第3話 伝説のシモネッタ



 美術館、そこは人々が浮世の喧騒からほんのひととき解き放たれ、美の聖域へと旅立つ開かれた楽園の門。当然だが、真の芸術を鑑賞するならば、それに相応しい環境というものが強く推奨されるものだ。

 館内では空間そのものが完璧なまでに洗練されていなければならず、万物が例外なく知的であり、どこを切り取っても この上ない高貴さが保たれていなければならない。そう、例えば王宮のように。

 どんな美辞麗句にも引けを取らぬエレガントなムードを保つこと。

 それもまた施設職員の大切な業務であった。


 無論、そんな場所に 風紀を乱すオゲレツなんぞが存在してはならない。芸術を鑑賞しながら下ネタを口にするなんぞもってのほかだ。

 だがしかし、かくも上品でなければならぬ美術館にも長年捨て置かれた密かな「下ネタ」が……もはや美術史のお約束とも言うべき愛されし小ネタが実在した。今回語られるのは、半ば伝説と化したそんな目立たぬ「下ネタ」のエピソードである。











「へぇ、ウチの美術館にもこわ――い怪談があるんですか?」

「そ――なのよ、歴史ある建物にありがちな七不思議って奴? まぁ、あれだ。七不思議で一番不思議なのは、人によって語る物語が全然違ったりする所なんだけどさ。四つ目以降は特にアヤフヤ。オカルトなんて、所詮非科学的でいい加減なモンよ」



 ビルギット嬢の主任室にて。夕刻の西日が窓から差し込む中、ビルギットとアンドレアスは他愛ない会話を交わしていた。類まれなる観察眼を持つアンドレアスは、女上司の頬を流れる一筋の冷や汗を断じて見逃したりはしなかったけれど。

 からかうような笑みを浮かべ、アンドレアスは対話のキャッチボールを続行した。



「ふぅーん、つまり天下のカリスマ・キュレーター様は、オカルトなんて少しも怖くないと?」

「あ、あ、当たり前でしょう! 幽霊なんぞにビビッて学芸員が務まりますか」

「じゃあ、胡散臭い迷信なんて放っておきません?」

「そうもいかないの。先日も『あの絵』のそばで不幸な事故が起きたのだから。七不思議は語る人次第、どのエピソードが選ばれるかバラバラなんだけど。あの絵だけは別格でねぇ。あの絵の話だけは誰もが真っ先に口にする」

「ほう、それは信ぴょう性が高そうだ」

「その絵に描かれたモデルを決して怒らせてはいけない。その絵の前で『ある言葉』を口にしたら恐ろしい目に遭う。そんな噂がちまたに広まっているのよ、ひじょ――によろしくないわ。当美術館にとっては」

「せっかくカリスマ学芸員が面白い企画を立て、目玉の展示物を集めても、黒い噂が客足を遠のかせてしまったら意味がない。そういう事ですか」

「そうそう。話が早いのは、アンタの数少ない長所ね」

「そいつはど――も。ではビルギット嬢のお化け退治に御供させてもらいますよ」

「いや、違う。行くのはアンタだけ。アタシはもう帰るから」



 あんまりな言い草。盛大にズッコケそうになった。

 まさか、この話の流れからそんな結論が導き出されようとは。

 流石のビルギット嬢も少しは気まずそうではあったが。



「だって~~、今日はもう絵画の修復作業でクタクタなのよ。肩は痛いし、汗だくだし、目はシブシブ。夜更かしは美貌の天敵だし、早く帰宅して風呂に入りたいのよ」

「成程、だから夕方から来てくれと言われたんですね、私は」



 展示物の保管・修復もまた学芸員の大切な仕事だ。

 特に油絵ときたら経年劣化による絵の具の剥離やひび割れが付き物と言っても過言ではない。展示物が常に万全の状態へ保たれているのは、裏方の恒久的な努力が欠かせないというわけだ。

 親の七光りに甘えず、地道な努力を怠らない点は素直に尊敬できる。

 アンドレアスは上司に称賛を送りたい気分だった。

 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ビルギットは有無を言わさぬ口調でこう続けた。



「アンタにもいずれ修復作業を手伝ってもらう予定だけど。今日は、七不思議の調査をお願いするわ」

「おやおや、まさかゴースト・バスターとはね。チート眼鏡の『何でも屋』で似たような依頼を受けたことはあるし、やれなくもないとは思いますけれど。まぁ、試してみましょう」

「それじゃ、ヨ・ロ・シ・クぅぅ~~。何か判ったら報告してね」

「ウッス、お疲れ様でした」



 そのまま帰るのかと思いきや、ビルギットはデスク上に置かれた香水のビンを手に取り、首回りにプシュプシュと吹きかけ始めた。帰って風呂に帰るだけならばもう汗の臭いなんか気にしなくても良いだろうに、自称カリスマは少しばかり「気にしい」なのだ。


 そんなカリスマも退出し、主任室に残されたのはアンドレアス一人。

 デスク上の香水ビンに目を向ければ、目玉が飛び出るほどに高級そうだ。


 ―― まったくカリスマってのは、高くつくモンだねぇ。


 本当に何の他意もなく「富豪の日常」とやらをちょっと眺めていただけなのだが。

 何事かを察したビルギット嬢が血相を変えて部屋へと戻ってきた。



「ちょっと! そこォ! 何を見てる! 変な悪戯しないでよね」

「へ? ……と言いますと?」

「ほら、そのビンに汚い物をこっそり混入させたりとか。男って奴は、どうせ裏でそういう下劣な真似をして、密かに喜んでいるんでしょう? うぷぷぷぷ、お嬢様が『ピー』を首筋に塗り込んでるとかナントカ言って」

「しませんよ、ガキじゃあるまいし。そんなに心配なら、ビンを自宅へ持ち帰ったらどうです?」

「……そうする」


 ―― いや、するんか――い!(ツッコミ)


 残念ながら、アンドレアスの信用は皆無に等しかった。

 恐らく道端のゲジゲジと同レベルだろう。

 気にしいを超えて ちょっと心配症だ。

 ここまでくれば男性恐怖症という奴だろうか?

 男どもは隙あらばスケベな悪戯を美人令嬢に仕掛けてくる。

 どうも主任はそう思い込んでいるらしかった。


 ―― 年頃の娘があれじゃ大変だよ。きっとこれまで周りにロクな男がいなかったんだな、気の毒に。


 そうなった原因は主にアンドレアスの「服が透ける眼鏡」なのだが、過去の行いはすっかり棚に上げ、彼はただ肩をすくめるのであった。


 とにかく、今は地の底まで落ちた男の名誉を回復する為にも、与えられた任務をこなさなければならなかった。気持ちを切り替えて、アンドレアスはデスクに残されたタスクメモを手に取った。


 ―― 調査対象はN2574――31って、こんな暗号文で言われても判らんぞ。こちとらまだ新人なんだが?


 仕方ない、誰かを見つけ「七不思議の絵画ってどこ?」と聞き出す所からだ。館内で作業中の清掃員をつかまえ事情を説明すると、彼は快く案内を引き受けてくれた。

 清掃員の名はハンス。この道十年のベテランで、ハンス爺さんの敬称で皆に親しまれている愛想の良い男であった。清掃員と言って馬鹿にすることなかれ、彼もまた館内を清潔に保つ裏方の一人だった。



「へぇ、お前さんが『あの絵』の調査をねぇ。そりゃ大変だ」

「本当に有名なんだ、七不思議。いったい どんな絵です?」

「オーナーが五年前に購入した展示品で、イタリアの何とかちゅう画家の作品だとか。本物は母国の美術館にあって、ここにあるのは良く出来た複製画という話だが……モデルの幽霊が出るなんて、実はこっちが本物なんじゃないかともっぱらの噂じゃよ」

「悪評千里を走ると言いますからね。耳ざとい幽霊は、わざわざイタリアから駆けつけてくるのかもしれませんね」

「ははっ、そりゃ良いな。しかし、そんな軽口もあの絵を前にしたら謹んでくれよ? 本物の名画を前にしたのと同じくらい厳粛な気持ちで臨んでくれ」

「ヤバいという事は充分に伝わりました」

「先日、お客様が失言した際は、頭上の照明器具が落ちてあわや大惨事だったんだ。くれぐれも甘く見るなよ?」

「ご忠告、痛み入ります」



 くだんの絵は第二展示室の入り口付近に飾られていた。

 縦二メートル、横三メートル、見る者を圧倒するサイズも凄いが、写真かと見紛うレベルの写実的な描写と陰影の描きこみも凄まじい。人物の躍動感あふれたポーズとかしこに隠されたメッセージ性、服のシワや影の一つ一つから尋常ならざる作者の技量とこだわりを思い知らされるばかり。ため息しかでない。

 圧巻、それが世界に名の知られた名画が受け手に与える感想であった。


 タイトルは『春』(もしくはプリマヴェーラ)

 作者はイタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリ。


 数百種類もの植物と数多の花が描かれた森のアーチ。

 その下に美の女神ヴィーナスが孤高とも言える立ち姿を見せ、周囲には春の訪れを祝う女性たちと若者の姿がある。頭上にはキューピッドが飛び、花嫁装束をまとった女性が花を振りまいてもいるので、一見するとタイトルの春に相応しい華やかさなのだが……画面の右をよく見れば幽霊のような青白い男性に襲われて恐怖する女性が描かれている。

 ギリシャ神話の一幕を題材とした場面らしいが、その解釈は人によって様々であり現在でもなお議論を提供するミステリーに満ちた名画なのであった。

 されど、偉大な芸術を前に素人のアンドレアスは首をひねるばかりであった。



「ふーむ? この女性を襲う悪霊みたいなのが、怒らせてはいけないモデルとやらですかね? 確かに なかなか気難しそうな顔をしているな」

「いや、そうじゃなくて……怒らせると怖いのは中央の女神なんだ」

「へ? 穏やかな顔をしているじゃありませんか、立派な美人さんですよ。彼女を怒らせるような悪口なんて、何も思い付きませんがねぇ」


「貴方ねぇ……主任の腰ぎんちゃくをやっている割には、ド素人丸出しじゃない」



 不意に罵倒を投げかけられアンドレアスが頭上に目をやれば、そこには照明器具のランプを修理する女性の姿があった。奇妙なことに、彼女は空中に浮かぶホウキに腰かけ脚立やハシゴの類いは一切用いていないのであった。



「誰だ?って訊きたそうな顔をしているから答えてあげるわ。私はイザベラ・フォーチュンナイト、この美術館で働く学芸員の古株であり、見ての通り今時めずらしい都会の魔女ってわけよ」

「空飛ぶホウキなら高所での仕事も安全安心ですか。率直に言って驚きました。どうも、アンドレアスと申します」

「魔女だって芸術に魅入られたら美術館で働くのよ。初めに言っておくと、オーナーが若造の頃から彼とは大の親友だった。その孫娘なんてまるっきりヒヨコも良い所」

「となると、私はさしずめヒヨコの腰ぎんちゃくですか。宜しくコケッコー! なんちゃって、ははは」

「……フン」

「ああ、すいませんねぇ。よくやらかす口なんです」



 ホウキが音もなく床に舞い降り、魔女は腕を組んでアンドレアスを睨みつけた。

 ツンとすました顔に三角形の眼鏡をかけ、ボブカットの毛先をクルンとカールさせた女性。それがイザベラという女であった。学芸員の制服を着てはいるが、その色は緑を基調としており……はちきれそうな胸元をカボチャのワッペンでとめていた。



「七不思議のことを調べているそうね? なら教えてあげる。絵の説明文を読んでみなさいよ。これまでの犠牲者がどんな無礼を働いたのか、即座に理解できるから」



 イザベラはホウキの先端で絵画の隣に張り付けられた説明パネル(キャプション)を指し示した。そこには金属のプレートに細々とした字で何かが書かれていた。



「どれどれ?」



『この絵はフィレンツェの実質的な支配者メディチ家の男性が結婚する際、それを祝う目的で贈られた物とされている。同じメディチ家のジュリア―ノ(当主の弟)にはフィレンツェ一の美女と称される愛人が居り、美男美女のカップルは国中の注目を集め様々な詩や絵画の題材に選ばれる程だった。一説によると、この絵のヴィーナスもまた美女をモデルとしたものであり、同作者の絵画『ヴィーナスの誕生』との関連性が指摘されている』



「どう~? ご感想は?」

「えー、小学生レベルの感想で申し訳ないんですけど、この名前……」

「それ以上、言っちゃならねぇ!」



 間抜けな発言をいさめるべく、ハンス爺がアンドレアスの腕をつかんだ。



「モデルを怒らせるなと言ったハズだ! 軽はずみな真似すんじゃねぇ」

「え――と……すいません」


 ―― おいッッ! まさか、そんな理由かよ! いや判るよ、判るけど!


 シモネッタ。頭の中のキッズが大喜びしそうな名前だ。


 この名前を見せられて揶揄やゆせずにいられるワケもなく(国によって感想は異なります。多様性って素晴らしい)どうやら この絵の閲覧者はことごとく罠にはまって口を滑らせてしまったらしい。


 ―― そりゃ、怒るわな。歴史に残る名画のモデルに対して。いやいや、世界的な名画だからこそ、つい言いたくなってしまうってのも有るのかな?


 アンドレアスは深くうなずき犠牲者に共感すると、少し考えてから口を開いた。



「成程、話はわかりました。しかし、そうなると問題はこのキャプション自体にあるのでは? 文面を変えたらどうです? モデルの名前を伏せておくとか」

「あらあら、迷信を根拠にそんなことするの? ここは美術館なのよぉ~? お客様への説明はちゃんと正確しないとダメ、ダメェ~」

「困りましたね……」



 この絵がはたして幽霊に憑かれているのか、否か、アンドレアスのチート眼鏡で識別すれば判断はそう難しくなかった。けれど、カリスマ鑑定士を影から助けると約束してしまった手前、職員の居る所では安易にチートを用いないよう女上司から厳命されていた。

 秘密を絶対に漏洩ろうえいしないと約束してくれたら良いのだけれど。ハンス爺さんはともかく、イザベラにそのような分別は期待できそうもなかった。

 彼女が若いビルギットに反感を抱いているのは発言から明らかであった。



「だいたいさぁ、新人に調査を任せるなんて何様なのぉ? 祖父のコネで選ばれた主任なんてコレだから~。なっちゃいないわね」

「どうも、貴方は主任のやり方が気に入らないようですね」

「当たり前でしょう、大した実力もないくせに。公私混同も大概にしろってカンジ。私だけではないからね。平の学芸員は皆、影でボロクソに言ってるわ。角オナちゃんのことなんて」

「か、角オナ?」

「あら、ご存知ない? 私がつけてやった主任のアダ名。彼氏をつくる暇もないから、芸術で発散しているのよ。主任室の壁にスケベな油絵かけてあったでしょう? あれを見ながらデスクの角でこっそり自家発電しているのよ、きっとそう!」

「な、なんじゃそりゃ!?」

「噂よ、噂。あくまで噂だからぁ。せいぜいアホな男に言い寄られると良いんだわ」



 確かに主任室の壁には『愛の寓意』なるタイトルの絵がかけてあった。

 裸婦が「背後から抱き着いた少年」と肩越しにキスをしている……何とも煽情的な絵だった。しかし、あの絵はたしか もう……?

 まぁいい、今はゲスな魔女と角オナ談義している場合ではないのだ。


 ―― なんだかなぁ、陰湿な職場のイジメって奴かい? もしかしてビルギットが「気にしい」なのは裏で嫌がらせを受けているから? 


 祖父にコネに頼った彼女も確かにイケナイのだけれど、ビルギットの努力を目の当たりにしているアンドレアスとしては彼女の味方をしてやりたくなるのだった。

 服が透けるメガネの件なんかすっかり忘却の彼方。

 アンドレアスはさも女性の味方みたいな顔をして言い放った。



「ねぇ、止めませんか、そういう嫌がらせ」

「な・に・さ!!」

「同じ美術館の職員なら考えるべきは人の好き嫌いではなく、施設の未来やお客様の気持ちであるべき。そうではないのですか?」

「ヘン! 堅物め」

「少なくとも彼女はこの美術館を立て直す為に人一倍頑張っているのだから。秘めた性癖を暴露される言われなど無いと思います」

「秘めた性癖? いや、その、あのね、それはあくまで噂なんだけど……」

「芸術への情熱を性欲、はたまたエクスタシーにまで昇華させる。素晴らしい感性ではないですか? やはり美に人生を捧げたカリスマ・キュレーターたるもの、そうでなくてはいけません。むしろ貴方も見習うべきです。そこのダリの絵でオナって下さい、さぁさぁ」

「こ、このセクハラ野郎! 芸術を何だと思っているの!?」

「貴方ほどではありませんが、お褒めに預かり光栄ですね」



 栄養を全部オッパイに持っていかれた奴を相手どって、口喧嘩で負けはしない。

 スラム街では罵声なんて挨拶がわりみたいな物。鍛え方が根本的に違うのだ。

 しかし、相手はそもそも言い返される事に慣れていなかった様子。

 イザベラは顔を真っ赤にして怒鳴りだした。



「なぁーにさ! ドイツもこいつも! 彼女が若いってだけでチヤホヤしやがって」

「年齢の話は特にしてませんが……そこも気になさっていたんですね」

「うっるさ――い! だいたい私は昔からオーナーに言ってるのよ。この場所には複製画ではなくて、もっとちゃんとした絵を飾るべきだって。何なのよ、この絵。デカいだけじゃない。こんないかにも『下ネタが好きそうな』奴の絵なんてさ!」

「……あっ」

「……ん? あらやだわ。私ったら」



 この失言には霊も怒る。怒らないはずがなかった。

 恐らく森羅万象がそう感じたことであろう。

 お前にだけは言われたくない……と。

 肌がひりつくほどの霊圧が辺りに漂い出し、絵の額縁がカタカタと揺れ始めた。

 イザベラはすっかり取り乱して見苦しい弁明を始めた。



「えっ、あの、ちょっと待って! 今のはなしで、ノーカンでお願い」

「こちらに言われましても」

「私ってホラ、思ってもない事をすぐ口にしちゃうタイプだから、悪気はないのよ。本当はとても良い子だったりするの。実は雨の日に濡れた子猫を助けたことだってあるし。案外憎めないタイプって知人にも良く言われるの、ホントのホントよ」

「知りませんよ、懺悔は地獄でして下さい」


「これはいかん! いかんぞ、すぐに絵の傍を離れるんじゃ」



 汚い口喧嘩にあきれていたハンス爺も、ようやく我に返って叫んだ。


 ペタリ、ペタリ。

 物音に振り返れば、チェス盤にも似た展示室のタイル床にドス黒い足跡が何時の間にか付着しているではないか。見ている間にも、ひとつ、また一つと、小柄な裸の足跡が展示室の床に出現していく。それはあたかも油絵具を踏んづけた子どもの悪戯みたいな光景であった。獲物を狙う肉食獣のような重々しい足取りで、足跡の主は間違いなくイザベラの方へと向かっていた。

 されど、見えるのは足跡だけ。

 足跡を残した本体は、どんなに目を凝らしても目視できなかった。




「ひぃいいいい! おたすけぇ~~」



 清々しいまでに情けない悲鳴をあげ、ガン泣きしながらイザベラがホウキで逃げ出した。ホウキで職場を放棄した……などとからかっている場合ではない。

 ペタタタタタタッ!! タッタッ!

 相手の逃亡を察知したのか、足跡はスプリンターのように速度をあげ、凄まじい速さでホウキの魔女を追いかけていった。


 そして、後ろから何かに掴まれでもしたように、イザベラのホウキが空中で急停止した。イザベラを乗せたままでホウキはブンブンと何度か振り回され、彼女はゴロゴロと床を転がった挙句に壁へと叩きつけられた。ホウキは根元からへし折られ、魔女は遠目にも伸びているのは明らかだった。



「おいおい待て、待てって。その女が死んだら、誰が子猫の面倒を見るんだ?」



 アンドレアスは悪態をつきながらも、眼鏡を押し上げ怪異へと歩を進めていった。



「それに、同僚だしな、一応は。第四十八機能、霊視! オォ――ン!」



 足跡で汚れた床の上、それはやはり居た。

 チートの力であぶり出されたその姿は『春』の絵に描かれていた女神そのもの。しかし、その目には生気や感情というものがまったくなく、凍り付いたような三白眼でこちらを恨みがましく睨みつけていた。

 ハンス爺の悲痛な叫びが真夜中の美術館にこだました。



「止さんか、新人! 逃げろ、もうそれしかない」

「い――え、逃げませんよ。業務命令なんでね。なに、まだまだ打つ手はあります」

「どうする気じゃ」

「悪霊が憑いた依り代、つまりは絵その物を破壊するか……絵画の霊なんだから試しに水をぶっかけてみるとか……?」

「歴史的名画のモデルを破壊するのか? ワシらの独断で?」

「やっぱ、マズイっスよねぇ。それは」



 下手をすれば世界中の『春』からヴィーナスが姿を消しかねなかった。

 前例のない話だからこそ、結果がどうなるかは誰にも判断がつかないのだ。


 ―― ならば怒りを鎮める方法を考えるべきか? 侮辱をトリガーとして出現した霊なのだから、逆手をついて相手を喜ばせてみるとか? う――ん、芸術品って何をしたら喜ぶもんだ?


 アンドレアスは意を決すると、シモネッタの霊と対峙した。

 歩みを止めた最後の一歩。靴底が床のタイルをカツンと鳴らした。



「シモネッタさん、お怒りはもっともですが、その辺にしておきませんか?」

『……』

「我々もプロです。こうして原因がハッキリした以上、二度と悲劇が繰り返されないよう適切な対処しますから」

『……』

「言ってしまえば、貴方のような伝説のモデルが軽率な真似をすべきではない」

『……!』



 やはり反応があった。

 侮辱の対義語は称賛であった。

 三白眼の女神は無表情で首を傾げた。



「貴方はあらゆる女神の模範となるべき存在。それゆえに、名誉に恥じぬ相応しい振舞こそが求められるのです。いけませんよ、ホラ、暴力なんて」

『……!』

「ひと目みた時から感じていました。この絵には人生の光と闇、春と冬、栄光と盛衰が完璧に表現されています。人生の最も深い所が描かれた『真の芸術』には、時の流れなど無関係。そう、貴方は永遠に語り継がれる逸話そのものなのです。そのサクセス・ストーリーにこのような汚点を残すべきではない。違いますか?」

「……!! ……!!!」



 シモネッタの霊は何度も何度もうなずき、やがて床へと吸い込まれるように消えていった。後に残された物は、折れ曲がったホウキとグルグル目の魔女、そして静けさばかりだった。

 床に残された足跡も、圧迫するような気配も、霊による微かな揺れも、全てが夜の平穏にとって代わられていた。

 アンドレアスは服の袖で汗を拭うと、振り返ってハンス爺に微笑んでみせた。



「どうにかなりました。物分かりの良い人で助かった」

「おお~! やるのう! 評論家でもないのに、よくこうも喋れるもんだ」

「へへへ、人を褒めるのにもコツがあるんですよ」



 そのコツを教えてくれたのは他ならぬシスター・クラリッサだった。

 就職祝いと称した先日の飲み会で、ワインに酔った彼女が思わず口走った失言。



『なーに、アートのひひょーなんてチョー簡単ですのよ~。この作品には深い人生が描かれている。とりあえず そう言っておけば、万事オールオッケーなのです。芸術家なんて性根が単純なんだから~! にょほほほほほほほほ!』



 シスターは素晴らしい女性だが、酒を飲むと溜め込んだ日頃のストレスが爆発してしまうのだ。出来れば一緒に気持ちいい行為で発散したいのだけれど。アンドレアスにしてやれるのは、寝入った彼女に毛布をかけてやることだけだった。


 しかし、助言のお陰でこうして暴走する霊を鎮めることが出来たのだから。

 これぞ怪我の功名という奴だろう。


 みればイザベラも気絶しただけのようだ。

 彼女を医務室のベッドに運んで、とりあえず騒動は一件落着であった。

 最後に、ベッドの傍らでハンス爺がひとこと述べた。



「しかし、イザベラを恨むなよ。彼女だって、あの絵のライティングを設定するのに相当な時間を使っているんだから。あの人も結局は職場の仲間、施設のことを何も考えていないワケではないのだよ」

「判っています。学芸員だけじゃない、清掃員である貴方もそう……でしょう?」

「うむうむ、皆がこの施設を愛しているのじゃ。そうでなければ続くものかよ」












 そして翌日のお昼時。

 アンドレアスは主任室にて事件の真相を報告していた。



「ひぇ~、七不思議の怪談は本当だったの? 災難だったわね、貴方もイザベラも」

「……いえいえ、それ程でも」



 まさかビルギット本人を前に「角オナ」の話など出来るわけもなく。

 簡略化してイザベラが口を滑らせた所からの報告となった。

 報告を聞いたビルギットはアゴに手をやり、肘椅子の背もたれによりかかった。



「でも困ったわね、再発防止に取り組むとは言っても……」

「やっぱりあのキャプチャーを書き直すべきだと思うんですよ。第一に」

「シモネッタさんは下ネタが好きではありません……そう書き足すとか?」

「火に油を注いでどうするんですか!」

「じゃあ、どうするの?」

「こういうのは説教のプロに任せれば良いんですよ。シスター・クラリッサに一筆かいてもらいました。これをそのまま載せましょう」

「クラリッサって、貴方が世話になったという? ふーん、どれどれ」



『この絵をご覧になった皆さんは、きっとシモネッタさんの一風変わったお名前に注目していることでしょう。しかし、胸に手を当てて良く考えてみて下さい。ここに在るのは些細な偶然の一致に過ぎません。本来、ゆかいなジョークとは誰の心も傷付けない上品な物であるべきです。異国にはエロマンガ島や、マラスキーといった名前も実在するのですから(神よ、私は何も考えていません)島民や本人にとって、我々の言語文化など別に知ったことではないのです。名前とは親に授かった大切なもの。安易に愚弄すべきではありません。ましてやこの芸術作品にはのですから。お友達やご家族と、まず作品の感想を話し合いましょう。美術館はそういう場所、下ネタは家に帰ってから、シスター・クラリッサとの約束です』



「無駄に長い上に、ツッコミ所が満載なんだけど?」

「素晴らしい説教ではありませんか。直す箇所などまったくない」

「ここは教会じゃなくて、美術館なんだけど?」

「施設の環境は皆で作り出すものです」

「本当にもう……シモネッタさんもそこまで怒る事なのかなぁ」

「いいや、彼女は怒るべきだと思いますよ。嫌がらせや陰口って奴は、人から大切な物を奪っていきます。ビルギット主任だってもっともっと怒るべきなんですよ」

「……うん? えっ、なに? アタシ?」


「以前は『どうせ減るモンじゃないし、良いじゃん』などとセクハラを軽く考えていましたが、とんでもない。侮辱を受けると減っていくのです。人の名誉や人権はすり減って最後にはすっかり失われてしまう。やられた方が烈火のごとく怒るのも至極当然でした」

「大切な話だけど……どうしてアタシの目を見ながら言うのさ?」

「だから私も、主任の『角オナ』について語るような輩は断固として許してはおきませんので、どうかご安心を」

「か、か、角オ? なっ? 待て――! 何の話だ、説明しろ、コラ――!!」



 チラリと横眼で一瞥すれば、主任室の壁には相も変わらず複製画がかけられていた。されど先日から その絵は、ピカソの『泣く女』へとかけ替えられていた。

 主任はその日の気分でどんどん絵を変えてしまうのだ。

 それを知る者なら、イザベラのホラなど誰も信じないだろうけれど。


 ―― 今後は抽象画だけを飾るように言っておくか。


 二人の輝かしい栄光と、美術館の未来の為にも。

 きめ細やかな気配りは常に必要なのだ。

 カリスマへ至る道は未だ遠かった。

















 その後、主任室にて一人、ビルギット嬢は打ちひしがれていた。

 なにかジロジロと奇異の目で見る奴が居るとは思っていたが……まさか芸術作品で自慰行為にふけるような人間だと思われていたなんて。


 ―― カリスマ・キュレーターってそこまで求められる物なの? そこまで芸術への愛が深くないとダメ? うーん、厳しいわぁ。


 壁を眺めれば、そこにかけられているのはピカソの『泣く女』であった。

 既存の概念を覆した芸術の革命ともいうべき傑作ではあるのだけど。

 性的興奮を感じるかと言われたら、残念だがNOと言わざるを得なかった。

 絵だけに。


 ―― なんか、こう……もっと作品を恍惚の目で見れるようにならないとダメ? 例えば、好きな人の横顔を眺めるような感じで。うーん、想像もつかない。


 悲しいかな、長らく色恋を忘れていたビルギットでは、その熱情を咄嗟に再現することなど不可能であった。


 ―― いかんなぁ~、仕事漬けの毎日だもんなぁ。アタシももっと色っぽくした方が良いのかな? でもさ、職場で角オナは無いでしょう。いくら何でも!


 プゥっと頬を膨らませながらチラリとデスクの角に目をやれば、そこは随分と固く尖って見えた。


 ―― 痛そうなんですけど? 激しい自慰行為で病院に運び込まれた人の話も稀に聞くし、笑い者になりたくなければ、そんな真似しない方が良いでしょう?


 正論であった。しかし、人生には正論をも覆す瞬間が時に存在するもの。

 いわゆる「魔が差す」といった瞬間が。


 ―― でも、いったい どんな感じなのかしらね? 机の角で? するの?


 試しに片足を持ち上げデスクの端に跨ってみた。

 股間に結構な圧迫感があった。そして服の上からなら案外刺激は少なめだった。

 恥ずかしい姿勢をとる背徳感が、乙女の胸をキュンと締め付けた。


 ―― おっ? これはもしかして意外といける? ひょっとしてカリスマへ一歩を踏み出せちゃう感じ? このまま腰を何度もグラインドさせてみるとか?


 調子にのってあれやこれやと試行錯誤を繰り返していたその時であった。



「ビルギット~! あのさ、お昼まだなら一緒に食べない!」



 主任室の扉が勢いよく開け放たれ、親友のヤスミン嬢がノックもなしで入室してきた。目が合うお嬢様と元お嬢様。そして一人は机の端に跨っていた。乗馬のごとく。

 ビルギットの頭が真っ白に、顔は耳まで朱に染まったのは言うまでもない。

 そして、焦ったのはむしろ目撃した相手の方であった。



「いや、あの、その、ゴメンなさ――い! 私ったら、まさか取り込み中だとは思わなくて。私は何も見てない。見ていませんから、どうぞお続けになって!」

「ち、違う! ヤスミン、待って! これは違うのよ、誤解だって」

「おじい様にはくれぐれも内密に。お賃金と友情の為に、この秘密は墓まで持っていく覚悟。ご心配なく! どうぞ、ごゆっくり」

「待ってよ、ヤスミ――ン!」



 その後、イザベラの流言が広がったのか、ヤスミンが裏切ったのかは判らないが……ビルギット主任に対する周囲の態度は少なからず変化した。

 主に年下の女性職員たちがビルギットを慕い集まってくるようになった。


 主任のあだ名は「お慰めしたい あの方」へと決まったのだとか。


 どうやら確実にカリスマ・キュレーターへの第一歩を踏み出したようだ。

 カリスマにも二種類あって、軽く扱われはするが皆に愛されている者と、誰からも尊敬される者に二分されているのだ。その間には深い深い分断があった。


 令嬢主任学芸員ビルギット。栄光へ至る道のりはまだまだ遠い。


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