1-1 僕が救世主? こんなに世界は平和なのに(2)

「おなか、空いたあ……今年の初飯はつめしは何?」


 昨年の暮れあたりに二十五歳になり、目出度めでたくアラサーの仲間入りを果たした紗理奈さりな。だが、その行動パターンは7、8年前のJKじょしこーせいだった頃と大差ないものだった。ボタン二つ分くらい盛大に前をはだけたパジャマからやや抑揚の穏やかな胸元を曝しながら、ぼさぼさ髪を揺らして居間へとやって来る。

 それを見た兄の典史が、首を振りながら残念そうに言う。


「紗理奈……。そこは『お腹空いた』じゃなくて『明けましておめでとう』と言うべきところだろう、普通。それに、初飯はつめしって言葉、僕は初めて聞いたぞ」


 近頃では珍しく息子に同意したらしい父親が、こっくりとうなずく。


「そうだよ、紗理奈。お前も充分大人なんだからさ、ニューイヤー・カウントダウンに女友達と行ってきた、とか言いながら、本当は彼氏と年越しを過ごしてました――くらいのことがあっても、いいと思うんだよな、俺は。いや、別に推奨している訳じゃないから、勘違いするな。

 ……と、とにかくだな、元旦も昼近くになって頭をボリボリ掻きながらだらしなく着崩したパジャマ姿で父親の前に現れるとは……世も末だぞ」


 そんな父親の言葉に、ぴんと立てた人差し指を激しく揺らしながら、娘が反応した。


「あー!? 今のセクハラだよ。完っ全にセクハラ。いくら父親でも許せないわね。損害賠償として、いつもお年玉の三倍の額を要求する」

「おいおい、お前はその歳で、まだお年玉を貰う気なのか?」

「あったりまえじゃないの……。ワタシは、この家の唯一の美形・・・・・なのよ。言ってみれば、お姫様ね。お年玉を貰う権利は、当然すぎるくらいにあるわ」

「そんなもん……かね」

「ええ、そんなものよ!」


 父と娘の新年のっけからの口論バトルが、娘の圧勝で終了。

 娘の紗理奈は『これでお年玉を大量ゲットね!』とばかりに不敵な笑顔を浮かべると、コタツの一角へと滑り込んで、ぬくぬくと温まり始めた。これでコタツの四辺のうち、三辺が埋まった形になる。リビングの角に置かれた大型テレビから見ればコタツはダイヤ型の形をしており、右奥に父の知良、左奥に典史、右手前が紗理奈の場所だった。

 コタツの持つ魔力でその生命力を封じ込まれてしまった三人は、それからしばらく、身動きひとつしなかった。テレビのスピーカーから飛び出すお笑いタレントと着物姿に着飾った女子アナウンサーの声だけが、リビングルームに響き続ける。


「まあ、それはそれとしてだな――新年早々、ひもじいぞ。母さん、起きて来るの遅くないか?」


 もうそろそろ娘が『お年玉』の件を忘れた頃合いだとばかりに、父の知良が会話の口火を切る。

 典史も父への助け船のつもりなのか、話題に乗っかった。


「ああ、本当だね。もう10時をとっくにまわってるっていうのに……。このままだと、朝飯あさめし昼飯ひるめしになっちまうよ」

「あのね、二人とも……。食事は母さんが作るに決まってる、みたいな言い方は良くないわよ。もうとっくに、家事は男女平等にやるというのが常識な時代になってるんだから」

「そんなことくらい、わかってるよ。でも、母さんは専業主婦なんだぜ、紗理奈。メシを作るのは、母さんの仕事のひとつじゃないか」

「それが固定観念なんだってば! 百歩譲って仕事の日はそうだとしても、今日みたいな休日には、夫婦や家族で家事をシェアしなきゃならないの。まったく、そんなんだから、お兄ちゃんはいつまでたっても彼女ができないんだよ」

「はあ? 彼氏のいないお前に、そんなこと言われる筋合いはないわ!」


 兄妹喧嘩きょうだいげんかがヒートアップしかけた、まさにそのときだった。

 巨大な「ぐぐぐぐぅううう」という腹の音が、数秒間、斉藤家の正月のリビングルームを支配したのである。


 ――今のは、紗理奈・・・だな。


 そこかしこの壁に反響して判然としない巨大音源の発生源を紗理奈と推測した典史だったが、なんとも言い出せない。一方、急に押し黙った紗理奈は、まるで何事もなかったかのように、テレビに熱中するふりをする。

 そんな二人の様子を見た知良は、何も聞こえなかったふりをして、今度は俺が優位に立つ番とばかりに、したり顔でこう言った。


「まあまあ、二人とも。父さんは、男女間とか夫婦間の平等というのは、何かの仕事を物理的に真っ二つに分けてそれぞれが同じことするとか、そういうことじゃないと思うんだ。要するに、お互いがお互いを尊敬し、できることとできないこと、得意と不得意をカバーしあうことが大事なんだ。最終的には、お互いの心の中で『平等感』さえあれば、それでいいんじゃなかろうか……。

 でも、そのお、なんだ……今は、そんなこと言ってる場合じゃなさそうだ。なにせ、家族が正月早々に餓死するかもしれないという危機なのだからな。ここはひとつ、平等にじゃんけんで決めようじゃないか」


 いきなりの、父親の提案。

 彼の息子と娘の二人は、その顔色で提案に対する強烈な難色を示した。


「それって、じゃんけんに負けた人がご飯を作るってこと? ワタシ、いやよ」

「僕だって嫌だ」

「じゃあ、このまま我が斉藤家が、正月のそれも元旦から飢餓により滅びてしまってもいいというのか?」

「滅びるって、大げさな……。仕方ない、わかったわよ。じゃんけんしようじゃないの。背に腹は代えられないわね」

「うん……そうだな。ここは、つらくても家族が生き延びる道を探ろう」


 ――じゃんけん、ほいっ!


 こうして、ぐうたら家族たちによるコタツ天板上でのじゃんけんバトルが勃発した。

 だが、初戦は全員、そろいもそろって『パー』を出したせいで、引き分けとなる。


「ぐぬぬぬぬ」


 男女の低いうめき声がリビングにこだました、そんな瞬間だった。

 その奥にある部屋の方から、ズンズン、という足音が響いた。紗理奈の足音よりも、やや派手で、重みのある音だった。


「やったぁ。母さんが起きてきたぁぁ!」


 空腹の娘が、親が運んでくる餌を巣の中で待ちわびてピーピーと鳴く雛鳥のように、叫んだ。他の二人も、じゃんけんそっちのけでコタツの中の見えない部分で狂喜乱舞し、その顔を純金製の金塊のように光り輝かせた。ついに、彼らがお待ちかねの゛母さん゛が起きてきたのだ!

 だが、数時間ぶりにリビングに出現した白と黄色の縦縞たてじまツートンカラーのパジャマに身を纏った母親――斉藤さいとう啓子けいこが直後に言い放った言葉に、三人は衝撃を受けざるを得なかった。


「ああ……よく寝た。お腹、空いたわ。誰か、朝ご飯作って。大至急!」

「ええっ……!?」


 ぴたり、動きの止まった三人が絶句する。

 瞬時にアイ・コンタクトを行うと、「ここは夫婦生活三十年の俺に任せろ」とばかりに父が他の二人に目くばせをして、両者の同意を得る。


「いや、でも……。新年だし、折角なら俺は母さんの作った雑煮ぞうにが食いたいなあ……。お前たちも、そう思うだろ?」


 斉藤家絶滅の危機を救うべく勇気ある発言を行った父親に、子供二人が敬意の念をもって激しくうなずいた。だが、紗理奈の横幅を1.5倍くらいに引き伸ばして、縦幅を八割ほどに圧縮した感じの啓子は、少しも動じなかった。

 背中と尻あたりを頻りとボリボリやりながら、声高らかに、こう宣言したのである。


「いやよ! だって昨日の大晦日は私がいっぱい働いて、ザンギ(注:北海道の鶏唐揚げのこと。アクセントは「ザ」にある)とか、ちらし寿司とか、たくさんのごちそうを作ったでしょう? 元旦ぐらい、のんびりしたいわよ」


 北海道の家庭では、本州と違って、おせち料理はあまり作らないのである。

 その代わり、大晦日にオードブル的なごちそうを作って、わいわいと賑やかにやることが多いのだ。


「……わかったよ、母さん。俺がなんとかしよう。平等感のためにな」


 こうして――新年初の斎藤家の食事は、チンした冷凍ご飯にお茶漬けのもとを振りかけ、そこにお湯を注いで作るという父親特製のお茶漬けとなったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る