ACT.03/アルキナティオの罪たる魔剣


〈おい、起きろ――〉


 ナザンは、少女の声により意識を取り戻した。


 身体が重い。全身が、鉛になったようだ。指一本動かすことすら億劫に思えるほどの、酷い倦怠感。


 頭の回転も遅い。ただ単に酒に酔ったのとは違う。おおよそ論理的な思考というものが一切出来ない状態だった。どう考えても今の体調はおかしいが、そのおかしさに気づけないほど思考が鈍っている。


 ナザンは、ただぼんやりと目の前の光景を眺めているだけであった。

 狼の虚ろな瞳。半開きになった口から牙が覗き、でろりと舌がはみ出していた。


〈目を覚ませ、ナザン!〉

 少女の声に、逼迫したものが含まれる。


 ナザンの目は霞んでいた。

 何度か瞬きを繰り返す。徐々にピントが合ってくる。

 隣で寝ている人物の顔が目に入ってきた。カカトラだった。穏やかに、すう、すう――と寝息を立てている。寝顔は、少女のようにあどけなかった。


 突如として、カカトラの顔が見えなくなった。


 すっぽりと、何か・・が彼女の顔を隠したのだ。


 何か・・は、光沢があり、てらてらと濡れているようだった。大きく開かれた口と、感情を読み取らせない無機質な瞳。


 ――『蛇』だ。


 大きな蛇が、カカトラの頭を口の中に飲み込んだのである。


 ずるり、と。

 そのまま蛇は、彼女を丸呑みにしていく。顔を呑むと、そのまま肩、胸といった具合に、女の肢体を長い身体に収めていく。


 その辺りでカカトラが意識を取り戻したのか、まだ飲み込まれていない下半身が暴れ出す。


「んっ――ぐっ、んんんー!」


 くぐもった声が、蛇の中から漏れ出る。しかし、蛇は特に気にした様子も見せることなく、捕食を続ける。


 腹、腰、それから下半身――。

 最後までジタバタと藻掻いていた両足も、抵抗むなしく飲み込まれていった。


 一定の速度を保ったまま、ものの数十秒で、蛇はカカトラを完全に腹の中に収めた。


 巨大な蛇の身体の一部分が膨らんでいる。飲み込んだカカトラのかたち・・・が浮き出ているのだ。


 目の前でひとりの女性が、大きな蛇に食べられるという異常事態が起きてなお、ナザンに反応は見られなかった。まるで夢でも見ているかのような顔つきのままである。


 このままでは、蛇の次の犠牲者が誰になるのか――それは、火を見るより明らかであった。


〈早く起きぬか、この――!〉


 少女の怒号。

 がたがたという音。

 彼が腰に佩いていた片刃剣ファルシオンが、ひとりでに振動している。


 その振動が、曖昧な状態のナザンの手を、反射的に動かした。自身の腰で震えるもの――無意識にナザンが剣の柄へ手を伸ばす。

 彼の指先が、柄に触れた。


 次の瞬間。

 ナザンは剣を引き抜くと、その勢いのまま柄頭を自らのマズルに思い切り叩きつけた。


 一切の容赦のない一撃だった。その衝撃で、脳が揺れ、目の前に星が散るほどの一撃。


 しかも、一度ではない。二度、三度。ナザンは抜剣した剣の柄頭で、自らの頭部を殴り続ける。


 がつん、がつんと鈍い音が響き渡る。


 いきなりの手加減のない自傷行為。傍から見れば、ナザンの気が狂ったように見えるだろう。


 そんなナザンの様子を、蛇がじっと観察していた。


 隙だらけだ。


 牙を剥いた蛇が、ナザンへ跳び掛かった。ナイフのような大きく鋭い牙。肉に食い込めば、容易に致命傷を与えることができるだろう。


 紙一重。


 蛇の口ががちんと閉じられる。

 空振り。

 そこにあった筈のナザンの身体が消えていた。蛇に食いつかれる直前に、横に転がって回避してみせたのだ。


〈まったく――世話が焼けるのう〉

 少女の声が、呆れたような、どこか安心したような声を出した。


 体勢を立て直したナザンが呟く。

「助かった、アルキナ」

 自傷により口の中を切ったのか、牙の間から一筋の血が流れている。


 ナザンは、自身の握る片刃剣ファルシオンに向けて話しかけている。


 焚き火の燦めきを反射して、剣が一瞬だけ呼応するように輝いた。

 白銀の刀身に、植物の蔦のような意匠が彫られている。

 緩やかな反り。

 切っ先が僅かに広い。


〈アルキナティオの罪たる魔剣〉


 それが、ナザンの持つ剣の銘であった。


 生ける武器である。

 比喩ではない。意思を持ち、喋ることができる。

 人智を超えた、魔に属する存在だ。


 ナザンは、彼女・・のことをアルキナと呼んでいる。アルキナは人でこそないが、旅を共にしてきた――彼の相棒といえた。


 アルキナの特異性は、意思を持ち喋るだけではない。自身の柄に触れた人間を操り、自らを振るわせることができる。限定的ではあるものの、本人の意思を無視して、身体の操縦を奪えるのである。


 普段、この能力をアルキナがナザンに対して使うことはない。船頭多くして船山に登る。ひとり分の身体をふたりで操縦することはデメリットしかないからだ。


 だが、さきほどは――ナザンの意識が曖昧な状態であり、危機的状況が迫っていたため、なかば緊急回避的な措置として彼の身体を操り、顔面を殴打することで意識を覚醒させようとしたのである。


 結果として、アルキナの判断は功を奏した。ナザンは意識を取り戻し、すんでのところで蛇の噛みつきを躱すことができたのだ。


 蛇が、再びナザンに向き直る。

 距離はおよそ五メートル。先程の攻撃速度から判断すると、一瞬でも油断すれば喉笛に食いつかれるだろう。


〈身体の調子は戻ったか?〉アルキナが尋ねてくる。

「いや、駄目だな」ナザンが答える。「兎に角全身が重い。頭もぼんやりして、回ってない。たぶん、酒に薬を盛られたんだろう」

〈迂闊であったのう〉

「ああ」

〈キャラバンの連中――の仕業ではない、か。奴らも全員ぐっすりじゃからな〉


 ナザンは、ちらりと目だけで周囲を見渡す。アルキナの言ったとおり、キャラバンの人間たちも銘々に眠っていたのを確認できた。


〈本調子でないなら、逃げるか?〉


 ナザンは首を振る。


「そういうわけにもいかない。ここで逃げれば、次の獲物はキャラバンの奴らだ。現に、カカトラが飲み込まれてしまった」

〈くふ、主ならそう言うと思っておったぞ〉


 改めて、蛇を観察する。

 恐ろしいほど巨大であった。全長は、十五メートルを優に超えている。そして、大の大人が腕を回しても、到底抱えきれないほどに径が太い。

 人一人を丸呑みにしたというのに、満足して去ろうという様子はない。まだ、食べるつもりなのだろう。凄まじい食欲だ。


 無感情な対の瞳がナザンを見据える。その顔に、古い刀傷のようなものがあるのが見て取れた。


 ゆらり、と。

 蛇の頭が動いた。


 ナザンが反応する。


 衝撃。

 肺の中の空気が、残さず吐き出される。


 身体が、吹き飛ばされた。

 地面を擦れる。

 痛み。


 何が起きた――?


 立ち上がる。


〈尻尾じゃ! しゃがめ!〉

 アルキナの警告。


 咄嗟に、ナザンが身を屈める。


 頭上を、空気を切り裂く鈍い音が擦過した。


 一瞬遅れて理解する。

 蛇が、自身の身体をくねらせ、その尾を鞭のように振るい、ナザンに叩きつけて来たのだ。巨体から繰り出される、太く、重く、しなやかな一撃。


 口に堪った血を吐き出す。


 体調が万全であるならば、躱すことは造作もなかった筈だ。ここまで綺麗に一撃を貰うことはなかっただろう。


 後悔している暇はなかった。

 体勢を整えたナザンに対して、さらに一撃が飛んでくる。


 バックステップ。

 振るわれた尾を、後ろへ跳び退ることで回避する。


 今度は、一撃では終わらなかった。

 大蛇は、自身の身体の柔らかさを活かし、続けざまに尾を振るう。

 繰り出される連撃を、ナザンは紙一重で躱し続ける。

 しゃがむ、跳ぶ。身体を捻る。転がる。


〈ナザン、後ろ――〉

 アルキナに促され、ナザンは背後をちらりと確認する。踏み込んだ脚に、冷たい感触。


 泉だ。


 ――追い詰められた。

 逃げ場がない。狡猾な罠。蛇の狩人としての計算か、あるいは偶然か。それとも判断力が鈍っているナザンのミスか。


 くそったれ。


 蛇が、尾撃を繰り出す。


 瞬間、ナザンの頭によぎる策――閃き。


 リスクはある。


 どうする。


 迷っている暇はない。


 やるしかない。今からでは、おそらく逃れられない。


 迫り来る蛇の尾。


 今度は――避けなかった。垂直に立てたアルキナによって防ぐ。

 当然、体重差があまりにも大きいため、防ぎきれるはずがない。


 衝撃。


 逆らわず、自ら後ろに跳ぶ。


 背後。


 泉。


 夜の水面は、まるでぽっかりと穴が空いているように黒い。


 一瞬の浮遊感。


 水音。


 ナザンの身体が、水面に叩きつけられる。水没。


 水に包まれる。


 冷たい。


 息が出来ない。

 空気が口から吐き出される。

 酸素を求め、肺が悲鳴を上げる。


 落ち着け。


 力を抜く。心を落ち着け、暴れないようにする。

 少しすると、浮力により、身体が自然に水面に浮かび上がる。


 ナザンは、そのまま動かなかった。

 仰向けになり、水上を漂う。

 夜空が見えた。いつの間にか曇ったのか、月も星も見えなくなっていた。


〈おい、ナザン……?〉

「大丈夫だ」


 心配そうな声をあげるアルキナに、小声で安心するよう伝える。


「『死んだふり』だ。こうして、ぐったりすることで、アイツを騙す。俺が気絶して、意識を失ったと思わせる」

〈ふむん。……じゃが、アイツは見えておるのか? 夜目が利く狼男のお前とは違うんじゃぞ? 焚き火からの距離も遠いし〉


 ナザンは蛇の方を見た。顔をこちらに向けてはいる。


「おそらく見えているはずだ。以前、誰かから聞いたことがある。蛇は、単純な視覚だけではなく、『熱』を視ることができるんだそうだ。だから暗くても、獲物の位置を探知できるらしい」

〈ほぉ……、そんなこと、よく知っておるのう。まるで蛇博士じゃ〉


 ぱしゃん、という水音がした。

 微かな音だ。

 蛇が、泉へと飛び込んできた音だった。


〈――は?〉


 蛇は、水面へ顔を出したままナザンの方へ近づいて来ている。泳げるのだ。身体をくねらせながらも、まっすぐに接近する。


〈おい、ナザン――あやつ、泳げるぞ……! 全く諦めておらん!〉


 アルキナが悲痛な声を上げた。

 巨大な蛇との距離はみるみる縮まっている。


「静かに……。あまり騒ぐと、意識があるのがバレる」

〈そんなこと言っておる場合か? あやつ、水の中でも全然素早いぞ? 逃げられん!〉


 彼女の言ったとおりであった。すでに、大蛇はナザンの近くまで来ている。泳ぐ速度を考えれば、今からナザンが反対方向へ全力で逃げ出したとしても、決して逃げ切れない距離だ。


「問題ない」ナザンは呟く。「死んだふりは、蛇に見逃されるため・・・・・・・・・にやったんじゃあない・・・・・・・・・・。その逆だ。蛇を引きつけるため・・・・・・・・・にやった・・・・んだ」 


 もはや大蛇は目と鼻の先であった。

 蛇の口が大きく開かれた。

 鋭い牙。

 勢いのまま、ナザンにかぶりつくつもりだ。


 その瞬間。


 ナザンは大きく息を吸うと。水の中に潜った。

 ざぷん――。

 音がくぐもる。


〈……?〉


 それほど深く潜ったわけではない。

 しかし、大蛇の攻撃はやってこなかった。

 ――噛みつきを、途中で止めたのだ。


〈なんじゃ? 蛇の奴、こちらを見失ったのか? こんなに近い距離で?〉


 これが、ナザンの狙いであった。

 視覚に加え、『熱』でも獲物を探知できる蛇。だが、視力そのものはさほどの良くない上に、辺りは夜の暗闇に包まれているのだ。月も星も出ていない。光源である焚き火からの距離も遠い。この状況においては、『熱』の視覚に頼るしかない。


 蛇は、熱を探知することで、問題なくナザンの許まで近づくことができた。


 だが、今まさに攻撃しようとしたその瞬間に、ナザンが水中に身を隠せばどうなるか。冷たい水に全身を沈めることで体温を探知することができなくなり――大蛇からしてみれば、獲物が突如消えたように見えたのである。


 そうして出来た、僅かな隙。

 そこを逃すナザンではなかった。


 潜水したまま大きく水を掻き、蛇の背後に回る。

 間髪を入れずに、水中から大蛇の顔に跳びかかった。


 水が跳ねる音。


 水上に出ていた蛇の顔に、後ろから抱きつくような格好になった。

 この姿勢を狙っていた。蛇を捕まえる際には、頭を後ろから掴むのが鉄則である。

 しかしながら、この大蛇は警戒心が強いのか、顔をナザンに近づけることがなかった。初撃の噛みつきを躱され、ナザンが――辛うじて叩けるほどには――意識を取り戻していることを確認してからは、尾を使った打撃でひたすらに体力を削り続けてきたのだ。


 蛇の顔についた古い刀傷。おそらく、この大蛇は過去に武器を持った人間に顔を斬られ――その結果として、高い警戒心を身につけたのだろう。明らかに、戦いなれていた。


 蛇の頭を捕らえるためには、なんとしてでも顔をナザンに近づけて貰う必要がある。


 その為に、死んだふりを――意識を失ったふりをしたのだ。動かなくなった獲物ならば、大蛇も警戒せずに顔を近づけて捕食する。それは、カカトラが丸呑みにされたことからも確かだった。


 加えて、水上であれば尾を使った打撃もやりにくい。そして、攻撃の瞬間に身を沈めれば、探知ができなくなり蛇の混乱を誘える。そう考え、ナザンはあえて自分から泉へと身を投じたのである。


 ほとんど博奕ギャンブルに近い策だった。


 蛇が狙い通り近づいて来るか――。

 水を泳ぐことを嫌い、他のキャラバンの人間に狙いを変えたりしないか――。

 熱探知の精度が高く、水の中のナザンを補足したりはしないか――。


 不確定要素は多かった。


 だが、ナザンは賭けに勝った。


 細い糸をたぐり寄せ、蛇の命に手を掛けたのだ。


 アルキナを握る手に力を込める。

 暴れる蛇にしがみつきながら、その首を一気に引き裂いた。


 鱗を裂き、肉を断つ感触。

 吹き出した蛇の血が、水の中に煙のように広がった。

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