第8話 夏服

 朝目が覚めると、外は既に明るくなっていた。

 日々早まる日の出の時間に季節の移ろいを感じながら、洗顔後、電気シェーバーを手に取り顔に当てて髭を剃る。 

 髭剃りが終わると下地を塗り、コンシーラで髭剃り痕を隠す。


 寝ぐせのついた髪の毛を直したあと、顎をじっと見てみる。

 凝視すればまだうっすら髭の痕は分からなくもないが、まあ気づかれないだろう。

 安心したところで、少し伸びてきた髪の毛をハーフアップに結んだ。


 朝ごはんを食べ終わり部屋に戻ると、昨日のうちに準備しておいた夏服を手に取り、袖を通した。

 半袖であることに加え、生地自体も冬服よりも薄い夏服は軽く、その軽やかで着心地に夏の始まりを感じた。


「行ってきます!」


 台所で朝ごはんの片づけをしている母と、リビングでテレビを観ている祖母に声をかけ家を出た。


 今日は曇り空で気温も低め。少し肌寒く感じるが、まあ大丈夫だろう。

 冬服だと昼になるともう暑い。暑いよりは、肌寒い方がまだいい。


 向こうから歩いてくるサラリーマンが、すれ違う瞬間こちらを見た。

 この制服を着ていることで向けられる興味本位の視線に、入学当初は恥ずかしさをおぼえていたが、いつの間にかなんとも思わなくなってきた。


 混み合っている通勤通学の時間帯の電車に乗り込むと、すぐに英単語帳を開いた。

 今日は5時間目の英語で英単語テストがある。


 赤シートで隠しながら英単語を覚えようするのを、向かいの席に座っている他校の女子高生のややボリュームの大きい話声が邪魔をする。


「……でさ、そんな訳よ」

「えっ、マジ。ウケる」


 他人からの視線を気にすることなく、女子高生たちは話を続けている。

 制服もだらしなく着崩していて、座り方も脚を開いて気品のかけらもない。

 イラつきを覚えながらも、今は単語を覚えるべく集中し直した。


◇ ◇ ◇


 8時40分。朝の始業のチャイムが鳴り響くなか、担任の先生が教室に入ってきた。それまで、友達と喋っていた生徒たちは一斉に自分の席に戻っていった。

 全員が着席したのを確認した日直の生徒が、号令をかけた。


「起立、礼」

「おはようございます」

「おはようございます。今日、日立さんは体調が悪いのでお休みです。それでは、進路調査票を配ります。大事なものなので、家族の方と話し合ってから書いてください」


 先生が事務的に連絡事項を告げる中、教室の真ん中にポツンと一つだけ空いている遥香の席を見つめた。

 昨日も昼休みに一緒にキャッチボールしたぐらい元気だったのに、休みなんて。

 遥香の急な体調変化を心配してしまう。


 お昼休み、降り出した雨で外に出ることはできないため、教室に閉じ込められた生徒たちの話声がいつもよりも大きく響き渡っている。


 ざわめく声や机の音が急に消えた。

 その静寂に驚き、やることもなく単語帳を見ていた視線を上にあげると、遥香が申し訳なさそうに教室に入ってくるところだった。

 

 遥香が席についてカバンを置いたところで話しかけた。


「遥香、大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。お腹痛かったけど、朝病院に行って薬もらって、ひと眠りしたら少し元気になった。学校休むとあとが大変だから、午後だけでもと思って」

「お腹痛いって、変なものでも食べた?」

「まあ、そうじゃないけど」


 いつもハキハキと答えてくれる遥香にしては珍しく、誤魔化し気味に返事を返された。


「あっ、そうだ、午前の授業のノート借りていい?」


 遥香は貸したノートを手にすると、コピーを取りに教室を出て行った。

 自分の席に座り、単語帳を開きながら遥香の帰りを待つことにした。


「松下さん、ちょっといい?」


 振り向くと田倉若菜が両手を合わせていた。


「数学の演習問題なんだけど、教えてくれない?」

「いいけど」

「助かる~。今日、私の番なんだけどこの問題難しくて」


 数学の授業は出席番号順に当てられた生徒が、授業開始前に演習問題の解答を黒板に書くことになっている。

 若菜が僕のノートを借りると、早速写し始めた。


「丸写しするだけじゃなくて、少しは自分で考えないと身に着かないよ」

「後からするから、大丈夫だって」


 何も考えず機械的に数式を写していく若菜の姿を見ながら、そんなんだから中間テスト赤点とるんだよと心の中でつぶやき、単語帳に視線を戻した。


「ねぇ、若菜、若菜って羽なし派、あり派?羽なしが欲しいんだけど」

「羽あり派だから、ごめん」


 斎藤美悠のお願いに若菜が両手を合わせて謝っている。

 羽なし、あり、何の話だ?餃子の話か?


 コピーを取り終えた遥香が戻ってきて、美悠と若菜の会話に加わった。


「あっ、私なし派だよ。よかったら、あげようか?」

「助かる~。ほんと、ありがとう」


 遥香がポーチの中から白い何かを取り出し、美悠に渡すと美悠は急ぎ足で教室を出て行った。


「えっ、何の話?」

「それは……」


 遥香は言葉を濁して誤魔化そうとしたが、ノートを写し終えた若菜が割って入ってきた。


「ナプキンの話よ」

「ナプキン?」


 ナプキンと言えば、高級レストランで使われる白い布しか知らない。

 ぽかんとしている僕を見て、遥香がそっと耳打ちで教えてくれた。


「生理用品よ。羽ありと、なしがあって、着け心地が違うの」

「そうなんだ……」


 思いがけず繊細な話になってしまい、居心地が悪くなってきた。


「まあ、松下さんは生理なくていいね。女の子の楽しい部分だけ楽しめて、羨ましいよ。ノート、ありがとうね。また、おねがい」


 写し終えたノートを返すと、若菜は去って行った。

 若菜の言葉が胸に刺さり、気分が沈む。


「若菜も悪気があって言ってるわけじゃないから、気にしないで」


 見かねた遥香が励ましてくれたが、若菜の「女の子の楽しい部分だけ楽しめて」という言葉がいつまでも頭の中に残り心を傷つける。


◇ ◇ ◇


 振っていた雨はやみ雲の間から薄日が差す中、駅までの帰り道を沈んだ心のまま歩いている。

 単語テストで83点とまずまずの点数が取れた。それにもかかわらず、心の雲は晴れない。


 若菜の言葉がズシリと心の重しになっている。

 女の子の楽しい部分だけ楽しんでいる。たしかに、そう言われてもしょうがない。生理はないし、高校を卒業して男に戻れば女性だからと差別を受けることもない。


 遥香は悪気はないと言っていたし、実際そうだと思う。

 でも、それゆえに本心だともいえる。


 駅までの帰り道、前を歩く二人組の女子生徒が仲良く話しながら歩いて、時折笑い声がこちらまで届いている。

 二人組のうち一人はスカート、もう一人はスラックス。


 女子生徒がスラックスを履いても変な目で見られることはないのに、その逆で男子がスカートを履くと変な視線を向けられる。

 男だとバレないように、女子以上に女の子らしく振る舞わないといけない。

 男も男なりの苦労がある。

 涙が出そうになるのを必死で堪えた。

 

 


 

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