長距離走

霙座

I decided to run beside you.



 止まっていた世界が動き出した。

 それは目覚ましいスピードで。

 空気を切り裂いて進む顔面には熱された風が。


「四分十五」

「くっそ、普通かよ」

「相対的な感想だったね」


 夏が長い。西日は走り終えた肌をじりじりと焼き続けた。

 かんは顎から落ちる汗を手の甲で拭った。


「これで五キロ?」

「五キロだね。寒ならまだいけるような感じあるけど」

「ペース配分よくわかんねえから、助かった」


 手首のガーミンを操作しながら、初回で五キロ走り切ってアベレージがそれなら十分いいんじゃないと、かえでが寒の皺の寄った眉間に苦笑した。額に張り付いた髪が邪魔だ。


「なんでまたランニング始めることにしたわけ」


 楓の質問に、寒はむ、と動きを止めた。


「……あいつが」

「あいつ」


 ぴんときたらしい楓が口許を隠すようにタオルで押さえた。

 お前、今ニヤついただろ。


「ハルカ、高校で陸上部入ったっけ」

「入ってない」

「だったよな」


 中学校の同級生だった春夏良子はるかりょうことは、進学先が別になった。

 もともとハルカは中学では陸上部で、一般入試で陸上部の強豪である公立の高校に進んだが、強豪で付いていく実力はない、とすっぱり決別した。楓の彼女の善幸ぜんこうはその強豪の陸上部に鳴り物入りで入部している(もちろん推薦だ)から、楓は善幸からハルカが陸上部に入らなかったことを聞いているだろう。


 ハルカと一緒に部活したかったなとぜんちゃんが言ってくれた、とハルカは笑った。小学校の時からの親友は、善幸の応援隊長に就任したそうだ。


 その応援隊長が、だ。


「今日バイトのときに変な顔してるから何かあったかと思って聞いたら、体育祭の出場種目、長距離走当たったんだと」

「長距離って」

「十キロ」

「うわあ……」


 十キロ走という競技を設けている体育祭。

 十キロは長い。十キロって一万メートルもある。


「俺でも普段走らないな」


 陸上部の楓だが、短距離なので、練習は二千メートルジョグくらいならたまに入れるけど、と言う。


「今日だって、寒が五キロって言ったときにはちょっと長いなと思ったくらいだし」


 それはどこを走るのか、実況はどうするのか、盛り上がるのか、とひと通り他校の体育祭の心配をしてから、楓はなるほど、と頷いた。


「それで、がんばりやさんのハルカサンのために寒くんは」

「別に」


 寒は、即断で楓の言葉を遮った。

 僅かな沈黙。


「……別に、はおかしいか」

「そうだねえ」


 楓の話を慌てて止めてしまったが、楓にはいつも全部筒抜けなのを思い出した。寒は腰に手を当ててかくんと首を折った。くっそ、と零す。溜息が吐き出される。




 中三の夏、引退してからハルカは走っていない。

 高校生になって、寒とはバイト先が一緒で、仕事はまあ体力勝負な面もあるけれど、外を走るようなことはしていない。

 「部活をやめて、運動不足が体形に出てきた」などと、ハルカのくせに女子っぽいことを言う。曲線を意識してしまうからやめてほしい。


 ともかくだ。


 中学の時から見ているのだから、ハルカは走ることが好きなのだと知っている。体育祭の十キロ走は、また走り始める良い契機なんだろう。


 科学部かっこ仮だった寒が、ハルカの最後の走りを見たのは、楓にしつこく誘われたからだ。行かねえ、と返事をしたけど、出走時刻までメールが来たから、やむを得ず競技場に出向いた。

 ウレタン走路を踏む乾いた足音がよく聞こえた。いつもの二つに束ねた髪が跳ねていた。遠くのフェンス越しに必死な目が見えた。

 汗が散って。少し、震えた。


 覚えている。

 あの夏の日のことを。

 最後の大会で、最後の競技。

 走っている姿も、負けて膝を抱える姿も。


 脳裏に焼き付いている。




 だが。

 寒はいらっと言った。


「夜練習するって言うんだよ」

「夜ランね」

「女子高生がひとりで夜走るって、アホじゃねえ」


 ハルカは本当に危機管理能力が低い。夜道でおかしなやつに声を掛けられたりしたらどうする気なんだ。

 文句をつける寒に、楓はふふんと笑ってずい、と顔を近付けた。


「一緒に走るんだ?」

「……それしかねえだろ」


 楓は口元をタオルで覆ったままだが、目がにやついている。寒は楓の額めがけてチョップを下ろした。

 いたい、と呟いて片眼を開いて、目の前にあった不満そうな寒の顔を見て、額を押さえながら楓はついに声を上げて笑い出した。


「はは、ハルカは何て?」

「…………いやー、つきあってもらっちゃって悪いね、中秋なかあきくん、だと」

「察し……!」


 らしいと言えば、らしい。特別な返事を望んでいるわけでもない。今は、たぶん。

 それでも、胃の辺りがざわざわする。悔しいような気がする。笑い過ぎて泣き始めた楓の尻を蹴った。楓は笑いながらごめんごめんて、と謝った。


「今日は靴を準備して、明日からだと」

「寒はそのナイキで走る? 一回着替えてシューズくらい買いに行こうか」

「あー、とりあえず百均で懐中電灯買う」

「発光するブレスレットとかあるじゃん、それもあった方がいいよ」

「あと防犯ブザー持たせる」

「過保護!」


 街並みにゆっくり沈んでいくオレンジ色が寒の頬の色を誤魔化した。楓がハルカの中学時代の千五百メートルのベストタイムを伝えて、寒が無理だろと叫んだ。

 ふたりはまた軽く走り出した。

 長距離ならペース配分はとても大事だ。気長にね、と隣で楓が言った。

 寒はなんだよと口の端をひん曲げてみせた。





(おわり)

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長距離走 霙座 @mizoreza

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