第18話 暗闇の聖女と鋼の騎士7


 人の体とは面白いものだ。

 シアが視力を失ってから、それを補うかのように他の器官が鋭敏になった。

 シアの名前を呼ぶ時の声の甘さ、唇に押し当てられる熟れた果実の食感、拳一つ分開けた隣に座る人の体温、転びそうになった時に支えた体の奥から香る汗の匂い。

 一つ一つが鮮明になって、シアの真っ暗な視界を鮮やかに彩る。

 

 そしてそれは出口を失ったシアの力も同じだった。


 いつの頃からかシアは気づいていた。

 目の代わりに、人に触れることで見えるようになった相手の来世。

 それは徐々に範囲を広げていた。

 金の瞳がまだシアのそこで輝いていた頃、目に映る全ての人の来世が見えていたようにーーシアの視力以外の感覚が捉える全ての存在は、シアのその力から隠れることはできない。


 だから、シアはその男の来世を告げた。


「あなたの幸福はここで潰える」


 音が止む。

 聖女の声がこの場を支配する。

 騎士の命を狩るために高く掲げた剣を止め、男はふらりと顔を聖女へと向けた。

 そこには足を折られ、顔をズタズタに引き裂かれた女が青白い顔で立っていた。


 そしてもう一度、彼の来世を宣言する。


「騎士を殺し、聖女を殺したあなたの来世は、何度生まれ変わってもあなたを苦しめる。不幸は連鎖し、あなたが愛した相手はあなたを呪って死ぬ」


 聖女の薄い唇が引き伸ばされ、潰れた目でぐるりと辺りを見回す。

 その顔を正面から見たものは、まるで野獣の牙が喉元に突き立てられたかのように体を震わせた。



「聞きなさい」



 びくりと兵士たちの体が跳ねた。

 誰もが皆、聖女の次の言葉を聞きたくないと願い、だが同時に聞かなければならないと悟る。


 それは地面に横たわる騎士ですら同じだった。

 流しすぎた血と全身を苛む痛みで朦朧とする中、離れた場所に一人佇む聖女を見上げ、騎士は傷ついても凛と立つその姿に見惚れる。

 何を言おうとしているか分からずとも、息絶える前に聖女の透き通った声が聞けるのならばそれ以上に望むものはない。


 さくり、と一歩シアは足を前に踏み出す。

 歩くには適していない柔らかな布製の靴は、下草や葉の柔らかさも、さらにその下のごつごつした地面の硬さも伝えてくる。

 ほんの僅かだけ足を浮かせ、つまずかないように前に出る。体重の移動により折れた足が痛み、体がふらついた。

 だがシアはそんなことをおくびにも見せず、取り囲むすべての者たちの視線を浴びて緩やかに歩を進める。


 シアにとってゆっくりと進むのは当然のことだった。

 だが見ている側にとっては違った。


 この窮地においてまるで自分の優位を疑わないその姿に、兵士たちの心に疑念が生まれる。

 この女は本当に魔女なのではないかと。

 いや、これまでも魔女だと言われていた。捕縛しなくてはいけない悪しき女だからこそ、ここに集った。

 しかし今、兵士たちはそれを頭ではなく感情の奥深くで悟った。


 この女は普通ではないと。



「聞きなさい。そして――見なさい」



 再び響いた女の声に兵士たちは体を揺らす。

 武器を持つ手を震わせ、おびえた目で傷だらけの顔をさらす女を見つめる。

 白い肌が松明の不安定な明かりの中で淡く光った。

 無残な傷さえなければ美しい顔。一部の者たちは額に汗を浮かべて彼女から目をそらした。


 さくり、さくりと続くかすかな足音が、兵士たちの恐怖に震える呼吸に混ざる。


「その目で見なさい。あなたたちが招く結果を。永遠に続く生の苦しみを」


 どろりと閉じきらない瞼から赤いしずくが滲む。

 すでに用をなさないシアの両目から血があふれ出した。


「ひぃ!」

「うあああ」


 最前列に並んだ兵士たちは本能的な恐怖から悲鳴をあげた。

 直後、彼らを言い知れない不快感が襲った。

 ぞわりと、尖ったペン先で背筋を撫でられるような感覚。

 身震いをして振り払おうとしてもはがれない。


「あなたたちの呪われた来世をここに」


 ギイイっと鎧を剣先でこするような音が響き渡る。

 両頬をまるで呪い師の化粧のように赤い線で飾り、聖女が魔女の顔で嗤う。

 彼女の感知する範囲にいる者すべて、一斉に目を見開いた。



 彼らは見た。



 そこにいる女の影に重なって、自分たちがこれからたどる道を。


 それぞれの進む呪われた来世を。


 飢餓に打ち震え、雨水を渇望し、崖から転落し、家族に裏切られ、火に焼かれ、濁流にのみこまれ、首を跳ね飛ばされ、友人に毒を盛られ、病におかされ、野犬に追い立てられ、大岩に圧し潰されて――死ぬ姿を。


 そこに安らかな眠りなどない。


「ああああああ!」


 誰かが叫びを上げた。

 一つの生の後、また続く新たな生。

 それは急速に成長して瞬く間に枯れる花のように、ただ最後は苦しみと破滅に向かう。

 恐怖に耐えきれず、兵士たちは後ずさった。

 手に持った武器を、松明を、その場に投げ捨てて聖女に背を向ける。


「逃げろ!」

「魔女の呪いだ!」


 恐怖は連鎖し、瞬く間に兵士たちを支配した。

 数分もせず、地を這い始めた松明の火を残して全ての兵士がその場から消えた。

 彼らを止めるはずの指揮官である男だけ、倒れた騎士のそばで立ち尽くしている。

 シアにとっては彼のことなどもうどうでも良かった。

 今願うことはただ一つ。


 さくり、さくり……カチャリ


 シアの足が、ついに目指していた場所に辿り着く。

 血が流れ続ける顔を巡らせ、唇をわずかに尖らせた。


「レゾル、いた」

「リー、シア、様」


 掠れた声で騎士がシアの名を呼ぶ。

 それだけでシアは満足だった。

 ゆっくりとその場に腰を下ろす。

 足が痛い。

 頭がズキズキと痛い。

 鼻の奥からも血が流れ、口の中が錆びた鉄の味で一杯になる。

 小さく咳き込んだシアの口から顎にかけて赤い血が広がった。


「これで、全部、終わり」

「お疲れ様でした」


 騎士は動かない体を叱咤し、自分の隣に座り込んだ聖女の指に自分のそれを絡める。

 疲れ切った体では、伝わるはずの体温さえ感じることができない。

 だが騎士はそれでも満足だった。


 その時、ただ一人残っていた男が声を上げた。

 額からだらだらと脂汗を流し、左手でぎりぎりと自分の顔を掴んで歪ませ、絞り出すように叫ぶ。


「止めろ……この悪夢を止めろ!」


 だがその言葉にシアは首を傾げる。

 シアはもうすでに力の解放を止めていた。自分には男に来世を見させるほどの力は残ってはいない。


「それは、もうあなたの、一部。二度と離れない」


 男を見上げて、シアは告げる。

 男は指の隙間から血走った目をシアに向けた。

 途端、鮮明になる来世の自分の姿。

 それは確かに聖女が告げた通り、幸福とは程遠い人生。

 延々と繰り返される悪夢に、男の精神は限界を迎えた。


「うあああああああ!」

「っああ!」

「リーシア様!」


 美しさのかけらもない、ただ力だけで振るった剣がシアの細い体を弾き飛ばす。

 騎士と繋がっていた指が離れ、空を虚しく舞った。

 どさりと音を立ててシアの体が地面に横たわる。

 そして男は高らかに宣言した。


「偽りの! 聖女に! 制裁をおおおおお!」


 再び剣が翻る。

 それは男の喉元を抉り、ごきりと不快な音を奏でた。

 噴き上げる血が飛沫となって、足元の騎士の体に降り注ぐ。

 赤く染まる視界を振り払い、騎士は唯一自由に動く左腕を動かし、遠くなってしまった聖女の元へと這って進む。

 後ろでどさりと事切れた男の体が崩れ落ちる音がした。


「リーシア、様」


 何もかもが終わる。

 騎士の命も、聖女の命も、そして追いかけてきた者の命も。

 兵士たちはこれから悪夢に追いかけられて破滅するだろう。

 全てが終わる。


「ぐ、はぁ、はっ」


 ほんの数歩の距離が遠い。

 騎士は文字通り重い体を引きずり、聖女の元へと時間をかけて辿り着いた。

 荒い息を繰り返す唇に土や葉の破片がまとわりつく。

 それを振り払うよりも、騎士は地を這いずって土まみれになった手を伸ばす。

 硬い指先で聖女の顔を覆う銀の髪を払う。

 パラパラと土がこぼれてシアの血に濡れた頬を転がった。


「シア様」


 騎士の呼びかけに、もう逝ってしまったと思っていたシアの睫毛が震えた。

 それだけで騎士の胸は幸福で溢れた。

 もう、これで最期だ。

 シアの手を握る。

 こんなに近くで触れたことはなかった。

 食事を取る時も、足元の悪い場所で手を引くときも。

 顔を寄せ、最後の力を指にこめる。

 死を目前にして、言い知れぬ喜びに騎士は目を細める。

 だが、一つ、もう一つだけ、願うならばーー


「来世は、どうか、幸せに」


 騎士の瞼がゆっくりと落ちる。

 刹那、暗くなっていく視界の中で、あの日見た聖女の金の瞳のような光が煌めく。

 まるで聖女を迎えに来たとばかりに主張する光。

 騎士は遠ざかる意識の中でその光に向けて告げた。


「連れて、いくな」


 騎士の指がシアの手を覆う。

 たとえ聖女に力を与えた存在が神であろうが、それとも別の意志であろうが関係ない。

 この最高に幸福な瞬間を邪魔する存在を騎士は拒絶した。


「渡さない」


 それは死にゆく者が見た見た幻影なのか、それとも高位の存在が本当に顕現したのか。


 光が金粉を散らすように揺れる。

 それから何度も横たわる騎士と聖女の上で行ったり来たりを繰り返す。

 そして最後に一度上下に大きく揺れた。


 木々の揺れが止まる。

 風が止み、森の匂いも広がり始めていた炎でさえ凍りついた。

 暗闇に星が落ちたかのような光が駆け抜けた。




 時が巡る。

 聖女と騎士が紡いだ物語が終わる。


 転生の輪が回る。

 新たな物語が始まる。







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