第22話 薔薇のアーチと白いレースのリボン

「ちょっと、アタシのこと忘れてな~い?」


 ハチ香がぷくぅっと頬を膨らませている。


「ハチ香! 忘れるわけないじゃない!」


 澄香は風船のような頬を優しく撫でる。


「ハチ香、さっきはご苦労だった。おまえ、必死に澄香を守ろうとしていただろう……。やはりおまえを澄香の“連れ”にしてよかったと思っている」

「ルイ……」


 たちまちハチ香の大きな瞳に水の膜が張る。


「ハチ香、おまえも屋上に一緒に来るといい。あそこには幼児用の遊具がたくさんあるからな」

「ちょっ……、誰が『幼児』よ!」


 ハッハッハッと楽しげに笑う流唯と、ますます頬を膨らませているハチ香を見て、澄香は胸が温かくなるのを感じていた。




「――まぁ……!」


 鬼京百貨店の屋上にやってきた澄香の口から、思わず感嘆の声がこぼれた。

 眼の前に広がるのは、ここが皇都であることを忘れさせるような緑あふれる空間。

 秋だというのに様々な品種の薔薇ばらが咲き誇り、甘い香りを放っている。


「薔薇といえば、5月頃が見頃だと思っていましたが……秋にもこんなにキレイに咲くのですね」

「秋に咲く薔薇もあるにはあるのだが、春に咲くものと比べると、やや小ぶりで色味も抑え気味なものが多い。秋の薔薇もそれはそれで美しいのだが、やはり俺は大きくて色鮮やかな春の薔薇が好きなんだ。だからここの薔薇には、秋にも咲き続けられるようちょっとだけ呪術をかけている」


 流唯はそう言うと、片目をバチンと閉じてみせた。


「あそこに少し座ろうか」


 流唯が指し示したベンチは、なんとピンク色の薔薇のアーチで囲まれている。


(薔薇のアーチ……まるでお伽噺とぎばなしみたいね……)


 澄香はうっとりとした気分で、流唯の隣に腰かけた。

 ハチ香はというと、薔薇の上を飛び交う蜜蜂が気になるようで、あっちの花、こっちの花と、飛び跳ねるように動き回っている。


「――澄香、さっき芽唯が言っていたことだが……」


 しばらくハチ香の姿を目で追っていた流唯が、おもむろに切り出した。


「……はい」


 何か大事なことを告げられる気がして、澄香は居住まいを正す。


「あの白いレースのリボンは、西洋で購入したものなんだ」

「……西洋で、ですか」

「あぁ。芽唯が留学している間に、一度だけ行ったことがあるんだ。『どこか観光したいところ、ある?』と聞かれたのだが、まったく思い浮かばなかった。そうしたら芽唯が、のみの市に連れて行ってくれたんだ」

「蚤の市、ですか?」


 初めて聞く言葉に、澄香は首をかしげる。


「あぁ。蚤の市というのは、年代物の家具や宝飾品などを古物商から買い取ることのできる、いわゆる“市”だよ。西洋では、皇國の“市”では考えられないような価値あるものが売買されているんだ。芽唯が連れて行ってくれたのは、特に掘り出し物が見つかることで有名な、歴史のある蚤の市だった」


 納屋に引きこもって生きるしかなかった澄香にとってはまったく想像のつかない世界の話であり、澄香は黙って流唯の言葉を待った。


「そこで見つけたのが、あのリボンだった。なぜだかわからないのだが、すごく惹きつけられてね……俺は男だからリボンなんて必要ないのに、おかしな話だと思うだろう? だが、理屈ではなくて……直感のようなものだった。どうしてもこれがほしいと思ったんだ。それで、古物商に『これをください』と言ったら、その男、俺の目をじっと見てきた。なんだろう……? と思っていたら『条件がある。これは、あなたが一生を添い遂げたいと心から願う方に贈ること。約束できますか?』そう言われたんだ。俺は、自然と頷いていた。もちろんその当時、そんな相手はいなかったのだが……なぜだかわからないのだが、どうしてもあのリボンを手に入れたかったんだ」


 流唯はそこで言葉を区切ると、あのリボンを出してもらってもいいか、と澄香に尋ねた。

 澄香は首肯し、巾着の中に収めていたリボンを取り出し、流唯に差し出す。


「……本当に不思議なリボンだ。やはりこうして手にしていると、どうしようもなく惹きつけられる」

 

 そう呟くと、流唯は突然立ち上がり、澄香の前にひざまずいた。


「――澄香……愛している。おまえを幸せにするためなら、俺のすべてを澄香、おまえに捧げよう……受け取ってくれるか?」


 リボンを差し出す流唯の手は、かすかに震えている。

 澄香はその手を両手でそっと包むと、目尻から大きな雫をこぼしながら答える。


「――はい。旦那様……わたしも、旦那様を心からお慕い申し上げております。なにも……なにもできない愚かなわたしですが……末永く、よろしくお願いいたします」

 

 流唯はアーモンド型の瞳を潤ませ、澄香を強く抱きしめる。


「決して……決して放さない……澄香」

「はい……旦那様……決して放さないでください」


 流唯は澄香の背に回していた腕をほどくと、自分を映し出している濡れた瞳を見詰めた。

 そして涙で濡れた頬を両手で優しく包むと、顔をゆっくりと近付ける。

 目を閉じる澄香。

 桃色に艶めく唇が、眼の前に迫ったその瞬間――。

 流唯はスッと顔の角度を変えると、柔らかな頬にその唇を押し当てた。

 どれくらいのあいだ、そうしていただろうか。

 しばらくすると流唯は唇を離し、危なかった、と呟いた。

 そしてもう一度、澄香をふわりと抱きしめる。


「――旦那様……わたしは……わたしは、構わないのですよ。寿命が減ったって構いません」


 気付くと澄香は、泣きながらそう言葉にしていた。


(わたしったら、なぜ旦那様にこんなことを……わたし、旦那様に接吻をしてほしいと、あの瞬間確かに思っていたわ……恥ずかしい。恥ずかしいけれど……でも、それはきっと、お相手が旦那様だからなのだわ。心からお慕いしている方だから、こんな気持ちになるのだわ……)


「澄香……ありがとう。でも、それはいけない。俺は澄香といつまでも一緒にいたい。お婆さんになった澄香も可愛らしいだろうからな。……おっと――」


 澄香の目の淵から、とどまることを知らずにこぼれ落ちてくる涙の粒を、流唯は指でそっとぬぐいながら、言葉を続けた。


「澄香、できるだけ早いうちにお披露目パーティーを開こうと思うのだが、どうだろうか」

「……お披露目パーティー、ですか……?」

「あぁ。おまえも知ってのとおり、俺は何十人もの花嫁候補たちを泣いて帰らせた『冷酷な鬼神』と言われている。その鬼がとうとう、ただひとりの愛する女性を見つけたと世間に報告してやらねばな」


 流唯はそう言って、小さく笑った。


(こ、こんなに魅力的な男性が選んだ『ただひとりの愛する女性』がわたしだと知ったら、世の中の人たちはどう思うだろう……絶対に納得しないわよね……)

 

 澄香は背中にどしりと大きな漬物石を背負わされたような気分になった。


「あまり考えすぎることはない。おまえは可愛らしくて、このうえなく優しい素晴らしい女性だ。パーティーの席でも堂々としていればいい」


 澄香の気持ちを読んだかのように、流唯はそう言って柔らかく微笑んだ。


(……とても堂々となんてできないでしょうけれど……旦那様は鬼京グループの社長を務めるお方。婚約者のお披露目をするのも、お役目のひとつなのでしょう。わたしもここは腹をくくらなければ)


 澄香は顔を上げると、分かりました、と言って微笑み返したのだった。

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