わたしに散る桜

亜咲加奈

わたしに散る桜

 その少年はわたしの前にいた。

 桜の重みに任せて下がった枝の下、少年は長椅子に座り、はにかんだ笑みを見せる。

「覚えていますか」

 わたしは少年に答える。

「覚えています」

 ここは少年とわたしがよく歩いた神社の境内だ。少年の足元には、今はどの高校の硬式野球部員も持たなくなった、四角い肩かけのエナメルバッグが置かれている。そこに書かれた学校名は実在するけれど、わたしが住む県のものではない。

 少年は制服を着ていた。白い半袖シャツに黒いズボン。今は四月だ。夜は冬の上着を着てちょうどよい。

 少年は膝のあいだでゆるく指を組む。

「来てよかった。忘れられていたらと思うと、怖かったから」

 わたしは空を見上げた。

 桜と桜のあいだからのぞいた空は、暗く、うつろだった。



 生まれ育った町にある高校を卒業し、県外の大学に入学したわたしは、地元に戻って就職することにした。

 今の会社から内定をもらい、会社まで車で十分の距離にあるアパートを決めた。

 引っ越しを終えた日、アパートの窓から眺めると、桜がこんもりと寄り集まった場所を見つけた。歩いて行けそうだったので、スニーカーを履いて大股で早歩きした。

 そこは、神社だった。大きな看板に書かれた由緒を読むと、近隣のさまざまなおやしろの神様を集めて建立されたとわかった。

 小さい頃から神社が好きだった。空気が暖かく感じられ、わたしにとって最も安全な場所であると思えるからだ。

 むろんその神社もわたしの期待を裏切らなかった。大きな結婚式場も併設されており、地元ではデートスポットとして認識されているらしい。夕方訪れるとカップルをなん組か必ず見かける。

 わたしは就職してから、同じ部署の先輩と交際するようになった。彼はわたしより学年が二つ上だが早生まれだ。だから彼の生まれ年はわたしの一年前になる。

 彼と出会ったのは、アパートから歩いて十分のところにあるあの神社の桜がみっしりと咲く頃だった。

「この神社のご祭神、俺の地元にもある」

 彼の出身地は西の方にある。けれども彼の口から出る言葉に方言の響きはほとんどなかった。

「母親がこっちの人だからかもしれない」

 こっちとは、わたしたちが勤める会社があるこの県を含む地方を指している。

 夕方、この神社の桜の下を、わたしと彼は二人で歩いた。

 あたりが薄暗くなる頃、垂れ下がる桜の枝と枝のあいだに、高校生らしき二人連れが並んで長椅子に座っているのをわたしは見た。彼も気づいたようだ。

「野球部かな」

 つぶやく彼の声を聞いてその二人連れを見ると、足元に大きな長方形のリュックサックが置いてあった。高校の名前と「硬式野球部」という刺繍が、眼鏡もコンタクトも生まれてこのかたつけたことのないわたしの目にもどうにか見て取れる。

「野球部だったの?」

 わたしが、わたしより頭一個半背の高い彼を見上げて小声で尋ねると、彼は答えた。

「最後の夏は初戦敗退だった」

 わたしは答えに困った。こういう時にわたしは気の利いた言葉を口にすることができない。こんな時、わたしは空を見上げる。

 桜と桜のあいだからのぞいた空は曇っていて、暗かった。



 なぜか彼はわたしを抱こうとしなかった。

「どうして」

 わたしは、目の前に座る半袖Tシャツを着た彼に、いつもより小さな声で尋ねる。

 彼は、キャミソールだけ着たわたしに、暗い声で答えた。

「いけないから」

「なにが、いけないの」

 彼はそれきり口をつぐんだ。

 次に会う約束を、わたしたちはしなかった。

 その後、同い年の同期と、わたしはよく話すようになった。

 わたしは彼にはそのことを言わなかった。彼のことを話すと、同期は笑った。

「別に話さなくてもいいんじゃない。会わなくなれば察するでしょ、さすがに。それにさ、何もなかったんでしょ?」

 確かに同期の言う通りだ。わたしと彼のあいだには何もなかった。

 なぜかわたしは同期を神社に誘わなかった。神社の桜をアパートの窓から眺めても、わたしにとってそれは、ただ単に春になればひらく花のひとつでしかなくなっていた。



 桜が咲く直前、年度末のある日の昼休み。

 会社の建物の外を同期とわたしは歩いていた。

「今度の土日どこ行く」

 同期に答えようとしたその時、わたしは見てしまった。

 会社の表玄関。

 彼がいた。

 どこを見ているのかわからない。わたしに気づいているのか。それとも気づいていないのか。

「どうしたの」

 同期に声をかけられた時にはもう、彼の姿はなかった。

 昼休みが終わり職場に戻ると、彼はいつものようにパソコンの画面と向かい合っていた。

 わたしは指先をキーボードに乗せる。でも心臓がどくんどくんと動く音ばかりが耳に響く。だからしばらく仕事にならなかった。

 それでもなんとか定時までに業務を終えた。

 机の上に置いた水筒を通勤用のトートバッグに入れながらちらりと彼の席を見る。

 しかし彼はすでにいなかった。

 彼の机の上にあるのは、パソコンとサーバー、キーボードとマウスだけだ。

 妙に片づいた机から目を離せないでいるわたしに声をかけたのは、隣に座る五十代の女性である。

「今日付けで退職するんだって」

「え……どなたがですか」

 女性が口にしたのは、彼の名字だった。

「いろいろあるみたい。ご実家の事情とか」

 なぜ彼女が知っているのだろう。

 なぜ彼はわたしに言ってくれなかったのだろう。

 彼女もバッグにスマホやら水筒やらを入れながら話を続けた。

「まあ彼も独身だしね。結婚するならやっぱり地元の方が何かと都合がいいのかもね」

 独身。結婚。地元。単語がわたしの鼓膜を突き破る。

 しかも彼女はわたしの同期の名字まで口にした。

「彼と一緒にいるの、よく見るよ。みんなで言ってるの、お似合いだねって。つき合ってるの?」

 彼女のいやらしい笑みを目にして、わたしは体が引きちぎられそうになった。トートバッグをつかみ、挨拶も小さな声で済ませ、走り出る。

 わたしは車を走らせ、桜の神社に向かった。

 駐車場に停め、水筒のミネラルウォーターをひと息に飲み干し、息を吐いた。

 境内に入り、桜が重くて今にもこぼれ落ちそうな参道を歩く。

 もう日が落ちている。参道に立つ、辺が赤く、面がベージュ色をした四角い街灯に淡い光がともる。

 そしてわたしは、少年に出会った。



「あなたに会いたかったんです」

 立ったままでいるわたしに、長椅子に座ったまま少年は笑う。

「どうしてこの姿なのか、ですか」

 わたしは肩にかけたトートバッグの持ち手を両手で握る。

 少年は笑いを消した。

「どうしてぼくがあなたに何もしなかったかから話した方がわかりやすいかもしれませんね」

 わたしはただ少年の言葉を待つ。

「してはいけなかったんです。責任が取れるかどうかわからないから」

 桜の花びらが一枚、わたしたちに降る。

「先生は様子を見ようと言うんです。かかりつけは地元だから、休暇を取って通っていました。去年の秋からまずいなと思う時が増えたんです。ちょうどその頃からでしたよね。あなたが彼といるようになったのは」

 わたしは目線を斜め下の地面に落とす。

「それでね、地元に戻ることにしたんです。もう出発しています」

 少年はわたしの名前を呼んだ。

「ぼくを見てください」

 わたしは恐る恐る目線を移す。

 少年の目は温かい。

「あなたを責めていませんから、心配しないでくださいね。どうしてこの姿なのかというと、ぼくの心は高校三年生の夏の大会の時で止まっているからなんです。その時のことをぼくはずっと忘れていないからなんです。だからあなたに何もしなかったのではなくて、できなかったという方が正確かもわかりません」

 わたしはようやく、声を出した。

「それなら、今、しますか」

 少年はおかしそうに笑った。

「もう、充分です」

 エナメルバッグを肩にかけ、少年は消えた。

 わたしの上で桜が散り、その花びらがわたしに積もっていく。



 翌朝、スマホでニュースアプリを見ていると、高速道路の事件が報じられているのを見た。

 その道路は、彼の地元に通じている。ある料金所で車が動かなくなった。不審に思った職員が運転席を見ると、運転手がぐったりしていたそうだ。

 病院に搬送したが、運転手は亡くなった。

 その運転手の名前は――発見された時刻は。

 わたしはアプリを閉じ、スマホをトートバッグに入れようとして手を止める。

 そこには桜の花びらが一枚、入り込んでいた。

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わたしに散る桜 亜咲加奈 @zhulushu0318

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