第11話 神の子は魔を貪る
【転移魔術】
地点と地点の物理的距離を捻じ曲げ、瞬間的に移動することを可能にできる魔術である。
…おそらくは、元の世界へ帰ることのできる…唯一の頼みの綱だ。
いったいどこまでの距離、規模の移動を可能にするのかは全くもってわからない。実は的外れな期待なのかもしれないが…
しかし…今ならカロリーヌの言う「理論上魔法で何でもできる」という話を信用できる。というか、信用したい。
重力無視、転移、時間遡行、死者蘇生。
そんなものが存在するのだと、魔法に関してそれなりの権威の人物に言われたのだから、一定の期待する価値はあるだろう。
それに今更、できないよ、だなんて言われたとしても、おそらく今の俺なら不可能を可能にする勢いで研究に没頭することになるだろう。
一度水脈から噴出した水流のごとく、俺に漲った帰宅への意思というものは、もはやとどまることを知らないのだ。
とはいえ、世界と世界を跨ぐという、文言だけでも壮大だとわかることを成し遂げようとしているわけなので、やはり事態は難航していた。
というか、もはや最初の一歩さえ踏みあぐねていた。
「…対象…の、魔力…、質…系統?…大小を掴んで…、…うぅん」
両手で頭を鷲掴み、下唇をグッと噛み、俺は眉間に皺を寄せて力なく唸る。
目の前に対峙し、俺をそうさせるのは、分厚い古ぼけた黒い魔導書。
すべての文字がまったく知らぬ言語、しかもミミズ書きのせいで、もはや解読できるだなんて状態ではなかった。
カロリーヌから渡された、《グリモアール》なる魔導書。
厳密には俺が懇願して借り入れたこの本なのだが、書かれた時代がおそらくかなり昔であるために、現在では使われていない言語が使われているのだった。
それはもう、書斎に納められているあらゆる語学や言語の本を引っ張り出してみても、まったく該当するものが見つけられなかったくらいには。
ゆえに、本を読み切るなんて夢のまた夢で、現在は一文字一文字を解読するのに苦戦を強いられていた。
「だめだな…」
濃密で象形的な文字の筆跡から目を話して、天井を仰ぎ、俺はふっとため息を吐いた。
間違っても、解読を諦めたというわけではない。
ふるふると小さく頭を振って、俺は今の身長では余りある高さの椅子から飛び降りる。
そして同じく今の身長では余りある魔導書を抱えて、俺はそそくさと彼女のもとへ赴いた。
この屋敷の書斎は広い。
数列に渡って本棚が並んでいるために、ほしい本はパッと見つけることはできないし、立ち上がって見回してみても部屋の全貌を確認することはできない。
そういうわけなので、両サイドに存在する本棚と本棚の間をキョロキョロと見ながら、俺は歩いていく。
そして。
「あ、先生。この部分の解読なのですが」
「…エリオスくん。今日も今日とて御熱心ですね…」
俺がわが先生を見てそう言うと、彼女はギクリというふうに肩を震わせ、へにゃりと力なく眉を垂らしながらボヤくように言った。
この魔導書を、そして元の世界へ帰る手がかりを教えてくれたカロリーヌには、実はかなり感謝している。
相変わらず魔法狂いで変態的な一面を見せてくるが、しかし勝手ながら畏敬のような感情を抱いていた。まぁ、その尊敬にはある種のドン引きも含まれているけれど。
「当然です。こんなに魔法が面白いものだなんて初めて知りました」
俺は努めて、無邪気で好奇心旺盛な幼児の満面の笑顔を作り出した。
精神年齢と実年齢のギャップもそうだが、俺が異世界からの転生者であることを悟られたりでもしたら、面倒なことになりそうである。
ゆえに、俺がこんなにも魔導書に噛り付いている理由は、「魔法の面白さに気が付いたから」ということで通していた。
年齢を考えるとそこまでおかしな要素はないし、実際、魔法に対する多少の興味も抱き始めたところだ。
「まぁ、エリオスくんともなる才能の塊がそう言ってくれるのは……それはもう非っ常に嬉しいことであるんですけどもね?」
エリオスくん(5)の笑顔を受けて、カロリーヌの顔に多少の笑みが混じる。
「…でも、この魔導書の内容については絶対言っちゃだめですからねっ!」
人差し指の指紋を見せつけて、彼女はそう釘を刺した。
俺が魔導書関連の話題を出すたびに、カロリーヌはそう言った注意をしてくる。
少ししつこすぎないかとも思われるのだが、しかし常識のかけらもなさそうな彼女にそこまで言わしめるくらいに、この転移魔術…および“プロビデンス魔法”に関することは禁断的な話題であった。
宗教的な理由であることは確認したとおりであるのだが、それを犯したときに下される罰というのが極めて重いらしいのである。
それはもう世紀の大罪人のごとく扱われるらしく、もし発覚してしまったら大衆の面前で磔にされて嬲り殺されるくらいは覚悟しなければならないらしい。
…今一度振り返って見ると、そんなヤバいヤツを5歳児に教えようとするなんて、カロリーヌはやっぱり狂人すぎるな…と今更ながら思われてくる。
「わかってます。わかってますから、この部分について教えてください」
とはいえまぁ、バレなければいい話だ。
幸い、なのかはわからないけど、俺はこの世界でも前世でも宗教に興味はないし、禁忌を犯す罪悪感なんてものはなかった。
どころか俺にとっては渡りに船な話でしかなく、そんなことで研究をやめようだなんて微塵も起きない。
「うぅ…そうですか、そうですか…」
半ばあきらめた様子で、おいおいと泣くような仕草を見せながらも、カロリーヌは俺が指し示した魔導書の部分を読む。
「って…、もうここまで読み進んだのですか。私が翻訳を教えていたとはいえ、すごいスピードですねっ?!」
びっくりしたような表情を見せた。
…まぁ、起きている間はずーっとこの本を読みこんでいたからな。
カロリーヌに教えてもらったコツというか…簡単な文法みたいなものを参考にしていたら、いつの間にかここまで読み進んでいたのである。
「えっとぉ、すいません。申し訳ないですけど、これ以上は翻訳を教えることはできません」
「…え?なんでですか?」
突然のことに、俺は思わず目を丸め、そして半ば問い詰めるくらいの面持ちでカロリーヌに聞いた。
今更、これ以降の話は禁忌過ぎるのでやめてください、とかなんて言わないだろうな。
「実は私も、それ以上は読めてないんですよねぇ…」
少し恥ずかしそうに、そして不服そうに頭を掻いて、カロリーヌは言う。
「読めていない…?」
「ええ。この本を手に入れたのは2、3年前くらいで…最近なんですよ。御覧の通り解読は難しいですし、仕事は忙しいですしで…このページ以降はまともに読めてないんですね」
「…え、じゃあ、この後のページは…」
「自力で解読していただくしか…。一応流し読みはしてみたんですが、いかんせん今は使われていない言語ですからねぇ…。私、言語学には特段精通しているわけではないので…」
膝から崩れ落ちそうになった。
ここまでも進んでいるのか進んでいないんだかの進歩だったというのに、ここで大幅に停滞しまうなんて。
読み進む中で多少は感覚はわかってきたけども、それは多少でしかなく、しかもカロリーヌの助けあってこそであったため、ここからはさらに難航することになろう。
…くそっ、こんなところで。
こんな初歩の初歩で二の足を踏んでいる場合ではないのにっ。
一刻も早く、俺は家に帰りたいというのにっ。
「あ、そうだ」
拳を作り、やるせなさに駆られていると、カロリーヌが思い至ったように声を漏らした。
「解読のアテ、あるかもしれません」
「本当ですかッ?!」
ぶら下がった餌に食いつくように、俺はバッと顔を上げてカロリーヌに詰め寄った。
諦めの矢先にそんなことを言うもんだからテンションがおかしくなりそうだが、とりあえずそのアテというものを聞き出したかった。
「ええ、まぁあまり確信は持てないですけど…」
「いいから、なんでも良いのでっ!」
もったいぶった様子の彼女に、もはや地団太を踏まんが勢いで俺は捲し立てた。
さすがの勢いにカロリーヌも呆れそうになっているが、しかしちゃんと、言葉を続けてくれたのだった。
「えぇっと……王都バロンディアの方に行ってみるのはどうでしょうか」
彼女の口から出てきたのは、この世界でも有数の大都市…そして、古代人の血を脈々と受け継ぐという王族の住まう根城のことであった。
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