届かぬ便りを望みます

神在月ユウ

ただ、切に願う

「死ぬ~……」


 毎日毎日、俺の口癖になっている言葉だ。

 

 朝、重い体をのっそりと起こして、目覚めたとき。

 トイレに入り、便座に座ったとき。

 惰性で自分の弁当を作っているとき。


 気づけば口にしている。


 三十代もすぐに終わりを迎えそうな俺は、いわば低能中年サラリーマンだ。

 今の職場は、全国の支店の施策を統括する部署だ。

 全国視点での発信と取り纏めは、俺には苦痛だ。

 会議に出ながらその裏でメールでの依頼事項やチャットのメッセージを処理するが、それをしないと仕事が回らないし、しかしそうすると会議の内容が頭に入ってこない。

 こんなコミュ障で要領の悪いやつにこんな仕事をさせないでほしい。

 自己肯定感などない。

 ただただ毎日、朝が来ることを呪い、鬱々とした気持ちで過ごす。

 宝くじの高額当選を果たして年利5%運用されたとして…、と叶わぬ労働からの解放を妄想し、職場の途上にある交差点では「あのトラック、こっちに突っ込んでくればいいのに」などと、どこまで本気かわからない妄言が脳裏によぎる。


 そんな日々の中で、一報が入った。


 弟が、結婚するそうだ。


 5つ年下の弟は、今は遠方で暮らしている。

 少し前までは独身同士で「結婚はお前に任せた」「長男なんだからお前がなんとかしろ」などと言い合っていたが、いつの間にか婚活していたようだ。

 そして、結婚するつもりだという話を聞いてから数か月後、結婚式の案内が送られてきた。

 場所は広島。

 俺は関東住みなので、新幹線か、飛行機かを考え、結局新幹線にした。


 実は、新幹線や飛行機の乗り方を覚えたのはつい最近だ。

 普段から旅行に行くことなどなく、今の部署に異動してから宮城や北海道、名古屋への出張があり、そこで予約やら発券やらを覚えたのだ。

 今の部署に対する、数少ない感謝ポイントだった。


 日時は土曜日の13時から。

 調べてみると、東京-広島間で新幹線4時間コースだ。東京駅まで出ることを考えると、余裕をもって前日に休みを取り、前泊することにした。

 毎日忙しい部署だったが、「絶対休みます」「弟の結婚式なんですよ」と言うと、「おめでとうございます」と返される。

 その言葉が、うれしかった。



 前日の金曜日になり、8時に家を出る。

 新幹線は9時30分なので、東京駅には発車40分前には着くはずだ。そこから広島まで行った後、折角なので呉にでも足を延ばして船でも見ようと思っての予定だ。


 礼服を詰めたバッグを背負い、日々乗っている東京方面の電車に乗る。

 出勤するときと同じ時間帯。

 普段から見慣れている通勤・通学の光景だ。

 そこに、職場に向かうわけでもない自分がいるというのが、変な感覚だ。

 いつもと違い、途中で電車を乗り換える。

 普段は乗らない快速で東京まで行くためだ。


 わかってはいたが、やはり平日の通勤・通学時間帯の快速電車は混雑する。

 着替えを入れたバッグは重さは大したことないが、少しかさばっている。ちょっと周囲に申し訳ないなと思いながら、バッグを抱えて車内中央でつり革を掴む。

 先頭か最後尾付近なら少しは混雑がマシになるかと思ったが、はやり混雑することに変わりはない。スピードも出ているので、車体が大きく揺れていて、バランス感覚の悪い俺はつり革がなければ倒れてしまいそうだった。


 ふと、弟のことを考える。


 今でこそ名前で呼ばれているが、昔は「お兄ちゃん」って呼ばれていた。

 修学旅行で数日いなくなる時は「寂しい」なんて言われていたと思う。

 いじめて泣かせてしまったこともあった。

 小学生の頃は見知らぬ人に、誰彼構わず話しかけていた弟が、高校生になるころには裾上げするために店員を呼ぶのが嫌だと、人見知りみたいになっていて笑ってしまった。

 俺が社会人になったころ、弟を連れて回転寿司に行ったとき、「このうどん、300円だけど頼んでいいかな?」と申し訳なさそうに訊いてきたこともあった。


 そんな弟だが、とうとう結婚するのだ。

 俺よりも勉強はできたし、転職の果てにいい職場に巡りあえたようで、恐らく年収は俺よりも上になるだろう。

 何より、自分の意見をもって物を言えるのがいい。

 周囲の意見に流されてしまう俺にはできていないことだ。

 だから、せめてお金くらいは出そうと思った。

 「祝儀袋とかもったいないからいらない」なんていうものだから、ならばと弟の口座に直接10万ほど振り込んだ。節目節目にも用意しようと思っている。



 いろいろと考えているうちに、電車は長区間での走行に入った。

 スピードが出ていて、揺れも一層大きくなる。


 そんなとき――


 ぶわりと、体が浮いた――気がする。


 耳にはキィキィガシガシギリギリと金属の不協和音が大音量で届き、視界は真っ暗になった。


 何が起こったのか理解できなかった。

 周囲からは「うぅ…」「痛いぃ…」「あぁ…」と呻き声が聞こえ、振り向こうとしても体が動かない。体の中心が固定され、何かがひっかかって動けない。

 息が詰まる。

 呼吸ができない。

 遅れて、自分が腹ばいになっていることに気づいた。

 その腹が、じんわりと鈍い痛みを訴えかけてきた。

 腹が、胸が、腕が、衣類が温かいものを吸い上げていく。


 何が起こったのか。

 うまく働かない頭が、少しずつ状況を理解していく。


 事故だ。


 乗っている電車が事故ったのだ。


 そうなると、服に染みてくる暖かな液体の正体も、俺の体を固定している状況も、さっきから腹の中心にある違和感の正体も、だんだんと、望んでもいないのに理解してしまう。


「死ぬ」


 毎日毎日口癖のように吐露していた言葉が、現実になった。


 なんで、今なんだろう。


 正直な感想だった。

 現実からの逃避で、反射的に「死ぬ」と口にしていた。

 でも、弟の祝いの場を目前にしての事態は、望んでなどいなかった。


 死にたくない。

 正直な感想は、そうではなかった。

 

 正確には、祝いの場を目前に家族や親類の訃報など流れてしまったら、どうなってしまうのだろうという不安だった。

 中止になったりはしないよな?

 そうでなくとも、変な空気になって、祝うこともできなくなってしまうのでは?

 そんな、弟と、そのパートナーに対する申し訳なさで、頭が一杯になる。


 せめて金くらい出すよ、なんて少しのお祝いを渡しただけで、式を挙げる弟たちに迷惑をかけるわけにはいかない。


 俺が死のうが、病院に搬送されて一命をとりとめようが、どうでもいい。

 せめて、明日の夜まで。

 いや、その翌日くらいまで、俺がこんなことになっている事実が弟に伝わらなければいいな。あと、両親にもか。


 とにかく、俺がどうなるかなんていい。

 今考えるのは、どうやったら俺が助かるかではない。

 この事故に俺が巻き込まれて、その生死がどうあれ、身元が判明して。

 どうすれば、連絡がいくことを遅らせることができるか。

 

 こういう事故での身元確認にどれだけ時間がかかるかわからないが。

 せめて、弟の晴れの舞台が終わってからになってほしい。

 

 こんな俺のせいで、弟の生活に悪影響を与えるわけにはいかない。

 だから、今だけは、日本の優秀な捜査機関や医療関係者の皆様の本領が発揮されないことを、切に願う。


 どうか、一日でも長く、俺のことが弟に伝わりませんように。


 俺の命を使ってもいいから。


 式にドタキャンする非常識な兄貴だと憤慨されるだけで、無事に結婚式が行われますように。


 何の憂いもなく、弟夫婦の、笑顔の写真が撮られますように。


 俺に、弟の邪魔を、させないでください。

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