第10話

 はっ、はぁ…っ、と普段あまり動かない体を叱咤して、悟は走っていた。暗い中、一人飛び出してしまった美弥子を探して。

 どこに行ったのだろう。駅とは反対の方向へ向かったのはわかったから、それを追いかけるようにして出てきたけれど、なかなか見つからない。

 それもそうだろう、悟が出るまでにはそれなりに時間がかかってしまっていた。

 美弥子がパニックになり出ていってしまう事になった一連の流れは、悟をも少なくない時間、呆然とさせた。さらにそこから正気に戻って後を追いかけようにも、店を最低限無人にしても平気なように戸締まりをしなければならなかったから。

 なるべく早くと急いだけれど、もう美弥子が飛び出してから三十分は経ってしまっている。

 いくらまだ夜も暑くて風邪をひく心配がないといっても、女性が一人で暗い中を彷徨うのはダメだ。

 ましてやそれが自分にとって大切なひと(女性)なら、なおさらに。

 がむしゃらに探しても埒が明かないと思った悟は、彼女ならどこへ行くだろうと考える。

 飛び出した美弥子は店の制服のままだし、最後に見えた光る雫は泣いていたに違いない。

 そんな格好で人目につくような明るい大通りはなるべくなら避けたいだろう。誰にも見つからぬように人気を避けて静かなところへ行きたいはず。

 ひといきの近くには彩矢も一人暮らししていたはずだけど、美弥子の性格上泣き顔なんて見られたくはないだろう。彩矢に対しては良い先輩でありたいと思い振る舞っていたようだったから。

 ならば、と悟は足を早めた。

 この近くに、公園があったのを思い出したから。

 昼は近所の子どもたちで賑わうけれど、住宅街の中に新たに植樹されたその公園は少しばかり広い。木々が視界を遮る事はないけれど、そこそこに広く区画がとられているため、場所によっては人や車通りのある道からは距離があって……つまりは人目につきにくい。そのため、もし美弥子があまり人に見られたくないと思うなら選びやすい。けれど……その分、女性一人では本当に危険な場所になりがちだ。

 もしも美弥子がそこへ行ったのなら、早く見つけて合流しなければ。

 早足だった悟の身体はいつの間にか全力で駆け出していた。

 さっきまで悟がいた場所からはほんの一キロも無い距離だけれど、気は急いて、息も上がっていく。


 時間にしてわずか数分、けれど悟にはもどかしく長い時間に感じた。はぁっ、と息を切らしながらやってきた悟の視界に、やっと滑らかな芝生と木々が植わった公園が見えた。昼間の明るい時間であれば、青々とした草地で子供たちがはしゃいでいることだろう。けれど今は、ぽつんぽつんと通路にある街灯が光るのみで、とても明るくて見通しがいいとは言えなかった。悟は逸る足を止めてさっと周囲を窺い、何も変な物音が聞こえてこない事にホッとした。

 この様子なら、もし美弥子がいたとしても特に何も起こっていなさそうだ。

 悟は、なかなか治まらない早い呼吸を一度深く吸って無理やり整えると、短いポールが立っている公園の入口の小道に忍び足で入って行く。

 よく均された土の道を静かに歩いていくと、少し先の遊具がいくつか設置されている広場から、キィと微かな音が聞こえてくる。よく目を凝らして見ると、ブランコに座ってこちらに背中を向けている人影があり、見覚えのあるベストと紅の髪色のポニーテールだとわかった。

 美弥子だった。

 美弥子の髪は本人のはきはきとした性格を表したような、鮮やかな紅だ。鮮やかといっても発色の良すぎる目に痛いような色ではなく、少し落ち着いた色で、悟は美弥子が動くたびに揺れる紅い髪先に何度も元気をもらい、また最近では何度も触れたいと思っていた。

 その紅色が、今はしょんぼりと垂れ下がっている。

 悟は道を歩く足音をより忍ばせて、横顔をうかがえる位置まで来た。店を出た時はパニックになって、少し泣いてしまっていたけれど、冷静になった美弥子は怒っているか、呆れているか、そのどちらかだろうと思ったのだ。

 けれど、美弥子の表情はどちらでもなかった。

 ほろりと、時折溢れる涙を止めもせず、何かを決意したような覚悟を決めたような強い眼差しで、地面の一点を見据えていた。

 綺麗だ……。と、悟は今がどこで何をしに来たのかを一瞬忘れてしまうほどに、美弥子の表情に見惚れてしまった。


 そして同時に思う。

 誰にも渡したくない、と。

 あの眼差しで自分を見て欲しい。他の誰もその瞳に映してほしくないのだと。


 悟は、自分の中の強い衝動を自覚して、ああ、もう逃げられない、逃げちゃいけないな、と覚悟した。

 まぁ……悟がそうやって自覚してこの先を覚悟したのは別の理由もあるけれど。

 悟のトイが、美弥子のトイが彼女が膝においた手の中で泣いているのを見つけた瞬間、すっ飛んでいってしまったのだ。

 小さな手で顔を擦る美弥子のトイの元へ一目散に飛んで行き、ぎゅううっと抱きしめて離さなくなってしまった。

 いきなりやってきたナニかが自分のトイに抱きついたらそりゃあ驚くだろう。

 美弥子は手の中のトイ達の様子に驚いて大きく目を瞠った後、悟のトイが飛んできた方向を見る。

 その先では、腰に手を当てた悟が、情けない顔をして立っていた。

 悟は、ふぅ、と気持ちを落ち着かせるためかそれとも覚悟を決めた事でのため息か、ひとつゆっくり息を吐くと、自分を見つめる美弥子へひらりと手を振って見せる。そして何かを考えながらか、ゆっくりしたテンポで、美弥子の元へと歩いていった。


「やっと見つけたよ」

 そう言った悟は、店に居たときよりも……少々、いやかなりヨレている。毎日きっちり纏めている濃い緑の髪は所々ほつれているし、街灯の明かりをうけて光るのは汗、だろうか?シャツの首元だって、いつも客商売だからとしっかり留めているのに、大きく開けていた。

 かなり探させてしまったのかもしれない。

 いやでも、むしろ、なぜ彼は探しに来たのだろう。私のことなんて放っておけば良いものを。

 一瞬、惨めな気持ちからそう思ったけれど、すぐに自分でその考えを否定する。

 違うわ、放って置けるわけないじゃない大事な店員だし、荷物だって後片付けだってあるし、今後の店内の雰囲気にも関わってくるもの。険悪な状態のままで良しとするはずがない。

 自分で考えておきながら、想われている可能性を否定した想定に悔しくなって、刺々しい言葉が口からこぼれてしまう。

「何で探しに来るんですか……お店は?」

 ごく小さな声で聞いたけれど、辺りの静けさもあって、店長の……悟の耳にはきちんと届いたらしい。

「夏とはいえ辺りは暗いし、女一人、ましてや訳ありが丸わかりの泣いている女の子なんて危なくて放っておける訳ないだろ」

「危なくて、ね……」

 何も考えず、衝動的に店を飛び出した美弥子は制服のベストとスカートだ。なるほど、誰が見たってすぐに訳ありだとわかるだろう。運良く誰にも会わずにこの公園まで来たけれど、もしも怪しい輩に後をつけられたりしていたら、確かに危なかったかもしれない。

 悟もそういえば、よくよく見たら着崩されていたのは店の制服だった。

 ……つまりはそれだけ慌てて探しに来てくれた、ということなんだろうか。

 美弥子の手の中では、さっきからずっと自分のトイが悟のトイに抱きつかれていると言うよりも、もはやこれはしがみつかれている。

 やだな、こんな、トイがこんなにぎゅうって抱きつくなんて、期待しちゃうじゃないか。


「期待、させないでよ……」

「ごめん」

 開口一番の謝罪に、ずっと俯くまいとしていた美弥子の矜持を打ちのめし、たまらず顔を伏せてしまった。美弥子の手の中にいるトイを見つめる視界もじわじわ曇り始める。

 けれど、その手の中に、滴が落ちることはなかった。

「でも、……期待してほしい」


 今なんて?


 じわりと滲んできていた涙も空気を読んだらしい。

 耳に聞こえた言葉の真意を探りたくて、美弥子が恐る恐る顔を上げて悟をちらりと窺うと、そこには口元を抑え視線を宙に彷徨わせながら気まずそうに喋る男が居た。

 こんな顔、することあるんだ。

「……ちょっと、あの、なんていうか……恥ずかしいってのと、バツの悪い言い訳話をさせてほしいんだ。ただ……その、外(ここ)じゃ、ホラ、あれだ……話しにくくて……で、さ……ずっとここにいるのもなんだし……店に、戻ろう?……一緒に」

 じゃり、と土を踏む音をさせて近づいてきた悟は、美弥子の正面に立って、顔を覆う手はそのままに、反対の手をゆっくり差し出した。

 期待してほしいって言われたとか、今までに見たことのない表情とか、この短時間で一気にもたらされたそれらの驚きで、美弥子は思考停止してしまったらしい。

 それまでのパニックだったり、カップを割ってしまったままの店の中だったり、店へ戻るにはハードルが高いななんて、ついさっきまでどうしようという思いばかりだったはずなのに。

 ……もう諦めなきゃとか、職も失ったかもしれないという覚悟までしかけたのに。

「……はい……」

 全部全部、何もかも頭から抜け落ちたまま、手のひらに乗っていたトイ達のことも忘れて、悟から差し出された手に促されるままに自分の手を乗せてしまった。

 ころりと美弥子の手の中から転げ落ちたトイ達は、地面に落ちることは無く、ふわりと宙に浮いていた。二人が話し始める前、美弥子のトイの元へ悟のトイがびゅんっと飛んできて抱きついた状態はそのままに。

 美弥子のトイはというと……さっきまでは泣いていたように見えた顔は今、いつまで抱きついているのかと少々呆れ顔に見えなくもない。

 そんなトイ達を……くっついたまま離れない自分のトイを見て苦笑した悟は、差し出された美弥子の手を優しく、けれど離す気はないと言いたげに握ってから指を絡める。そして顔から外した手でくっついたままのトイたちをひょいと自分の肩に乗せてやった。

 悟の、行こう、という小さなつぶやきと共に、二人とトイ達はとっぷりと暮れた夜の街を歩き出す。

 いい大人が、泣いてましたと一目でわかる腫れた目元のままで、手を引かれて歩くなんて、小さな子供になったみたいとかすかに思ったけれど。でも、きゅっと絡められた指先は離してくれなさそうだ。……それに美弥子も、初めて繋いだ大きくて温かな手を離したくないと思ってしまったので。

 少しゆっくりしたペースで、気を遣ってくれたのだろう、あまり人目につかない道を選びながら、出た時は一人泣きながら飛び出してしまったひといきへ、二人とトイ達は一緒に帰ってきたのだった。


「これ目元にあてて、座って待ってて。先に破片を片付けちゃうから」

 悟に手を引かれて店へ帰ってきた美弥子は、カウンターの一番端の席に座らされた。のだけれど、その時の悟の手付きが……なんというか、慣れた仕草で腰に手を添えられて、自然と割れたカップを避けるようにエスコートされたのだ。

 そしてそっと美弥子を座らせたかと思うと、トイ達を目の前のカウンターに座らせる。そのままなんでもない事のようにカウンター内へ入って冷たいお絞りを美弥子に渡してきた。

 目の行き届く人ではあると思っていたけれど、ちょっと……こんなに世話を焼くような人だっただろうか。

 それに、トイの様子も、美弥子を落ち着かなくさせている一因でもあった。

 公園からこっち、ずーっと。それこそ、本当にずっと、悟のトイが美弥子のトイに抱きついて……もはやくっついているといった方が正しいかもしれない……離れないでいるのだ。

 トイって、確か本人と同じ性格で、本人の心の影響がかなりあるんじゃなかったっけ、と成人の儀の時に聞いた話を思い出しながら、美弥子は思う。

 と、いうことは、悟も、同じようにしたいと、思って、いる、という事……?

 いやいやいや、と美弥子は首を振り、浮かんだ考えをすぐに散らす。

 だって、そんな素振り一度も見せてくれなかったじゃない、と。

 そんな風にトイと悟本人を見比べて、心の中だけで慌てている美弥子をよそに、悟はというと手早く床の掃除をしていた。

 テキパキと動き、落ちて割れてしまったカップであった破片を拾い上げ、細かなかけらを掃除機で吸い取る。最後にモップで綺麗に拭き上げた悟は、満足そうな顔で美弥子に向かって破顔した。

 彼が片付けた、美弥子が割ってしまったカップ&ソーサ―は、店長が……悟が、美弥子用にと用意してくれたものだった。

 正社員として正式に働き始めた頃に、元気で凛とした君にぴったりだろうと言って見せてくれたそれは、2年半もの間、ずっと愛用してきた。それは本当に美弥子用で、悟はいかに忙しいタイミングでも他のお客に出す珈琲に使おうとはしなかった。

 専用カップがあるのは美弥子だけではなく、常連達もそうだった。週になんども足を運んでくださるお客さん達には専用カップが用意され、そうでない場合でも、人を見て提供するカップを変える。悟はそういう気質の持ち主だった。

 そんな彼が、美弥子専用と用意してくれていたカップだったのに。

 割れてしまい、ばらばらの破片になったそれらを思うと、収まったはずの涙が滲みそうになる。

 悟に渡されたおしぼりをぐっと目元に強く押し当てて、新たに出てこようとする雫を吸い取らせようとしていると、カウンターの中から、くすりと零れてしまったというような笑い声が聞こえ、美弥子の口元は思わずむっと寄ってしまった。

「ごめんごめん、可愛いなぁって」

 機嫌を損ねるつもりは無かったのはわかったけれど、そんなにさらりと可愛いなんて言わないでほしい。こちらはさっきから心の動きが激しすぎて、ついていけないのだから。

 曲げられた口元はすぐにへにゃりと緩み、あ、とか、う、とか声にならない声が喉の奥から絞り出されていく。

 おしぼりで隠した目元は、涙なんてどこへやら。……今度は赤くなっただろう頬をおさえる方が大事かもしれない。

「カップは、また新しいのを用意するよ」

「アリガトウ、ゴザイマス……」

 まだどこか楽しそうにくつくつと笑っている雰囲気が感じ取れる彼は、笑い上戸なのだろうか。

 店へ帰ってきてからというもの、ずっと笑顔でニコニコしている。おしぼりのあてる部分を変えるふりをしてチラチラ覗き見た顔は、接客用の貼り付けた笑顔じゃなくて、自然な、ついつい笑ってしまうというような笑顔だった。

 はぁ、と美弥子が自分の心と顔を落ち着かせている間、カウンターの向こうから、カチャカチャという音や、お湯の沸くシュンシュンという音が聞こえてきている。

 そのうちに、隣の椅子が引かれ、おしぼりに隠れ切らなかった鼻先に、香ばしくて良い香りがふわりと漂ってきた。

「そろそろ落ち着いた?」

 小さく、はい……、と言いながらおしぼりをカウンターへ置こうとしたら、ふわりと捕られてしまった。

 そして、目に入る彼の位置。

 隣の椅子に座ったのはわかっていたけれど、カウンターに向かって座ったのかと思っていた。

 けれど実際のところは、カウンターに左ひじをつき、美弥子から取ったおしぼりを置いた右手は美弥子の頬へと伸びてきている。

 椅子に浅く腰かけた下半身はイヤミな程に長い脚も美弥子の足元を両側から囲うように置かれていた。伸びた脚先はお行儀よくそろえた美弥子の脚に触れるか触れないかという位置だ。

 何、コレ。

「あ、の……」

「うん」

 いや、待って。

 状況に頭が追いつかない。

 だって、こんな、これ、え?

「っく……、はは、ごめん。そんな可愛い顔すると思わなかったからさ」

 はい?この人は、何を言ってるんだろう。

「パニック、だけど……さっきとは違うよな」

「あの、え、と、て、んちょう……これは」

「悟」

「さ……っ!?」

「さとる。呼んでほしい」

 彼に、まず、今のこの状況を整理するために説明してほしいと思って呼びかけたのに、そこから訂正された。どころか、甘く微笑みかけられながらの名前呼びを強制だ。あまりの展開に開いた口が塞がらない。

「呼ばないと、呼びたくなるようにさせるだけだけど……」

 店を出た時とは全く別の意味で頭が真っ白になっている美弥子に、悟は容赦なく追い打ちをかけていく。

 呼びたくなるようにってどういう事?と、どんどん追加される新しい情報に美弥子はもうオウム返しするしかできなくて止まったままだ。

 自分が言った事を理解できず固まったままの美弥子を見てくすりと笑った悟は、美弥子の頬に添えていた右手を顎へと滑らせると、親指で唇をつぅっとなぞった。

「……それとも、言えないようにしてほしい?」

 甘く囁く声と、愛しいという視線を隠しもせずに言われて、美弥子は頭が沸騰するかと思った。

「さっ!さ、とるさん!」

 いつ死んでもいいかもしれない。嘘、やめてまだ死ねない。

「なんだ、呼ばれちゃった。……まぁ、いっか。また後でね」

「あああ、あの!っは、離してください!そ、それに、な、名前を呼ぶ、とかよりも!はな、はなし、話をするって!」

 美弥子が半ば無理矢理叫ぶようにして、店に戻ってきた目的を口にすると、悟は名残惜しそうに手を離して苦笑した。

「そうだった……。聞きたい?」

 期待してほしいと言い、そのための言い訳話をすると言ったのは悟の方だ。美弥子としては、なんで自分を追いかけてきたのか、期待してほしいなんてこちらの気持ちを受け入れるような言い方をしておいて、このまま何も言ってもらえないだなんて、そんなの承諾できる訳がない。

 もちろんというように、美弥子は悟を見たまま何度も頷いて見せる。

 それを見た悟ははぁ、と一つ溜息をついて、まぁまずは飲んで落ち着こうかと、淹れてくれたばかりの珈琲をすすめられた。

 美弥子もワンクッションいれたくて、あたたかそうに湯気をたてる珈琲に手を伸ばす。それまで使っていたカップとは違うことに少し顔を曇らせたけれど、それよりも良い香りと喉を通り体に入った温かさにホッとする方が大きかった。

 悟を窺うと、彼も自分用のカップに入れた珈琲を味わうように含みゆっくり飲み下して自身を落ち着かせているように見える。そしてそれから、……何故かカウンターの上にいるトイ達を見た。

 そういえば、彼らの事が頭からすっぽ抜けていた……と美弥子も見ると、そこには店に帰ってきた時のまま、いや、公園で悟のトイが美弥子のトイに抱きついた時から、ずーっとくっついたままの彼らがいた。

 え?ずっとあのまま?ぎゅうっと抱きついたまま、なの?

 美弥子の疑問も尤もだろう。微動だにしない悟のトイに、大分あきれ顔の美弥子のトイ。もはや、諦めというか悟ってでもいるのか、しかたないなというような顔で悟のトイの頭を撫でてやっている。

 トイ達の精神年齢がどうなっているのかわからないけれど、これではどちらが年上かわかりゃしない。

「……呆れた?」

 さっきまでとは違う、少し震えたような声で、悟が話しかけてきた。

「え?いえ、別に……ただ、どうなってるのかな、とは思いま、……思う、けど」

 敬語でいつも通り話そうとしたら、悟が明らかに悲し気な顔をしたので、訂正したらうんうんと頷かれた。敬語もダメなのね。

「なんだか、ずっとくっついて、る、の?」

「そう。くっつきたがりなんだ。いつでもどこでも、好きな子にくっついていたい。この状態をからかうようにぺったり病なんて呼んだりしてた。いつでもどこでもぺったりべったり。好きで好きでしょうがない、って全身で訴えかけるんだ。……俺も、そう」

 ふわり、と優しく美弥子の手を取った悟は、指先を撫でながら言う。

「ずっと、できるならずっと触れていたい。触れられる距離に居たいし、撫でたり抱きしめたり、座ってる時なら背中合わせとかでも……とにかく近くに居たい。好きな子をずっと可愛がりたいんだ。俺はまぁ、街中は手を繋ぐ位で耐えられるけど、トイは無理みたいで、ずっとあんな感じなんだ。元カノ達にはそれがうっとおしいとか恥ずかしいって言われて、今までの相手にはあいつのせいで振られまくった。こないだ……元カノの前に来た同僚の女性、覚えてる?あの人は術師なんだ。だから、トイの事をたまに相談したりしてた。何とかならないかって」

 悟が語る過去の話は、それだけ元カノがいたということだから、正直あまり気分のいい物じゃないけれど、でもこうやって彼自身の事を、トイという秘匿性の高い大事な事を話してくれる嬉しさも同時にあった。

 それに、美弥子としては、先日の買い物へ行かされた時の女性の謎が解けたので、すっきり出来た部分もある。だから、私は外へ出されたんだ、と素直に受け止めた。

「結局、どうにもできないって言われて。大人しくさせるにはトックスにしまっておくか、自分の近くに居させて相手のトイの元へいけないようにするしかない、って話でさ。……だから、ここ最近、ずっとトックスに入れてた」

 独白のようになってきている悟の言葉に美弥子は頷いてみせる。なるほど、だからしまわれていた。……だから?それって、つまり?

「……まぁ、振られたのはトイのせいだけじゃ、ないんだけど。俺もそう、だから、かな」

 口元まで持ち上げた美弥子の指先を見つめ、ちゅ、と軽く唇を触れさせた。

 柔らかく暖かな感触に驚き、美弥子は咄嗟に手を引こうとした。けれど、それは叶わず、美弥子は口をはくはくさせてしまう。思いのほか悟に強く握られていて、自分の手なのに取り戻せなかった。

「ずっと、どこだって、一緒に居たいし、くっついてたい。……こういうの、イヤ?」

「……や、じゃ……、ない。びっくり、しただけ……」

「それじゃ、慣れて。あいつも……トイが、ずっとくっついてる事も」

 じっと見つめてくる悟の視線が熱を持っている気がして恥ずかしくなった美弥子は、悟に言われた事を実感するためかのようにトイ達へ視線を逸らした。

 美弥子が見た先では少しだけ腕の力を緩めたらしい悟のトイが、嬉しそうに美弥子のトイを見つめながら、まだ抱きついていた。

「あの子、は、ずっとあのまま、なの?」

「まぁ、そんな感じ。手を繋ぐだけで気が済む時もあるけど、大抵抱っこか抱きつくかしてるね」

 なるほど、と応えながらまだトイ達の様子を眺めていたら、ふいに手先をくん、と引っ張られる。その力に逆らわずに手の先を見た美弥子は、そういえば、と思い出した。さっき指先に口づけられた時から、ずっと悟に握られたままだ。

 そして、その先では、とろりと甘さを含んだ瞳が変わらず射貫くように美弥子を見ている。

「えっ、あ」

「こっちも、抱きしめていい?」

「あの、まって、待ってください!」

 ぐっとさらに距離を詰めてきた悟に、美弥子は待ったをかける。そりゃ、別に構わないし、なんなら自分だって抱きつきたいとは思うけれど、まだ美弥子としては肝心な部分の説明が足りていなかった。

「まだちゃんと聞いてないから!」

「えっ、あれ?さっき言わなかったっけ?」

 美弥子の宣言に悟は面食らったような顔をして驚いている。本人は言ったつもりになっているのかもしれないけれど、人に寄るだろうが美弥子にとってはかなり重要な部分だから、なんとなくで聞き流すわけにはいかなかった。

「……好きな子にはくっつきたい、としか、言われてない、です……」

 もうほとんど言われている事でもあるし、自分から強請るのも恥ずかしいけれど、それでもどうしようもなく言葉で聞きたいのだから、仕方がない。

 恥ずかしさをおして、美弥子は掴まれていない方の腕で真っ赤になっているであろう自分の顔を隠しながら、それまでの勢いはどこへやら、少し俯き加減になりつつも小さな声で呟くように悟に告げた。

「うわ、ごめん。そりゃ駄目だ」

 美弥子の口から零れた事実を聞いた悟は、ぱっと美弥子の手を離したかと思うと、両手を広げて見せた。

「ごめん、抱きしめて良いか聞く以前の問題だった。ちゃんと仕切り直しさせて?」

 申し訳なさそうに眉を下げて言う悟は情けない顔になっている。店で珍しくヘマをした時に、たまに見せる事はあるけれど、それでもレアな表情を見せられて、美弥子はもうずっと色んな感情でどぎまぎしっぱなしだ。離された指先からぬくもりが消えて寂しい、なんて一瞬だけ思ったけれど、すぐにそんな寂しさは霧散する。

 好きな人の色んな表情を見たいと思うのは、何も美弥子に限った事ではないはず。それがどんな顔であっても。美弥子が顔を隠している腕から悟の様子をちらりと見ると、ふぅ、と深く深呼吸し、姿勢を正して真面目な顔つきになった悟と目が合った。

 真剣な眼差しと、目が、合ってしまった。

 スローモーションのように、ゆっくり、すぅっと伸ばされた悟の両腕が、美弥子の頬に優しく、けれど逃さないというように添えられる。

 すっ、と息を吸った彼の顔から、口元から目が離せなかった。

「好きだよ」

 告げられたのは、真っ直ぐな一言。

 少し軽いように見せている彼が、実はとても真面目な人なのだと知っている元カノは何人くらいだろう。

「ずっと……可能ならそれこそ一日中、美弥子ちゃんを抱っこしてたい。どこでだってくっついていたいし……離れたくない。……こんな俺とトイだけど、恋人になってほしい」

 じわりと、今日何度目かの雫が美弥子の目頭を熱くする。

 言葉にならなくて、でも、何か返事を言わなくちゃ、と思って、美弥子は必死で声を絞り出した。

「……っ、は、い……っ」

「今度こそ……、抱きしめて、いい?」

 悟の再度の問いかけに、嬉しさから何も言えなくなってしまった美弥子はこくこくと頷いて見せる。悟はその様子を見て、自分を落ち着かせるようにか一瞬息をのんでから、腰を浮かせて美弥子に手を伸ばした。

「それじゃあ、遠慮なく」

 座ったままの美弥子へ伸ばされた手はふわりと背中へ回り、ぎゅうと強めに抱きしめられる。少しだけ上体を屈めるようにして美弥子が座ったままでも大丈夫なようにしてくれたその気遣いが嬉しくて、美弥子はふわりと微笑んだ。

 初めてにしては少し強めの抱擁に驚きはしたけれど、すぐにそんなのは気にならない程の安心感に包まれた。大きな体に包まれる暖かさとか、力強く支えられる安堵感とか……初めてなのに、しっくりくる、というのは相性が良いとかあるだろうか。

 そんな事を思いながら、美弥子は悟の肩の辺りをぽんぽんと軽く叩いた。何?と聞くように美弥子の顔を覗き込む悟に微笑みかけて、ほんの少しだけ距離を取るように悟の身体を押す。

 すると、悟としては不満なのだろう、拗ねたような顔をされたので、美弥子は笑ってしまった。しぶしぶながらも少しだけ悟の腕の力が緩んだ事で、美弥子も腰を上げて立ち上がる。そして今度は美弥子からも、腕を持ち上げ悟へぎゅうと抱きついた。

 抱きつかれた格好になった悟は一瞬身体を強張らせて……美弥子はもう一度、今度は先ほどよりももっと強く、まるで離さないと言わんばかりに強く抱きしめられた。


 しばらく、二人で互いに互いを抱きしめ合った後、ある程度は満足したのだろう、美弥子の上から、はぁぁ……、という大きな溜息がきこえてきた。

 溜息というよりも安堵からの気が抜けたが故というところだろうか。

「ずっと……こうしたかった……」

「ずっとって……、いつからです?」

「そうだなぁ…少なくとも、彩矢ちゃんが来る前あたりには、かな。敬語、戻ってる」

 本当に焦がれた声で言う悟に、美弥子が聞いた。彩矢が来る前ということは冬の終わり頃。今は夏の終わり、つまりは……大体半年くらいだ。

「そんなの、短い方ですよ。私がどれだけ待ったと思ってるんですか……。っと、すぐには抜けないの。ゆっくり慣れるまで待ってくれる?」

「しょうがないか。んー……、俺の勘違いでなければ、2年、とか?」

 なかなか抜けない敬語は仕方ないと思ってほしい。上司であり年上の男の人に対して、恋人だからってそうそう簡単に話し方を変えられる性格ではないのだ。

 それと、美弥子は己の気持ちがそれなりの期間、悟にバレていなかったと知って苦笑した。そりゃそうか、バイトの頃はまだ淡い位だったのだから。

「……もう少し足してください」

「うわ……ごめん」

 気が付けば三年と半年、ずっと悟を見つめてきたのだ。半年位で【ずっと】なんて言われちゃうと重みが違う。

 それでも、好きだという気持ちに早いも遅いもないと解っているし、今からこれから先ずっと、自分と離れたくないと思ってもらえるなら、それで構わない。

「いいですよ、この先私だけなのなら」

「勿論。アレ見てよ、他なんて目に入ると思う?」

 悟が顎でしゃくった先には、カウンターの上、今度は美弥子のトイの頭を抱えるようにして抱っこして、いい子いい子とずっと撫でまわしている悟のトイが見えた。飽きずにずーっとくっついているけれど、それで絶対とは言えないなぁと思っていると悟がさらに言う。

「多分さ、絶対って言っても、この先なんて解らないだろ。それでも今俺は君が好きだし、離したくない。だから、お互いに相手が離れて行かないように、言葉や態度で伝え合っていけたらなって思う……態度はまぁ、あいつらでわかる部分もあるだろうけど」

 その言葉は美弥子の中にストンと落ちた。確かに、人の気持ちなんて不確かなものだから、絶対はありえない。神様の前で永遠の愛を誓ったカップルだって、数年で離婚するなんてよくある話だから。それなら、自分が想っている事を悟に何度も伝えて、お互いに相手が自分を好きでいてもらえるよう努力をするのは大切だ、と。

「……じゃあ、ずっと悟さんに抱きつきたいと思ってもらえるように、毎日魅力的にならなきゃですね?」

 少しだけ考えた美弥子はそう言うと、悟から少しだけ身体を離し、斜め下から見上げるように悟の顔を覗き込んでから、可愛らしく見えるように小首をかしげて片目を閉じて見せた。

「っ!?そ、ういう事なんだけどさぁ!今やるか?!」

 焦ったような顔をした悟に、美弥子がしてやったりと思えたのは一瞬だった。

 次の瞬間には、三度ぐっと悟に抱き寄せられて……笑っていた唇を塞がれてしまったから。

 温かく柔らかな感触に急だと思わないでもなかったけれど、でもいやな気持は全く無かった。それよりも、抱きしめてくる腕の力強さとは反対に、優しく触れられるそれにすぐに夢中になってしまう。

 すぐに離れるのかと思った温かさは、美弥子の予想をいい意味で裏切ってくる。店に帰ってきてからの悟の行動は、悉く、美弥子の想像の範疇に収まらない。

 何度も啄むように食まれ、角度を変えて擦りあわされて、最初は暖かいと思った悟の唇とすぐに変わらぬ温度になってしまった。

 ようやく離された時には二人とも息があがっていた。こてんと美弥子の肩に置かれた悟の口から、はぁ…と悩ましい吐息が首筋にかかって、とても心臓に悪くて仕方がない。が、それは悟も同じなのかもしれない。同じように美弥子が悟の肩の上で呼吸をしたら、きゅ、と手先が服を掴んだ力が強まったから。

 少し落ち着かなければと思いはしたけれど、二人とも相手から離れようとは思わなかった。実は美弥子も悟と同じでくっつきたがりなのかもしれない。この心地よい温度から離れたいと思えないのだから。人前ではどうかわからないけれど、少なくとも、二人きりで一緒に居られる時間は、なるべく近くに居たい、かもしれない。

 火照った頬を冷やすのにしばらくの時間を要した後、悟が静かに口を開いた。

「……後でさ、お揃いのカップ、買いに行かないか?」

「カップ、って割っちゃったやつ?お揃いで?」

「ああ、二人だけのお揃いで一緒に飲みたいなって、さっき用意するときに思ったんだ」

 場の雰囲気を変えようと話題を探してくれたのも、お揃いのカップを一緒に探しに行こうというのも、とても嬉しい申し出だった。誰にどんなカップで珈琲を提供するかこだわりのある悟だからこそ、二人でお揃いのカップにしたいというのは特別な意味を持つに違いない。

「嬉しいです。それじゃ、あの子達にも金平糖用のお皿を」

「あいつらには一枚だけでいいと思う」

「ええ?」

 自分たちがお揃いなのなら、トイ達もと思ったのに、悟は違うのだろうか。そんな風に疑問に思って素直に驚いたら、もっと納得のいく答えがすぐに返ってきた。

「俺のトイが、きみのトイとずっとくっついていたいってなるだろうから、別の皿にしたらむしろ文句を言われそうだ」

「あー……それは、なかなか……」

「引いた?」

「……ちょっとだけ。でも、可愛いから許しちゃいそう」

 二体のトイが並んで一枚のお皿から金平糖をつついている様子は間違いなく可愛いに違いない。ずっとくっつかれている美弥子のトイをもう一度見てみると、満更でもない様子で悟のトイに抱きしめられている。だけでなく、自分からも悟のトイにぎゅうと抱きついていたので、この様子ならあちらも大丈夫そうだと美弥子は心から微笑んだ。






 いらっしゃいませ!喫茶ひといきへようこそ。

 ああ、ふふ。うちの店にいらっしゃるとみなさん、正面カウンターのトイちゃん達に目が行くんですよ。とっても可愛いでしょう?いっつもああやって二体並んで座って、お客様をお迎えしてるんです。うちのお店の名物になりつつありますねぇ。もう一年以上ああなので。多分これからもずっとあのままですよ。

 うちの店長とその彼女さんのトイなんですけどね、二体ともお客さんが来てくださるのは嬉しいから、にっこり笑顔になってくれるんですけど、彼女さんのトイはとっても笑顔なのに、店長のトイは彼女のトイがにっこり笑顔を他のトイに向けるのがイヤでちょっぴり拗ねちゃうんです。いつみてもああやってぎゅってくっついてて、ついつい微笑ましく見ちゃいませんか?うんうん、そうですよね。

 ああ、すみませんお席はどちらに……はい、それではこちらへどうぞ。

 おしぼりとお冷失礼します。そうそう、……新しいお客様が来た時に店長を見てみると、トイに負けず劣らず彼女への愛を示してますから、ちらっと見てみてください。そちらも常連さんの間のひそかな名物なんです。きっとお客様も恋人が恋しくなっちゃうこと請け合いですよ。同じ店の中で働くバイトとしては……彼が恋しくなっちゃうから少し控えてほしいんですけど、まぁそれもお二人がラブラブだからって事で仕方ないと思うようにしてます。

 それでは、ご注文おきまりになりましたら、お呼びください。

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トイは口ほどにものを言う さくらぺん @pen-kitty

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