#01 日曜日の奇跡

「いや昨日の昼ご飯、カルボナーラだったんだけどさ…」 


 友人が何気なく放った一言だった。


 その日は一週間後にアンサンブルコンテストを控えており、珍しく日曜日に部活があった。


 猫丸はというと、当時中学二年生で吹奏楽部に所属しており(『あの音が響く先で』を読んで下さっている方ならご存知だと思いますが)、ドがつくほどの部活バカだったと記憶している。


 午後四時からのたった数時間だけを生き甲斐に、面倒な授業や苦手な同級生たちとの関わりをこなしていた。


 お世辞にも強豪校とは言えない部で、同期たちが日々『面倒くさい』と不満を零しながら嫌々練習に励んでいる中、土日両方練習があることにこの上ない幸せを感じでいる部員なんて、猫丸くらいだったように思う。


 いつも帰路を共にしている友人・S(女)はその日の帰り道、幾度となく『唇が痛い』を顔を顰めていた。


 原因は唇の過度使用によるもの。このSの言動、トランペット吹きの人なら共感してもらえるのだろうか。

   

「黒胡椒食べただけでめっちゃ唇ヒリヒリしたの!」


「え?黒胡椒?」


「いや昨日の昼ご飯カルボナーラだったんだけどさ、ほら、カルボナーラって上に黒胡椒がかかってるじゃん。」


「飾りのやつ?え、でもああいうのって少量じゃない?」


「ちょっとしか無かったのに、それでもダメだったの!」


「そうなんだ。でも美味しそう!Sちゃんいいなー」


 猫丸はふとカルボナーラを思い浮かべる。


 優しい色合いのモッツァレラチーズの旨味に、大自然で採れた牛乳と卵のまろやかさが合わさり、絶妙なハーモニーを奏でている。


 そのソースの中に、小麦粉の香り高き柔らかな生麺を絡めると、そこにあるのはもう『絶品』という名にふさわしい逸品である。


 ………あぁ、どうしよう。さっきまでそんなこと思ってなかったのに、急にカルボナーラが食べたくなってきた。


 今すぐにでもあのまろやかなソースにもちもちの麺を絡みに絡めた逸品を味わってしまいたい。 


 それと一緒に油でカリカリに焼き上げた香ばしいベーコンを口に放り込むと、まろやかな優しい旨味の中にジューシーさもプラスアルファで付いてきて、さらに猫丸を幸福な気持ちにさせるのだ。


 口にしたことは本当になると言うけれど、それは事実だったようだ。どうしよう。パスタが食べたい、カルボナーラが食べたい。


 これまで十四年も生きてきたが、その人生の中でこれほどまでにカルボナーラが食べたくなったことなんてない。


 猫丸はゴクリと唾を飲む。すると口の中がやけに空っぽに感じてきて、その隙間にソースと麺を埋め込みたい気分だった。


 だがしかし、その後すぐSが違う話題を降ると、猫丸の頭は少しずつそれに侵食されていき、最終的にSとお互い『バイバイ』と行って別れるときには、『カルボナーラ』の『カ』の字くらいしか残っていなかった。



【 ※ ※ ※ 】



「ただいまー」


 猫丸が学校指定の白いスニーカーを玄関先で脱ごうとした時、母親の靴がないことに気が付く。


 今日、お母さん居ないんだな。


 それだけなら別にどうってことない。親の不在にいちいち『どこー?』と泣き喚く子供時代はとうの昔に卒業した。


 なんなら親が居ないほうが、何かとうるさく言われる必要が無くて気楽と思ってしまうくらい。


 しかし猫丸は『はぁ〜』とため息をつく。部活のおかげで気分は上がっていたのに、それが一気に下がる。


 猫丸が気がかりなのは昼食だ。母親が居る休日だと『昼食べに行こうよ』と誘われることが多く、それは猫丸も嬉しかった。


 しかし母親が居ない休日はそれとは一変、大抵母親が作り置きした炒飯チャーハンか、良くてレトルト食品。


 猫丸は炒飯があまり好きではなかった。なんというか、あの中華独特の味付けがどうも口に合わない。それならただの白米の方がマシだ。

  

 加え、調理後何時間も放置された、あのベチョベチョのお米も舌触りが悪くて苦手だった。ネギや小魚なんか入っていたら最悪だ。


 そんな炒飯はしょっちゅう秋葵家の昼食として登場するが、それには理由がある。


 単に作るのが簡単で手間がかからないのもあるが、猫丸とは違って父親や弟は炒飯が大好物なのだ。


 常に『美味い美味い』と言いながら食べていて、そりゃあそう言われれば母親だって気分は良くなるはず。


 猫丸は一応微妙な顔をして食べて、怒られない程度に炒飯が好きじゃないことを母親に密かに訴えているものの、母親は父親や弟の称賛ばかりに耳を傾け、猫丸の方なんて見向きもしないのだ。

 

 猫丸は母親に炒飯が好きじゃないことを直接伝えていない。元々『好き嫌いしないの』が口癖の母親だし、言ったところで『贅沢なことを言わないの』と怒られるに決まっている。


 まぁあくまで『好きじゃない』というだけで、『食べられない』というほどでは無い。出されたら普通に食べる。テンションは下がるが。


 まぁ流石に、働いている母親に毎食手作りの料理を出してくれ、なんて無茶なお願いをする気はない。が、せめてレトルト食品であってほしい。と猫丸は願うばかりだった。


 猫丸は通学リュックを玄関に投げる。『手を洗いなさい!』というお決まりのセリフを投げかけてくる母親も今は居ないため、真っ先にダイニングに向かう。


 台所のカウンターの上には、ラップに包まれた大きめの丸皿が一人淋しく置かれてあった。私の昼ご飯だ、と、猫丸は誰に教わるでもなく理解した。


 あぁ、やっぱりか…と猫丸は落胆する。お皿があるということは、やっぱり炒飯なんだ。


 まぁ、なんとなく予想していたことだが。こういう悪い勘に限って当たるのだ。良い勘はことごとく『勘違い』で終わるというのに。


 はぁ。まぁこれが私の人生ですよね、と猫丸は何処かで諦めの気持ちを持ちながら、台所に向かう。


 せめて小魚が入っていませんように、出来るなら玉ねぎも少なめでありますように。猫丸は恐る恐る皿の中身を覗く。


「……え?」


 水蒸気で濡れて視界の悪いラップの中を時間をかけて確認し、猫丸は目を見開いた。


 中に入っていたのは、黄色の卵を体に纏わせたお米……ではなく、小麦色の麺だった。

 

 薄黄色のクリーム色のとろりとしたソースが、お皿一杯に広がっている。端々にはピンク色がポツポツと散らばっており、見栄えも良い。


 嘘、と猫丸は急いでラップを皿から剥がし取る。水蒸気が皿付近に数滴零れる。すると中から正真正銘のそれが覗かせた。


「え、嘘…」


 あまりにも現実味がなく、猫丸はしばらく固まっていたが、段々と胸の奥から強い感情が湧き上がってくるのを感じる。


 それは口元まで出かかったところで、なんとか抑えられた。引ったくるように皿を手に取り、早々にレンジにぶち込みスタートボタンを押す。


 ウイーーーーンと振動音が鳴り響く。まだかな、まだかな、と猫丸は足をうずうずさせながら、温めが完了するのを待つ。


 ちら、とオーブンのタイマーを何度も見る。いつもならそんなに感じないのに、中に好物が入っているというだけで異様に遅く感じてしまう。


 あぁもういいや。上の数字が『10』になった途端、待ちきれなかった猫丸はオーブンの蓋を開ける。


 すると、中からもわんとした煙と共に、チーズと胡椒の香ばしい匂いが漂ってくる。その匂いを思いきり吸い込むと、急激にお腹が空いてきた。


 また引ったくるようにオーブンから皿を取り出す。すると皿はマグマのように熱くて『あっつ!』と猫丸は触れた手を慌てて引っ込めた。


 濡れ布巾を間に挟む。よし。これで大丈夫だ。早くテーブルに運んで……おっと、いけないいけない。肝心のを忘れていた。


 猫丸は『黒胡椒』とパッケージが貼られた小さな調味料を手にとると、遠慮なしに振りかける。


『黒胡椒』……我が家ではブラックペッパーと呼んでいるのだけど、これと洋食系の料理との相性は抜群だ。これがあるか無いかで大分美味しさに差が出る。


 ちょっと多くかけすぎた気もするが、まぁかければかけれるだけ美味しいだろうし、いいや。と猫丸は皿一面に黒胡椒をかけた。


 テーブルに音を立てて皿を置く。猫丸は焦りすぎて転けそうになりなりながら席につく。


 猫丸は興奮したまま、目の間にある料理を改めて見る。少しの湯気と共に食欲をそそる匂いが漂ってくる。


 猫丸はフォークを手に取ると、パスタを歯で掬い、とろりとしたソースをたっぷり絡ませてからスプーンに乗せる。


 お母さん、作ってくれてありがとう。いつもだとしないような親への感謝の気持ちを馳せながら、カルボナーラを口に運んだ。


 そういえばさっきまで忘れていたけれど、猫丸はつい一時間前まで、ホルンを吹いていた。


 あの米粒のような小さな鉄の塊を、唇に何時間も思いっきり押し付けていたのだ。
















「……痛っ!!」


 

 

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