3

 意識が急激に引き上げられる。ひゅっと鋭く息を吸って、綾乃は目を開いた。

 目の前に転がるのは、閉じた本と、野菜生活の紙パック。寝落ちする前と変わらない、綾乃の部屋の風景だった。

 カーテンの隙間からは、朝日が細く差し込んでいた。時計が示す時間は午前九時。土曜日で良かった、と息をつく。夜勤の日でなければ大遅刻だ。


 床で寝たせいで背中は痛いし頭も重い。おまけに瞼も腫れぼったいし、最悪だ。頬を伝う涙を拭う拍子に、とどめとばかりにスマホが手から落ちていった。

 ごとり。画面に貼った保護シートが割れると同時に、綾乃は思い出す。


「そっか。スマホだ」


 掠れた声で独りごちて、綾乃はラインのアプリを開いた。


『受け取りたい遺品があります。今日、伺ってもいいですか』


 手早くメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。返事は即座に帰ってきた。


『いつでもどうぞ』


 送信先は松崎聡。立ち上がった綾乃は、シャワーを浴びて身だしなみを整える。腫れた瞼と目の下のクマを化粧で誤魔化し、綾乃は飛び出すように駅へと駆けて行った。



 オートロックを抜けた先、扉の前で呼び鈴を鳴らす。新築だというマンションは、どこもかしこもつんと尖った匂いがした。


「アヤちゃん。いらっしゃい」


 暗い目をした松崎が綾乃を出迎えた。数ヶ月ぶりに姉夫婦の家を訪れた感想は、変わらないな、だった。物が少ないなりに生活感があり、姉の好みだろうゆるキャラの置きものがあちこちに置かれている。


「散らかっていて申し訳ない。まだ、片付けられてなくて」


 言い訳するように松崎が呟く。気落ちした顔には、微笑みと呼ぶのも気が引けるほど、下手くそな作り笑いが張り付いていた。


「この部屋、お姉ちゃんの物ばっかりですね」

「美月はかわいいものに目がないからね」


 丁寧に姉の名前を呼ぶ声に、胸が痛んだ。こうも早くパートナーに先立たれた男への同情かもしれないし、誰よりも姉の近くにいられた松崎への嫉妬もあったかもしれない。気を紛らわせるように、綾乃は近くの本棚に目を向ける。


「こっちの本もお姉ちゃんの?」

「うん、美月のものだよ。僕は本を読まないから」

「聡さんは物欲がないって、よくお姉ちゃんが言ってました」

「アヤちゃんもだろ? 鞄も服も、プレゼントしなきゃろくに買わないって美月から聞いてる」

「やだ、お姉ちゃんったらそんなこと話してたんですか。恥ずかしい」

「美月はアヤちゃんのことばかり話すから。妬けるくらいね」

「私だってお姉ちゃんからは聡さんのことばっかり聞いてましたよ」


 にこやかに話しながらも、綾乃は内心で舌を出していた。

 綾乃はこの男が嫌いだ。職場で姉と知り合ったという松崎は、姉との仲を深めるにつれ、綾乃の特権をことごとく奪っていった。

 姉が休日に出かける相手は松崎になり、姉が一喜一憂するのは松崎のことになり、姉に笑顔をあげられるのは松崎になった。犬みたいに姉にまとわりつくこの男が、綾乃は大嫌いだった。松崎の萎びた顔を見ていると、胸が余計にムカムカしてくる。


「あれ、この本……」


 本棚のラインナップを確認していたそのとき、綾乃は見覚えのあるタイトルを見つけた。昨夜読み終えたばかりの『黄金の礎』だ。


「聡さんも読んでたんですか? 本は読まないって言ってたのに」

「美月があんまり推すもんだから、気になってそのシリーズだけ読んでる。アヤちゃんも大好きなシリーズなんだろ?」

「はい。まあ」


 だから何だよと思いつつも、一応の礼儀として綾乃は松崎に話を振る。


「聡さんはどう思いました? あの終わり方」

「好みじゃないよ」


 思いのほかはっきりとした返答に、綾乃は目を見開いた。


「やるせない。何も全部ご都合主義で進めとは言わないけど、せめて頑張った人たちくらい、報われて欲しかったな」

「……私もそう思います。やっぱり私たち、似てるんですかね。お姉ちゃんがよく、そう言ってましたよ」


 ぎこちなく笑いかければ、返事に困ったように松崎は目を伏せた。


「……受け取りたい遺品っていうのは?」


 あからさまな話題の逸らし方に、綾乃は苦笑する。自分もよくやるけれど、やられてみると白けるものだ。そんなところまで自分とこの男は似ているらしい。


「スマホです」


 綾乃がそう言った途端、松崎はただでさえ白い顔色をさらに白くした。お構いなしに手を差し出せば、怯んだように松崎は後ずさる。


「ありますよね? それとも何か、困ることがありますか」

「それは……その……。何のために必要なのか、聞いてもいいかな」

「壊します」


 淡々と答えれば、驚いたように松崎は息を呑んだ。


「私も姉もオタクなので、人様に見せたくないもの、そこそこスマホに入れてるんです。先に死んだ方がスマホだけは処理しようって話したことがあったなって、ゆうべ夢を見て、思い出したんです」

「そういうことなら……」


 観念したように、松崎はため息をつき、ポケットから姉のスマホを取り出した。受け取るや否や、綾乃は手早く七を六回入力する。姉のパスコードはパスコードの意味がないことで家族内では有名だった。


「壊すなら水につけた方が早いよ。開かなくてもいいんじゃないかな」

「初期化するだけです」

「待っ――」


 慌てた様子で手を伸ばす松崎を、さっと背中でブロックする。綾乃には、確かめたいことがあった。緑のアイコンをタップして出た画面を見て、綾乃は細く長いため息をつく。


(……そりゃ、そうだよね)


 ズラリと並ぶラインのトーク履歴は、綾乃が亡き姉と交わしていたはずのやりとりそのものだった。入力欄には『いてほしい』という打ちかけの返事とともに、カーソルが虚しく点滅している。

 幽霊なんて、いるはずがないのだ。


「……ごめん」


 松崎が掠れた声で謝罪する。その声を聞いた途端に、自分でも怖くなるほど急激に、綾乃の怒りが爆発した。


「馬鹿にしてるんですか……! 夢見がちなシスコン女を哀れんでやろうとでも⁉︎」

「違う!」

「何が違うんです? なんでお姉ちゃんのフリなんてしたんですか!」

「美月がいるような気がしたんだ」

「はあ?」


 苦しげに顔を歪めて、松崎は懺悔する罪人そのものの様相でまくし立てる。


「おかしなことを言っているって分かってる。だけど、美月ならこうするだろう⁉︎ 死にそうな顔をしているアヤちゃんを放ってなんておかない。心配して何かするに決まってる。美月ならこう言う、美月ならこうするって考えてやり取りしてる間は、まだここに美月がいるような気がするんだよ!」

「馬鹿じゃないの⁉︎ いないものはいないんですよ! いつまでも死人みたいな顔してるのはあなたの方じゃないですか! お姉ちゃんが心配するなら、私じゃなくてあなたの方ですよ! なんで分かんないんですか!」


 八つ当たりをするように喚いたら、勝手に涙が滲んできた。ぐいと手の甲でそれを拭って、綾乃は必死に声を落ち着けようとする。


「そもそもあんなこと、お姉ちゃんは言わないし。だって、『死人は心配しない』って、お姉ちゃんなら言うもん」

「それこそ言わないな」


 上擦った声で松崎は言う。目の縁を赤く染めた情けない顔。大人の男がこんな顔をするところを、綾乃は初めて見た。


「美月は怖がりだった。ホラー映画は絶対見ないし、このマンションを買ったのだって、事故物件が怖いから中古は嫌だって美月が言ったからだ。アヤちゃんの前では理論武装して格好つけてたんだよ」

「え……」


 それは綾乃の知らない姉の話だった。綾乃の中に残る姉は、いつでも飄々とした顔をしていたから。


「なあ、アヤちゃん。いきなり来たの、何でだよ。夢でも見たからじゃないのか。美月は君のところには顔を出してくれるのか? 夢でいいから俺だって会いたいよ。どうして俺のところには来てくれないんだ? 妹ばっかり、いつもずるいじゃないか……!」


 片手で顔を覆った松崎は、とうとう背を丸めて泣き出してしまった。つられて涙を流しつつ、こっちのセリフだ、と綾乃は鼻を鳴らす。

 松崎の中の姉は、どんな顔をしているのだろう。綾乃の中に残る姉と、松崎の中の姉は、まるで違う気がした。けれどどちらが正しいかなんて、もう確かめようもない。記憶の中の人間なんて、姉の言うとおり、ゆらめく影法師と同じだからだ。実体がなくて、あいまいで、すぐに形を変えてしまう。答えを持つ唯一の人は、もういない。

 姉はもう死んだのだ。

 一度だけかたく目を瞑った後で、綾乃は覚悟を決めて、姉のスマホを初期化した。まっさらになったスマホの電源を切って、綾乃は祈るように天を仰ぐ。


(これでいい? お姉ちゃん)


 綾乃の見たものはただの夢かもしれないし、夢じゃないかもしれない。姉は答えを言わなかった。ならば綾乃がどう思おうが、こちらの勝手だ。


「いつまで泣いてるんですか。みっともない。私、あなたが嫌いです。聡さん」

「奇遇だな。俺も君が嫌いだよ、アヤちゃん」

「気が合いますね」

「違いない」


 綾乃と松崎は、涙と鼻水に塗れた間抜けな顔のまま、目を合わせて笑った。口喧嘩混じりに姉の思い出話をして、一区切りついたところで、綾乃はすん、と鼻をすする。


「仕事、行かなくちゃ。片付けするとき、連絡ください。手伝いますから」

「いいよ、ひとりで。美月のもの、誰にも触られたくない」

「よくありません。お姉ちゃんのもの、独り占めしないで」

「シスコン」

「粘着男」


 こいつが嫌いだ。けれど、多分この世で一番自分と近い気持ちを持っているのも、目の前の相手だ。


「いってらっしゃい、頑張って。人を助けてきなよ、藤沢先生」

「言われなくてもそれが私の仕事です。聡さんもせいぜいお元気で」


 充血した目で睨み合い、背を翻して扉をくぐる。大切な人が死んでも変わらぬ日々が腹立たしい。それでも、日々は過ぎていく。

 ゆらめく影法師を踏み締めて、綾乃は歩く。

 通り過ぎていく風が、するりと優しく頬を撫でた気がした。

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錯覚幽霊ライン あかいあとり @atori_akai

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