第13話『青き黄金』

__一八四八年二月、ゴールドラッシュ前夜の新天地カリフォルニアにて__


 パピルスの手帳の不思議な力により、大神官デザトから言伝ことづてを受けてアメリカのカリフォルニアに渡ったジョセフ・バイロン男爵。手帳の、印のついた地図のページを青いターバンの少女にもぎ取られた彼は、その保護者の男、ジェームズ・マーシャルと親しくなった。バイロン卿は、ドイツ系移民ジョン・サッターが統べる楽園、通称『サッターとりで』に滞在中で、今、アメリカン・リバー沿いの岩場に座りながらジェームズ・マーシャルと談笑している。


「いやぁ、この砦がじきに黄金ザクザクの鉱山になると考えたら、興奮してくるぜ!」

 と、大工のジェームズ・マーシャルは、典型的な労働者階級のアクセントでそう言った。


 彼の土まみれの作業着は、ところどころ破れている。


「でも、なんで爺さんの手帳に、俺の作った水車の場所が示してあったんだ? そこが合点がてんいかねぇ」

 と、マーシャルはその汚れた人差し指を、バイロン卿の目の前に突きつける。


「私にもよくわからんのだよ。そのページに印はおろか、地図を書き込んだ覚えもないもんでな」

 と、マーシャルとは対照的な、綺麗なクイーンズ・イングリッシュで冷静に返すバイロン卿。


 バイロン卿の背後では、マーシャルの言う水車が、水流によってぐるぐると回転している。


 その水車の回転を、青いターバンの少女が、静かに、じっと見つめている。


「そうかい。まっ、いいさ。その水車の溝で、この二十三カラットの金が見つかったんだからよ。神様からの贈り物と思うことにするよ」

 と、マーシャルは、金の粒を茶色い指で摘んで空に掲げる。


 太陽の光が粒に反射して、バイロン卿の目をくらます。


「で、上流の方に金鉱床があった、と言うわけか。もう生産には取りかかったのか?」

 と、バイロン卿は、視線を目の前の川の流れから、上流へと移しながら言った。


「ぼちぼちだな。今はとにかく、黒い筋のある石英せきえいの塊を切り出しまくって、金の粒子を抽出しなくちゃならねぇ。あいにくこの砦には、冶金やきんに詳しい奴が少ないから、そうすぐに実用的な金を大量生産できるわけじゃないんだ」


「そうか。でもアメリカン・リバーの川底にある金の方はどうだ? 純度が高い金が転がってるはずだが」


「いや、それがよ……俺がサッターさんから任されてる範囲の砂金は、家族でほとんど取り尽くしちまったんだ。へへっ」

 と、マーシャルはやんちゃな少年のような笑いを浮かべてそう言った。


「そうか、抜かりないな」


「ああ。山でも川でも金を取りまくってるおかげで、服はボロボロだがな。もっと丈夫な作業着が欲しいぜ」


 マーシャルは、自身の全身を保護する布切れの、破れたり、ほつれたりしている箇所をあちこち触る。


「ほぉ、それで言うとだな、昔仕事でフランスのニームというところにいたんだが、大層丈夫な綾織物あやおりものがあったんだ。『セルジ・ド・ニーム』という、濃い藍色のなかなか洒落た生地だったよ。仕事柄、随分と愛用させてもらっていたよ」


 バイロン卿は、若かりし頃、対フランスの諜報員時代のことを、思い出しながらそう語る。


「へぇ、そうかい。ならそれがこっちにも来ることを願うよ」


「あぁ、そうだ。良ければだが、旅行かばんに、セルジ・ド・ニームを使ったパンツが一本あるぞ。あとでお前に譲ろう」


「えっ、いいのか?」


「あぁ。私はもう厳しい労働に耐えられる体ではないからなぁ。そんな丈夫な服を持っていても仕方ない」


「じゃあ、なんで持って来たんだ?」


「それもよく、わからんのだよ。なぜか持ってきたいという気になった」


 バイロン卿は、スラックスのポケットに入ったパピルスの手帳を、生地越しに撫でている。


「おい爺さん、さっきから何もわかんねぇな」


「世の中はわからないことが、五万とあるのさ……」

 と、バイロン卿は、まるで世界を知ったようなフリをする老人のそれではない、達観した目をして呟いた。

 

「ところで、あんた名前は?」


「え? なに? モロッコでアレクサンドリア?」


「ははは、ちげぇよ。それにアレクサンドリアはエジプトだろ? しっかりしてくれ」


「ああそうか」


「それで思い出した、不思議な話があってよ。モロッコの青い町『シャウエン』は知ってるか?」

 

「ん? 青い星正面?」


「違うって! 青い町、シャウエンだ。水車の前にいる娘、名前はセポって言うんだが、そこから来たらしいんだ」

 と、言いながら、マーシャルは軽い目配せで、水車の方を示す。


 水車の前にいる少女、セポは、水車の隙間に小石を投げて通す、妙な遊びをしている。


「そうか、じゃあ他のご家族はどこにいるんだ?」


「それがよぉ。聞いてくれよ。おかしな話でさ、一人で来たって言うんだ」


 マーシャルは、バイロン卿の肩に馴れ馴れしく手をまわす。


「はぁ、そうなのか……」

 と、バイロン卿は反応が薄い。


 バイロン卿の驚きのハードルは、グレートブリテン島の山々よりも低くなっているようだ。


「いやいやもっと驚くだろうよ普通は! で、どうやって来たのか聞いても、教えてくれないんだな、これが」


 大工は片手で、老人の肩を揺らす。


「そうか、そんなことも、あるのだな……」

 と、バイロン卿は静かに頷く。


「不思議だろう? こんな辺鄙へんぴな西海岸の土地に、九歳の女の子……その時は八歳か。そんなのがアフリカからやって来たって言うんだ。で、俺が米墨べいぼく戦争の従軍を終えてすぐの時、目の前に急に現れてよ。金魚のフンみたいについてくるんだ、放っておくわけには行かないだろう?」

 と、事の異常性を強調するマーシャル。


「ほぉ、そうか。面倒を見てやって、優しいのぉ」


「あれだぞ? モロッコは世界で初めてアメリカを国として認めてくれた国だって親父から聞いてたからな……だから慈悲でも優しさでもなんでもねぇ! ま、その徳のおかげで見つけたのが、黄金の山と川よ。で、話はそれたが、名前は?」

 

「あぁ、そうだった。私は、ジョセフ・バイロンだ」


「えっ、バイロン? ひょっとして、あの貴族の?」


「そう。第十五代バイロン男爵。ジョセフ・バイロンだ」

 と、バイロン卿は曲がっていた背筋をピンと伸ばして言い放つ。


「……てことは爺さん、生粋のイギリス人だよな……どういう風の吹き回しだ? 俺の仕えてるサッターさんって人からは、金の発見は絶対に言いふらすなって言われてる。でもついこの間、面倒な商人が『カリフォルニアで金が出たぞ!!』って吹聴ふいちょうし始めて、皆こぞってサッター砦に群がり始めてよぉ。欧州にはまだ金の噂は広まってないはずだから、あんたやっぱり、超能力者か預言者か……」

 と、いぶかしげな表情のマーシャル。


 マーシャルは、バイロン卿の肩に長らく置いていた手を、猛獣から逃げでもするかもように、そっと退ける。


「……私のことは、なかなかの情報通、とでもしておいてくれ」


 バイロン卿は一瞬、自分が紆余曲折を経て金のありかの地図をこの大陸にもたらした真実を話したくなったが、その気持ちを抑えた。


「……おお、わかった、ぜ。あはは、さっきは俺のでけぇ声すら、耳に入るか怪しかったのにな! 困った困った」


 マーシャルは、気まずくなりそうだった雰囲気を和ませようと努力する。

 

「そう、地獄耳なんだよ」

 と、バイロン卿は、詮索せんさくを控えたマーシャルに、優しく微笑んで感謝の意を表す。


「そうかいそうかい。あ、そうだバイロン卿、せっかくだから金鉱床を見ていくか?」


「お、そうだなぁ、興味は大いにある。お言葉に甘えさせてもらお……」


 バイロン卿がマーシャルの誘いを受けきるよりも早く、小さな手がバイロン卿のジャケットの袖を、強く、引っ張った。


 セポが、その大きな目をくりくりさせながら、不器用な微笑みを浮かべて、バイロン卿を凝視する。


「おや、お嬢さん、どうしたんだい?」


「モロッコに帰りたい」


 セポは、単調な、無機質な声でそう請うた。


「はぁ、急だねぇ。どうしてモロッコに帰りたいのかな? 故郷ふるさとが恋しくなったのかな?」

 と、バイロン卿は、セポの無理な頼みに、優しく返事をする。


「うん。会いたい人がいるの」


 セポの声には、抑揚がまるでないが、そこには確かに、なんとしてもモロッコに行くのだ、という強い意志が込められていた。


「おいおい! 正気かよ。この娘、貴族様に対して不躾ぶしつけにも船賃を要求するのか?」


「まぁまぁ、この子がそう言っているんだ。私は、その通りにしよう」

 と、バイロン卿は、一瞬の迷いもなく、回答する。


「おいおいバイロン卿! じゃあ金の山は拝みに行かなくてもいいのか?」


「どうせ鉱床にある金は、金ピカの石でなく、地味な見た目だろう。やっぱり遠慮しておくよ」


 バイロン卿は、岩場から、御年八十三歳とは思えないほどに、すんなりと腰を上げた。


「本当に連れて行く気なのか……」


 マーシャルは、セポのあまりの図々しさと、唯々諾々いいだくだくとしたバイロン卿の姿勢に、気力が抜けて立ち上がる気にもならなかった。


「もちろんだ。それと、さっき譲ると言ったセルジ・ド・ニームだが、お前さんの家に届くように手配しておくよ」


 バイロン卿の手は既に、セポの小さな手をぎゅっと握っている。


「ああ、それはありがたいが……」


「では、達者でな、ミスター・ゴールドラッシュ!」


 

 ***



 __一八五八年三月、ロンドン、バイロン家の邸宅にて__


 カリフォルニアの大工ジェームズ・マーシャルよろしく、金魚のフンのようについてくるセポを仕方なくモロッコに届けることになってしまったジョセフ・バイロン男爵。彼は少女を連れ、カリフォルニアの港を出て、蒸気船で太平洋を南下、パナマ地峡ちきょう鉄道でアメリカ大陸を四十八マイル横断し、まずは母国イギリスに帰国した。


「もうあなた! 急に出ていっちゃって! それそれは心配したんですからね!」

 と、ブロンドの頭頂部から湯気が立つほどに怒る、バイロン卿の妻、サンドラ。


「あぁ、サンドラよ。本当にすまない。でもこうして元気に帰ってきただろう?」


 バイロン卿は、筋骨隆々なギリシャ彫刻のようなポージングをしてみせる。


「はぁ、確かにあなた、いくらか若返ったような気もするわね」

 と、サンドラは懐から手持ち眼鏡ローネットグラスを取り出し、夫ジョセフの全身を見回す。


「あはははは! 賢者の石でも手に入れたかと思うくらいに、活力に溢れておるわ」

 と、大口を開けて笑うバイロン卿。


「……っておバカ! そちらのお嬢さんはいったいどちら様なんですか!?」


 サンドラは、手のひらを上品に上に向けて、金髪に巻かれた青いターバンと銀色の耳飾りが目立つ少女に突きつける。


「ああ、連れてきてしまったんだ。セポちゃんだ」


 セポは、バイロン卿の脚に、木に捕まるコアラのようにして絡まっている。


「はぁ!? セポちゃん? 何、誘拐ですか?」

 と、サンドラは、キリキリとした高い声で問いただそうとする。


「いやぁ、この子が、故郷のモロッコに帰りたいと言ったものでな」

 と、バイロン卿はさもなんの変哲もないことのように主張する。


「モロッコ? 意味がわからないわ。で、この子の保護者は今どこに?」


「保護者? 前まではカリフォルニアの大工の男で……今は私が保護者だ」


 にっこり笑顔の、バイロン卿。


「じゃなくて! その子の家族はどこだと聞いてるんです!」


「ああ、そっちか。モロッコの、青い町。シャウエンらしい」


「シャウエン? あぁ、ダメだわ、頭が痛くなってきた……」

 と、ふらつくサンドラ。


 バイロン卿は、若返ってパワーアップしたとされるその腕力で、倒れそうな妻を支える。


「はぁ……とにかく、拾ってきた子なのね」


 サンドラは、くたびれながらも、事実を受け入れる。


「そうだ。話が早くてありがたい」


「何呑気なこと言ってるんですか。これからその子をどうするつもりなんです?」


「私が責任を持って、モロッコに送り届けるさ」


「あなた、正気?」


「もちろん。そうだが?」


 セポは、バイロン卿と手を繋ぎ、くるくると彼の周りで周回運動する。

 

「今度も、止めても無駄なようね」

 早くも、諦めた様子のサンドラ。


「サンドラも、もちろん一緒に来るよな?」


「はいはいそうさせていただきます。でも……」

 と、不安げなサンドラ。


「でも、なんだ?」


「このところ南欧の情勢がよくないわ。モロッコまでの航路は危険じゃないかしら?」


「私も、パナマのコロン港で聞いたよ。私がヨーロッパを離れている間に、シチリアでは革命騒ぎらしいな」


「それどころじゃないわよ。革命の波はもう、イタリア中に広まっています。フランスも、どうかしらね? ウィーン体制もいつまでもつことやら……」


「まぁ、ジブラルタルまで行くだけだ、大きな障害はないだろう」


「ひどく楽観的ねぇ。肝心のモロッコも物騒よ?」


「ああ、それは私が一番良くわかっている。また、フランスがなぁ……」


「なんでもフランスは、アルジェリアじゃ物足りず、次は西隣のモロッコに県を置こうとしてるって聞いたわ。そんなところに行って大丈夫かしら?」


「さぁ、どうだか。だが間違いなく言えるのは、アフリカ地中海沿岸部を狙っていることに関しては、フランスも、我が大英帝国も同罪よ……」


「ちょっと、それは今している話とは関係ないでしょう?」


 少々呆れているサンドラ。


「いずれにせよ私は、セポちゃんをモロッコはシャウエンに届ける責任を、果たさねばならない!」

 と、気合十分で、拳を握りしめるバイロン卿。


 セポは、モロッコに行けるとわかって嬉しいのか、兎のようにぴょんぴょんと跳ねている。


「ええ、そうね。でないとただの誘拐犯。それも随分年寄りの。しかも男爵。ツッコミどころが多すぎて、どこから手をつけていいのやら。ああもう! 私の方はストレスで老けてしまいそう!!」



 

 ***



 

__一週間後、モロッコ・シャウエン州__


 ジョセフ・バイロン男爵、その妻サンドラ、セポの三人は、蒸気船と馬車とに乗って、ジブラルタル海峡を臨むリフ山脈の奥地、シャウエンの旧市街にやってきた。その街中は、道路、壁、建物の多くが青く彩られている。塗装には、淡い水色から、濃い藍色まで、さまざまな青い顔料が用いられ、現実とは思えない、美しくも異様な街並みが広がっている。


 

「ねぇ、モロッコって、もっと砂漠があって乾燥している印象だったのだけれど」

 と、言って階段を登るサンドラは、冬の海抜六百六十メートルの街で、顔のしわに沿って垂れる汗の雫を、真上から降り注ぐ太陽の光に反射させている。

 

「この辺りは二千メートル級の山に囲まれているからな。北アフリカでも、エジプトやリビアほど砂一色、と言うわけでもないぞ」

 と、バイロン卿も妻に負けじと、ゼェゼェ息をあげながら、ペースを保って階段を登る。


「あら、そう。街はブルーで山はグリーンで、なんだかとしたところだこと」


「良いじゃないか、私は青が好きだぞ」


 青い街、青い山、青い空。夫婦の視線の先の青い通路には、青いターバンの、青臭い少女。

 

「にしても、やけに入り組んだ街ね」


 サンドラは、その迷宮のような街中をキョロキョロ見まわしてるので、彼女がよそ者であることが容易に判断できる。


「ジョセフおじいさん、サンドラおばあさん、こっちこっち」


 セポが、その頭に巻いた青いターバンを街に溶け込ませながら、金髪と耳飾りを揺らして、階段を、元気いっぱい駆け上がる。


「セポちゃんよ、年寄りには階段がちときつくてな。もう少しゆっくり頼むよ!」

 と、膝に手をつくバイロン卿。

 

「やだもん」


 セポは、年齢を言い訳にはさせてくれないようだ。


「はっはっは、元気な子だ」

 と、バイロン卿は感心する。


「元気すぎるくらいよ。でも、家族が増えたみたいで、楽しいわ」


 サンドラは、我が子を見るような目で、セポの後ろ姿を眺める。

 

「そうだな、こんなに小さな子と遊んでやるのは、久しぶりだ」


「何を勘違いしてるのあなた、むしろありがたくも、セポちゃんに私たち爺さん婆さんが、遊んでもらってるのよ」


「ほぉ、その視点はなかったなぁ」

 と、バイロン卿は、妻サンドラの指摘に、ぐうの音も出ない。


「おーい早く、こっちこっち」

 と、セポの声。


 セポは、青い街の階段をどんどん登っていく。


 どうやら、ここが慣れ親しんだ故郷であることは、紛れもない事実のようだ。


「ほらね、案内してもらってるのは私たちの方だし」


「確かにな…………ん? あの男の子は?」

 と、バイロン卿は立ち止まり、セポの隣に立つ男児を指差した。


 銀青色ぎんせいしょくの肌をした、セポと変わらない背丈の少年。


 まるで、空想の世界から出てきたかのような、青い光沢の神秘的な色の肌が、上下半袖の胴体から垣間見える。


 セポと少年は、長い別れの後の再会を喜ぶかのように、抱き合い、笑い合っている。


「私は……夢でもみているのかしら……」


 夫と同様、立ちすくむサンドラ。


「ああ。だが確かに、現実だ」

 と、妻に賛同しつつも反論するバイロン卿。


 そして、セポと青い肌の少年は、青と緑色で大きな球体のようなものが落書きされた、小ぶりな石造りの家の前で立ち止まった。

 

「イアおばさん! ガイおじさん! セポが帰ってきたよ!」

 青い肌の少年が、喜びの報告を、窓の中へと投げかける。


 すると、ひどく薄着の壮年の夫妻が、飛び出すようにドアから出てくる。


「まぁ! セポ……」

 母親が、涙まじりにセポに語りかける。

 

「お母さん、お父さん、ただいま」

 夫婦と子の三人は、静かに抱き合う。


 青い肌の少年も、頭の後ろに手を組みながら家族の再会をそばで眺め、嬉しそうだ。


「私たちはどうやら早くも、任務完了のようだな」

 と、バイロン卿は穏やかな声で言うと、サンドラに身を寄せ、背後から腰に手を回す。


「そうですね。まぁ、せっかくだから挨拶くらいしていきましょう」


 サンドラがそう言って、四人のいる方へ向かおうと足を踏み出した瞬間に、青い肌の少年が、上からバイロン夫妻を指差す。


 少年の一声で、セポの両親は、慌てて階段を駆け降りてくる。


「お二人が、娘を見つけてくれたんですか? ありがとうございます!」

 と、呼吸が荒げて感謝する、セポの父。


「どうお礼すれば良いことやら……」


 夫に続き、深々とお辞儀をするセポの母。


「いえいえ、私たちは当然のことをしたまでですよ」

 と、胸を張って言うバイロン卿。


「でもお礼はしないと。さぁ、狭い家ですがどうぞお上がりください。ちょうど金曜のお昼ですから、クスクスもあることですし」

 と、セポの母はバイロン卿とサンドラの手を取り、階上の方へ引っ張る。


 そうして、バイロン夫妻は、セポの家族に歓迎された。


 

 ***



 セポの母イア・ケステラ、父ガイ・ケステラの自宅に招かれたバイロン卿とサンドラ。今四人は、青と白の家財が溢れる室内で、円卓を囲み昼食をとっている。セポと青い肌の少年は、早くも昼食を終え、部屋の隅に寝転がり、積み木をして遊んでいる。


「エウスタキオ、そっちの三角の積み木をとって」

 と、セポは彼女から離れたところにある積み木の一つを指差す。


「ん、これのことかい? はい」

 と、エウスタキオと呼ばれた青い肌の少年は、素直に積み木を差し出す。


「ありがと」


 セポはエウスタキオから目当ての積み木を受け取ると、それを中心に、背の低い円筒型の積み木を輪状に並べていく。


「そうだ、セポ、これは三角じゃなくて、四角って言うんだよ? ほら、底が四角だろう?」


「でも横から見たら三角。どうして四角?」


「うーん……。あ、三角が四つある。だから『四』のつく四角を使った方が正しい」


「何それ、難しいね、よくわかんない」


 そんな妙な議論が行き詰まった頃には、セポの目の前に、奇妙な作品が出来上がっていた。


 四角錐を中心とした、円でできた円。

 

「……で、あの子、一年前に急にいなくなってしまって。ずっと行方不明だったんです」

 と、子の失踪について説明する母イア。


「セポちゃん自身も、どうやってアメリカ大陸に渡ったか覚えてないなんて、不思議なものですな。まぁでも、こうして送り届けることができて、本当によかったです」

 と、バイロン卿は、この世の怪奇現象には、慣れっこな様子。


「ええ、本当に本当に、礼をしてもしきれません……」

 と、イア。


「いえいえ、十分すぎるくらいにおもてなししていただいてますよ。ほら、こんなご馳走をね」

 と、バイロン卿は大きめのスプーンを目の前にある鍋の中に突っ込み、鍋と自分の取り皿との往復運動を繰り返す。


 大ぶりのラム肉と、ざくぎりの野菜が目立つ、香辛料香る蒸し煮料理が盛り付けられた大皿。その横に、三角帽子の形をした、赤褐色の陶製の蓋が置かれている。モロッコに古くから伝わる、タジン鍋である。


 タジン鍋の隣には、青豆のスープの大きな椀と、ヤギのチーズの乗った木製のプレートが並ぶ。


「特に、このタジンとやらは格別だ。そう思わないか、サンドラ?」

 と、バイロン卿は口の周りを子供のように汚しながら、サンドラに同意を求める。


「……」


 サンドラからは、返事がない。


「ん、聞いてるか、サンドラ?」


 サンドラは、食事の手を止めて、二人の子供のいる方を、じっと見つめている。


「エウスタキオくんは、どちらの子なんですか?」


 そう。サンドラは、銀青色の少年に、吸い込まれるようにして見入っていた。


「実は、エウスタキオは……孤児院の子なんです」

 

 セポの父ガイは、やや躊躇いながらも、笑顔でそう切り出す。


「その昔、レコンキスタなんかもありましたし、この街にはいろんな土地から追い出された人々がやってくるんです。彼もそのうちの一人なんですかね、まだ乳飲み子の時に、孤児院の前に……」


 イアがそう語るのを、積み木をいじくるエウスタキオは、聞こえないふりをしているようだ。

 

「そうですか……」

 と、サンドラは椅子からエウスタキオのそばに移動し、目線の高さを合わせる。


「ねぇ坊や、孤児院で、何か困ってることはなぁい?」


「…………ないよ。毎日ここに来て、セポと、おじさんとおばさんがよくしてくれるから、毎日楽しいよ!」


「本当?」


「……」


「正直に言ってごらん?」


「孤児院に……本がもっとあれば、嬉しいかな」


「ほぉ、勤勉な子じゃないか! 彼のいる孤児院に是非とも本を寄付してやろう。な、サンドラよ?」


 バイロン卿は、たいそう気前のいい提案をする。


「いいえ……」


 なぜか、バイロン卿を否定するサンドラ。


「サンドラよ、なぜだ? この子は、学ぼうとしているんだぞ?」

 と、バイロン卿も椅子を離れ、エウスタキオの前に座り込む。


「ねぇ、あなたの夢はなぁに?」


「……」


 エウスタキオは、積み木を無意味にいじくり、もじもじしている。


「ほら、正直に」

 サンドラは、エウスタキオの持つ積み木をそっと取り上げ、優しく語りかける。


「僕……勉強して、賢くなって、強くなって、世界の王様になるんだ!」


「こりゃ大したもんだ、アレクサンドロス大王の再来か!」

 と、歓喜するバイロン卿。

 

「坊やは、心からそう思う?」


 サンドラは、青い肌の海に浮かぶ二つの玉を、まっすぐと見つめる。


 すると、エウスタキオは、ゆっくりと立ち上がる。


 そして、一度取り上げられた積み木を、老婆の手からふんだくる。


「坊やじゃないよ。僕はエウスタキオ! いつか、天下を平定するのさ!」


 エウスタキオは、腕を頭上に伸ばし、積み木を天井に掲げている。


「いい心構えね……わかりました。由緒正しきバイロン家が、直々に帝王学を叩き込んであげます」


「サンドラよ……どういうことだ?」

 と、状況を飲み込めないバイロン卿。


「言葉の通りです。あなたには初めて打ち明けますけど……本当はもう一人男の子が欲しかったのよ」


 サンドラの、突然の告白。


「そうだったのか……でも、なぜ言ってくれなかった?」

 と、バイロン卿は被害者面をしている。


とぼけないでほしいわ! あなたがアフリカ中で、危なっかしいスパイごっこにふけっていたからでしょう!」

 と、サンドラはバイロン卿の肩を強めに叩く。


「く……サンドラよ、お前の言う通りだ。すまない。だが、勝手に連れていくわけにはいかないんじゃないか? ほら……」


 バイロン卿とサンドラは、二人の子供に視線を戻す。


 セポは、悲しみとも喜びとも取れない微妙な表情で、エウスタキオの、やや茶色がかったシャツを、固く握りしめている。


「孤児院には、エウスタキオを養子に迎える旨を私が伝えます。イアさん、ガイさん、それでよろしいですね?」


 サンドラは、立ち上がって、半ば強制力を伴った強い口調で、そう問うた。


 顔を見合わせる、ケステラ夫妻。


「ええ。お二人について行った方がエウスタキオの未来のためにもなるでしょうし、我々には彼の将来を保証することができる立場にありませんので……ね、あなた」

 と、イア。


 そして頷くガイ。


「ご理解に感謝いたします。未来の帝王よ、こちらにいらっしゃい」


 サンドラは、両手を青い少年に向けて広げる。


 セポがシャツを握る手の力を緩めると、エウスタキオは、新たなる母の胸に、飛び込む。

 

「よろしくね、おかあさん」


 エウスタキオは、生まれて初めて、『おかあさん』という言葉を使った。


 そしてセポは、幼馴染の母親となったサンドラを、羨望の眼差しで見上げる。

 

「ようこそ、バイロン男爵家へ! ようし、私も精を出すぞ! ロンドンに戻ったら、エウスタキオに色々教えてやらにゃいかん、今のうちに腹ごしらえだ!」

 

 バイロン卿は、そう言って席に戻ると、皿に残った、野菜の残骸と砕けたカシューナッツを指で摘んで口へ運び、綺麗さっぱり平らげる。


 すると、ケステラ夫妻は慌ててキッチンに駆ける。


 二人の両手には、容赦ない量が盛られた、追加の皿。


「こちらは、デザートです」

 と、ガイ。


「こんな砂漠デザートばっかりのところに、イギリスの男爵様がはるばるお越しくださったわけですからね。たくさん召し上がってもらわないと」

 と、イア。


 皿に乗っているのは、ヤギのミルクから作ったチーズケーキ、みずみずしいオレンジ。真っ黒な完熟オリーブ、そしてレーズン。


「あら、さっきうちの夫がモロッコなんかよりエジプトの方がもっと砂漠が広いって……」

 と、サンドラ。


「サンドラよ、ユーモアを潰しちゃいけんよ」


 耳元で囁いて妻を制止する夫。


「最後に締めのクスクスもありますからね」

 と、笑顔で告げるイア。


 怒涛の料理の提供に、やや険しい表情で顔を見合わせるバイロン卿とサンドラ。


 しかしその表情は、すぐに朗らかに変わった。


「「もちろん、いただきますよ」」


 バイロン卿とサンドラの二人は、妊婦のように腹を膨らませながら、仲良くそう言った。


 

 ***



 __数時間後、旅立ちのとき__


 あいにくの雨。


 傘もささず、玄関前に立つ一同。


 家側にはセポとケステラ夫妻。


 通路側にはバイロン卿、サンドラ、エウスタキオ。


 バイロン卿は、ケステラ家の、落書きまみれの外壁を見つめる。


 壁は、多種多様な言語のようなものや、謎の記号が散りばめられ、混沌としている。


「これは何なんです? 青と緑で丸くペイントが、それに妙な文字も……」

 と、バイロン卿は壁を指差して尋ねる。


「セポの傑作アートです」

 と、自慢げに語るガイ。


「家の壁をキャンバスにするとは、素晴らしい発想だ」

 と、バイロン卿は感心する。


「この建物、かなり古いんですけど、百年前の地震で外壁にヒビが入ったらしくて。それをカモフラージュしようと、セポが絵で上書きしてくれたんです。ほら、ここにヒビが」

 と、誇らしげなイア。


 バイロン卿は、細く黒い亀裂に、指を沿わせて辿る。


 亀裂は、その青と緑の玉を真っ二つに割るようにして走っている。


 亀裂の先に小さく『1960229』とあった。

 

「この数字は?」

 と、バイロン卿が問う。


「おや、そんなのがあったんですね。セポ、これはなあに?」

 と、イアがセポに尋ねる。


「なんとなく、思いついた数字」


 セポは無邪気にそう答えた。


「そうかそうか、子供のすることは実に興味深い。エウスタキオとセポは二人とも、種類こそ異なるが、才能を持っているだろうな」


 バイロン卿は、隣にいるエウスタキオと、両親の横に立つセポを、交互に見る。


「エウスタキオの才能を伸ばすのは、私たちバイロン男爵家の仕事ね」


 サンドラは、ワクワクしている様子。


「ああ、そうとも。もちろんその責任を果たすつもりだ」

 と、バイロン卿。


「じゃあセポ、エウスタキオにお別れをしなくちゃね」

 と、イアはセポの背中を優しく押し、一歩前に踏み出させる。


 それに呼応するように、エウスタキオも一歩前へ。


「セポ……僕、必ず迎えに来るから。その時は、結婚しよう」


 年端としはも行かぬ少年は、腕を前に突き出し、少女にプロポーズした。


「うん」


 金色の頭に青い輪をつけた少女は、少年の真似事をする。


 小さな手と手が、互いに握り合う。


「じゃあ、またね」


 エウスタキオの声には、一切の震えがない。


「うん、ばいばい」


 セポも、同じ。


 銀青色ぎんせいしょく砂色すないろが、そっと離れていく。


 そして、霧雨のような雨の中、三人はロンドンのバイロン邸へと向かった。


 〈第十四話に続く〉

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