第14話 暗闇の聖女と鋼の騎士3



 口元に笑みを浮かべたまま、シアはおどけて言う。

 騎士がしっかり椅子に座り直す音を聞き、シアは徐に手を頭の後ろにやった。

 そしてそこにある両目を覆う布の終端を解き始める。


「お手伝いしますか?」

「いいの。これはいつも自分でやってるから」


 騎士の手助けを断り、シアは滑らかな手つきであっという間に布を解き終わった。

 その布を膝に置き、最後に残った分厚い綿の塊に手を添える。

 そこで少しシアは逡巡する。


「私は見えないけど、だいぶ気持ち悪いみたい。前の騎士は悲鳴を上げて逃げたから、もし見たくなかったらすぐに顔を背けて」


 その言葉に騎士が返事をする前に、シアは両手でその塊を剥ぎ取った。

 騎士は奥歯に力を込め、漏れそうになった声を押しとどめる。わずかに、喉が鈍い音を立てた。


 そこに現れたのはシアの美しい顔だちだけではない。

 目の周り、まぶたや眉に深く走った幾十もの傷。

 そのいくつかが眼球を損ったのだろうか。閉じきらないシアの瞼の下で濁った瞳が揺れた。


「気持ち悪いかな」


 膝の上に両手を置き、顔を俯けてシアは呟く。

 騎士は努めて音を出さないように深く呼吸をし、それからゆっくりと声を発した。


「私は、あなたの目が、まだ金色に輝いていた時にお会いしています」


 その声にシアは顔を上げる。

 だがこの顔を正面から見たくもないだろうと、またすぐに下を向いた。

 その動きに騎士はわずかに眉を寄せる。


「私は騎士です。これまでに怪我人を多く見て来ました。死にゆく者の腹の中を見たこともあります。もう塞がった傷を見ても何とも思いません」


 普段通りの温かな声音にシアは再度顔を上げた。

 見えない瞳を騎士に向け、先ほどの話の続きを促す。


「それで、以前会ったことがあると言うのは?」

「それよりも先にその傷の理由を教えていただけますか?」

「ああ、そうね。秘密を教えてあげるって言ったのに、まだ喋ってなかった」


 騎士の話も気になるが、先に彼が気にしそうなことは伝えたほうがいいだろう。

 以前シアの瞳がまだ正常だった頃を知っているのであればなおさら。


「これ、自分でやったの」


 右手を最も深いこめかみから右目にかけて走る傷に添えて、シアはなんでもないことのように言う。


 そして騎士の反応を待った。

 これは教会の誰もが口を噤んで話さない秘密。

 必ず騎士も驚くだろうと思っていた。

 それなのに正面の騎士からは何の変化も伝わってこない。呼吸の乱れも、身じろぎもなく、ただそこでシアの次の言葉を待っている。


「驚かないの?」


 焦れたシアは尋ねる。

 そこで初めて小さくカチャリと金属の音がした。騎士が腰にはいた剣を撫でる音だ。

 剣を振るいたいと思っているのだろうか。


「あなたが、そこまでした理由を、お尋ねしても?」


 喉奥から、獣の唸り声のように低い声が絞り出された。

 騎士の怒りにも似た気配に、シアは身震いをする。

 恐怖ではない。ただ、そこにいる騎士が今まで見せてこなかった感情の変化が新鮮で、ある種の喜びをシアにもたらした。


「教会が私の力を求めているなら、無くなればいいと思って」


 鼻で笑い、何でもない事のように言う。それが余計に胸を締め付ける。

 まだ十代を過ぎたばかりの幼い少女をそこまで追い詰めた教会に、騎士は改めて憎しみを覚える。

 ギチリと金属同士がこすれあう不快な音が鳴った。

 握りしめた剣を振り下ろす先を探すように。


「あなたの望みは叶いましたか?」


 それが聖女の望みだったのであれば、視覚を犠牲にして得られたものがあるのならば良い、と騎士は願う。

 シアはその言葉に整った唇を片方だけ上げてみせる。その顔を見て騎士が胸を撫でおろそうとしたとき、シアがその表情のまま体を前に傾けた。

 内緒話をしようとするしぐさに、騎士はシアの口に耳を寄せる。


は、私の力はなくなったことになってる」


 ふっと風を呼ぶようにシアは告げる。

 騎士はわずかに藍の目を揺らし、音もなく背をただす。

 シアの言葉の意味は聞かなくとも分かる。だがそれでいいのかと視線を下げる騎士の前でシアは朗らかに笑う。


「あいつら、私のことを怖がってた。私の金色の瞳を恐れていた。私にまっすぐ見つめられると、あいつらのくっだらない未来を覗くんじゃないかって」


 ふんっと鼻息を飛ばし、シアは両手をそれぞれの傷ついた目に当てる。


「何にも見たくなかった。あいつらの顔も、あいつらの連れてくる奴らの顔も、そいつらの未来も、鏡の中の自分の顔も、その中にあるこっちを見つめ返すあの瞳も全部」


 震える唇と声をごまかすように、シアは大きな咳ばらいをする。

 騎士は立ち上がり、水差しからぬるい水をカップに注いでシアの手に持たせる。

 シアは時間をかけて水を飲みほし、大きな息を吐いて心を落ち着かせる。騎士は身を乗り出して空になったカップを受け取り、そのまま一つのことを確かめた。


「力は、目に見えるものからではない、ということですか?」


 シアは小さく頷き右手を前に伸ばしてさまよわせる。

 その手に触れようとした騎士は寸前で動きを止めた。シアの視力を失った瞳が、騎士に向けられていた。

 騎士の戸惑いを感じたシアは口元を緩めて騎士をからかう。


「来世を知るのは、怖い?」

「いえ、私はすでに来世を知っています。あなたが教えてくださいました」


 そういえば、シアの金の瞳を知っていたということは、間近でシアと接したことがあるということだ。

 まだ聖女として教会に働かされていた時には、きらびやかな格好で様々な場所にいかされていた。聖女を一目見ようと熱狂する群衆の前でくだらない儀式をしたこともある。

 だが瞳の色が分かるほどそばに来られる者は少ない。聖女に来世を見てもらうこと以外では容易に近づけなかったはずだ。そして彼はそれを許された存在だったのだ。


「そう、じゃあ、」


 触れなくてもいいかと手を引っ込めかけたシアの指に、騎士の手がそっと重なった。

 指先まで硬く厚い皮に覆われた騎士の手。その手からわずかなぬくもりが伝わってくる。


「いいの?」

「来世を見れば、私を思い出してくださるかと」


 そう言って騎士は両手でシアの左手を包む。

 人に触れるのは久しぶりだ。もっとぬくもりを感じるのかと思ったが、騎士の手はあまりにごつごつしすぎていて温かさとは程遠い。

 だが大きな両手に包まれる感覚は嫌いではない。

 見えない瞳を騎士の手に向けたままのシアに、騎士の呼ぶ声がした。


「聖女様、見えませんでしたか?」

「あ、ごめん。ちょっとぼおっとしてた」


 はっと顔を上げ、シアは自分の左手を包む騎士の手に右手を寄せた。

 お互いの手を交互に挟む奇妙な体勢に笑いが漏れる。

 とその時、シアの頭の中にある光景が流れた。

 濁った藍の瞳と迸る銀の一閃――


「あ、あの時の……」


 無意識にシアの唇が動いた。

 聖女としてシアは数多くの”来世を願う者”たちを見てきた。

 それこそ王族や貴族、金をたんまり持った者たちが教会にすり寄ってきた。

 恵まれた今世にいる彼らが、来世を見てどうなるのかとシアは内心思っていた。だって今が良ければ良いほど、来世が平凡で普通だと言われた時の落胆が大きいではないか。

 あまりにくだらない。何度か見たそのままを伝え、王族を怒らせたこともある。

 もちろん教会に戻った後に、えげつない折檻を受けた。

 だから全てめんどくさくなって、適当な来世を作り上げるようになった。

 どうせ来世を知るのは、来世を生きる本人だけ。その時になってシアが嘘をついたと知って何が変わるのか。何も、変わらないではないか。

 つくづくどうしようもない、くだらない力にシアは疲れていた。


 まだ若い騎士に会ったのはそんな頃だった。

 騎士の来世は特別なものではない。見えた景色で彼は剣を振るっていた。それは今の彼と同じで何も印象に残るものではない。

 それなのにシアが彼を覚えていたのはむしろーー


「妹のことも、思い出しましたか?」


 騎士の手が離れる。

 シアはぼとりと手を膝の上に落とし、彼の問いにうなずいた。


「覚えてる」


 印象的だった。

 金にまみれた大人たちが聖女に群がる中、彼らはまだ幼かった。

 いや、聖女であるシアもまだ十代に入ったばかりで子供だった。

 だが醜い大人に囲まれていたシアには、十代半ばの彼らは新鮮に見えた。

 特に騎士の妹は――ベッドの上に横たわる彼女は、肥え太った親とは比べ物にならないほどに痩せていた。そして見えた未来も、死にゆく少女に告げていいものかどうか迷うものだった。


「あの時は、ごめんなさい」


 小鳥の囀りよりも小さな声で謝る。もっと素敵な未来を伝えたかった。だがシアにできることは少なかった。

 青白い顔をした、シアよりも細い腕をしたあの少女。

 見えた来世をありのままに伝えられないことに、良心が痛んだのは初めてだった。


「あの子は、あれから……」


 もうあの日から十年近い。騎士がここにいることを考えても、少女はもういないのだろう。

 質問を最後まで口にする勇気が出ず、シアの声が尻つぼみになる。

 騎士がシアの警護について以来、初めての重苦しい沈黙。

 両手を組み合わせてシアは騎士の言葉を待つ。


 一方の騎士は、シアの傷ついた両目や眉、額を見ながらどう伝えようか思い悩んでいた。

 事実は事実で変えられない。だが言い方によっては、すでに傷だらけのこの聖女を傷つけることになるだろう。

 長い時間考えを巡らしてから、騎士は重い口を開く。


「私は、いつも妹のことを考える時にあなたのことを思い出していました」


 ぴくりとわずかにシアの指が揺れる。

 そこに視線をあてたまま、騎士は言葉を続けた。


「あの日は今も私の人生で最高の日でした。そして人にとっては、おそらく最悪の日だったでしょう」


 彼の声にわずかに含まれる嘲りにシアは気づく。

 この話は彼が神の存在を否定するに至った重要な何かに繋がっている。

 それをどこまで明らかにしてくれるのか。どこまでシアはそれを信じればいいのか。

 彼の過去を聞いて、自分は何を思えば良いのか。

 シアには今まで信頼できる誰かがいたことは無かった。教会関係者で誰一人シアを守ってくれる存在はいなかった。心も体も。

 だがこの騎士は違う。シアに心地よい部屋を用意し、食事を運び、心を配ってくれる。


 もう、十分だ。


 これ以上彼を自分の心の中に住まわせてはいけない。

 シアの心の奥底で警鐘が鳴り響く。

 だがシアが静止の言葉を口にするより早く、騎士があの日の出来事を語り始めた。


「あなたはあの日、私に何を尋ねたか覚えていますか?」


 その問いにシアは強く唇を引き結ぶ。

 それから自分の傲慢さを恥じるように、ゆっくりと重い口を開いた。

 あの日、シアは藍の瞳をした青年を見上げ尋ねた。


「覚えてる。耳障りの良い嘘と、絶望しかない真実、あなたはどちらを望みますか?」




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