藤枝伊織

 例えばこんな風に、今にも雨が降り出しそうな日に寝込んでしまいことを思いますと、人間なんてものもやはり自然の一部なのだなあと実感するのでございます。いつまでも寝込むことは許されませんから、重い体に鞭を打ち、お台所に立つのです。さながら、力士といえば土俵を思い浮かべるように、私はお台所にいることを求められます。頭痛はこめかみを揉んでも収まらず、音を立てるようにして痛みます。頭を割ってしまいたくなる気持ちもわかってしまいます。



 一歩、歩くことに軋むのは体でしょうか。それとも、どこなのでしょう。

 凝りに凝り固まった肩はいくら揉んでも全くほぐれず、また日々の疲れを溜めていくのです。布団の上で一日過ごすことができれば少しはマシになるように感じます。どこかしら壊れ続ける私は欠陥品なのでしょうね。


 頭も肩も、腰も女性としての部位も私は壊れているようです。

 はやく子供を産むことができれば私の居場所も増えるのでしょうか。そうであってほしいものです。はやく。はやく。まだか。まだか。みなさんそうおっしゃいます。私だけに非があるとでもお思いなのでしょうか。私一人で産めるのならさっさと産んでいるでしょうに。旦那様を責める方はいらっしゃいませんもの。業は私に鉄の雨のように降り注ぎます。どうあがいても私は女ですから極楽には行けません。私の父がよく申しておりました。父が言うのならそうなのでしょう。それならば私は仏様に助けを求めなくて良いのです。


 きっと、慈悲深い仏様も父や旦那様のような方でしょう。私は静かに微笑んでいれば良いのです。そうして静かに心を閉じるのです。いわおのように。がっしりとそびえ立つようにいなくてはなりません。柔らかいところなどあってはならないのです。


 しかし私にはそれが難しいのです。硬いのはある一面だけで、すべてを覆うことができません。柔いところを見せたのなら、すぐに傷ついてしまいます。巌になれないのなら貝のように閉ざさなくてはいけません。見せてはいけないのです。

 私の母もそのような人でした。感情を表に出さず淡々と生きていらっしゃいました。隙を見せない生き方を母からもっと学ぶべきでした。私はまだ母のように強くありません。夜、一人きりの時を見て、しとねで涙を流すことがしばしばあります。弱いのです。体が弱いせいでしょうか。それとも根が怠惰なせいでしょうか。そこかしこと比べて、自分は辛い思いをしていると思いたいだけなのかもしれません。そうすればまだ自分は傷つかずに済みますからね。環境のせいにすれば自分は悪くないのです。やはり私もそうなのでしょうか。自身で自身のことがわかっていないというのも怠惰な証拠でしょうか。


 お台所にはお義母様かあさまがいることもしばしばございます。義母は良くしてくださいますが、私に厳しい視線を投げかけていることを知っています。私がしっかりしていないから旦那様が余所よそに女を作るんだということを非難しているのです。私という女はどう振舞えば良いのでしょう。寝所で旦那様に、お前のことは好かんと言われたのは初夜のことです。知らない土地に一人でやってきた私に居場所はないのだと言葉にして突きつけられました。  

 生娘だった私は初めての夜に唇を食いしばり痛みに泣きました。それは何のために耐えたのですか。好かんと言い張る男に体を開いているのに、それからも一向に私に興味を持ってくださらない。そうしていつの間にか余所に女を作ったということを女中ごしに聞いたのです。




 私はどうすれば良かったのでしょう。もっと容貌が良ければ可愛がってもらえたのでしょうか。それはいまからどうとできることではありません。お料理だとかお裁縫だとか女性としての努力が足りないのだというのならば、まだ私も納得できます。そうであってほしいところです。どうしようもない、私の存在がそもそも受け入れられないというのであれば、もう正解はないのです。私にできることなどないのです。そうしたら私は何のためにここへ来たのでしょう。

 居場所がないのはわかりきっているのにそれでも悩む私が愚かなのでしょうか。

 ここで生きていくしか道はないのだと腹を括れと父なら私を叱るでしょう。母ならきっと静かに微笑むのでしょう。男はなんと楽でしょう。生きる道を示されないのは生きにくいです。

 お台所に立ち、私は黙々と食事の支度をします。窓から見える外はどんよりと曇っており、すぐにでも雨が降りそうです。朝だというのに清々しさを感じさせない、沈んだ朝です。このまま私も沈んでいくようです。朝よりは、夜でしょうか。私は夜に溺れています。いつだって夜に怯え、寝所にやってくる旦那様にこれ以上嫌われないようにと自身を殺しています。空が徐々に夜に染まる様子を眺めるのは苦しいです。

 幼いころ、まだ自分が女だと気がついていなかったころ、近所の子供たちと一緒に遊び、川で溺れたことがありました。川縁に咲いていた小さな花が欲しくて手を伸ばしてそのまま落ちたのです。呼吸ができなくて何度も水面から顔を出そうともがきました。もがけばもがくほど水を飲み苦しくて咳き込むと、また水を飲みました。

 助けて。懸命に叫びました。その声はほとんどが濁流にかき消され川に飲み込まれたのです。私が助けられたのはだいぶ流された下流の方だったと母から聞きました。気を失ってしまったようで助けられた際の記憶はありません。


 助けて。助けて。助けて。誰でもいいので助けてください。


 痛いほどに祈ったことは覚えています。

 悲しいことに今と何一つ変わってないじゃあないですか。今だってこんなにも願っています。祈る相手がいないので祈っていないだけ。仏様、女は救ってくださらないのでしょう。助けて、と口に出せたら幾分楽になれるでしょう。しかし現実には言うことは許されません。私が勝手に生き辛さを感じているだけで、家の人は誰も悪くないのです。旦那様もお義母様もお義父様も。女中でさえも私に気を使ってくれているというのに。


 何が苦しいのかと面と向かって問われたら私もおそらく口ごもってしまうでしょう。私がうまく立ち回れれば良かっただけのことです。

 この縁自体、親同士が決めたことですから、旦那様も結納や婚姻の時に対面したばかりの小娘に愛を持って接することが出来ないのも仕方ないことです。寡黙な方ですから言葉が足りず、お前のことは好かんという発言に繋がっただけでしょう。

 食事が出来たらいつも旦那様に声をかけに行きます。いつもとても早起きをする方ですので恐らく庭を散歩でもなさっているのでしょう。

 じっとしていることが苦手なのです。なんとなくわかります。だから旦那様は余所に女を作ったのでしょう。この家にじっと留まるのは窮屈です。それも好きでもない女といるのだからなおさらでしょう。大きな体で無口な旦那様。きっと余所の女は旦那様を受け入れられる優しい女なのでしょう。きっとそのうち妾としてこの家にやってくるでしょうから焦らなくてもいつか会うことになると思います。考えないように、考えないように。それなのに頭の隅にいつの間にか居座っている女。私は彼女を埋めるのです。現実の煩わしさで忘れるように。でもいつの間にか、着飾って旦那様を誘っています。淫らな女。


 汚い。想像。


 淫らなのは私です。旦那様が私を好かないのは当然です。私はこんなに醜い人間だったのですね。頭の中がおかしな妄想で破裂しそうです。頭痛の原因はこっちだったのかもしれません。それならば自業自得。自分で自分を苦しめて、そうして被害者のような顔をしていたのなら、なんて愚かでしょう。

 生きにくい道をさらに自分から細めていたのだなんて。私は高潔な人間でありたいと常々自らに課していたのに。私の生き方を私自身が否定してしまっているようで、不意に吐き気が押し寄せ、口を押さえました。

 外は、雲を揺らしたらすぐにでも雨粒がこぼれてきそうなほどです。風が冷たい。旦那様は塀のそばにいらっしゃいました。ぼんやりと塀の外に目をやっているように見えました。どこを見ているともとれません。私が声をかけると、おもむろにこちらを振り向かれました。精悍な旦那様。その目に見つめられると私は蛇に睨まれた蛙のようになっていまいます。足が知らずと震えていました。旦那様は私には声をかけてくださいませんでした。ただ、うつむいてしまった私を置いて、お一人で歩き始めました。私は小さな手で口元を隠しました。やはり手も微かに震えていました。小波のようです。感情の海は旦那様という投石によって波を立てるのです。私は唇を噛みしめているようでした。手で触れたことでやっと気づきました。それも相当きつく噛みしめていたとわかったのは唇を解放した後のことでした。唇には血がにじんでいました。きっとお食事の時に噛みしめてしまったことを後悔するでしょう。


 旦那様に一人残され、私は旦那様が先ほどしていたように塀をぼんやり眺めました。この先にいる女を想っているのでしょうか。私にはこの先には何もありません。実家は私の場所ではありません。兄がきっと大きな顔をしています。妹たちもそのうちいなくなります。友人たちも、もう嫁いでいるでしょう。私には誰もおりません。何もないのです。私がもしいなくなっても誰にも影響がないといえるでしょう。所詮、子の産めぬ腹。私の価値は、誰とも知れぬ余所の女が子を宿すようであれば、それ以下。長男の嫁でありながら跡継ぎを残せないのなら、意味がないと誰もが思っています。

 風が肌に突き刺さるようです。寒さで体は悴み、鈍っていくようです。心は荒涼としています。腰痛も肩凝りも悪化します。

 どれか一つでも軽くなれば心も楽になるでしょう。しかしどうしても今の暮らしでは凝りに凝った肩を解す術がありません。溜め息を吐き、自分で自分の肩を揉みました。足下に視線が降りました。枯れ枝の様だ、と思いました。着物の裾が捲れていたのでした。みすぼらしい。私が男だったとしたら枯れ枝と添うてしまったのかと悲しくなるでしょう。


 やはり原因は私自身なのですね。と、私自身に問うても正解は出てきません。旦那様、答えてくださいませ。そうなのですか。旦那様はお先にお食事を召し上がっているでしょう。私はなぜここで震えているのでしょう。  今すぐにでも母屋に乗り込んで喚き散らかしてしまいたい。私の中にこのような衝動があったことが驚きです。お母さまのように清廉に生きたかったのに。私にあるのは悪鬼の如き不徳義な心です。


 私は再び深呼吸をします。そうなれば私に待っているのは三行半みくだりはんです。たとえそうでなかったとしても、冷ややかな目が一層厳しくなるだけだと知っています。せめてもの理性で私は衝動に打ち勝ちます。そろそろ私もお食事をとりましょうか。せっかく炊いたご飯も冷めてしまいそうです。

 ご飯を食べても体の中に栄養として蓄えられない気がします。口に入れているのになかなか飲み込めないのです。噛むことも出来ない。口に含んだだけで吐き気が催してきます。唾液だけが溢れてきます。どれも味がしないのです。それなのにお腹が空くのが困りものです。私がまずそうに食べているとまた何か言われてしまいます。かといって美味しそうに食べても何か言われるのでしょうが。私に必要なのは弁えていること。良き妻を演じるのです。私の脳裏にはいつも母がいます。尊敬するお母様。仮に内面が悪鬼のようでもそうと悟られなければ良いのです。思考はいつも同じ道を辿ります。恐らく入り口が狭いのでしょう。私の凝り固まった頭は視野を狭め、私の首を絞めます。


 一口ずつ、ゆっくりと口に運んでは咀嚼する。そう、その繰り返しをすればいいだけです。今朝私は何を作ったのでしょう。全く記憶にありません。でもこれを食べても旦那様が怒り出すようなことがなかったことを思えばそう不味くもないようです。何を食べても苦く感じるのは胃から上がってくるもののせいでしょう。

 しばらくして、旦那様がお仕事に行かれるために私は玄関にてお見送りをします。旦那様は私から帽子を受けてとると、静かに頷いたようでした。

 その途端、私の中に寂寞とした風が吹き抜けました。

 去って行ってしまう、旦那様。その背中。お仕事が終わったらきっとその足で、女の元へ行かれるんでしょう。お願いですから私をもっと労ってください。旦那様が一言二言声を掛けてくれさえすれば報われるのに。なぜそうも頑なに私には口を閉ざすのですか。声を上げて泣いてしまいたい。地団駄を踏んで幼子のように暴れてしまいたい。私は良き妻でいなくてはいけない。こんなことを考える私はきっとおかしいのです。あゝ、それでも。

 どうか今すぐ全て壊れてしまえば良いのに。

 私はその場に膝をついて崩れ落ちました。体が言うことを聞かないのです。口を押えましたが間に合わず、先ほどやっとの思いで胃に収めたものが口から溢れました。玄関先だけではなく、たたきまで汚れてしまいます。もう少しだけでも我慢できればせめて庭の端に行ったのに、その間もありませんでした。苦しい。腹の中全てが爛れているようです。私の中の悪鬼。浄化されなさい。普段から私は祈らない。だからでしょうか。これは仏罰、それとも天罰でしょうか。

 鼻の奥がつんと痛みます。舌の上には苦さと酸っぱさが入り混じっています。そのまま。   

 私はそれをまき散らし続けました。固形物が出なくても、液体すら口から出なくなっても私は吐き続けました。それでも、私の中には黒い靄がありました。浄化されきれないのです。私は絶望しました。今からやらねばいけないことはたくさんあるのに。私が長らく玄関にいることを不審に思ったのか、お義母様が私を呼んでいる声が聞こえました。そうして蹲っている私を見つけたのです。お義母様は私に駆け寄り、何事かと訊ねましたが私は答えられませんでした。えずくのが止まらないのです。

 お義母様はすぐに私を女中らに言って布団に寝かせてくださいました。お医者様を呼ばれたようです。



 しばらくしてお医者様が私を診察してくださいました。私は安堵したのかすぐに眠りについてしまいました。それから、目が覚めるとひどくがっかりしたようなお義母様が私の足元に立っていらっしゃいました。顔は青ざめており、目は潤んでおりました。視線はどこに向かっているとも取れず、彷徨っています。お義母様は私が目覚めていることに気がついていないようでした。何かをブツブツとつぶやいています。起きていることを悟られない方がいいのでしょうか。私は息を潜めました。しばらくお義母様の言葉に耳を傾けていると、一つ気づきました。跡継ぎのことを嘆いているのでした。私が吐いたのを悪阻であることを期待していたのでしょう。産めもしないただ飯食らいと罵っているのでした。石女うまずめと言われようとも種がなくては実ることはないのに。

 もう涙も出ません。お義母様がそういう方であることは知っておりました。でもやるせない気持ちはどうしようもありません。先ほどあれだけ吐き出したのに、また靄が溜っていくのです。

 お義母様はそのまま半時ほど私を責め続けていました。その後、ふっと糸が切れたかのように静かになり、部屋から出て行かれました。私もゆっくりと体を起こしました。どうしましょう。どうしてこんなにも凪いでいるのでしょう。凪いでいるのに薄皮一枚剥がしたら恐ろしいまでの衝動があるのです。どうして。その想像はとてつもなく恐ろしいのに、私は少し気を許したら実行してしまいそうで、こんな人間だったのかと驚くばかりです。



 いえ、こういう人間だったのです。私が純真無垢でないことくらい、とうの昔から知っておりました。お母様。私はどうすれば良いのですか。

 誰も私に道を示してくれる人は居りません。

 わかっていたことではないですか。

 私は無力なのです。あるのは軽薄な驕りだけ。私は声を上げて笑いました。

 不意にこみ上げてきたのは自嘲でした。

 私は愚かだったのです。構ってほしいと駄々を捏ねる子と同じです。分相応に生きていないのは私。

 それでも胸の内にある熱いものを消すことは出来ません。納得と理解は別のものです。 



 体を起こすと、不思議なくらい頭がすっきりとしておりました。今までが嘘のようです。あんなに重かった身体も心なしか軽いのです。私に必要だったのはほんの少しの睡眠。休息。

 全て壊れてしまえば良いのです。

 そう、そうです。全て壊れてしまえば良いのです。愚かな私。私を顧みてくださらない旦那様。陰で私を蔑むお義母様もお義父様も。そして憎い旦那様が通う女。あゝ私が何をしたというのですか。

 傲慢であることは罪でしょう。しかしそれはそれほどにも許されないものでしょうか。

 私は走り出していました。着物の裾が捲れることも気にせず走るのなど、月のものもまだ来ていなかった子の時以来です。得体の知れぬ解放感が私を包んでいました。

 足の裏が嫌に冷たい。しかし苦ではありませんでした。時々痛みもありました。それは革命のようでありました。解放には痛みがつきものなのです。これは解放の痛みなのです。



 私は自由なのです。


 今までは卑屈になりすぎていたのです。狭い世界では傲慢になっても仕方ありません。視野が狭く自分以外が見えていなかったのです。今も自分しかありません。それでもいいのです。卑屈になり自身を貶めるよりも、驕っている位の方が度胸があるというものです。

 驕るなかれ。いいえ、私には誇れるものがないのですから驕っているとも言えぬはず。

 怖いものなど何もないのです。足が勝手に動きます。まるで行きたいところがあるようです。私は自分の足に任せることにしました。

 自由な足はとても軽やかです。

 そして程なくたどり着いたのは、旦那様の書斎でした。そこは普段私は立ち入りを禁じられております。もちろん入るのは始めてです。物珍しさに私は好奇心をかきたてられました。 

 たくさんの書籍があります。孟子や孔子も、それに何語かわからない本もたくさんあるようでした。私も本は好きです。しかしあまり家で読むことを良しとされていなかったため、隠れて読んでおりました。たくさんの本。私はどれだけこれらに憧れたでしょう。英語らしき本もあれば少し違った雰囲気の本もあります。違う言語なのでしょうがわかりかねました。昔父の仕事の関係で独逸の方が家に来られたことがありました。しかし会うことはできませんのでどんなお顔をされていたかわかりません。ただ、ひどく背が高くて、遠目からでも父が矮小な人間に見えました。家では大きなお父様があんなに小さく見えると幼い私は怯えました。今にして思えば、たしかに怯えもありましたが、そこにあったのは未知への興味でした。大きな人たちが暮らす国への憧憬。そこにはきっと父のような男性はおらず、私のような小さな人間もいないのです。

 難しいものは読めませんが。墨と紙のにおい。ややくたびれた本たちは旦那様が何度も読み返したことを示しています。愛おしい女に触れるように大切に扱われているようです。

 こんなにも大切にされているものがあるのに、余所の女の元に通うのですね。旦那様の大切なものの中に私も入りたかっただけなのに。

 私は、ただもっと学びたかった。お父様が良しとされませんでした。

 子供たちに交じって走り回りたかった。ある時を境にそれは許されなくなりました。


 何か、大切なものになりたかっただけ。

 私が大切にしているものを守りたかっただけ。

 特別な人の、特別になってみたかった。

 分不相応。


 誰もが夢見る寝物語。それでも。憧れるのは仕方ないではありませんか。こんなに生きていくだけで辛いだなんて。

 手当たり次第に物を手に取っては投げました。筆や墨壺。文机に手が触れたとき、柔らかい感触がありました。手に取ったそれは旦那様の綿入れでした。私が仕立てたものです。

 膝の力が抜け、その場に座り込みました。

 寒くないようにとしっかりと縫い付けた私の針の癖がまるわかりです。刺繍は見事なのになぜ縫い物にはこんなに癖が出るのでしょうと母に苦笑されたことがありました。

 ただ、寒いからと云う理由かもしれません。

 それでも。それだけの理由だとしても。なぜ涙が溢れてくるのでしょう。綿入れを胸に掻き抱きました。

 これはどういう感情なのでしょう。

 涙の意味がわかりません。

 声を上げて泣きました。こんなに声を上げたのはいつ以来か、わかりません。しかし私は何も考えずただ綿入れを抱きしめて泣いていたのです。

 私の中にはたくさんのものが渦巻いていました。この感情を言語化することは出来ません。私はあまりに無知でございました。

 ひとしきり泣いたので綿入れが心なしか先ほどよりも重くなっているようでした。

 それでも、心は晴れないのでした。

 私の衝動は行き場がなくなり押し殺されてしまいます。それがひどく苦しいのです。

 文机の上に光るものを見つけました。鋏でした。紙を裁つのに用いたのでしょう。それが無性に目につきました。まるで魅入られたかのように私は鋏に手を伸ばしました。

 先ほどまで大事に、大切に掻き抱いていた綿入れに、私は鋏を入れました。

 ゆっくり。

 中の綿が見えます。

 袷はたやすく切れますが、綿がなかなか鋏を拒みます。少しずつ切り進めます。ゆっくり。ゆっくり。

 息苦しさが薄れていくようです。私の体のいたる所に住み着いた悪鬼が少しずつ浄化されていくのです。

 旦那様を想い、私は鋏を進めました。

 また、涙が溢れてきました。これは先ほどのものとは異なります。

 あゝ、私は今満たされているのです。

 私はこの瞬間だけで良いのです。この瞬間だけでこの先如何様なことがあっても生きていける気がします。

 もっと異なる形でこの気持ちを知ることが出来たのなら、もしかしたら旦那様と円満に生きることが出来たのやもしれません。しかし私はそれを見つけられませんでした。

 鋏は正直に私の望むままに切り裂いていきます。

 私は今まさに欲望に忠実な人間でありました。

 私はもう二度と人間として生まれ変わることは出来ないでしょう。

 畜生道に落ちようとも私は、一度きりの人間を全うするのです。

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藤枝伊織 @fujieda106

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