独りの日

低田出なお

独りの日

「すみません、少しお時間大丈夫ですか?」

 そう言って話しかけてきたのは、スーツを着た男だった。俺よりも少しばかり高いらしい頭には緩いパーマが掛けられていて、好青年のお手本のような笑みを浮かべている。彼はその表情を崩さないまま、右手の本をこちらに差し出してきた。

 青色に金のラインがあしらわれた本には「真実のお話し」と書かれていた。

 俺は思わず周囲を見渡す。後ろを見れば洗濯機、照明、冷蔵庫。正面には食洗器の展示品がとめどなく水を巻き散らかしている。

 一頻り首を回した後、再び男の顔を見る。変わらないその表情を見て、困惑のまま「はあ」という言葉が漏れた。

 今の自分の状況は、まあ理解できる。持っている本からして、いわゆる宗教勧誘という奴だろう。今までも何度か受けたことがある。その時はもっと世代が上の人だったが、今回は随分と若かった。

「突然なんですけど、お兄さんって仏教徒ですか?」

「え、ぇーと…」

 男の言葉に答える間にもう一度、周囲に目を走らせる。

 何度見渡しても、家電、家電、家電。まごうこと無き家電量販店である。

 店の中で、宗教勧誘ってしていいのか? ダメだろう。たぶん。

 こういうのは普通外の、駅前で信号待ちしてる人とか、もっと所帯投げにしてる人にするものじゃないのか。間違っても、食洗器を眺めている男にするものではない。

「ちょっと今から、お兄さんの人生、変わっちゃうお話をしたいですけど、いいですか?」

 全然良くない。が、彼はこちらの返事も待たず、早々と説明を始めた。次々に積み重ねられている言葉たちは、差し出している本の中身についての事らしい。

 彼は本当に本の内容を信仰しているのか、それとも金銭的にありがたい故なのかは分からなかったが、少なくとも自分としては、関わりたいとは思えなかった。

 苦笑いで口元が引くついているのも、マスクに隠れて見えないのだろう。男は優越感に浸っているようにさえ感じられる滑らかな口ぶりで、他の客には目もくれずに話していた。

 さて、どうしたものだろうか。正直この状況はよろしくない。完全に初動をしくじった。

 普段であれば、こうした手合いには容赦なく、「今ちょっと急いでいまして…」戦法を駆使し、いち早くこの場から離脱したことだろう。

 しかし、それは「家電量販店の中では宗教勧誘されない」という前提条件の上に成り立つ戦法である。

 家電量販店という、イマイソ戦法を展開する心構えを欠片も出来ていない場所で、あまりにも誇張抜きの非常識から繰り出された勧誘は、容赦なく戦況の主導権を握ってしまった。

 加えて、夕方からしかない講義の時刻まで、時間をぼーっと食洗器を眺めて潰していた現状は、「急いでいるって言いづらいな…」と無駄に真面目な自我を生み出していた。それにより、この場から強引に立ち去ろうという気力を阻害していた。

 イマイソ戦法の出鼻を挫かれてしまった俺は、完全に逃げるタイミングを失った。ただただ、男の話に「はあ」と曖昧な返事をするマシーンになってしまっていた。

 しかし。

 しかしである。

 このまま終わって良いのか?

 つい1分前まで、誰に急かされるでもなく自重の赴くまま、気ままに流れる時間へ身を任せていたというのに。こんなルールスレスレ、いや普通にアウトな非常識戦法で、己の安寧を奪われ、おめおめと黙っていてよいのか。

 いいや、良くない。

 一度その思考へとたどり着くと、沸々と対抗心が湧いてくる。ここはバチンと、はっきり言ってやるのだ。ここで痛い目を見なければ、この男はこの町で怪物になってしまう。

 言ってやるのだ。俺が、こいつに!

「つまりですね、沙羅双樹って置き引きの」

「あの、すいません」

「あ、はい?」

「…ぃちょっと、そういうの、は、大丈夫です」

 きっつ。

 きっっつ。

 いやまて。まて。しかし口撃は一旦止まったのだ。チャンスはここしかない。

 己の覇気の無さに情けなくなりながら、速足でその場を離脱する。時折目にすることがある、何のためらいもなく他者へブチ切れているおじさんの事を、その出力の発露という一点のみにおいて、今だけは評価できる気がした。

 ともかく、だ。危機を脱することは出来た。勝ったのである。

「いやあ、そう言わずに、最後まで聞いて下さいよお」

 気のせいだった。余韻にすら浸らせてくれない。速足でエスカレーターへ向かうこちらを、何の躊躇もなく追いかけてきていた。

「いやあの、ほんといいんで」

「まあまあ、あ、お兄さんお昼って食べました?」

 やや猫撫で声になった男は、ただでさえアウトだったラインの上で3歩目4歩目を踏み出す。トラベリングどころの騒ぎではない。人道における審判はどこだ。

 一階へ降りてもなお、男の追跡は終わらない。同世代の中でも「歩くのが無駄に早い」と言われる俺の早歩きに悠然とついてくる。

 これが都会か。そう思いながら進むうち、もう駅前の大きな交差点にまで来てしまった。

「あ、マックでも寄ります? ……あ、もしかしてマクド派でした?」

 こちらが無視を決め込んでもなお、男はこちらへ話し続けている。しかも、よく通る声で、尚且つそこそこの声量であるから、周囲からちらほらと好奇の視線を向けられているのが、嫌という程分かった。

 屈辱感に苦しみながら、なぜ彼が俺にここまで執着するのかを考えていた。

 ただでさえ、家電量販店というイレギュラーな場所での勧誘。断られてもなお、追いかけ、話しかけ続ける。一体彼の目的は何なのか。全く分からない。考えを巡らせていると、次第に恐怖が脳裏に染み出てきた。

 唾をのむ。幾度となく繰り返してきた動作が、無意識のうちにぎこちなくなっていた。

 とはいえ、全くこちらに手がないという訳ではない。

 今こうして待っている交差点。ここを越えさえすれば駅である。その人口密度は、今信号待ちをして集まっているものとは比べ物にならない。いくらこの無法男とて、追い掛けることは出来ないだろう。

 この信号が青になった瞬間、俺の勝利への道筋は確定するのだ。

「あのー、ちょっといいですか」

「……え、あ、ぼくですか?」

 突如、明るめな声が聞こえた。頭を動かさず、視線を動かす。

 声の主は、若い女だった。大学生か、少し上くらいの年齢に見える彼女は青いキャップを被り、クリップボードを手にしていた。

 彼女の視線は、俺の隣で口撃を繰り返していた男へと向けられている。

 俺は少し考え、そして戦慄した。

 まさか、注意する気か。全くの赤の他人に。

 この現代社会において、他人に注意する行為というのはとんでもないリスクを伴う。注意された人間が激昂するかもしれないし、周囲からの目も引いてしまう。

 それを、彼女はしようとしているのか。

 確かに男の勧誘は、今この信号待ちというシーンのみを切り取ったとしても異常である。注意する口実としては充分すぎるくらいだろう。

 しかし、だからと言って無策にもそこに突撃するというのは自殺行為というほかない。言いたくはないが、性差による体格の違いもある。決して得策ではないだろ。

 そこの行動の勇気は認める。だが、いくら何でも無謀では……。

「すみません、今ちょっとしたアンケートを実施しておりまして」

 え。

「ほんの、ほんのちょっとだけお時間頂けませんか?」

 うそだろ。

 ……確かに、こうしたアンケートを駅前で見かけることは珍しくない。だが、それをよりにもよって宗教勧誘してる最中の男にする奴なんて、見たことがない。

 もしかしてこの女もか。この女も無法なのか。さっきからめちゃくちゃ仏教の話とかしていたのが聞こえていないはずがないのに。花まつりと置き引きの話とか、入滅と置き引きの話とか……。置き引きの話の割合が高いな。

「あーすみません、ちょっと今急いでるので」

 お前がそれを言うのか。

 よりにもよってその文句を口にした男を、思わず睨みつける。さっきまで大声で宗教勧誘しておきながら、言う事かいて「急いでいる」は無理がある。

 だが、どうやらこいつはイマイソ戦法を使い慣れていない。あれは口にした後、速やかに立ち去ることで戦線から離脱するものだ。先の俺のように、立ち去れなければ捕まるだけである。

「いや、ほんのちょっと、ほんのちょっとですから! ほんと、25分くらいで終わるんで!」

 それ見たことか。案の定、二の矢を撃たれている。

 というか結構長い。そこまで言うなら、もう30分と言ってしまえば良いのに。

「いやあ、そうは言いましても…」

 男はちらちらとこちらを見ながら、女の攻撃にタジタジだ。この機に乗じて、俺が立ち去ってしまうのを恐れているのだろう。

 ……ん? そうか、立ち去っていいんだ。何をやっているのか。別に横断歩道はここだけではないし、ここで男を待ってやる義理もない。

 よし、そうと決まれば早速。

「よし、分かりました。じゃあ、なにか食べながらお話しましょうか」

 ……は?

「やった。あ、でもどうしましょう? 実は私、あんまりこのあたりのご飯詳しくないんですよね」

「んー、じゃあパスタなんてどうですか。おいしいとこ、知ってますよ」

 は?

「わ、いいですね。エビのやつはありますか?」

「もちろん。ベタですがトマトクリームのがあったはずです」

「トマトクリーム! 私大好きなんですよね」

「ああ、ならちょうどいいですね。西口の方なんで、こっちですね」

 横の男女はにこやかに、信号待ちの塊が抜け出ていく。あっという間に人混みに紛れ、その姿は見えなくなった。

 信号機が青に変わる。

「はぁ?」

 漏れでた不満の声は、喧噪の中に消えていった。

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独りの日 低田出なお @KiyositaRoretu

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