第15話 暗闇の聖女と鋼の騎士4
青年だった騎士は疲れていた。
金と権力にしがみつく周りの大人たちの醜悪さに、同情の目を向ける友人たちの隠しきれない優越感に、何よりも自分と近い場所にいたはずの妹の命を引き伸ばすことに。
妹を疎んだことなどない。
ただ自分も必死に生きる中で、妹の悲観的で後ろ向きな言動を受け流すことを苦痛と思うことがあった。
そんな中、両親が金を撒いて教会から呼び寄せた聖女が屋敷を訪れた。
どんな煌びやかで派手な女が来るのだろうかと思っていたら、絹の薄いドレスと短いベールを纏った妹よりもさらに幼い少女だった。
その上、その輝く金の目の中に妹の目にあるものと同じ諦観を見つけた。
「あなたの剣は、来世でもあなたの武器となるでしょう。周囲の敵を薙ぎ倒し、足元に切り伏せる姿が見えます」
子供の声で、だが呪い師のような胡散臭さで少女は青年の来世を告げた。
青年は腰につけたままだった剣に触れた。
本来であれば自分よりも高位にいるはずの聖女の前で帯剣など許されるはずはない。だが青年を咎める者はおらず、聖女を守護するべき者たちの態度も明らかに聖女への敬意を欠いたものだった。
ほんの数分、聖女と時間を過ごしただけで青年は聖女を取り巻く環境に気づいてしまった。その時の青年の胸に込み上げた感情は単純なものだった。
それは親近感ーー理不尽でどうしようもない周囲の状況に流されることしかできない自分と同じ境遇にいる少女への思い。
その少女が、妹を見るために部屋を移動するのに同行する。
すでに自分の未来を見てもらって満足した大人たちは、聖女を歓待するという名目の馬鹿騒ぎへと散っていった。
ひっそりとした廊下を進み、形ばかりの護衛を連れて聖女を妹のいる部屋に案内したのは青年自身だった。
「妹はここ一年ほど寝たきりでいます。聖女様をお迎えする力もなく申し訳ございません」
隣を歩く聖女に向け、妹に代わって謝罪する。
幼い聖女は首を振り、感情の籠らない声で問題ないと告げた。
「こちらです」
そう言って青年自ら妹のいる部屋のドアを開ける。
妹には聖女が来ることは告げてあった。変わり映えしない日々の中、聖女という高貴な存在が会いに来ることを非常に楽しみにしていた。
だから少しでも妹を喜ばせたいと思っていた。
聖女が潜めた声でその問いかけをするまでは――
「耳障りの良い嘘と、絶望しかない真実、あなたはどちらを妹さんに告げることを望みますか?」
大人たちにしたように、あるいは青年を見た時のように大仰な身振りや長々しい
たった一瞥、その金の瞳を妹に向けただけで、聖女は来世を見てしまった。
青年はどう答えるか迷った。
嘘か、真実か。
だが次の瞬間には答えは出ていた。
妹を喜ばせたいと、病に苦しむ妹を傷つけたくないと、そう“兄らしい”理由で答えを出した。
「ーー聖女様?」
掠れた声で妹がベッドの上から聖女を呼ぶ。
はっと顔を上げて足を踏み出しながら青年は聖女に小さく告げた。
「心休まる未来を」
嘘をつけとは言えない。
だが青年はその時選んでしまったーーどう抗っても抜け出せない神の敷いた道への一歩を。
「妹は来世への希望を抱きました。そして一日でも早くその未来を掴みたいと思ったのでしょう」
騎士は目の前にいる成長した聖女へと告げる。
ボロボロでガリガリだった聖女はもういない。艶やかに伸びた銀の髪と、しなやかな細い体。
傷だらけの両目さえなければ、さぞ美しい聖女だともてはやされていただろう。
それを考えれば、今の状況こそが彼女の狙いだったのかもしれない。
両目を傷つけ、狂ったような言動を取ることで教会は聖女を連れ回すことができなくなったのだから。
「あの夜、妹は自力で部屋を抜け出し、そして来世へと旅立ちました」
聖女は唇を戦慄かせて目を見開いた。
かつて青年だった騎士は、シアが何か言おうとする前に言葉を続ける。
「妹が死んだ時、私を襲ったのは怒りでした」
淡々とその感情の片りんすら感じさせずに騎士は言う。
「安易に死を選んだ妹に、彼女に意味のない希望を抱かせてしまった自分に、そして抗っても変えられない未来に。妹は幸せな未来を得るためには今世を生き抜かないといけないということを知るべきでした。自死を選んだ時点で、その業が未来を捻じ曲げるということを」
恵まれた未来があれば妹の心の支えになるかもしれない、という浅はかな考えが騎士に誤った選択をさせた。
さらに疲れ果てた彼女の魂は、甘美な誘いに勝つことはできなかった。
その結果、彼女は聖女が見たままの苦しみを来世で味わうことになる。
まるで最初から定められていたかのように。いや、実際どう生きようとも待ち受ける定めは変わらない。
「妹の亡骸を見て、神などいるはずがないと私は悟りました」
鼻で笑う騎士。怒りが彼を絶望と憎しみ、そして存在の否定へと駆り立てた。
「人に変えられない生を与え、変えられないのにあがこうとする様を見てあざ笑う、そんな姿が浮かびました」
騎士が体を揺らしたのか、金属がこすれるかすかな音がシアの耳に届いた。
チリっとシアの首筋が粟立つ。
すぐ目の前にいる騎士の怒りで空気が薄くなったように感じる。
無意識に口で浅く息を繰り返すシアに、騎士がとってつけたような甘い声で彼女を呼んだ。
「聖女様――私は聖女様にお会いしたら何と言おうとずっと考えていました。妹のことを言うべきか。あなたは私のことを覚えていてくださるか。青臭い思いで教会に入りました」
どろりとした甘さがシアを取り囲む。
知らず、シアは指先を組んで手に力を籠める。
彼の滔々と続く語りを遮るように、シアは早口で謝罪を口にする。
「すぐに、気づかなくて、ごめんなさい」
だがその必死なシアの言葉を騎士はやんわりと否定する。
「あなたが謝ることは何もありません。私が教会に入った時には、あなたはすでに視界を失い中央から遠ざけられていました。だからこそ私は――」
騎士がわずかに言葉を言いよどむ。だが出かかった思いは騎士の口からあふれ出した。
「私はあなたを守らなければならないと確信しました。定められた呪いのような来世を見せつけられるあなたを、その場所からお救いしなければならないと」
もしシアの視界が正常で、この時の騎士の顔を見ていたらどう感じただろうか。
甘さに陶酔したその瞳を見ていたら。
だがそれらは起こらなかった”もしも”の話だ。だからシアは彼の言葉に小さな笑みを浮かべた。
「別に、助けてくれなくてもいい。でもあなたがしてくれたことは感謝してる。教会にないがしろにされるのは構わないけど、生きていくのはぎりぎりだったから」
かつて一食にも満たない食事で生きていた。
騎士が来るまでは贅沢など何もなかった。環境が少しずつ変わり、些細な不便でさえ取り除かれた。
勝手に騎士がやったことだと言ってしまえればいいが、シアの矜持はそれを許さない。
「あなたには感謝してる。だから、私のためとか考えないでいいから。私があなたの妹を救えなかったのは同じ。来世を渇望する人がいるということをいつの間にか忘れていた」
作業のように目の前に現れて去っていく人々の来世を見て口にしていた。
相手が望むものが見えない時には、嘘で塗り固めた輝かしい物語をでっち上げた。
だから騎士が聖女に対して、シアに対して何かする必要はないのだと、そうシアは言いたかった。
騎士は目を細め、はにかむように傷だらけの目をうつむけて小さく微笑む聖女を見つめる。
「聖女様のお考えは分かりました。ですがもうこれは私の生き方となっています。これからも聖女様のおそばに仕えることをお許しください」
そのセリフに続き、ガチャガチャと金属が動く音がする。
気配でシアは騎士が床に跪いたことを悟る。シアがそれをとがめる前に、騎士の低く揺るがない声が届いた。
「私は聖女様の騎士、生涯の忠誠と信頼とこの命を捧げます。私の誓いは神ではなくただ聖女様一人のために存在し、私が誓いを破る時にはただ聖女様一人のみがそれを罰するように。私、レゾリアディヌスの剣を受け取りください」
長く金属が触れ合う音がする。ともすれば耳障りな音。
だがそれが止んだ後の静寂はなぜか心地よい。
見えなくとも、騎士が剣をシアの前に掲げたのを感じた。
わずかにシアは体を揺らす。
目の前にある剣はシアの考え一つで誰かの命を刈り取るかもしれない。
それはある種の万能感をシアにもたらした。
それと同時に、教会が金と力を求める気持ちが分かった気がして、シアは眉根を寄せる。
「私は、何をすればいい?」
拒むこともできる。
だがそれはそれで騎士を野に解き放つようでシアにはためらわれた。
シアを主と仰ぐのであれば、シアの意思に耳を傾けてくれるだろう。
これまでやんわりとシアの意思を受け流した騎士を恨んでいるわけない。
だがちょっとだけこの騎士に命令を出せるのは楽しそうだ。
教会の中で育ち、親しい同年代の友人もいないシアにとって、騎士は初めて長い時間を共に過ごし誰にも言ったことのない秘密を共有した仲間。
だからシアには騎士の願いを否定することが頭に浮かぶことすらなかった。
シアの目の前で騎士は藍の目を細めて彼女を見上げる。
それから両手に掲げた剣の上になめるような視線を走らせて、微笑みを浮かべた。
「許しを。あなたの剣となることを許していただければ」
その返しにシアは頷く。とてもたやすいことだ。
「では、私リーシアはレゾリアディヌスが私の剣となることを許します」
「ありがとうございます」
今の瞬間、ついに正式に聖女の騎士となった男が立ち上がって剣を掲げる。
そしてそれを勢いよく鞘に戻した。
ジャンっと高い音が鳴り、シアは椅子から飛び上がりそうなほどに体を大きく震わせた。
「ああ、驚かせてしまい申し訳ありません」
「い、いいの」
そういいながら、シアは取ったままの綿や布を目に当てて素早く頭の後ろで止める。
騎士は椅子に座りなおして小さくうなずくと彼女に声をかけた。
「聖女様」
「何?」
「もしよろしければ私にあなたのお名前を呼ぶ栄誉をいただけませんか?」
騎士の大袈裟な言い回しにシアははたっと一瞬何を言われたのか考える。
だが簡単にしてしまえばそれはあまりに単純な願いで思わず笑い声をあげた。
「ええ、いいわ。教会の人にはあまり聞かれないようにしてほしいけど」
自分に名前がある存在だとすら忘れられているのではないか。
この部屋の外で騎士がシアの名を呼ぶことはないだろうが一応念を押しておく。
「承知いたしました。ではリーシア様も私のことはレゾリアディヌスと」
「長いわね」
「愛称をお望みですか。では、レゾルと」
「あ、愛称とかじゃないし」
「リーシア様に愛称で呼んでいただけるのは全く光栄の極みです」
「よ、呼ばない! 今までも必要じゃなかったし!」
「呼んでいただくのを楽しみにしています」
「呼ばないから!」
僅かに見える頬を赤くしてシアは叫ぶ。
その声に騎士は柔らかく口元を緩めた。
この温かな二人の関係はこれから五年ほど続いた。
そして長い生と終わらない転生の物語、その序章が幕を開ける。
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