、とある貴族の所蔵品となり、数十年ほど館の応接間ロイリンケルヤの壁に飾られておりました』

「……応接間ロイリンケルヤ?」

『ここ数百年で貴族の邸宅に作られるようになった、家族や来客と談笑するための部屋です。そして、この貴族というのが、ラコール男爵なる人物でした』

「ああ。覚えておるぞ。あの博物館とやらに、おぬしを寄贈したという……」

『でございます。彼は戦場での古傷がもとで死去し、息子へ爵位と財産が継承されるさい、私は遺言で博物館へ寄贈されました。それが去年です』

「ふむう……」


 ミュリエラはしばし熟考したのち、口を開いた。

「これはあくまで仮説じゃが……魔力は世界から消えていったのではない。使い尽くされていったのではないか」

『使い尽くされた、とは?』

「おぬしは、魔力の量は百二十年で三割、二百年で二割を切り、四百年で希薄に、六百年で底をついたと申したな」

『はい』

「年月が経つほどに、減る速度が小さくなったようだの。これは、世界に満ちていた魔力が、魔法使いたちによって使い尽くされていく中で、魔法を使う者の数も減っていったことを意味するのであろう」

『算術的には辻褄が合います』

けだし、そのラコール男爵の館の……おぬしが飾られていたという、客と話をするための部屋で見かけた人々の中には、魔法使いはおらなかったのではないか? その頃にはもう、世界から魔力は消え失せて久しかったのであろう?」

『……その通りです』

「であろうな。つまり……」


 ミュリエラは嘆息したのち、言った。

「魔法文化は、滅びたのじゃ。わらわは、この世で最後の魔法使いじゃ」


 しばし沈黙の後、ミュリエラは口を開いた。

「突き止めねばならぬ。まず第一に、わらわはなぜ千年も幽界から帰ってこれなかったのか。第二に、魔力が使い尽くされていったとはいえ、なぜ減る一方となったのか。世界中の魔法使いによって汲み取られたのだとしても、四亜神フィール・オアズのまします【超越界レ・オーベレンナ】からの魔力の供給が途絶えたのはなぜなのか。そして何よりもまず……」


 ミュリエラは声を詰まらせた。


「わらわは、この世界で生き抜かねばならぬ。生き抜く方法を見つけねばならぬ……それも、早急に。魔法の絶えた世界で、生き抜かねばならぬ」

『枯れた海で魚が生きていけましょうか?』

「ははっ、【海嘯の魔女】たるわらわにそのような皮肉を投げるとは、成長したな。だが、その通りじゃ。わらわは、何も知らぬ……。この国で使われている言葉すらおぼつかぬ。グリューデンの女伯爵グラフリンという爵位すら、意味を持ち得るものかも怪しいわ」

『それにしては、お元気そうに見えますが』

「そうじゃな。不思議と、わくわくしておるのじゃよ」


 誰かが扉をノックする。

 開けたのは、あのエルフのメイド──リリである。

 リリは、初めて会った時とは違い、この館の使用人の「制服」たるお仕着せを着用している。

 その後ろから、背が高く、静かな威厳をたたえた女性が部屋に入ってきた。


「当、チャリンド家のさいを務めております、ジゼ・チャリンドでございます。ミュリエラ・ウル・グリューデン様。お具合はいかが?」

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