怪異事変 〜愛する者達へ〜

神宮 雅

第1話


 アスファルトに反射する真夏の日差しが、眼と肌を焼く。

 蝉の声より、すぐ隣を走り抜ける車のタイヤ音の方がよく聞こえるのは、ここが都会の街中だからだろう。

 ターミナル駅を出てすぐの大通り。午前10時であるにも関わらず学生風の通行人が多いのは、今が絶賛夏休み期間中だからだ。かく言う俺も、その中の1人である。

 周囲にはビルが多く立ち並んでおり、時間帯も相待って、歩道に木陰が出来ていた。時折吹くビル風が、手持ち扇風機の羽根を無理矢理止める。

 丁度目の前で、道を歩く女性の日傘が壊れた。なにやら悪態を吐きながら、折り畳み式のそれを小袋に仕舞っているが、その悪態も強風に飛ばされて俺の耳には聞こえない。

「どうせ捲れるなら、スカートにしてくれよ……」

 ボソリと呟いた願望は、男子高校生として健全な物だ。寧ろ、控えめな方だと言ってもいい。過激派は、太陽に頑張らせて服を剥ごうと画策するだろう。俺はそこまで下品では無い。

 ショルダーバッグから水筒を取り出し、中身を呷る。希釈したスポドリはどの季節に飲んでも美味く、身体に染み渡る。だが、500mlしか入らないこの水筒では、この先必ず補給が必要だ。我慢してチビチビと飲む馬鹿な真似はしないが、この程よい濃さを味わえるのは、そう長くは無い。と、明らかに先程より軽くなった水筒をバッグに仕舞う。

 バッグのチャックを閉めた時、丁度ズボンのポケットに入っているスマホが、ポロンと軽快な音を鳴らした。見ると、待ち合わせをしている人からのメッセージだった。どうやら、レンタカーを無事借りて、今駅前に着いたらしい。

 一緒に送られてきた車の写真とナンバーを確認して、一度周囲を見渡す。少し離れた場所に止まっている写真と同車種の車を見つけ、遠目からナンバープレートを確認する。

「……うん、合ってる」

 何度も見直して写真の車である事を確認すると車に近付く。その姿に気が付いたのか、こちらが車内を覗く前に助手席の窓が開く。

「どうも」

 頭を下げながら車内を覗くと、運転席には若い男性が座っていた。その男性は俺の顔を見るや否や

「乗って乗って。冷房効いてて涼しいよ」

と、親指で後部座席を指差した。

 残り2人の待ち人の事を考えると、俺は助手席に座った方がいいと思うのだが、開けようにも鍵が掛かっている。窓から手を突っ込んで鍵を開けてもいいのだが、初対面でそんな事をする勇気は無い。

 諦めて、後部座席のドアを開けて中に乗り込む。思ったよりも涼しい車内に、思わず笑みが溢れる。数分とはいえ、炎天下の中待たされた甲斐があったというものだ。

「いやぁ。もしかしなくても、待たせちゃった感じかな?あ、ごめん。リュックは後ろに置いといて」

「真夏の炎天下の中、数分しか待たされて無いので、気にしないでください。欲を言えば、一番最初に待機して欲しかったですが」

 後部座席から身を乗り出して、後ろのトランクに彼のリュックを置く。意外と重く、中から硬いプラスチック袋の音が聞こえるが、大量の菓子類でも詰まっているのか?

「おぉ……結構素直だね。本当に悪かったよ。“先生”が急に来れなくなったから、レンタルに時間掛かっちゃってさ。これでも早い方だったんだけどね」

 今日の集まり。本来は、保護者兼案内人として一人の女性が同行する手筈だったのだが、昨日の夜、急に“カウンセリング”の仕事が入ったらしく、来れなくなってしまった。

「残念だよね。俺、先生に会えるから今日来たのにさ。本当は、昨日の時点でキャンセルしようと思ってた位だよ。まぁ、まだ来てない2人が女子だから、それでいっかって感じ。あ、今のは女子達には内緒ね?男同士の会話ってやつ。釘刺しとかないと、君、女子にチクりそうだし」

「釘刺されてもチクりそうだけど……相手が不快になりそうだから言わないですよ。腹いせ、に道中で降ろされても嫌ですし」

 本音を言えば、今ここで降ろされてしまっても構わない。だが、彼女から頼まれた“仕事”なので、例え拒絶されても着いて行かなければいけない。本当、小遣い程度の金額しか貰えないのに、よくやるよ。と、自分を褒めたい。

「流石にそこまでしないよ!俺も大人だからね。君と同じ位の歳の頃は、そんな感じで尖ってたからさ〜。丁度、その年頃ってそんな感じなんだよね。分かる」

 確か、彼は21歳だったはず。俺の年齢と比べても、3、4歳しか変わらない。年齢よりも人生経験だろ。と、言いたいところだが、少なくとも、社会で積んだ経験であれば、彼の方が多く、上質なものである事は分かる。

 それに、チャットのやり取りや初対面の印象は良く無かったが、実際に会って話してみると、案外似た者同士かも知れない。基本、男なんて皆同じ思考回路をしているが、何となく、彼とは気が合いそうだ。

「なんか想像出来る。俺も、中2の男子見た時、同じ感じのリアクションしますもん。お兄さんみたいにチャラくなる未来は見えないですけど」

「いや、君は誑してきた口だろ?雰囲気ってか、顔とか仕草かな。女慣れしてる男だね」

 初対面の人相手に、よくそんな事を言うもんだ。だが、正直初対面の男に言われなれている内容でもある。

「逆ですよ、逆。女の中で育ってきただけです。知ってます?俺、女から女として扱われてるんですよ?」

 その度に、同じ様に否定している。ここまでくると、日常会話と差し支えない。

「中性的……ってより、女性寄りな顔立ちだもんね、君。男からもモテるだろう?」

「どうですかね。嫌われては無いですけど」

 だが、男からモテる。と言われたのは初めてだった。男からモテる男ってのは、逞しかったり、頼りになる男だと思うが、俺はそれとは正反対の人間だ。好意的にしてくれる男はいても、そういった感情で近付く男はいないだろう。

 絶対モテてるぞ。と彼は揶揄う様に続けているが、同時に鳴るスマホの通知音に会話が途切れる。どうやら、残りの2人も駅に着いた様だ。ナイスタイミング。

「女性陣も着いたみたいだね。……お、あの2人じゃないかな?」

 サイドミラーを眺める彼は、ミラーの中に待ち人を見つけたのか、振り返って助手席に身を乗り出す。俺の時とは随分と反応が違うじゃないか。やはり、俺が彼の様なチャラ男になる事はない。

 そう思いながら俺も釣られて振り返り、黒い窓越しに待ち人を探す。……必要も無いくらいに、彼女達は目立っていた。

 片や白いワンピースを着た百合の様な可憐な女性。片や、短パンスポブラに肩出しジャケットと、何処のヤンキーだと言いたくなる薔薇の様に苛烈な少女。会うのは2度目だが、本当に似ても似つかない姉妹だ。何故、対比的な服装や態度をしているのか、以前彼女に聞いている。いつかは互いに好きな服装が出来る様になれば良いのだが、カウンセリング次第だろう。

「お〜い!こっちこっち!」

 彼の呼びかけに、女性は優しく手を振り、少女は野球帽の鍔の隙間から眼光鋭く睨み付ける。意外にも笑みの端を引き攣らせる彼に、俺は「ビル街って眩しいですよね。ガラスの反射キツイですし」と、意味の無い言い訳をしながら運転席の後ろに移動する。その際、腰に巻いていた上着が解けたので、次いでに畳んで後ろのトランクに置いた。

「そうだよね……。あんな可愛い子が、意味も無く睨む訳無いよね」

 意味ならあるが。なんて、態々間に亀裂が入る事を言う必要は、今の所は無い。彼には、彼女達に対して上手く立ち回って貰う必要があるからだ。そもそも今回の集まりは、彼女達のカウンセリングの一環でもあるのだ。彼女が言うには“ショック療法”らしいが。

「お待たせしました〜!」

 ワンピースの女性が助手席の窓を覗いて、俺達に挨拶する。その隣にいる少女と、黒いガラス越しに目が合った。気がする。助手席に俺が居ないので、後ろに座っていると考えているのだろう。それ以外に何を考えているかまでは、流石に分からない。

「取り敢えず乗っちゃって!あ、どっちが前の──」

 彼が話を終える前に、少女は後部座席のドアを開けて車内に乗り込んだ。恐らく、彼は既に少女に対して苦手意識を抱いているだろう。引き攣った頬が、それを物語っている。

「じゃ、じゃあ、お姉さんが助手席で。冷房も程よく効いてるから涼しいよ」

 気を取りなおす様に女性に声を掛けると、女性は少女とは違い柔らかくはっきりとした声で「本当ですか?!ありがとうございます」と言った。

 どうぞ。と、彼は助手席のドアを開けると、女性が車に乗り込み、漸く全員が揃った。何故か、少女が横目でこちらを見つめてくるが、もしかして、俺がドアを開けなかった事を怒っているのか?

「……久しぶり」

 が、どうやらそうでは無かった様だ。

「……覚えてたんだ。すれ違っただけなのに」

 彼女が俺の事を覚えているのは意外だったので、思わず返事が遅れてしまう。俺の返事を聞いた彼女の気配が、若干丸くなった様に感じた。

「……今日は薔薇の香水してないんだ」

 そう呟く少女の言葉に、彼は車を出発させながら被せて話しかけて来た。

「なになに!2人とも知り合いだったの!?メッセージではそんな話してなかったじゃ〜ん!」

 話を邪魔された事で機嫌を損ねたのか、少女は運転席を睨み付ける。だが、運転に集中している彼はそれに気付かない。俺からすると、今のタイミングで割り込んでくれてありがたかった。

「そうなの。先生の所に行った時に、一回すれ違ったのよね?すごい薔薇の匂いがしてたから、印象に残ってるわ」

「……先生に話したら、“彼”って言われて驚いたのもある。あの時は髪の毛も長かったし、ボーイッシュな女子だと思ったから」

「あー……。あの時は、髪の毛切ると寒いからって伸ばしてたからなぁ」

 彼女達と会ったのは、冬休みが終わって1ヶ月ほど経った寒い冬の日。冬休みに床屋に行くのをサボり、長髪だと顔周りが暖かい事に気付いて前髪以外を伸ばしていたのだ。結局は、邪魔過ぎて直後に切ったのだが。丁度彼女達に会ったのが、床屋に行く時だった。

「今も長い方だよね」

「これ位が落ち着くんだよ」

 少女に毛先を触られながら、俺はシートベルトを締める。それを見た少女も、遅れてシートベルトを締めた。

「じゃあ、目的地までかなり長い訳だし、今の内に自己紹介でもしよっか!」

「そうですね。メッセージ上の挨拶だけでは味気ないですもんね」

 少女とは違い、彼と女性の間には比較的穏やかな空気が流れている。やはり、成人組は大人……と言うより、女性が大人な対応をしているだけかも知れない。

「先ずは言い出しっぺの俺から。加藤タクヤ、21歳。趣味はドライブで、週末の殆どは景色の良い所に出掛けてる。もしあれだったら、今度連れてってあげるよ」

 自己紹介次いでに次の約束の取り付けとは、流石はチャラ男と言った所か。趣味がクラブ遊びや飲み会で無いのは好印象だが、チャラ男な時点で女性陣の評価は低いだろう。それを示す様に、彼の自己紹介は華麗にスルーされ、流れる様に女性が自己紹介を始めた。

「次は私ね。私は百田リンゴ、今は19歳だけど、あと数ヶ月で二十歳!成人の仲間入りになりまぁす!趣味は……食べる事かな?」

 事前に、今年で成人になると聞かされていたので、既に成人を迎えていると思っていた。大人びた雰囲気は元々持っている物なのか。

「へぇ、リンゴって食べるのが好きなんだ!俺、いっぱい食べる子好きなんだよね〜」

 そうなんですか?と笑みを浮かべて、大人の対応を見せる。妹がいる姉はしっかり者が多いのか?妹のいる女友達も、周囲と比べて大人びている印象がある。

「……」

「……」

 リンゴの自己紹介が終わり、暫く沈黙が流れる。未成年組らしいと言えば、らしい沈黙だ。互いにどちらから自己紹介するのかと見つめ合う……基、牽制し合う。

 そして、俺はすぐに折れた。

「……俺は山田マナミ……って、女っぽい名前なのは理解してるから、その顔やめて。……はぁ。先日17になったばっかで、趣味は……俺も食べる事かな。特に甘い物」

 名前を聞いた途端、少女が驚いた表情で俺を見る。気持ちは分かるが、やめて欲しい。

「……ほら、最後」

「……あ、うん。……百田ハナ、15歳」

 そう言って、少女は言葉を止めた。……いや、言い終えた。

 他の人と比べて、余りにも短過ぎる自己紹介。まだ続くと思っているのか、タクヤは「それでそれで?」と期待した表情を浮かべている。姉であるリンゴの方は、笑みを浮かべてはいるものの、眉尻は下がっていた。

 俺的には、自己紹介としては十分だと思うが、チャラ男のタクヤにとってはそうでは無いだろう。下手に深掘りされる前に、話題を変えてしまった方が良さそうだ。

「……にしても、ドタキャンは無いですよね。いや、仕事が入ったのは仕方無いですけど。レンタカー借りるの手間取ったんでしょ?あ、帰り事務所に寄ってくださいね。レンタル代貰えるんで」

「……え?あぁ、先生の事ね。ほんとそれな〜。でも、そんな忙しい先生も好き……!」

「タクヤさんって、本当に先生の事好きですよね。メッセージでも先生の事ばかり話してましたし」

 リンゴが乗ってくれたこともあり、上手い具合に話が逸れた。流石はハナの姉といった所か。ハナの方を見ると、何故か彼女は俺を見ており、自然と目が合った。

「……車内で帽子は禿げるよ」

 肩を殴られた。

「絶対髪の毛ぺったんこになってるから脱ぎたく無い」

「別に車内なんだから問題無いでしょ。それに早めに取った方が、後々酷い髪型にならなくて済むでしょ」

「うるさいなぁ……」

 とは言いつつも、ハナは帽子を脱ぐと膝上に置いたリュックに乗せ、前髪を弄る。ポニーテールにしているからか、髪型は全くと言って良いほど崩れていない。

「そう言えば、リンゴとハナちゃんの服の趣味って真逆だよね。姉妹って服の趣味違うもんなの?」

 タクヤの疑問の声に、場の空気が凍る。いや、事情を知っている俺だからこそ、凍ったと感じるのだ。事情を知らないタクヤにとっては、普段と大差無い時間と空気が流れている筈だ。

 本当、こんな仕事受けるべきじゃ無かった。人に気を使うのは苦手なんだ。それにあの様子だと、他の思惑があるだろう。人を小馬鹿にする様な笑みを思い出し、頭痛に襲われる。

「タクヤ先輩、女子に服装の趣味聞くのはセクハラですよ」

「えっ?!いやいや!普通のコミュニケーションだろ?」

 バックミラーに視線を送りながら再び疑問の声を上げるタクヤは、リンゴとハナの表情を見てあからさまに肩を落とした。

「マジか……女子に服の趣味を聞くのは駄目なのか……」

 彼女達に関係無く、服の趣味を異性に話す事を躊躇う女子はいる。なんでも、下着の趣味とかも知られそうで嫌なのだとか。ただそんな子でも、着てる服は褒めて欲しいらしい。男側からすると、厄介極まり無い。その点、百田姉妹に関しては、服装について触れる必要が無いのでありがたい。

「じゃあ、話戻すけどさ。みんな、先生のカウンセリングを受けてるんだろ?内容……を聞くのは流石にしないけど、先生の事どう思ってる?」

 流石はチャラ男。駄目な話題はすぐに切り替えて、新しい話題を投下する。しかも先程とは違い、皆に配慮した答えやすい話題。これは見習わなくては。

「俺は勿論好きだよ。聞き上手で話し上手。その上可愛くて、それなのに大人のお姉さんな雰囲気を持ってて……男なら誰でも好きになるよ」

 そうなの?と、ハナに聞かれるが、俺に聞かれても正直困る。

「……人に寄るかな」

 取り敢えず無難な返しをしながら、引き攣った頬を摩って解す。

「ふーん……。私も好きっちゃ好きだけど、カウンセリングの先生って感じあんまりしないよね。話し方とか雰囲気とか。どっちかって言ったら、態度がデカい怠け者の担任って感じ」

「あ、分かる!あの人、めっちゃ態度デカいんだよね。ってか、俺の時は態度デカいってより馬鹿にしてくる感じだけどさ……」

「いやいや、先生が患者を馬鹿にする訳ないでしょ」

「あれ、タクヤさん知らないんですか?マナミ君は私達と違って患者では無いですよ?」

「……え?」

 赤信号で車が止まる。タクヤは驚いた表情でこちらに振り向いた。

「メッセで話してたと思うんですけど……。俺、あそこのクリニックのお手伝いですよ?」

「住み込みなんだよね。確か」

 俺の言葉に、ハナが補足を入れてくれる。だが、今その補足は不必要だ。

「……え?お手伝い?住み込み?」

 タクヤは俺達の言った事を鸚鵡返しに言った。

「そうです。タクヤ先輩がカウンセリング受けてた時も、俺、居ましたよ?丁度、俺が住み始めてすぐだったんで、よく覚えてます」

 俺が住んでいるのは、“鈴乃音クリニック”という名の診療所。そこの所長である鈴川詩音という女性の元で、お手伝いという名目でお世話になっている。タクヤや百田姉妹とは違って、患者ではない。

 お世話になり始めたのは去年の6月。まだ天気が不安定な時期で、特に去年は雨が多かった。あの日の湿った雨の匂いと薔薇の匂いは、今でも覚えている。

「タクヤさん、信号。青ですよ」

「……あ、ごめんごめん」

 タクヤが彼女の事を好きだと言っていたのは、チャラ男の冗談かと思っていたのだが、今のやり取りの様子を見ると、割と本気で好きなのかも知れない。何故アレを好きになれるのか若干疑問を抱くが、確かに、弱っている所に寄り添ってもらえたら、誰だって好きになるだろう。俺も最初は、恋心に近い感情を抱いていた。その想いは、1ヶ月も経たずに消え失せたが。

「住み込みっていっても、患者様の部屋に住まわせて貰ってるだけですけどね。あそこ、元ビジホなだけあって、泊まれる場所は多いですから。確か……百田さん達も何日か泊まってましたよね」

「確か……2泊したかしらね。ウチのベットよりフカフカで、気持ちよかったのを覚えてるわ」

「え?俺は泊めて貰えなかったんだけど」

「その必要が無かっただけかと。寧ろ、泊まる必要が無かったのは良い事ですよ?」

 泊まる。なんて言い方をしているが、実際は“入院”だ。普通の病院とウチのクリニックとでは、入院の理由と意味が全く違うので、入院では無く泊まりと言っているが、泊まるにはそれだけの理由がある。“泊まらなければいけない”理由が。

「羨ましい……。俺の布団なんて煎餅布団だよ?」

「そう言えば、タクヤ先輩は一人暮らしでしたね。大学生の一人暮らしって、ベッド買えない程金欠なんですか?」

 ベッドが買え無いのであれば、マットレスで十分だろう。安いもので数千円で買え、処分も楽。重量や配置、掃除の事を考えても、ベッドより手が出しやすいと思うのだが。

「付き合いや趣味に使ってるからなぁ。後は単純に貯金分で消えてる」

「理由がチャラ男っぽくないですね」

「意外とチャラ男じゃないからね、俺。純粋な男子大学生なんすわ」

 あながち嘘では無さそうだが、どう接してもチャラ男でしかない。

 和気藹々……とは程遠いが、それなりな空気感で話していると、俺達を乗せた車は高速道路へと入っていった。ここからは少しうんてんに集中するからと、タクヤは口数を減らす。そうなると、話題を振る人が居なくなってしまうので、車内は必然的に沈黙の時間が増えた。

 リンゴが程よくどうでも良い話を振ってくれるので、気不味い空気にはならずに済んでいる。ただ、沈黙を気不味く思うのは恐らくタクヤだけなので、俺もハナも、程良くどうでも良い返事を返しながら、窓の外を眺めていた。とは言っても、見えるのは目隠し用の壁か、ただの街並みだが。

「タクヤ先輩、ドライブでいつも聞いてる音楽とか無いんですか?」

「あるけど、ナビとスマホ繋いで無いんだよね。音楽聴きたいなら、自分の流しても良いよ」

 話が盛り上がるから、必要無いかと。

 実際、タクヤが話の主導権を握っていた時は、音楽など不必要だった。今も、タクヤを除いた3人であれば必要無いのだが、それでは、運転してくれているタクヤに悪い。

「いや、俺が聞く曲はドライブ向きじゃ無いんで……」

 だが、俺が普段聴いている曲はお世辞にもドライブ向きでは無い。と言ったら、作曲者に失礼かも知れないが、事実、ドライブ向きでは無い。というより、一般的では無い。

「どんな曲聴いてるの?」

「まぁ……アニソンとか、音ゲー楽曲とかかな。後は、好きな同人サークルの曲とか。ジャンル自体はバラバラだけど、どれも個性的な曲が多いね」

 電波曲と呼ばれる類の曲は入ってないが、それでも、アニソンというだけで嫌な顔をする人も中にはいる。

「試しに一曲流してみて」

「良いけど……どんなジャンルが良い?基本ロック系だけど、ヘビメタとかジャズとか……テクノ系もあるけど」

 基本的に、アニソンや音ゲー楽曲なんかはJPOPやアニソンで一括りにされてしまうが、実際に聴いてみるとジャンルは豊富だ。本当に、食わず嫌いで批判する人は一度聞いて欲しい。

「う〜ん……なんか、選ばせるのもつまらないし、シャッフルで流してよ」

「恐ろしい事言うね。えっと……全楽曲からシャッフルで──」

「どうせなら、ナビに繋いだら?こっちの操作やってあげるから」

 俺とハナの中で済ませようと考えていたのだが、話を聞いていたリンゴが更に恐ろしい提案を持ち出した。本来なら絶対に断るのだが、場の雰囲気を良くする為……と言うより、タクヤが少しでも過ごしやすくなる為に致し方無い。

 せめて、印象の良い曲が一発目に来てくれたら。そう祈りながら、シャッフル再生のボタンを押した。

 ナビに曲名が表示され、スローテンポでダークなピアノの音色が車内に響く。タクヤはそれを聴いてすぐに「確かに、ドライブには向いてないかもな!」と笑い飛ばしたが、これは前奏。まだこの曲は、本性を隠したままだ。

 ピアノの最後の音が長く伸ばされ、細くなる。途切れそうで途切れない音が続き、漸く途切れたかと思った次の瞬間。曲調が変化し、激しいドラムとギターの音が車内に鳴り響いた。

 今流れている曲は、ゴリゴリのゴシックロック。好みは極端に分かれる曲ではあるが、ハンドルを握るタクヤの指はご機嫌に揺れていた。

「めっちゃアニソンっぽいけど良い曲じゃん。後で買おうかな」

「アニソンじゃなくて音ゲーの曲ですけどね。この曲が気に入ったなら、このグループの他の楽曲も好きだと思いますよ」

 気に入って貰えたなら良かった。次に流れる曲次第だが、このまま音楽を流し続けても良いかも知れない。そう思い、前座席にある肘掛けの窪みにスマホを置くと、頬杖を突きながら窓の外を眺める。

 黒い窓のお陰で、夏の日差しは勢いを失う。外は晴天、僅かに漂う白い雲が、一段と綺麗に空に映える。普段外に出ない俺でも、こんな日は海に行きたいと思う位には、最高の空模様。だが、これから行く場所の事を考えると、心が曇る。

(なんでこんな夏の日に、“山奥の廃墟に肝試し”に行く羽目に……)




 始まりは約1ヶ月前。本格的な夏が始まり、耳の下より更に下に伸びた髪を縛り上げ始めた頃。俺は彼女……鈴川詩音に呼び出され、カウンセリング室に向かった。

 鉄扉を手の甲で叩き間を置いて開けると、自分が使っている部屋と瓜二つの構造の部屋に入る。微かなアロマの匂いが部屋中に充満しており、全体的に優しく明るい色合いの室内は、同じ建物の一室とは思えない。

「遅かったね、取り敢えずソファに座っててくれ。飲み物を用意してるから」

 元は浴室であったキッチンにいる彼女に頭を下げると、部屋に向かいソファに腰を下ろす。出掛ける用事も人に会う用事も無いので、そのまま部屋着で来たが、普段からそうなので彼女は何も言わない。

「やぁ、お待たせ。先程カウンセリングが終わったばかりでね、私はこれから休憩さ」

 そう言って部屋に入ってきた彼女は、俺の対面のソファに腰を下ろす。その手には、コップが1つだけ握られていた。

「なんで俺の分を用意してくれないんですかねぇ」

「欲しかったら、用意してる時に言えば良かっただろう?私は君の母親では無いんだから、ちゃんと言ってくれないと困るよ」

 彼女は足を組みながら中身を呷った。彼女専用の白いファースリッパが、足先の動きに合わせてパタパタと音を立てて揺れている。

「鈴川さんが呼んだんですから、お茶くらい用意して下さいよ……。勝手に貰いますからね」

 ソファから立ち上がり、後付けされたキッチンへ向かうと、その前に良いかな?と呼び止められた。なんですか?と後ろを振り向くと、彼女は何故かコップを見せびらかす様に掲げてていた。

「……どうしたんですか?」

「いやね、君に残念なお知らせなんだが」

 これ、最後の一杯なんだ。

 申し訳なさを一切感じない笑みを浮かべて、コップを机の上に置いた。水中に積まれた氷が崩れて、ガラスと共に心地よい音を奏でる。既にコースターは湿っていた。

「……帰って良いですか?」

「駄目に決まってるだろう?仕事の話なんだから」

 仕事の話以外で呼び出される事は殆どないので予想はしていたが、直接言われたら、帰りたくても帰れない。

「……飲み物取ってきます」

「なるべく早くね」

 その返しに口の中で溜息を吐きながら、俺は一度自分の部屋へと戻った。


「──それで?仕事ってなんですか?」

 ソファに座り、リンゴジュースを並々と入れたタンブラーを机の上に置くと、スマホ片手に座っている彼女に声を掛ける。すると、彼女はソファの上にスマホを放り投げ、空いた手を俺のタンブラーへ徐に伸ばす。

「あげませんよ」

 すかさず、俺はタンブラーを持ち上げて彼女から離す。彼女は口を尖らせるが、自分のがあるだろうとコップを睨み付ける。

「……分かったよ。交換だろう?」

「何も分かってないじゃないですか。誰が飲みかけと交換するか」

「美人で可愛いお姉さんの飲みかけだよ?人によっては、かなりの額で買い取ってくれる至高の一杯なのだがね」

「寝言は寝てから言って下さい。それで、仕事ってなんですか?──って、ちょ」

 溜息を吐きながらタンブラーを置き、仕事について聞こうとソファに腰を深く沈めた瞬間。目の前のタンブラーが掻っ攫われた。目も前でチェシャ猫の様な笑みを浮かべる彼女が、飲みかけのお茶が入ったコップをタンブラーごとコチラにスライドさせた。

「ん〜美味美味。あぁ、仕事の話だったね。マナミ君は百田姉妹の事は覚えているかな?」

 ほら、ストーカーで悩まされてたあの姉妹さ。

「あ〜……一応。彼女達を覚えている訳ではないですが、色々大変だったのを覚えています。それが?」

 両手で握られたタンブラーを奪い返すのは無理だと諦め、仕方なく飲みかけのコップを手に取り中身を呷る。虚しいかな。見た目は同じなのに、林檎の香りも甘さもない。

「一応、彼女達のカウンセリングは終わっているのだがね。いや、終わらされたと言うべきだが、それは置いておくとして。百田姉妹はまだ完治していないのだよ。妹は姉を守る為に威圧的な態度と服装を選び、姉は妹を守る為に男を寄せる態度と服装を選んでいる。互いに互いを支え、助け合う。素晴らしい姉妹愛だと称賛する輩も居るだろう。彼女らの親の様にね。だが、私から言わせてみたら、彼女らの行いは“健全では無い”」

「健全では無い……ですか」

「あぁ。あれは“共依存”さ。互いに互いを束縛し、互いに自分を殺している。あのまま放置して共依存が悪化でもすれば、彼女達は壊れるだろうね」

 彼女は満足したのか、タンブラーを机に置いて俺の方に差し出した。

「そんな話を俺にして、いったい何の意味があるんですか?」

 コップの中の氷が崩れ、心地よい音が鳴る。先程よりも、お茶の色が薄くなっている気がした。

「惚けないでくれよ。今ので、仕事の内容は理解しただろう?」

「……俺に、その共依存を解消させろ。と?」

「舞台はコチラで用意するよ。君は、状況に合わせて動いてくれるだけで良い。なに、“彼女”の心配はしなくて良いよ。百田姉妹は、何があっても君に“依存しない”から」

 じゃあ、次の患者が数分後に来るから。

 話が終わると、俺は部屋から追い出される。部屋に監禁されたままのタンブラーは、翌日無事に解放された。




(これなら、用意してくれる舞台に注文を入れるべきだったな……)

 窓の外の景色はいつの間にか、街から木々や山へと変わっていた。ナビの時計を見ると、出発から既に2時間近くが経過している。あのまま流れ続けていた音楽は、今はスクリーモが流れている。

「そろそろSAに入って昼飯にしようか。それか、高速を降りてからどっかで食べる?」

 タクヤの提案に、3人ともSAでの休憩を望んだ。今から高速を降りて店を探しても、時間的にゆっくりできないという判断と、単純にパンとソフトクリームが食べたいという理由だ。

 SAに入ると、夏休みの昼時という事もあり、かなりの数の車が停まっていた。タクヤは建物の前で俺達を降ろすと、車を停めてくると言って離れていった。こういう所で気が利く彼の事を、人として見習いたい。

「じゃあ、食事スペースに行って席を確保しておきましょうか」

 リンゴの言葉に俺達2人は頷くと、3人で建物内に入り、飲食スペースへと向かった。

 中は案の定混み合っており、当然、飲食スペースも殆ど席が埋まっていた。運良く、4人座れる席が1つ空いていたので、俺達はそこに座るとタクヤにメッセージを送る。

「席は取ったよ。っと……。どうする?早めにパンとか買った方がいいと思うけど、タクヤが居ないから3人じゃ行けないし」

 この混み具合だ。早くしないと、パンが買えなくなってしまう。入り口に掲げられた幟にあったメロンパンなんかは特に。

「私がお姉ちゃんの分買うから、お姉ちゃんは待っててよ。通話繋いだまま行くからさ」

 じゃあ行こ。

 俺や林檎の返事を待たずに、ハナは立ち上がると俺の手を引いてパン屋がある一角へと歩き出した。片手でスマホを操作して、早速リンゴと通話を繋げていた。

 もしもしお姉ちゃん?話し始めるが、一向に手を離してくれる気配が無い。傍から見たら、ヤンキーに連れ回される男の図が出来上がっており、周囲の視線が少し痛い。そろそろ離してよ。なんて事も言えず、あんなの売ってるよ。なんて雑談を交わしながらパン屋の前に着いた。

 離れた場所からでも香っていたが、近くに来ると物凄く食欲を唆る良い匂いが、直接鼻腔に届く。一生ここで暮らしていたいと思える程幸せない匂いに、唇の端が自然と緩み、唾液が垂れそうになるのを必死で抑える。

「……良い匂いだね」

 今日一番の笑顔を見せながら、空気を味わう様に深呼吸するハナに、俺はそうだねと頷いた。

「あ、まだメロンパン売ってるよ。タクヤって人も食べるかな」

「取り敢えず4個買って、要らないって言ったら半分こしない?買いに来た人の特権って事で」

「それアリ!あ、ちょっと待ってね、ビデオ通話にするから!」

 彼女が嬉しそうにしている所を見ると、仕事を受けて良かったと心の底から思える。その所為か、離された手のひらに若干寂しさを覚える。

 ビデオ通話越しで姉と話しながらパンを選ぶ姿は、とても健全だと、俺は思う。姉と引き剥がす為の可能性もあるが、俺と2人でパン屋まで来た事や、車内での会話を振り返っても、彼女のいう“不健全”な要素は見当たらない。ただ、ハナの今の表情を見ると、無邪気に笑う可愛らしい今の表情が、彼女の素の表情なのだと思い知る。

 やはり彼女の言う通り、不健全な部分があるのは確かだ。だが、俺が変えられるとは微塵も思えない。

「──マナミ?」

「……ん?どうしたの?」

 ハナの呼びかけを聞いて、思考の海から意識を引き上げる。目の前で首を傾げる彼女の姿は、前情報とは全く違う印象を抱かせた。

「私とお姉ちゃんはパン決めたけど……大丈夫?」

 鈴川詩音は前情報と共にこんなメッセージを送ってきていた。

『君の容姿を最大限活かせる仕事さ』

 つまり目の前の少女は、俺を男として認識していない。していたとしても、かなり薄いだろう。彼女が俺にこんな仕事を押し付けたのも、目の前の少女の顔を見れば、少しは納得出来る。

「良い匂いすぎて意識飛んでたかも。俺も決まったから買おっか。すみませ〜ん!これください!」

 馬鹿みたいな言い訳を笑顔で誤魔化し、店員さんに声を掛けて目的のパンを買う。全部奢るよ。なんて、チャラ男の様な事はせず、無難に割り勘で支払うと、4つの袋を2人で分けて持ち、リンゴの元へと戻った。

「お姉ちゃんお待たせ」

「おう、ハナちゃんお帰り〜!」

 フードコートに辿り着き席に着く頃には、ハナは車内の時と同じ表情に戻っていた。リンゴの方はと言うと、妹の顔を見た途端、明らかに安堵した表情を浮かべていた。

「タクヤ先輩、メロンパン要ります?」

「お、じゃあ貰おうかな。幾らだった?」

「350円です」

 金額を言うと、タクヤは財布からお金を取り出して俺に手渡した。受け取るなら最初からお金は頂くつもりだったので、素直にお金を受け取るとズボンのポケットにそのまま入れる。

「俺のご飯はもうすぐ来ると思うから、先食べてて。なんなら食べ終わった後、売り場見ていったら?どうせ、みんなの方が先に食べ終わるだろうし」

 番号シールの貼られた呼び出し機を見せながら、タクヤはヘラヘラと笑う。

「今パン食べないんですか?」

「パンは後でも食べられるだろ?パン食べて、食事残したら嫌だからさ」

 確かに。そう頷きながら、それならお先にと、俺達3人はまだ暖かいパンを袋から取り出して頬張った。

「……こう見ると、まじで女に見えるよなぁ。あ、もしかして、今の俺って周りから見たら、メッチャハーレムなんじゃ……!」

 人の食事している顔を、頬杖を突きながら黙って見ているかと思うと、突然馬鹿な事を言い出した。

「馬鹿言ってると叩きますよ」

 隣に座って顔を覗き込んでいただけでも失礼なのに、このチャラ男ときたら。デリカシーという言葉を知っているのか疑わしい限りだ。

「反応も後輩の女子っぽいしさぁ……。あぁ!ここに先生が居たら最高だったのに!」

 未練がましい台詞を吐いている最中に、呼び出し機がけたたましい音を響かせる。

「あの人なら、新幹線で来ちゃったとか言い出しそうだな……。って、それ煩いんで、さっさと料理取ってきてくださいよ」

 呼び出し機が鳴り終わると同時に、タクヤは席から立ち上がり料理を取りに向かった。

 溜息を吐きながら再びメロンパンを頬張る。この美味しさは、コンビニでは絶対に味わえない。一応、クリニックの近くにパン屋はあるが、食パン専門店なのが残念だ。

 パンから顔を上げると、何故かハナと目が合った。

「なんかマナミって、コロコロ表情変わるよね」

「……あんま見ないでよ」

「ほら、今も変わったし。だから気になるんだけどさ……。さっき、パン選んでた時。なんか凄い心配そうな顔してたからさ」

 思考や感情が顔に出やすい事は理解していたが、あの時の自分はそんな顔をしていたのか。心配とは少し違う感情だったと思うが、別にそれはどうでも良い。今は、下手に心配させない様に話をするべきだろう。

「いや、今から行く所を考えるとさ……。俺、肝試しとかお化け屋敷とか、ホラー系苦手なんだよね。遊園地にあるお化け屋敷の入り口を見ただけで、小さい時はビビってたし、肝試しなんて、大泣きした記憶しか無い……」

 先程考えていた事とは違う事だが、今話した事も事実。今は、肝試しもお化け屋敷も大して恐怖を感じられないが、当時は本当に怖くて仕方なかった。

「え、じゃあ何で誘い受けたの?!」

「仕事だよ……じゃ無かったら今頃、冷房の効いた部屋でゲームしてるよ……」

 割と冗談抜きで、この後の事を考えると気分が落ち込む。彼女に仕事が来ず、一緒に向かうことが出来ていれば、これ程落ち込む事はなかったのだが。これでは、タクヤの事を強く言えない。

「何くらい顔してんの?」

「肝試し怖いって話。タクヤ先輩はどうなんですか?」

 カレーの良い匂いを漂わせながら席に着くと、俺の話を聞いたタクヤは深い溜息を吐いた。

「正直めっちゃ怖い。そもそも、俺が先生の所でカウンセリング受けてた理由知ってるか?」

 カレーライスかと思って顔を上げて見たら、まさかのカレーうどんだった。SAにカレーうどんがあるのかと驚くが、それ以上に真夏にカレーうどんを食べる事に驚いた。しかも、黒いシャツの下は白のインナーだ。

「知らないです。一年近く前ですよね?」

 知らないフリ。では無く、本当に知らない。元々今日の肝試しは、彼女がタクヤの担当をする筈だったから、前情報を一切聞かされていないのだ。

「俺、去年の夏休みにさ、友達と肝試し行ったんだよ。有名な廃墟に。そこでまぁ……変なモンを見てさ、俺だけ。そっから体調崩すわ、ヤバい気配ずっと感じるわで、お祓い行っても意味なかったから、精神的なものだろうって、先生の所に通ったって訳。まぁそしたら、なんか初日で体調治るわ気配消えるわで、1ヶ月半位でカウンセリング終了。ってか、お金が無いから仕方なくだったけど」

 その話を聞いて、少し思い出した事がある。確か、カウンセリングを金が無いからといった理由で、途中で辞めた馬鹿が居る。と。何故タクヤが、今回の肝試し……基ショック治療に呼び出されたのか疑問だったが、彼も百田姉妹と“同じ”なのか?

「最後の方は、俺が先生と話したくて通ってただけだけどね。いやぁ、本当に、今日会えなかったのがショックすぎる……」

 話を聞いている間にメロンパンを食べ終えた。もう片方のカレーパンは、まだ紙袋の中だ。

「どうせ帰りに、レンタカー代貰いに寄るんですから、そんな落ち込まなくても……」

「そういう事じゃ無いんだよなぁ〜……」

 面倒な男だ。内面だけで言えば俺より女々しい。ただ、親しみ易くはある。

「タクヤさんは、先生とデートしたかったんですよね?」

「そうそう!そうなんだよ〜。まぁ、デートって言っても君達がいるからあれだけど。一緒に出掛けて、ご飯食べて……。はぁ〜」

 アレとデートしたいとは、この男の趣味はどうなっているのだ。個人の趣味をとやかく言える人間では無いが、流石にアレは無い。ムードのムの字も無く好き勝手連れ回した挙句、満足したからと1人で帰りそうな奴の、どこが良いのか。

「早く食べないと、うどん伸びますよ」

 バッグの中から水筒を取り出して、残り僅かになった中身を飲み干した。タクヤがまだ食事中なので、今の内に飲み物を補充しておいた方が良さそうだ。

「マナミ君もパン食べないの?」

 そう言うリンゴも、パンの入った紙袋を机の上に置いたまま手を付けない。彼女はチョココロネを買った筈、早く食べないと大変な事になると思うのだが。

「後でソフトクリーム買うんで、その為に容量を、と。そういうリンゴさんこそ、食べたのメロンパンだけじゃないですか」

「私もアイス食べたくて……」

「あぁ、成程。飲み物買いに行くんで、今から一緒に買いに行きます?」

 その時、カレーパンを頬張るハナの手と口が止まる。ハナは急いで口の中のパンを咀嚼して飲み込むと、「私も行くからちょっと待って」と言って、再び食事を進めた。

 少し経って、ハナが食事を終えた頃。俺達3人はタクヤを残して売り場に向かう。一応、タクヤからお菓子を幾つか買ってきて欲しいと頼まれたので、彼とはビデオ通販を繋げている。

 売り場には様々な物が置いてあったが、ご当地限定品は全て、冷蔵必須の食品系。目ぼしい物は特に無かったが、買うとしても帰りだ。飲み物に関しても目ぼしい限定品は無く、無難にスポーツドリンクを選ぶと、皆で食べられる物で小分けされた物を中心に菓子を選んで買っていった。

 戻った頃にはタクヤも食事を終えており、トイレに寄ってから皆でソフトクリームを買いに行く。タクヤは俺に「チョコ」とだけ言って、先に車を取りに行った。

「タクヤ先輩、先生先生って言ってなかったら、普通に優男なんだけどなぁ。気が利くし、優しいし。チャラ男っぽいけどチャラくないし」

「恋は盲目っていうもの。気持ちは分からないけれど」

 この話題はするべきでは無かった。リンゴの表情を見て、俺は少し後悔する。それと同時に、彼……タクヤに対して若干の疑問を抱く。彼女の事を先生と慕い、その存在に大きく心を乱している姿は、甘酸っぱい恋愛と言えばそれで終わりかも知れない。だが、何故だろう。百田姉妹の事を知っているからか、彼の言動は“不健全”に思える。

「2人とも、順番来たよ?」

 ハナの声を聞いて我に返る。リンゴの表情は、妹の方を振り返る頃には元の優しい顔に戻っていた。

「大丈夫?またさっきの顔してたよ?」

 顔を寄せて耳打ちをしながら心配するハナに、大丈夫とだけ答えると、人数分のソフトクリームを買ってタクヤが待つ車内へ向かう。

 皆がソフトクリームを食べ終えた頃、車はSAを出て目的地へ動き出した。ここから目的地までは、更に1時間の時間を要する。車内にはタクヤの要望もあり、俺のスマホの曲が流れていた。


 高速を降り、下道を走り、人気の無い山道へ向かう。この場所は山と海が隣接しており、山の青々しい匂いと海の潮風を共に感じる事が出来る、アウトドア派にとっては天国の様な場所だ。ただ、残念な事に、車内にはアウトドア派が1人しかいない。それでも、空いた窓から吹く風は、気持ちの良いものだった。それも、少しの間だけだったが。

 車内の冷気が逃げ、ジワジワと熱を帯びてきたので、俺は自分の所の窓を無言で閉めた。もっと風を感じなよと、陽キャの声が聞こえるが、涼めるのは今の内なのでスルーする。

 遠くから見た海は綺麗だ。山もそう。遠くから見たら綺麗だ。できればこのまま、遠くの海を眺めながら帰路に就きたい。だが、現実は非情である。

 車は国道から逸れ、整備が行き届いていない私道に入る。海は見えなくなり、周囲は背の高い木で囲まれる。真上から注がれる太陽の光は、それでも俺達を熱く照らしていた。

 しばらく進み、広まった場所に辿り着く。駐車場予定地だったのだろう、地面は砂利道からコンクリートで舗装された道に変わり、複数の白線が引かれていた。そして、その広場に隣接する様に建てられた建物が、俺達を見下ろしている。

 建てたは良いものの経営する資金が無く、完成する前から廃墟になったペンション。その外観はまるで別荘だ。廃墟らしく、外壁は森に侵食されている部分もあるが、それでも綺麗な状態を保っているのは、手放すのを惜しんだ持ち主の所有欲のお陰だろう。

 皆、話には聞いていたが実物を見るのは初めてで、車内から出るとまじまじとペンションを見上げていた。俺は事前に写真で確認していたが、それでも立派な外観に唾を飲み込む。

 トランクから上着を取り出すとそれを羽織り、バッグから取り出した虫除けスプレーを、全身に万遍なく吹き掛ける。肝試しとはいえ、山の中で一番怖いのは虫や動物だ。例え廃墟内でも、対策は必須だろう。と、彼女に持たされた。

 他の3人も山の中の対策は聞かされていた様で、各々長袖や虫除けスプレーを用意している。タクヤに関しては、リュックの中に2Lの水や保存食なども入れていた。用意周到というか、なんというか。

 一応、廃墟ではあるが持ち主が存在する建物。その為、入り口の扉には鍵が掛かっており、他の場所からの侵入も出来ない様に対策されているらしい。窓ガラスを割って入る方法もあるが、そんな野蛮な事をする必要も無い。そんな事をしたら、彼女に迷惑が掛るどころか、最悪捕まってしまう。

 準備をしている3人を横目に、俺はバッグから鍵の束を取り出す。その束には4本の鍵が付いているが、使うのは長く重い鍵と小さく薄い鍵の2つだけ。残り2つは何の鍵か知らされてすらいない。

 砂埃で鍵穴が詰まっている可能性があると言われていたが、鍵はすんなりと穴に入り、問題なく錠を回すことが出来た。カチリという重い音が、その証拠だ。

「鍵開きましたよ〜」

 俺の呼び掛けに、3人とも玄関前に集まった。鍵は開いた。後は、誰が扉を開けるかだが……

「まぁ、そうだよね」

 誰も開けたがらないので、俺が扉を開ける事になった。

 握ったドアノブは砂埃で汚れており、握りを回すと砂と砂が擦れる嫌な音と感触が体に伝わる。恐る恐る、とまではいかなくても、普段より慎重に開かれた扉は、同じ様に砂の混じった音がする。

 扉を開くと、そこはホテルのラウンジだった。計算された位置に配置されたお洒落な木造の机に、それに見合ったスマートな椅子。壁の一面はガラス張りになっており、外の森を、まるで巨大なスクリーンで映し出したかの様に演出していた。

 木目が綺麗な床は、本当に廃墟なのかと疑いたくなる程色鮮やかで、埃でできた足跡が芸術品の様にその場に映える。

 少し湿っぽい空気には、森とは違う木の香りが混じっている。だが、その香りを楽しむ事は出来ない。下手に深呼吸したら、埃とカビで肺がやられるだろう。綺麗なのは見た目だけ。その場に流れる空気は廃墟そのもの。見惚れはするが、落ち着く事は出来ない。

「これなら、マスク持ってくるべきだったな。廃墟なんかくる事ないから、こんな埃っぽいとは思わなかった」

「埃ってよりもカビと砂だね。先生の話では、ペンションとして使った事なかったんでしょ?」

「スカート汚れそう……。お気に入りなのにぃ〜」

「だから、汚れても問題ない服で、ズボンがいいって言ったじゃん!そのスカート、汚れたら絶対黒い跡残るよ」

 入り口のラウンジは2階まで吹き抜けになっている様で、僅かだが階段が見える。その階段には鉄格子がされており、3階には上がれない様になっていた。近くで見てみないとなんとも言えないが、3階は老朽化が原因で封鎖してあると聞かされている。最上階というのは、雨風で脆くなりやすいそうだ。だが何故、鉄格子で塞いでいるのか。

「3階は行けないから除くとして……調理場はすぐそこで、その他の部屋は客室だけだったっけ」

 豪華な見た目に反して、探索する場所はごく僅か。しかも、殆どが客室だ。肝試しとしては丁度良い広さではあるが、どこか違和感を感じる。

「一旦客室の廊下の反対側まで行ってみて、そこで決めるってのはどう?」

 タクヤの提案に皆頷き、ラウンジから続く客室用の廊下に向かい、すべての部屋を無視して反対側まで辿り着く。

 こちら側の廊下の端にも、2階へ上がる階段が設置されている。どちらから上がっても良いが、どうせならと、皆で1度2階へ上がる。

 階段は折り返しになっており、踊り場を一度通過して2階に着く。3階に向かう為の階段は案の定、塞がれていた。だが、入り口から見た鉄格子とは違い、こちらの階段は木の板で壁を作る様に封鎖されていた。試しに叩くと、内側に固い音が響く。壁と木の板の境目を見てもわかるが、どうやらコンクリートか何かで壁を作り、そこに木の板を貼り合わせている仕様らしい。

「なんでこっち側は鉄格子じゃないんだろう。コンクリで壁作るって、手間だと思うんだけど」

「え?鉄格子?なんであっちの階段の事知ってるの?」

「入り口から見えたんで。あっちからじゃないと、3階の様子は分からないですね。分かっても行けないから、知った所で意味は無いですけど」

 木の板は隙間無く敷き詰められている。どこを叩いても裏側はコンクリだ。

 第六感が危険信号を発している。逃げた方が良いと。だが、他の3人は特に怖がっている様子は見られない。タクヤは意外と楽しそうに顔を動かし、リンゴは未だにスカートが汚れる事を嫌っている。ハナに関しては、然程興味が無さそうだ。

 俺だけが、恐怖を感じている。この建物に──この建物の3階に。

「……怖くなってきたんで、やっぱ帰りません?」

 軽口を叩く様に本音をぶつけてみる。リンゴは、理由は違えど俺の考えに賛同し、それなら私もと、ハナも乗っかる。だが、やはり案の定、タクヤはそれを拒んだ。

「いやいや!ここまで来たら怖いもんなんか無いって!それに、折角先生が鍵まで貸してくれたんだよ?ここで帰ったら、この肝試しを考えてくれた先生に悪いって!」

「……確かにそうね。スカートも、もう裾が汚れちゃってるし……少しくらいなら」

「お姉ちゃんがそうなら……」

 ここまで流れが変わっては、これ以上何を言っても意味が無いだろう。それによく考えると、今帰ってしまうと、仕事を投げ出した事になる。それで被害を受けるのは、俺でも彼女でも無く、百田姉妹だ。

「……分かった。だけど、何かあったら引っ張ってでも建物から出るからね」

「マナミは臆病だなぁ!あ、そうだ。1階と2階だけで、しかも見る場所も少ないから、二手に分かれようよ!それなら、マナミの望み通り早く帰れるし」

「……俺が2階を見て回れるなら、それでも良いよ」

 恐怖を感じるのは3階。もし、何かあったとしても、2階にいれば真っ先に気付く事が出来るだろう。それに、1階の音も多少は聞こえるはずだ。

「おっけ〜!じゃあ、どうやって分かれようか」

「私とお姉ちゃんとマナミで2階、タクヤは1階で良いと思う」

「それは酷すぎる!流石に俺も泣いちゃうよ?」

「ここは無難に、車の座席の前後で組む。というのはどうかしら?私とタクヤさんが1階で、ハナとマナミ君が2階」

「それアリ!採用!って事で、マナミ!ハナちゃんを頼んだよ!」

 とんとん拍子で話が進み、タクヤとリンゴが階段を降りていく。ハナは一度「お姉ちゃん!」とリンゴを呼び止めるが、リンゴは階段を折り返しながらハナを見て「“問題無いでしょ?”」と笑顔で去っていった。あの表情、リンゴは恐らく理解している。そして今、俺がいる状況をチャンスと見たのだろう。これは、思ってたより仕事が上手くいきそうだ。

「なんか嬉しそう……」

 口を尖らせながら俺の顔を覗き込むハナに、笑顔で返す。

「いやさ、優しいお姉ちゃんだなって」

 妹想いの良い姉だ。帰りには、彼女に良い報告が出来るだろう。

「うん、優しいよ。お姉ちゃんは“誰にでも”優しいの」

 その眼は、姉が去った階段を向いていた。だが、見つめているのは遠くの何かだ。

「……行こ。怖かったら、手握ってあげるから」

 手を伸ばす彼女の瞳には、俺の情けない顔が映っていた。

「大丈夫。全然怖く無いから」

 そう言って、俺は彼女の手を取った。クスリと笑うハナに、俺もクスリと笑い返した。

 客室の数は全部で8部屋。ラウンジ上にある、吹き抜けに面した部屋は2つあるが、その部屋は何の部屋か知らない。

 1階のタクヤ達は、階段横の部屋に入った様だ。彼らを見習い、俺達もすぐ目の前にある扉に手を掛け、中に入った。

 その瞬間、全身に鳥肌が立った。背筋を上から下へと汗が撫で、心臓の音がハッキリと聞こえる位強く打つ。硬直した手は、内側に包んだ花を手折らない様にそれを手放し、眼孔が情報を最大限得る為に、引っ切り無しに動き回る。

 大丈夫。自己暗示の為の心の声と、心配そうな少女の声が重なる。

 そう、大丈夫。大丈夫なのだ。彼女がいる以上、俺に危害が加わることは無い。

 大丈夫。無意識に動いた唇が、少女の言葉を遮った。

 そう、大丈夫。大丈夫なのだ。何故なら、“この部屋には何もいない”のだから。

 首筋をなぞる様に滑る冷たい指に肩を竦めながら、心配そうな表情を浮かべて佇む目の前の少女に、笑みを向ける。

「大丈夫!ちょっとビビったけど、“もう大丈夫”だから!」

 それでも、少女は表情を変えようとはしなかった。

「本当に大丈夫?……ほら、手」

 再び差し出された、儚く、暖かい手。俺は少女の横を“通り過ぎると”、家具も何も無い室内に向かった。

「大丈夫!ほら、さっさと探索して、肝試しなんか終わらせちゃお!そんで帰りに、SAでおみあげでも買いに行こうよ!」

「……そうだね!それに、タクヤって人とお姉ちゃんを、いつまでも2人きりに出来ないからね!」

 少女は笑いながら、行方を失った手を上着のポケットに突っ込んだ。いつの間にか、ファスナーは一番上まで閉まっている。

 その間にも、“頭上の音は止まない”。床を踏み、柔らかな物を引き摺る異音が、俺の後を追う様に鳴っている。少女はそれに気付いていない。

 意味も無く室内を何周か周り、部屋の隅に立つ。異音も、部屋の隅で音を止めた。視界の端に赤い影がチラつくと、右足の内側に、猫が頬を擦り付ける様な感触を覚える。見ると、薔薇の花弁が縋る様に貼り付いていた。

 それを手に取り、上着のポケットに突っ込む。少女はその仕草だけを見ていた様で、「何を拾ったの?」と首を傾げた。

「御守りだよ。落ちちゃったから」

 耳元で、上機嫌な含み笑いが聞こえた気がした。

 見る物も無くなり、部屋を出る。異音も遅れて廊下に出て来た。扉の音はしなかった。

 次の部屋にも何も無かった。部屋の作りが鏡写しなだけで、壁紙も、床も、窓も、全て同じ。頭上の異音も、変わらず後を付いて来ている。

 3部屋目、4部屋目も同じ。ユニットバスの関係だろう。部屋の向きは交互に入れ替わっている。それ以外は、全てが同じだった。問題は、4部屋目から出た時に起こった。

「あれ?何か聞こえた?」

 少女は上を見上げてそう言った。あの異音以外聞こえていない天井を見て、そう言ったのだ。

「気のせいじゃ無い?それか動物とか。森の中だし、屋根から動物が入りこむのってよく聞くし」

 嘘だ。確かに、少女はあの異音を聞いて反応していた。今まで聞こえていなかった異音を聞いて、反応していた。

 それだけでは無い。異音は俺を追従する事を辞め、次に俺達が向かう予定の5部屋目に移動している。今度は、扉の音がハッキリと聞こえた。

「今度は私が怖くなってきたんだけど……ねぇマナミ、ちょっと近く歩いてよ」

 今でも十分近い距離感。お互いのパーソナルスペースなんて無いかの様に、少女は肩を俺の腕に押し付ける。

「……なんか、薔薇の匂いがする気がする」

 じゃあ、行こっか。歩き始めて僅かに離れる腕に腕が絡む。薔薇の匂いが、微かに鼻腔をくすぐった。

 5部屋目。下の階の物音が僅かに聞こえる。どうやら、タクヤ達は丁度部屋を出たらしい。上の階は気味が悪い程静かだった。

 部屋を歩き、窓の外を眺める。外の景色は未だ明るい。ライトも無いし部屋を歩き回れるのは、夏の日差しのお陰だろう。だが、この蒸し暑さは勘弁だ。

 部屋を出ようと窓から離れると、異音が動き出した。先程まで鳴りを潜めていたあの異音が、“窓際から離れていった”。

 異音は待っていたのだ。窓際に俺が来るのを。先程までの行動を覚えて、先回りし、窓際に来るのを待っていたのだ。だが、何もしなかった。俺が窓際から離れたと同時に、異音は窓際から離れただけだった。その異音は、俺達より先に部屋を出ると、次の部屋に入っていった。その音は、少女にも聞こえていた様だ。

「なんか足音するね……。お化けがいたりして!」

 足音しか聞こえていない彼女は、無邪気にも笑顔で冗談を言う。

「もし居たら、絶対逃げてよ?」

 なにそれ!と笑う少女は、楽しそうに6部屋目に俺を引いていった。

 扉を開けると、部屋の奥、窓際から絶え間無く足音が聞こえてくる。勿論、この部屋には何も居ない。何かを探す様な、苛立つ様な、楽しくてウズウズしている様な。落ち着きの無い足音が、重く柔らかい物を引き摺り回している。

「もしかして、この上が巣なのかな?マナミ、次の部屋行こっか」

 少女は、足音を“足音”としてしか認識していない。動物の足音である事が当たり前だと思っているのだろう。爪の当たる音でも、ましてや、四足歩行特有のリズミカルな音でも無いと言うのに。

 俺達は部屋の奥に入らずに6部屋目を出た。その時、上の階の部屋の奥から勢い良く異音が近付く。走って来た。それが正確な表現かは分からないが、異音は先程とは比べ物にならない速度で、俺達の真上に来た。

 突然の出来事に、腕の締め付けが強くなる。困惑の声を漏らしながら縮こまる少女を横目に、俺は天井を見上げて耳を澄ます。僅かに聞こえる、古くなった電化製品の様な“声”。再び動き出した引き摺り回す音は、若干湿っている様に感じる。

「な、何だったの……」

 異音は7部屋目へと向かった。このまま進めば8部屋目にも付いてくるだろう。そしてその次は、鉄格子の付いた階段だ。

 引き返すべきだ。そう考えた時だった。上階から、何かがぶつかる音と共に、ガラスの割れる音が聞こえた。音は、7部屋目の奥から聞こえている様だった。下の階でざわついた声が聞こえる。どうやら、タクヤ達にも今の音が聞こえたらしい。

「ちょっと、絶対変だよ。マナミ、一回下に戻ろ!」

 少女の慌てた声と共に、鉄格子のある階段の方へと腕が引っ張られる。そちらは駄目だ。と、一瞬傾く体を立て直してその場に踏ん張る。どうして、早く戻ろうよと騒ぐ少女に、元来た廊下を指差して引き返そうと言った。

 何で?と、少女は首を傾げる。その時、少女のスマホの着信音が鳴った。

 ──少女がポケットに手を伸ばしたのとほぼ同時だった。異音が再び走り出し、扉に扉にぶつかり廊下に飛び出た。バタバタと転がる様な音に、上階のガラスが割れる音。足音には明らかに水気が混じっており、ペタペタと気色の悪い音を発しながら、8部屋目を通り過ぎて“階段の方へと向かった”。

 ペタペタペタ。階段を下る音が聞こえる。その音は、踊り場付近で止まると静止した。

 明らかな異常事態に、少女の体は震えていた。

 引き返そう。俺の言葉に、少女は黙って頷く。そして、ポケットからスマホを取り出して電話に出る。

『ハナ?凄い音がしたけど平気?』

 静まり返った建物内。耳に当てたスピーカーから漏れる声は、俺の耳にも届いていた。

「だ、大丈夫……。今から下に降りるから」

 俺達は鉄格子から背を向け、元来た廊下を歩き出す。異音は、その場から動かない。

『今階段の所にいる?』

 瞬間、少女の肩が跳ねた。

「い、居ない。今廊下を戻ってるとこ」

『マナミ君は?さっきから、階段の上から呻き声みたいなのが聞こえるけど……ん?分かった。タクヤさんとそっち行くね』

「お姉ちゃ──切れちゃった」

 少女は通話終了画面を俺に見せる。言葉を言い終えた唇は、細かく震えていた。

 階段の方からタクヤとリンゴの声が聞こえる。2人とも、何かを気にしながら話している様だ。

 ──このままではマズイ。このままでは、“鉢合わせる”。

 腕にしがみ付く少女の体を支えながら、俺は勢い良く振り向き、カビや埃など気にせず肺に空気を大量に送り込むと、吠える様に叫んだ。

「上がって来ちゃ駄目だ!“その声は俺じゃ無い!”」

 返事は聞こえない。代わりに、何かが這いずる音が聞こえてくる。あの異音とは違う、“真面な音”だ。

「ハナ、リンゴさんに電話。後、そこから動かないで」

「え、──ちょっとマナミ!」

 少女の手を解き、鉄格子の方に足を進める。階段がな所は窪んでいるので、廊下からは何も見えない。だが、近付くにつれ、這いずる音の他にも引き攣った呼吸音が聞こえてくる。

 7部屋目の扉の前。もうすぐ階段前のスペースに辿り着く頃、少女が姉に電話を掛けたのか着信音が建物内に響き渡る。その発信源は“目の前”だ。

 リンゴはそこにいる。恐らくはタクヤも。ピチャピチャと、水面に水滴が垂れる音を聞きながら、息を呑む。

 薔薇の匂いはしない。今、彼女はここに居ない。ポケットに入れた薔薇の花弁を服越しに撫でて心を落ち着かせると、一歩、再び足を踏み出した。

 それと同時に、スペースの陰から徐に人が姿を現した。その表情は恐怖で歪み、近くに立っている俺の事など目に入っていない様子で、ただ階段上を見上げていた。腰を抜かしているのか手足を絡ませながら這いずる姿は、ここに来た時にスカートが汚れる事だけを気にしていた人とは思えなかった。手のひらも、スカートも、ストッキングも。面する部分を全て黒く茶色く汚し、床の一部を綺麗に拭き取る。

 異音の事など気にせずリンゴに駆け寄ると、彼女は俺の顔を見て口を開閉させる。震えながら床から離れる手が、無造作に階段の先を指差した。その目には、恐怖しか映っていない。

「お姉ちゃん!」

 背後から駆け寄るハナの足音に、俺は来るなと制止し、無意識に振り返る。

 ──振り返る、はずだった。

 リンゴの背中を右手で支えていたからだろう。振り向くまいと意図的に視界から外していた鉄格子側に、体を向けてしまう。気付いた時には遅かった。気付いた時には、“気付いてしまった”。そこに佇むタクヤの存在を。

 ──タクヤと見つめ合う様に存在する、“鉄格子の向こうの存在”を。

 一瞬。ほんの一瞬、その場に固まってしまう。だが、その一瞬の間にハナの足は動き、大事な姉の元に駆け寄った。

 俺は理解してしまった。彼女が言っていた“ショック療法”の意味を。だからこそ、普段なら“アレ”を見せまいと動く体も、今は動かなかった。

 背後でハナの細く小さい悲鳴が聞こえる。恐らく、ハナも見たのだろう。鉄格子の先にいる“アレ”を。

 先程までタクヤを見つめていた“瞳”は、今は俺に向けられている。溢れる喜びを抑え切れないかの様に吊り上がった“唇”も、先程までは違う形をしていた。見せびらかす様に剥き出しになった歯は、驚く程健康的な色合いをしており、端から漏れる赤い液体は、床に落ちると水音を奏でた。

 まるで、作り物の様に“綺麗な球体をした頭部”。そこに嵌め込まれた瞳には瞼はない。赤黒く潰れた鼻は千切れかけており、皮一枚を保ちながら不安定に揺れていた。最初に聞こえた水音は、そこから垂れた液体だった。

 耳はなく、おかっぱに切り揃えられた黒い髪は、ピッタリと頭部に貼り付いている。最初から、その形でセットしたかの様に。

 “それ”は、異様な程大きい“男児の頭”だった。

 その顔には首は無く、代わりに、首があるべき場所には棒が生えていた。人の腕程の太さの棒が。

 折り返し手摺の陰から伸ばされた棒の先に、男児の頭が刺さっている。棒と同じ角度でほぼ水平に傾くその顔は、今も尚赤い液体を垂らしていた。

 棒に顔。手摺の向こうには何が隠れているのか。考えたくも無い。そこにある筈の足と、引き摺らなければいけない体など、想像したくも無い。

「タクヤ先輩!逃げますよ!」

 だが、彼は声に反応する素振りを見せない。逆に、鉄格子の先にいる顔が、嬉しそうに根本から震えた。古くなった電化製品の様な声が、嫌に耳に届く。

 カタカタ。硬い物が硬い物に擦れる音が聞こえる。その発生源は鉄格子の向こうから聞こえて来ている。その音はどうやら、手摺に首を当てている音の様だ。何故、首を手摺に当てているのか。簡単だ。あの首は曲がらない。曲がらないから、“通れない”のだ。逆に言えば、アレは今、更に階段を降ろうと踠いているのだ。

 タクヤは呼び掛けに答えない。ハナは辛うじて動けるが、リンゴは立ち上がる事すら出来ないでいる。

 俺はその場から跳ね上がる様に立ち上がると、そのままの勢いで鉄格子に飛び蹴りを入れる。金属が擦れる不快な音と衝撃音が建物内に響き渡り、それによって我に返ったタクヤが、驚きの余り後ろによろけて尻餅を突く。

「あ、あぁ……あ──なんんんな」

「タクヤ!ボケっとするな!」

 床を這って後退りするタクヤを通り過ぎ、リンゴの脇を支えて立ち上がらせると、俺達は木の板のある階段へ急いだ。何故目の前の階段から降りなかったのか。アレの隣を通る事など、誰が出来るだろうか。少なくとも、ハナが動けなくなってしまう。そうなればお終いだ。

「くそっ!嵌めやがったなあの馬鹿!」

 思わず悪態が漏れる。あの顔に対する恐怖心は無い。あるのはただ、俺をここに誘った彼女への怒り。昨日見せた、人を馬鹿にする様な笑顔に対する、荒ぶる感情だけだった。

 後ろに視線を送ると、躓きながらもタクヤは走って追いかけて来ていた。その眼は何故か、俺の目を見て怯えている。

「くっそぉ……!リンゴさん地味に重い……!」

 片側をハナが支えているとは言え、それは体勢を崩さない為のものであり、体重を支える為ではない。脱力した人間を支えるのは、普通の人を支えるより大変なのだ。

「マナミ、片側支える」

 タクヤはハナを前に押し出し、リンゴの隣に並ぶと、腕の下から肩に手を回す。お陰でかなり軽くなり、小走りで移動出来るようになった。だが、あの顔は悠長に待ってはくれないようで。

 鉄格子のある階段からカタカタという音が鳴り止むと、頭上の廊下から再び足音が聞こえ始める。その足音は何かを引き摺りながら駆け出し、悠々と俺達の頭上を通り過ぎる。

 目の前の突き当たりの壁から、激しい衝突音が聞こえた。階段は目の前だ。だが、俺達より先に奴が辿り着いてしまった。

 ドン。べチャリ。同時に音が鳴る。

 鉄球の詰まったゴムボールをぶつけた様な音。それに、スライムを握り潰したような、果物を踏ん付けたような、水々しい不快な音が重なる。音がするのは、階段に付けられた木の板の向こう側からだ。

 3人の足が止まった。釣られて、俺もその場に立ち止まる。壁の音は1度だけでは無く、今も尚鳴り続けている。水々しい音を増しながら。

「無理……!もう無理!」

 悲痛な叫びを上げると、ハナがその場に腰を下ろしてしまう。

「……タクヤ、リンゴさんとハナを抱えて階段を降りて」

 俺はハナの手を取って立ち上がらせると、タクヤに押し付ける。

「……“信用出来ない”」

 何故、不意にそんな言葉を投げ掛けるのか。何故、俺に対して恐怖心と敵対心が混じった瞳を向けるのか。

「“興味ない”。……ハナ、動けるなら自分で動いて。アレは一旦、あっちに連れてくから」

「どういう意味……?」

 ハナはタクヤに握られた手を振り払う。その表情は、タクヤと違って敵意は無かった。

「アレが怖くて通れないんでしょ?まぁ、見てたら分かるよ」

 異音が俺にだけ聞こえていた理由。アレが俺に笑いかけた理由。考えるだけで、本当に嫌になる。俺を騙した彼女にも、何も考えず騙された俺自身にも。

 俺は3人に背を向けると、再び廊下を歩き始める。ただ真っ直ぐ、鉄格子のある階段に向かって。すると、壁を叩く音は突然止み、水々しい足音と何かを引き摺る音が代わりに鳴り始め、俺を追従する。

「じゃあ、下で会おっか」

 立ち止まり、振り返り、手を振る。その言葉に3人は返事を返す事なく、代わりに低周波の様な唸り声だけが俺の耳に届いた。

 タクヤはリンゴを担いだまま、すぐに階段を降り始める。ハナは少し躊躇った様子でその場に佇むが、連れて行かれる姉を見て後を追いかけていった。この階に残ったのは俺だけになった。

 手の甲に触れる柔く冷たい感触に肩を落としながら、下の足音を気にしながらゆっくりと歩き始める。こちらが先に鉄格子の前に辿り着いてしまうと、吹き抜けからアレが見えてしまうからだ。

 歩きながら、この建物の違和感について考える。ペンションの名の通り、客室しかないにも関わらず、豪華なラウンジと入り口。お金が無いにも関わらず建物を保有する所有者。用途不明の2本の鍵。鉄格子と木の板。外側から付けられた、3階の窓の板。何より、“異様に別階の音が聞こえる建物自体”が不自然だ。

 部屋の中を歩き変わった時に感じた、“ハリボテの舞台の上を歩く感覚”。この建物は、本当にペンションとして建てられたのだろうか。

 建物自体は古い筈だ。外壁を伝う蔦がその証拠。人の出入りも、ここ1年は無いだろう。だが、それにしては“綺麗すぎる”。それに、3階が老朽化して入れないというのは、アレがいる時点で嘘だ。

 罅一つ無い窓ガラスを横目に、ラウンジの物音に耳を傾ける。どうやら、3人とも無事に建物から出られたらしい。自然に閉まる扉の音が、細かく窓を揺らしていた。

 7部屋目前。先程とは違い、アレの足音は真上で聞こえている。すぐ目の前は、鉄格子の嵌った階段だ。

 引き返しても良い。全力で走って引き返し、逃げても良い。そう考えるが、進む足は止まらない。タクヤに信用出来ないと言われても仕方ないかも知れない。

 覗きもしなかった8部屋目を通り過ぎ、階段前のスペースに立つ。鉄格子の向こうには、既に顔があった。

 何度も何度も壁に叩き付けたからだろう。皮膚は裂け、眼球は破裂し、取れかけていた鼻は既に消えていた。

 茹で上がり、皮を剥かれたトマトの様に、赤く潰れた顔面は、それでも笑みを絶やしはしなかった。

 恐怖は無い。怯える必要も無い。そもそもあれは、“俺の恐怖じゃなかった”。

「嫌な仕事を押し付けられたよ、本当。ショック治療がどうとか言ってたけど、これのどこが治療なんだか」

 意味の無い独り言。誰かに聞かせる訳でも無い愚痴。目の前の顔から垂れる液体だけが、ゆっくりと階段を降りてくる。

 顔の顔は見ない。直視出来る程、耐性がある訳では無い。それでも、恐怖は無かった。窓の外は、未だ明るい。

 早く3人の元へ向かおう。外からは、車のエンジン音が聞こえてくる。すぐ出られる様にしてくれているのだろう。そう思い、再び足を動かし始めると、何故か外から、タイヤがアスファルトの上を走る音が聞こえてきた。いや、ただ聞こえるだけでは無い。その音は、建物の真下から始まったその音は、“建物から遠ざかっていた”。

「え!?嘘だろ!」

 呻き声の代わりに聞こえる音を無視して、俺は慌てて階段を駆け降りると、玄関の扉を開け放ち、外に飛び出る。

 そこには3人の姿も、乗って来た車の影も無かった。残されていたのは、急発進したタイヤの痕だけ。

 唖然とするが、すぐに気を取り直してバッグからスマホを取り出す。──が

「あれ!?スマホが無い!──って、飲み物も車の中だ!ちょっと待ってよ……!洒落になんないって!」

 背後では、鉄格子にぶつかる音と、動物の鳴き声に似た叫び声が聞こえる。どうやらアレは、俺が逃げたと思い、その事に激怒している様だ。

「こっちも洒落になってないって……」

 日が暮れるまで。少なくとも、今より涼しくなるまで、建物内のラウンジで休憩していようと考えていたのだが、それはもう出来そうに無い。

 このままこの場所にいても、アレの怒りは収まらず、なにより俺が干からびて死んでしまう。比喩ではなく、本当に。

振り向き、見上げると、歪に変形した顔が鉄格子に押し付けられ、プチプチと不快な音を立てながら、赤い液体を吹き出していた。これはもう、長くは無いだろう。

 俺は扉を閉めると鍵を掛け直し、絶叫が響くペンションを後にした。

 足元が若干不安定な砂利道を、行きは無かった高木の影に隠れながら進み続ける。車では数分だった距離も、徒歩だとかなりの時間が掛かる。オマケに炎天下の中、飲み物とスマホは無し。これが、逃してくれた人に対する仕打ちか!と心の中で叫ぶ。

 死んだら化けて出てやる。なんて、1年前なら言っていただろう。今の俺は、そんな冗談を言える立場では無い。人の所に化けて出たって、碌な事にはならないのだから。

「でもこれ、冗談抜きで死ぬんじゃ無いか……?」

 虫除けスプレーを散布し直し、空の水筒を開けて逆さに向ける。僅かに垂れた水滴が、舌の上を潤した。

 この季節でこの場所だ。国道に出れば、誰かに会えるだろう。そうしたら、事情を説明して街まで乗せてもらおう。礼なら、降りた先でも出来るのだから。そんな事を考えながら歩いていると、私道の出口が見えてきた。何故かそこで、タクシーが3人を乗せたレンタカーの道を塞いで止まっていた。

 事故でもあったのか?タイヤ痕を残す程慌てていた位だ。大事になってないと良いのだが。そう思い、車の方に走って近付くと、レンタカーの後部座席のドアが開き、中からハナが飛び出して来た。車の前方では、タクヤとタクシードライバーの男性の物だろう。激しく言い争う声が聞こえる。

「マナミ!良かった!怪我は無い?」

「それはこっちの台詞だよ!どうしたの?事故ったの?」

 飛び込んで来たハナを受け止めると、そのまま車の方へ足を進める。見た所、誰も怪我をしている様子は無いが、ここでの事故は色々と面倒だ。

「ううん、事故じゃない。無いんだけど……。ちょっとトラブルって言うか……」

 ハナの歯切れが悪い。何にしても、今の内にスマホと飲み物は回収しておこう。それと、万が一の為に、あのタクシーには一度待ってもらおう。タクシーが走り去った後に、車に乗せません。なんて事をされたら、たまった物では無い。

「取り敢えず、スマホと飲み物がそのままだから、取りに行って良い?」

 立ち止まったままのハナに、車を指差してそう言うと、空いたままの後部座席のドアから人が出て来た。

「……正直、来るだろうなとは思ってましたよ」

 肩を落としながら溜息を吐き、ニヤけながら彼女を見つめる。

「そりゃあ来るさ。なんせ、楽しみにしていた肝試しだよ?仕事が終わってすぐ、新幹線とタクシーを使ってすっ飛んで来たさ」

 ころころと喉を鳴らしながら、ヒラヒラと俺のスマホを持った右手を振る。反対の手には、俺が置き忘れていた飲み物のペットボトルが、中身を半分近く減らされた状態で握られていた。

 白いワンピースを着て、麦わらのカゴ型バッグを肘に掛けながら、ローヒールパンプスを履いた、今から森の中へ肝試しに行くとは一切思えない格好をした“鈴川詩音”は、馬鹿が付くほど大きい鍔の白いハットを押さえながら、俺の方に歩いて来た。

「砂利道は歩き辛いねぇ。あ、これ返すよ」

 無造作に手渡されたスマホとペットボトルを受け取ると、中身を一口飲んでから、スマホをポケットの中に突っ込んだ。

「それより、なんでタクヤ先輩達は言い争ってるんですか?」

 その疑問に彼女とハナは答えない。代わりに、タクシーから出て来た運転手のおじさんがこちらに走り寄ってくる。

「おぉ!本当に置いてかれとる子がおるとはな!大丈夫か?目眩はせんか?」

「あ、はい。大丈夫です。それより何かあったんですか?彼と言い争いをしてるっぽいですけど……」

「あぁ。そこの嬢ちゃんが、置いてかれた人が居るって言って道を塞がせたんでよ。そしたらあん男が怒るもんで、こっちもカッとなってな」

「そうでしたか。お陰で助かりました。ハナもありがとう」

 起点を効かせてタクシーで道を塞がせたハナにも、それを素直に信じて止めてくれた運転手にも、頭が上がらない。まぁ、タクシーが居るなら、車は行ってしまっても問題無いのだが。

「ん?どうしたの?」

 ハナは、何故か俺の礼に困惑している。そして何故か、鈴川がこちらを見つめていた。

「……なんですか?」

「いやね、お礼を言うお嬢さんを間違っているから、どうしたものかと」

「冗談キツイですよ」

 だが、どうやら冗談では無いらしい。

「ここまで付き合わせてしまって悪かったね、これは運賃だ。お釣りは礼として受け取ってくれ」

 彼女はバッグから折り畳みの可愛らしい財布を取り出すと、中から大きいお札を2枚取り出し、運転手の男に手渡した。だが、男は1枚だけ受け取ると、彼女に話しかけた。

「嬢ちゃん、料金は1枚で十分足りる。それを余分に貰っちまったら、俺はクズになっちまう。んだけど、お言葉に甘えて、お釣りはありがたくいただくとするよ」

 今日は焼肉だぁ!浮かれた足取りでタクシーに戻る運転手は、寄って来たタクヤを手で払うと運転席に乗り込んだ。

「私達も一度車内に戻ろうか。話はそれからだ」

 その言葉に従い俺達は車に乗り込むと、それを見たタクシー運転手は手を振って去っていった。

 運転席には鈴川が座り、助手席には俺が乗り込み、後部座席には百田姉妹が座っている。タクヤは仕方なく後部座席に乗り込もうとするが、ハナの方が嫌がって鍵を掛けてしまった。

「タクヤ先輩は助手席にどうぞ、俺が後ろ行くんで。……良いかな?」

 ハナに確認を取ると、渋々了解してくれた。行きがそもそも隣同士という事もあるが、鈴川がいる今は、男のどちらかと隣同士になるのだから、早めに諦めてくれて助かった。

「じゃあ、まずは……マナミ君、ちょっと顔貸して」

「え?はい。これで良いですか?」

 座席から腰を浮かして顔を近付けると、いきなり首元に顔を埋められる。

「はぁ?!」

 何故か俺ではなくタクヤが声を荒げ、車の天井に頭をぶつける。そんな事を気にする様子を一切見せず、彼女は「もう良いよ」と俺の肩を押した。

「汗臭いね」

「……年頃の男子にその言葉は凶器ですよ」

 冗談ではなく本気で言っているので、余計に傷付く。

「この季節だ、嗅いだ私が言うのもなんだが、普通の事だよ。だけどそうか、寧ろ良かったよ。それなら話がしやすい」

 腰を下ろした俺に、ハナが首を傾げる。彼女の支離滅裂な話の内容が理解出来ないのだろう。リンゴも、訝しげな表情を浮かべていた。

「どこから話そうか。……そうだね、君達がカウンセリングを受けた所から話をしようか。……いや、先に、肝試しで君達が見たと言う“バケモノ”について話をしよう」

 バケモノという単語に、車内の空気が凍る。3人共、冷凍庫の中に閉じ込められたかの様に、顔から血の気が引いてゆく。それでも、彼女は口を閉じようとはしない。

「君達から聞いたバケモノ……。最初に言っておくが、あれは作り物でも、幻覚でも無い、まごう事なきバケモノさ。私……私達は、あれらの事を分かりやすく“異形”と呼んでいる」

 そう、あれは異形だ。生物を模しただけの、この世の者では無いナニカ。

「異形は時に、人の前に現れ、人に疫病を齎し、人を喰らう。今日見た物はただ現れただけ。だが、君達は一度経験しているんだ。異形が齎した疫病を。ね」

 本来であれば話さない事。本来であれば“話す必要が無い事”。

「タクヤも百田姉妹も、異形に会い、体調を崩し、メンタルを壊した。ただね、異形で無くても壊れる物は壊れるのさ。それがただの風邪だったとしても、運が悪ければ壊れる。だから、態々異形の話なんかしなくても良いんだよ。本来ならね」

 3人共、俯いたまま何も喋らない。話を受け入れ聞いている訳では無い。寧ろ、話が受け入れられず聞く体制になれないのだ。

「だけど、君達はカウンセリングを途中で投げ出した。理由は違えどね。それが不味かった。人の理の中で壊した物は、人の世しか知らない人でも修復出来る。だけど、君達は違う。人の理から外れた者に脅かされ、壊れてしまったんだ。それは、人の世しか知らない人には治せない。ましてや、君達は治そうとすらしなかった。“愛に依存する事で、見て見ぬふりをし続けたんだ”」

「君は私に“恋愛”に溺れる事で恐怖を忘れ、君達は“姉妹愛”に寄りかかる事で恐怖を分かち合った。君は僕に依存して、君達は互いに依存して、恐怖から逃げているんだよ。いや、逃げる事は何も悪く無い。寧ろ推奨してるくらいさ。それに、人は何かに依存して生きる生き物だ。依存しないと生きられないと言って良い」

 だけど、依存の仕方が悪かった。

「依存はね、生きる活力を見出す為の物だ。決して、“支えられない物を置く台じゃない”」

 君達の依存は健全では無いんだよ。

「それにね、君の恋愛は君だけの物で、対象である私には無関係。生きる為の支えになっても、持ち切れない恐怖を置く台としては、前提として使えない。君の恐怖は、君だけの物なんだから」

 その言葉に、タクヤは腰を浮かせて前のめりになりながら、彼女を見て口を開閉させる。だが、何も言葉は出てこず、脱力する様に椅子に深く腰を下ろした。

「君達の姉妹愛も、互いに互いを支え合うだけなら問題無い。だけどね、1人で持てない恐怖を互いに持ち出し合い、2人で持つのは馬鹿のやる事だよ。先ずは、ちゃんと恐怖と向き合って、恐怖を減らさないと。それで手が余ってから、相手を支えてあげると良い。特に、百田姉の方はね」

 問題無いでしょ?あの時、リンゴがハナに投げ掛けた言葉と笑顔が、脳裏を過ぎる。俺はもしかすると、大きな勘違いをしていたのではないだろうか。ハナとリンゴ。2人の態度の違いに騙されて、“対処する方”を間違えたのではないだろうか。

 ハナもリンゴも俯いたままだ。だが、リンゴの手には力が込められ、肩が震えていた。

 リンゴの許容限界はとうに越えていたのかも知れない。そして、その過剰分を持たされたハナも、そう遅くない内に限界を迎え、互いに崩壊していただろう。どちらかが壊れれば、残りの片方に全てが重くのし掛かる。確かに“不健全”だ。

「だから今日、君達をここに連れて来たのさ。いや、正確には、行かせたと言った方が正しいかな。私は遅れて来た訳だからね。……それは置いておくとして。君達の恐怖は怪異が原因だ。だが、その怪異は既に消え、心の傷だけが残った。そして、深く抉れてしまった。カウンセリングという軟膏では埋められない程にね」

 カウンセラーが言う台詞とは思えない事を、何事も無い様に笑みを浮かべながら言い放つ。その笑みに、意味なんて無い。

「虫歯と同じさ。放置すれば穴が広がり、痛みも増す。だけど、君達はその穴を無理矢理“愛”で埋めた。それも、“歪で不健全な愛”でね」

 愛で蓋をした裏側は目に見えない。その中がどれだけ腐敗し、粉々になって形だけを保っている状態であっても、愛という麻酔の所為で気付けない。

「今日は、その蓋で抑えらえない程恐怖を増幅させ、それを“取り除き易くする”為に来たんだよ。君達の心に根を張ったトラウマを、枯らして引き抜く為に」

 根は既に発芽している。彼らはもう、逃げる事は出来ない。

「戻ろうか。……いや、“向かおうか”」

 その言葉を聞いた瞬間、タクヤはドアを開け放って外に逃げ出そうとする。だが、彼女がタクヤの肩に手を置き制止した。

「そう言えば、まだ君の疑問にも答えてなかったね。確か……」

 振り向き、狂喜の笑みを浮かべる。その口は、八重歯を覗かせながら今にも裂けそうな程吊り上がり、瞳は綺麗な三日月を描いていた。

「彼奴……つまり、“山田マナミは何なんだ”。だったっけ」

 彼女がこれ程まで嬉しそうに笑う理由が理解出来た。だからこそ、これ以上彼女に話をさせる訳にはいかなかった。

「鈴川さん。そんな馬鹿みたいな事に、答える必要なんか無いですよ。行くなら早く行きましょうよ」

「患者でも無い彼が何故、君達に同行したのか。知り合いでも無い彼が何故、君達に手を貸すのか。そして何故、“怪異が彼にだけ笑い掛けたのか”」

 まるで、ガラス瓶の内側から話しているかの様に、俺の声はこもっている。逆に彼女の声は、何よりも優先されるべきだと言いたげに、ハッキリと透き通って聞こえた。

「そんなの、仕事だと言って貴女が無理矢理行かせただけでしょ」

「怖い怖いと言っていた彼が何故、誰よりも動けたのか。暗い顔をしていた彼が何故、誰よりも元気なのか。そして何故、“怪異が彼だけに付いて行ったのか”」

 下らない。下らない。下らない。本当に下らない。心の中で反復する言葉は、本来口に出すつもりだった物。今はもう、体すら動かない。

「答えは簡単。──彼は、怪異を呼ぶ“怪異”なのさ」

 蝉の鳴き声と草木の擦れる音だけが、辺り一帯を囲む。音楽が流れていない車内は、とても静かだった。

「君達と行動している理由は、館の怪異を見せる為。驚かないのは見慣れているから。怪異が彼に気を許したのは……遊び相手が見つかって嬉しかったんじゃないかな。それだけは、聞いて見ないと分からないけれど」

 砂利道を鳴らしながらゆっくりと旋回し、車は再び山の奥へと進んでゆく。タクヤが運転していた時よりも揺れが激しいのは、行き先に迷いが無いからだろう。

「一体、先生は何がしたいんですか?」

「決まっているだろう?治療だよ」

 タクヤの疑問に、彼女は短く答えた。だが、それで簡単に納得出来る様な話では無い。

「意味が分からない。先生に会えたのは嬉しいです。だけど、意味が分からない。バケモノに会った理由も、マナミがバケモノだって事も……。分かった!揶揄ってるんですね?俺達を。貴女達2人で!」

 肘掛けに拳が叩きつけられ、同時に車が縦に揺れる。彼が彼女に向けた感情は、愛では無い。

「意味なら説明したよ、治療さ。言葉で分からないなら、直接見て理解すれば良い。見れば、嫌でも分かるよ」

「またそれだ!見れば分かる、見てたら分かる!あれを見て何が分かるって言うんだよ!」

 ──そんなもの、一つしか無い。

「恐怖だよ」

 揺れが安定し出すと車は止まった。目の前には、先程逃げ出したペンションが佇んでいた。

「降りようか。なんて言っても、君達に降りる気力は無いか。なら、敢えてこう言うよ。“降りた方が良い”」

 彼女は3人の返事を待たずに車のエンジンを切ると、鍵を引き抜いて車から出た。こうなれば、彼らも降りるしか選択肢は無い。

 意外にも、タクヤはすぐに車から降りてきた。あれだけ怒りの感情を露わにしていても、彼女から離れるつもりは無いらしい。それとも、“怪異”と呼ばれた俺と、バケモノがいる館に2人きりにするのは気が引けたか。

 ハナとリンゴは少し遅れて降りてきた。リンゴの表情は暗く、怯えている。ハナの方はどちらかと言うと、“現実を受け入れられていない”様子だ。今この状況を、撮影の一幕だとでも考えていそうな顔をしていた。俺は、それでも良いと思う。

「マナミ君」

 扉を指差す彼女に鍵を渡す。だが、彼女はそれを受け取る素振りを見せず、ただ扉の前で立っていた。どうやら、自分で開けるつもりは無いらしい。

「……はいはい。分かりましたよ、お嬢様」

 意図的にお嬢様の部分を強調する。別段深い意味は無い、単純な嫌味だ。

「うんうん。下僕としての自覚が出てきた様だね──」

「──誰が下僕じゃい」

 まさかのカウンターに、すかさずツッコミを入れながら鍵を開ける。

 どうせ、扉も開けろと言われるだろう。どちらにしても、先に俺が入った方が安全そうではあるが。なんて考えながらバッグに鍵を仕舞っていると、鈴川は自分で扉を開け放つと、我先にと中に入っていった。

「え?ちょっと」

 チャックを締めながら、後を追う様に建物の中に入る。すると、先程までとは全く違う風景が目の前に広がっていた。

「マナミ君」

「いえ、俺が建物を出た時は、こんなに“荒れてません”でした」

 ラウンジに並べられた机は薙ぎ倒され、散らばった椅子達は幾つか脚が折れていた。床には何かが這いずり回った後が赤い液体で描かれており、何より一番の問題は、あの大きな窓ガラスが“内側から破られていた”事だ。

「外に逃げたのか」

「いえ、逃げたんじゃなくて、“追いかけた”んだと」

 彼女の呟きを否定する。

「どちらにしても、アレが3階から出られるとはね。いやはや、君は本当に恐ろしいよ」

 ころころと喉を鳴らす彼女は、室内の惨状を気に留めずに振り返り、扉の前で佇む3人に声を掛けた。

「さぁ、君達もおいで。なに、心配する事はないよ。君達の恐れるバケモノは、のんびりお散歩中の様だからね」

 それを聞いた3人は、恐る恐る建物内に足を踏み入れる。そして、支えを失った扉は音を立てながら自然に閉まった。

「じゃあ、行こうか」

「行くってどこに?」

 ハナは首を傾げる。

「決まっているだろう?3階にさ」

 その足を、俺を含めた全員が止める事は出来なかった。

 先に階段を上がっていく彼女を慌てて追いかけ、背後の3人を見る。ラウンジから僅かに見えていた“変形した鉄格子”。“階段がこの状況”なのだ。もっと悲惨であろうアレを、彼らは見るべきではない。だが、いつアレがペンションに戻ってくるか分からない状況で、彼らをその場に置いていくのも危険だ。

「付いてきて。だけど、鉄格子の方は見ない方が良い」

「いや良い、俺はここに残ってる」

「……バケモノが戻ってくるとしたら、そこの窓からですよ」

 ラウンジの割れた窓ガラスを指差す。タクヤは目を見開いて窓の方を見ると、渋々付いてきた。ハナとリンゴは、手を繋ぎながら既に付いて来ている。

 階段は、ぬめり気のある赤い液体で濡れており、滑り易い。辛うじて汚れを回避していた手摺を握り、各々慎重に足を進める。前を歩く彼女の白い、パンプスの裏が赤く汚れ、糸を引いている。まるで、血肉を噛み潰した歯の様だ。

「女性の足をまじまじと眺めるんじゃ無いよ」

「見てません」

 2階に辿り着くと、開口一番に揶揄われた。念の為にと、後に続く3人に鉄格子が見えない様、体で壁を作る。どうやら、彼女は3人に見せたかったらしく、不機嫌そうな顔をした。

「……まぁ良いさ。それで……よくここまで出来た物だね。正直意外だよ」

 3人がラウンジの吹き抜けの柵に行くのを、つまらなそうに眺めると、彼女は鉄格子に向き直り声を上げる。

 鉄格子は案の定、一部が歪に湾曲していた。丁度、人が1人が通れる程の広さだ。だが、当然の如く、鉄格子には赤い液体が大量に付着しており、それに加えて足元には赤い水溜りが出来ていた。彼女も、流石に水溜りに足を突っ込みたく無いのか、避けて立っている。

「俺も意外です。この鉄格子、そう簡単に壊れる感じじゃ無かったけど……」

 まさか、この“隙間”を通って3階に行くなんて事は、無いと思いたい。

「流石に、私もこんな場所を通りたくは無いよ。それにね、君が警察官だったら、“血に塗れたワンピースを着た女性”を見かけたら……どうする。」

「……まぁ、最悪連行ですかね」

「……ちゃんと、3階に行く為の階段はある。そこの扉がそうさ。マナミ君、鍵を」

 彼女はラウンジ上の部屋を指差すが、鍵を受け取ろうとはしない。

「どっちの扉ですか?」

「手前の扉だよ。奥は確か、掃除用具入れ……だったかな。あ、鍵はそれだよ」

 言われた扉の前に立ち、バッグから鍵を取り出す。こちらが聞く前に、使用する鍵を教えてくれたので、何も聞かずに鍵穴に鍵を差し込むと、鍵を開け、重みを感じる扉を引く。

 開いた扉の先は“何も見えなかった”。僅かに入り口から差し込んだ光のお陰で、目の前には床と、空間があるのだと理解出来たが、それ以外は何も分からない暗闇。生物的本能に訴えかける恐怖心が、軽く背筋を振るわせた。

 暗すぎて、暗闇と認識するのに時間が掛かった。それ程、この部屋は暗い。

「何も見えん」

「ライトでそっちを照らしてくれないかい?壁に分電盤があるから」

 ポケットからスマホを取り出すと、言われた通りライトを点けて室内を照らす。中は客室とは違って大きな一部屋となっており、右側には登りの階段。彼女が指差した左の壁には、分電盤が取り付けられている。

「ここは客室じゃなかったのか」

「本当は、“どこも客室では無いのだけれど”」

 その言葉に首を傾げながら、暗室に入っていく彼女を見て、悪巧みを思い付く。

「今ライトを消して、扉を閉めたら、流石の鈴川さんでも泣きますか?」

 足を止めて振り返った彼女は、唇を尖らせていた。その顔が見れただけでも、日々の仕返しとしては十分だ。

 彼女はこちらに歩み寄ってきた。そして、俺の脛を思いっきり蹴り飛ばすと、右手からスマホを強奪した。

「っぁ〜〜!本気で蹴る事無いでしょ!って、ズボン汚れたし!」

「馬鹿な事を考えるからだよ。天罰さ、天罰」

「アンタは神か!ってか、自分のスマホがあるでしょ!?そんな怒んなくても良いじゃ無いですか!」

「……あぁ、確かに」

 どうやら、彼女は本気で自分のスマホの存在を忘れていたらしい。それだけ、俺の冗談に肝を冷やしたのか。

 それもそうだろう。彼女は暗闇が苦手なのだから。だからこその仕返しだったのだが、少し罪悪感を抱いてしまう。

「仲、良いんだね」

「うぉ!ビックリした!」

 背後から囁かれる声に、思わず肩を跳ね上げる。振り返ると、気不味そうな表情を浮かべたタクヤが、俺を見下ろしていた。

「ビビりすぎだよ。俺じゃないんだから」

「いや、今のは悪意あったでしょ。……もしかして、見ました?」

 何を。とは言わない。

「……一瞬。こっち見た時に、視界の端に映った程度。……隠してくれてありがとう」

「どういたしまして。まぁ、あれは見る必要は無いですからね。背ける、背けない以前の問題です」

 そう。あれは見る必要の無い物。今の彼らが見るべきは、心の中の恐怖だけだ。

「にしても、よくアレを直視して会話出来るよね。……あ、ごめん。嫌味とかじゃなくてさ。ただ、どんな生活を送ってたら、あんなのを直視出来るのかなって……」

「気にしないでください。そうですね……自分をお手伝いとして雇ってる上司に、アレと同じ“異形”扱いされる様な生活……ですかね」

「いや……はは。そうか……」

 今のは場を和ませる為の軽い冗談だったのだが、どうやらブラック過ぎたらしい

 彼の乾いた笑い声と、躊躇いの呟きと同時に、背後から明かりが差した。彼女が分電盤の操作を終えた様だ。

「明かりが点いて良かったよ。スマホの明かりだけで3階を歩き回るのは、流石に嫌だからね。まぁ、“日陰者”の私達は、その方がお似合いだけれど」

「そんな事言わないでください。って言っても、夏の日差しは眩し過ぎますけど」

 ちょっと失礼。俺は扉の前に立つタクヤの横を通り抜けると、未だにラウンジを見下ろす2人に声を掛けて、室内に誘導した。ハナは俺に従い鉄格子の方を見る事なく室内に入ったが、リンゴの方は、俺が体で隠しているにも関わらず、覗く様に鉄格子の方に視線を送った。だが、直ぐに目を逸らすと、口元を軽く押さえる。

「何で見るんですか……」

 背中を撫でながら呆れ口調で聞く。

「気になっちゃって……」

 それなら仕方が無い。とはならないが、今更何も言う事は無い。俺はそのまま部屋の中にリンゴを連れていくと、念の為に扉を閉める。

「……なぁ、先生がさっき言ってた、マナミが“怪異って話”……。アレって嘘……だよね?」

「こんな見た目と愛想の良い怪異が居てたまるかって感じですよ」

 自分で言うのも何だが、俺は自分自身の見た目はかなり良いと思っている。オマケに、愛想も良い方だと自負している。俺が怪異なら、この世に人間なんか存在しない。

「……ぷふぁ!なんかマナミ、最初とキャラ違い過ぎだろ!」

 そう言うタクヤも、俺に対する接し方が変わっている。

「タクヤ先輩も、最初より少し雰囲気暗くなりました?」

「お、おま……!こりゃ参ったな……!」

「俺を置いて行った仕返しです」

 女々しいと思われるかも知れないが、置いて行かれた事を少しだけ根に持っている。命の危険を感じたのだ。これ位の仕返し、可愛い物だろう。

「……本当に悪かった。あの時は本当に、マナミが怖かったんだ。いや、マナミに笑い掛けたアレが怖かっ──思い出しただけで鳥肌が……」

「別に良いですよ。良くないけど」

 どっちだよ。と笑う顔は、先程より明るい。もう、彼の心配をする必要は無さそうだ。

「仲直りしてくれて私も嬉しいよ。これで、蟠りも無いね。百田姉の体調はどうだい?動けそうなら、3階に向かうのだけれど」

 どの口が言うんだ。そう声を荒げたくなる。タクヤが大人の対応を取ったからこそ、最悪な関係から立ち直れたのだ。そもそも、最初から説明するなり、付いてきて責任を……。

 頭の中でぶち撒けた愚痴は止まらない。眉間に皺を寄せながら、アンタの所為だと訴えかけるが、彼女は見て見ぬふりをしている。その間に、話題を振られたリンゴは、少し荒い息遣いで返事を返していた。

「出来れば、もう少しだけ休みたいです……。動いたら、吐いてしまいそうで……」

 それなら腰を下ろした方が。と声を掛けるが、スカートが汚れるから嫌だと、俺の腕にしがみ付く。もう既に汚れる場所なんかない程、赤と黒と茶色で汚れているのだが、それを指摘したら「そう言う事じゃない」と怒られてしまった。

「それなら、先に階段の鍵を開けておこう。マナミ君」

 部屋の壁際にある階段は、古い一軒家でよく見かける急な階段。その先の天井に、ハッチの様な扉が付いていた。そこには、鍵穴ではなく錠が掛けられていた。

「……タクヤ先輩。代わりに開けてもらっても良いですか?」

「ん?あぁ、そうだね。先生、鍵はどれですか?」

 タクヤは鍵の束を受け取ると、鈴川から錠の鍵を聞き出して、階段をハシゴの様に上がっていく。そして、慎重に階段から手を離すと、錠に手を伸ばして鍵を差し込んだ。

「リンゴさん、少し動くよ。ハナもこっちに」

「うぅ……」

「え?分かった」

 俺達はタクヤが扉を開く前に、反対側の壁まで移動する。鈴川も、さりげなく階段から離れていた。だが、滑り落ちない様に必死のタクヤは、俺達の行動に気付かないでいた。

 錠が開き、金具から外れる。それを知らせる様に外れた錠を見せびらかすタクヤは、離れた俺達を見て首を傾げる。

「あれ、どうした?そんなに離れて」

 そんな彼に、俺達は言葉を掛ける。

「先輩、こっち見ないで。上だけ向いてて下さい」

「3階の部屋も明かりは点いている筈だよ。先に確認してくれるとありがたい」

 こんな時に限って息が合うのは、本当に彼女らしい。彼女は俺と違い、“汚れなければ何でも良い”のだろうが。

 彼は俺達の企みに気付くこと無く、素直にハッチの扉を開いた。結果──

「うわ──グフッ!グフッ……!埃が……!やばい!鼻に入った……!」

 長い期間散り積もった埃達がタクヤの頭上に流れ落ち、髪が白く染まる。階段から落ちそうになるが、それだけは何とか耐えると滑る様に地面に降り、降りかかった埃を全身を使って払う。

「想像以上に積もっていた様だね。離れておいて正解だったよ」

「まぁ……車の件はこれでチャラにしときます」

「ぐぉう……!2つの意味で言い返せない……!一旦顔洗わせてくれ……」

 そうは言っても、この建物に水を流せる場所は無い。それに廃墟とはいえ、所有者がいる建物だ。ペットボトルの水を撒き散らす訳にもいかないだろう。

「まぁ……流石にそのままは危ないですかね。鈴川さん、一回彼を車まで運んで、顔洗わせて来ます」

「なら、百田姉妹とここで待っていよう。鍵は空いているから、ドアは開けられる筈だよ」

 俺は彼女に返事を返すと、扉の前に立ちドアノブに手を掛けた。だが、扉は開けなかった。

「……1つ、聞きたいんですけど。この扉って内鍵とかあります?」

「見ての通り“無い”よ。あるのは3階の部屋だけだ」

「それは残念です。……唯一の救いは、外開きな所ですね」

「……それはどうかな。私は、内開きの方が好きだけれど」

「“鉄格子を見たでしょ”?」

「……頭の回転が速い事で」

 俺と彼女のやり取りに、3人は意味も分からず立ち尽くしていた。彼女は百田姉妹に声を掛けると、部屋の奥へ下がらせた。

 珍しく心配する瞳を向ける彼女に、俺は無言で頷くと、扉に耳を当てる。

 部屋の外からは、ペタペタと何かが地面を歩く音が聞こえて来る。床が濡れているからだろう。離れた距離にいるであろうその足音は、耳を澄ます事で先程よりもハッキリ聞こえる。その足音は、まだ別の階層に居た。

「……もうすぐ階段にくる。多分、場所分かってますね」

「鉢合わせせずに済んだ訳か。タクヤ、君は彼に感謝すると良い」

 そのやり取りに、漸く今の事態を理解した様だ。鼻を気にしてたタクヤも、吐き気を抑えていたリンゴも、姉を心配しながら俺の様子を窺っていたハナも、全員が息を殺した。だが、それは無意味である事を、音を聞いていた俺は理解していた。

「……あれ?なんか、音がおかしい?」

 彼らが息を殺したお陰だろう。先程よりも外の音が聞こえやすくなる。同時に、こちらに近付く足音に違和感を覚えた。いや、足音にでは無い。逆だ。“足音しか”聞こえないのだ。

「音が聞こえにくい……。何で他の部屋は聞きやすかったのに──」

「マナミ君。気付いてない様だが、それは鉄の扉だ。引いた時に少し重かっただろう?」

「何でこの部屋だけ?」

 視線を向けず、扉に耳を当てたまま彼女に問う。

「この部屋が、3階に通じる唯一の部屋だからだよ。階段上の扉がハッチなのも、その扉が鉄扉なのも、“万が一の為”さ。あの怪異が開けられず、壊せない物で、“閉じ込めている”のさ。いや、閉じ込めていた。が正しいかな。既に逃げてしまったのだから」

 その言葉を聞いて、この建物の違和感にある程度納得がいった。だが、僅かな違和感は消えずに残っている。

「やっぱりそういうこ……不味い、踊り場付近にいる」

 会話を中断すると、扉の向こうの音に集中する。その音は、鉄格子を破壊し窓ガラスを突き破って外に出た存在とは思えない程、ゆっくりと落ち着いている様に感じる。あの激昂した雄叫びが脳裏を過ぎった。

 ペタペタと、一歩一歩ゆっくり歩く足音。その足音は、階段を歩いてこの階に近付いていた。だが、どうにも足音の聞こえる“位置”がおかしい。鉄扉越しで分かり辛いというのもあるだろう。俺自身が、耳を澄ませて足音を探る事に慣れていないという事もあるだろう。だが、おかしいのだ。何故か、足音は“階段を降っている”様にしか聞こえないのだ。

 ゆっくりと。ゆっくりと、階段を踏む足音。その足音は2階に到着すると、“鉄格子に何かを擦り付けた”。鉄格子に“触れた”音では無い。明らかに、鉄格子に“擦り付けていた”。

「おかしい……。何で鉄格子を鳴らす必要があるんだ……?一体“ナニ”を擦り付けて──」

 音が、止んだ。水溜りに、何かが倒れ込む音がする。そんな音、“する筈が無い”。

「水溜りの音……?」

 彼女にもその音が聞こえたのか、訝しむ声が聞こえてきた。その声に返事を返す余裕は無い。

 倒れ込んだナニカは、時間を置いて再び歩き始めた。すぐ近くに居るというのに、あの引き摺る音は一切聞こえない。

 俺はドアノブを力強く握りしめると、全体重を後ろに引き、片足を壁に押し付ける。

 既に、扉に耳を当てずともハッキリと音が聞こえる距離まで、足音は近付いていた。そしてもう既に、その足音は扉の前にいる。

 ペタリ。足音とは別の音が扉越しに聞こえて来る。いや、ドアノブ越しに感じただけで、音自体は聞こえなかったかも知れない。だが、そんな事はどうでもいい。“ドアノブを握った”。その事実には変わりないのだから。

 手のひらの中の握り玉が、皮膚を引っ張る。こちらも負けじと、更に強くドアノブを握りしめると、“ガタリ”と、音を立てて扉が一度揺れた。

 全体重を掛け、足を壁に当てて踏ん張っているというのに、そんな事お構い無しに“扉は揺れた”。

 その揺れはもう一度、二度、三度揺れ、次第に揺れを増やしていくと、間を無くして揺れ続けた。

「やばいかも!」

 このままでは早かれ遅かれ扉は開けられる。それなら一度、3階に逃げ込んだ方が安全だろう。ハッチなら上から踏み付けるだけで済み、扉には内鍵が付いている。ただ、全員が3階に行ける保証は無い。

 覚悟を決めなければいけない。この状況で、2階に取り残されるのは俺なのだから。

「落ち着いて。アレにはドアノブを回す知能も、“身体”も無い。ただ扉を叩いているだけに過ぎないよ」

 彼女の説明を聞いて、俺は驚愕し、声を荒げた。

「そんな筈ない!奴は今“ドアノブを回している”!この先に居るのは“あの怪異じゃない”!」

 俺の話を聞いた彼女は、大きく目を見開いた。そして、一瞬だけ考える様な素振りを見せると首を降り、バッグから水の入ったペットボトルとハンカチを取り出した。

「タクヤ、こっち向いて。目を開けて」

「え、今?な……はい!」

 ペットボトルの蓋を開ける彼女の言葉に一瞬戸惑うも、タクヤはすぐに背筋を伸ばしていう事を聞いた。

「避けないでおくれよ」

 その瞬間、彼女は両手で持ったペットボトルを“握り締めた”。潰しやすく作られたそのペットボトルは、急激に体積を狭めて中に入った水を噴射させると、タクヤの顔に直撃した。

「ンフガァ!鼻いった!うぐぉ……!──ンブ」

 追い討ちをかける様に、彼女は手に持ったハンカチでタクヤの顔を覆い、無造作に擦り付ける。

 痛みからか呻き声を上げ続けるタクヤは、彼女に言われるがまま顔を拭き終えたハンカチで鼻をかむ。

「埃はこれで問題ないね。じゃあ、マナミ君と代わっておくれ。彼は見た目通り非力なんだ」

「最後のは余計です!」

 無駄な一文に文句を言うが、残念な事に事実だ。インドア派の俺の腕は、この僅かな攻防で既に、休ませてくれと声を上げていた。

 タクヤは濡れた手を服の裾で拭うと、俺の手の上からドアノブを覆い、頷く。それを合図にドアノブから手を離すと、タクヤはすかさずドアノブを握り締め、片足を壁に置いた。

 タイミングを間違えば開けられていたかも知れないが、結果的には何も問題無い。疲れた腕を脱力させ、軽く振って解しながら彼女の元に駆け寄った。

「どうするんですか?逃げ場は無いですよ」

「無ければ作れば良い。……聞きたいのだけれど、アレは本当に、君が見た怪異とは別物なのかい?」

「見てないから、確実にそうとは言えないですけど。足音や倒れる音的に、別の存在である事は間違いないです」

「倒れる……そうか。それなら別物で確定だね。アレには、倒れるという概念は存在しないから」

 それなら、コレは何なのだろうか。

 顎に手を置いて考え込む彼女を横目に、俺はリンゴ達に声を掛ける。

「2人共大丈夫?」

「うん、大丈夫……」

「私も、吐き気は治ったわ……」

 取り敢えず、彼女達も動ける様だ。だからなんだと言われれば、それでお終いだが。

「もし、扉の前の存在が怪異であれば、私達は確実に逃げられる。マナミ君、奴の挙動はどうだった?」

 俺は2人から顔を逸らすと、彼女に向き直る。

「かなりゆっくりと歩いてました。後は……恐らく鈍臭いかと。鉄格子に何かを擦り付けたり、階段前で転けたりする位ですから」

「鉄格子に擦り付ける……ふむ。マナミ君、アレは“どこから来た”?」

 再び考え込む仕草をすると、意味の分からない質問をされた。

「階段からです」

 それ以外に、答えようが無い。奴は、階段を使ってここまで来たのだ。音を聞いて、確かにそうだという確信がある。

「そうでは無く……いや、分からないからそう答えたのか。質問を変えよう。マナミ君」

 “水溜りは、どこにあった”?

 それを聞いた俺は唖然とする。彼女の質問の意図を理解してしまったから。

 赤い水溜りがある場所は2ヶ所ある。1つは2階と3階の間の踊り場。もう1つは鉄格子の真下。どちらも、“3階への通り道”にある。だが、奴は階段から直接、この部屋の前まで歩いてきたのだ。つまり、奴は“3階から降りてきた”のだ。誰も入れず、怪異が立ち去った3階から。

「鈴川さん……貴女が知ってる怪異と、俺達が見た怪異は同一という認識で良いんですよね?」

「あぁ。ここに居た怪異は“あの家族”だけ……1つだけだ。2つの怪異は存在しない。しなかった。少なくとも、私が鍵を貰った時は──」

 何か思い当たる節があったのか、彼女は言葉を途切れさせるとそのまま固まる。そして、顔を手で覆うと面倒臭そうに溜息を吐く。隙間から見える表情には、若干の怒りが見える。

「……“やられたよ”。してやられた。奴は、最初からそのつもりで鍵を渡したのか!」

 普段見せない怒りの感情に、俺は思わず息を呑む。1年間。“たった”1年間の長い付き合いだが、ここまで怒りを露わにする彼女を見るのは初めてだ。そして、ここまで取り乱す彼女を見るのも、初めてだった。

「奴は私に見せるつもりで鍵を渡したんだ!自分達の幸せを!いや、自分だけの幸せを!罪の意識なんか一切ないじゃ無いか!何が“解放してやってくれ”だ、あの男!……もしかしたら、あの怪異も“最初から作るつもりで”……?!」

 狼狽する彼女の頭から帽子が舞い落ちる。それでも、彼女は思考の海から帰ってこない。驚いて彼女を見つめるタクヤの顔には、明らかな疲労が浮かんでいた。

「鈴川さん、落ち着いて下さい。貴女が混乱してしまうと、どうしようも無い」

「落ち着けだって?それは無理な話さ!私は今、猛烈に激怒しているんだ!こんな事になるなら、さっさとこの“棺桶”を燃やすべきだった!」

「かん……?意味わかんない事言ってないで、冷静になって下さい。このままだと、タクヤ先輩の体力も持ちませんよ!」

 タクヤは俺の言葉を聞いても否定しない。軽口すら返ってこない。それだけ、限界が近いのだ。このままでは本当に、得体の知れない何かに扉を開けられてしまう。

「鈴川さん。扉の前にいる奴が何か分かるんですよね?分かるから、そんなに怒ってるんですよね?」

「あぁ、分かりたく無いがね。確証がある。扉の前にいる奴は間違いなく怪異だよ」

「怪異なら、“俺を追って”きますよね?」

「分からない。アレは特殊だ。……だが、そうだね。君は“そういう怪異”だ。可能性は高い」

 怒りの感情を吐き出して落ち着いたのか、彼女は普段の口調に戻った。相変わらず俺の事を怪異呼ばわりしてくるが、今はそれに対して噛み付く時間すら惜しい。

「3階に誘き出します。明かりは点いてるって話ですよね?」

「ここが点いているから、それは間違いない。足は遅いのだろう?踊り場まで移動したのを確認したら、私達は下に降りる。そしたら君に声を掛けるよ」

 俺は頷くと、急いで階段を上がり、ハッチを開ける。そして、3階に入ると念の為にスマホのライトを点けた。

 部屋の構造は同じ。1枚しか無い扉には、しっかりと内鍵が取り付けられている。ハッチは念の為開けたままだ。

 下では、未だに鉄扉の揺れる音が聞こえる。今なら、目の前の扉を開けても問題無いはずだ。そう考え、内鍵を開けると扉を開いた。

 廊下も無事、明かりが点いている。邪魔なスマホをポケットに仕舞い、念の為に左右の確認をしてから扉から出る。

 散乱したガラス。乾き始め、赤いシミを作る液体。そして、今まで匂わなかった異臭。酸っぱい様な、甘ったるい様な腐敗臭が、微かに鼻を刺す。分かり辛いが、羽虫の死骸も散見される。とても嫌な予感が頭を過るが、首を振って振り払い、カビ臭さが増した廊下を少し歩いて階段を覗く。勿論、扉は開いたままだ。

 下の扉の音は止んでいる。だが、足音は聞こえない。

「鈴川さん!聞こえますか!」

 わざと、大きい声で叫ぶ。開いたままの扉の奥からは、彼女の返事が聞こえて来た。どうやら、奴が扉の前から動き出した様だ。

 少しすると、水音が耳に届く。鉄格子前の水溜りを踏んだのだろう。同時に、鉄格子に擦り付く音が響いた。

 分かっていたが、動きは遅い。最初にここで出会った怪異とは真逆だ。あれは、恐ろしい程脚が速かった。……足があるかは分からないが。

 近付く水音。その音は、一定の箇所で大きくなった。奴は今、踊り場にいる。

 扉の奥からは、微かな話し声が聞こえて来る。鈴川が先に出て様子を窺うらしい。それが一番無難で安全だ。

 折り返し、近付く足音。奴は踊り場から更に、階段を上がり始めた。そろそろ、彼女達が下に降りる頃だろう、そう思い、俺も扉に近付いた。だがその瞬間、彼女の焦る声が建物内に響いた。

「マナミ君戻れ!“戻って来た”!」

 その言葉の意味を理解するのに時間は掛からなかった。下の階の鉄扉が強く閉められる音と同時に、更に下の階から“這いずる”音が聞こえて来た。その音は、既に聴き慣れた“怪異”の物だった。

「こんなタイミングでかよ……!」

 扉の奥から階段を駆け上がる音が聞こえて来る。同時に、1階からも階段を駆け上がる音が聞こえて来た。その音には、肉を何度も叩く音が混ざっている。

「マナミ君!」

 最後に上がって来た彼女を見て頷くと、俺は急いで部屋に入り内鍵を閉める。

「不味い事になったね、本当。一家総出での歓迎は“生前にして欲しい”よ」

 彼女はクルクルと喉を鳴らして笑っている。追い詰められて楽しそうに笑うなんて、どこの主人公だよとツッコミを入れたくなる。

「笑い事じゃ無いでしょ。絶賛大ピンチですよ?俺達」

「俺達、では無いよ。君だけがピンチなんだ。分かってるかい?私達は最悪、君を囮にして逃げられる」

 瞬間、薔薇の香りが鼻腔を擽る。

「……怖い怖い。冗談に決まっているだろう?ただ、冗談になるかは別だけどね」

 右手に絡みつく、細く冷たい指。音もなく足元に落ちた薔薇の花弁に肩を落とす。先程まで激しく鳴り響いていた鉄格子の音は、聞こえなくなっていた。

 花弁を拾い上げると、背後の扉に強い衝撃が走る。果たして、扉を叩いたのは“どちらなのか”。態々確かめるつもりは毛頭無い。どちらであっても、今の状況に変わりは無いのだから。

「早い所、どうにかしないとですね」

 俺と鈴川が平気だったとしても、彼らの事がある。常人であれば、既に発狂していてもおかしくは無い。“以前に怪異に襲われているから”か、今はまだ取り乱していないが、騒音が続けばいつかは壊れてしまうだろう。それは彼女も理解している。だからこそ、今この状況で一番悩んでいるのは彼女なのだ。だから態々、俺“に”挑発したのだ。彼女が早くやる気を出す為に。

「いっそ、扉を開けてしまおうか。そうすれば、“君”も動かざるを得ないだろう?」

 左手に握らされた一輪の薔薇は、一層香りを強くする。

「そうですね。ただ、開けた所で、素直に俺の所に来てくれますかね?下手したら“俺だけ”が助かる形になりそうですけど」

 彼女を強く見つめる。その影は、空腹に悶える様に揺れていた。

「全員助けるよ。だけど、私は彼らのカウンセラーでありたいんだ。その意図を汲み取ってくれると、大変助かるのだけれど」

「“俺に”言われても困りますよ。……今、彼ら3人を2階から逃がすのはどうですか?どうせ、2つとも3階にいるでしょう」

「それでは、“恐怖を摘み取る”事が出来ない。……やはり、ここは君を盾にするのが良さそうだ」

 彼らを一切無視した彼らの会話。3人は、何も理解出来ずに困惑している。それでも、大人しくこの場にいるという事は、俺達の近くが一番安全だと理解しているのだろう。それは正しい判断だ。正しい判断だが、同時に一番危険な場所でもある。そもそもこの肝試しに参加しなければ、少なくともこんな危険な目に遭わずに済んだのだから。

「先生!逃げれるなら逃げましょうよ!マナミとの会話の意味は全然分かんないですけど、こんな危険な状況でカウンセリングもクソも無いでしょ?!ここから逃げたら、いくらでもカウンセリングを受けますから!」

 タクヤは叫ぶ。当たり前だ。命の危険が目の前に迫っているのに、治療をしたいからと彼らを留まらせようとしているのだから。リンゴもハナも、俺の提案を拒否した彼女に複雑な視線を送っていた。

 今、この場で、彼女は3人の“敵”になってしまった。それはカウンセラーとして、絶対に患者には抱かせてはいけない物。彼らに今の彼女の言葉は、“何の価値も無くなった”。

「先に言うがね、タクヤ。“君は逃げて構わない”よ?君の依存は既に消えている。奥底の恐怖も、今回の怪異を見て“慣れた”だろう。それにね、君が逃げても結果は何も変わらない。“前回と同じ様にね”」

 だが、タクヤは逃げる素振りを見せなかった。動けない訳では無い。逃げてもいいと言われても尚、意図的にこの場に残っている。

「それに言っただろう?逃げる事は何も悪く無い。車の鍵が欲しいなら渡すよ」

 バッグから鍵を取り出した彼女は、その手をタクヤに伸ばす。それでも、タクヤは動かず俯いたままだ。

「だけどね、これだけは覚えて欲しい。逃げるだけでは意味が無い事を。“また”無意味に逃げる事だけは、君の為にも辞めた方がいい」

 鉄扉は今も尚、激しく揺れている。だが、“ドアノブ”は一切音を鳴らさない。タクヤは唇を噛み締める。

「ねぇ、マナミ…… 」

 久しぶりにハナが口を開いた。

「どうした?」

「マナミはあのバケモノとは違うんだよね」

 その眼は、どこか危ない。本能が、目の前の少女を拒絶している。

「……」

 バケモノでは無い。聞いてきたのが少女でなければ、そう答えている。だが、言葉が出なかった。出せなかった。もし、違うと肯定してしまったら、“取り返しのつかない”事になりそうだと思ったからだ。

「ねぇ、“頼っても良いんだよね”?マナミの事」

 彼女が耳元で小さく囁く。聞こえない声を聞き、昨日彼女に言われた言葉を思い出した。

 “何があっても君に依存しない”。

 依存して欲しい訳じゃない。寧ろ、俺には荷が重すぎる。だけど、胸に棘が刺さった様に痛む。再び聞こえた彼女の囁く声に、思わず溜息が出そうになる。二輪の薔薇の花は、今もまだ手のひらの中だ。

 分かっている。分かっているさ。もう潮時なのだろう。鈴川の訴えかける瞳に、俺は心の中で何度も答える。目の前の少女は、もう“保ちそうに無い”。

「リンゴさん。ちょっとハナの事お願いします」

 今はリンゴに押し付けるしかない。俺が少女に出来る事など、最初から何も無かったのだから。ただ1つ、百田姉妹が恐れた存在を見せる事を除いて。

「ハナ。俺は、君が頼れる様な男じゃない。好きになってくれた子を、好きでも無いのに利用する酷い男なんだ。それに、知らない子の手を借りる事でしか生きていけない、弱い男だ。それに……それにさ。俺は昔の君達に似てるんだよ。似てるだけ。モノは全然違うけど、似てるんだ──」

 百田姉妹はその言葉に目を見開く。

「怪異に“好かれてしまった”君達と。だから俺は……君達の力にはなれない。頼れる存在になれない。何故なら──」

 “彼女達が、それを許してくれないから”。

 耳元で彼女が嬉しそうに笑う。背中に触れる柔らかい手が、冷たさだけを残して消えた。室内は、薔薇の匂いで満たされている。

「マナミ……お前、本当に怪異じゃ無いんだよね……?」

 タクヤが俺の“足元”を見て怯えた表情を浮かべる。

 この部屋は、日陰者には少し明る過ぎる。それでも、彼女達は嬉々として踊るだろう。

「鈴川さん。“彼女達の準備ができました”」

「随分と遅かったね、だけど間に合って良かったよ。“ご飯”には間に合いそうだ」

 いつの間にか床には、足の踏み場も無い程に薔薇の花弁が敷き詰められている。それを踏み抜く度に、咽せ返る程の香りが舞い上がった。

 鉄扉は未だに揺れている。ドアノブは激しく暴れていた。

 内鍵に触れる。これを回せば、怪異達は扉を開けて室内に傾れ込んでくるだろう。だから、扉の正面では無く横に立ち、内鍵を解錠した。

 意味も無く揺れる鉄扉。その音は暫く続くと、何者かに制止された様にピタリと止んだ。そして、ドアノブが回された。

 激しい衝撃の所為か、将又、長年の汚れの所為か。鉄扉は軋んだ音を鳴らしながら、固い動きでゆっくりと開く。

 人が通るには心許無い隙間。だが、散々焦らされ待たされた相手は、無理矢理顔を捩じ込んできた。

 既に原型を留めていない、赤黒いジャガイモの様な顔。長く伸びた薄橙色の首は、化けの皮が剥がれて鈍色の内側を覗かせている。辛うじて判別出来る口は弧を描き、得体の知れない赤い紐を数本垂らしていた。

 その顔は、眼孔が無いにも関わらず俺を“見つめる”。室内を見渡す事なく、俺だけを見つめていた。

 1歩。また1歩と後ろに下がるに連れ、顔もまた、少しずつ角度を変えながら、長い首を室内に伸ばした。

 首に押されて扉が少しずつ開いてゆく。次第に、横に伸ばされた首は天井に向かい、“体”が扉の前に姿を現した。

 手も、足も無い、“下腹部だけ”の体。その腹は異様に膨らんでおり、“内側から手足が肉を突き破っていた”。

 驚く程“小さい手足”は、まるで皮が剥がれたかの様に赤く、黒い。床に面した膨らんだ腹も、元は他の場所同様薄橙色をしていたのだろうが、赤黒く変色していた。脊髄から伸ばされた首は、体の動きと連動して上下に揺れている。

 その姿を見て、彼女の言葉を思い出す。

 “ここに居た怪異はあの家族だけ”──。

 一瞬、目眩がした。背後からは、誰かが嘔吐する音が聞こえてくる。だけど、悲鳴は聞こえなかった。

 目の前の顔は笑っている。扉の奥には、まだ“誰かが”立っている。その姿に、何故か俺は父性を感じた。

「……ちゃんと見ててね。みんなが恐れた怪異の末路を。過去に起きた結末の再来を。恐れる事は無いという事実を」

 俺は振り返り、3人に向かって両手を広げて見せる。怪異を怖がる必要なんて無いのだと、身をもって見せつける。そんな俺の姿にタクヤは目を見開き、ハナは悲鳴を上げ、リンゴは口に残った吐瀉物を端から垂らして固まっていた。

 背中の陰は薔薇の花弁に溶け込み、背後にいる怪異の気配が近付いてくる。もう、この先の展開は分かっている。鈴川だけが、この部屋の中で唯一“真面に笑っていた”。

 背後の気配が迫り、人1人分程の所まで迫る。瞬間、背後の花弁が巻き上がった。

 花弁の下。歪に伸びた俺の影が露わになり、そこから“2対の白い腕”が生えていた。まるで、芽を出し、茎を伸ばし、葉を付け花を咲かした一輪の花の様に、4本の腕が影から生え、怪異の首を、身体を、顔を、掴んでいた。

「みんなの怪異も、こうして居なくなったんだよ」

 何かが折れる音がする。

「こうして誘き出して、捕まえたんだよ」

 何かが潰れる音がする。

「そしてみんな、普通の生活に戻れたんだよ」

 何かが千切れる音がする。

「戻れる、筈だったんだよ」

 裂かれ、摘まれ、破られ、砕かれ。背後の怪異は細かく“分断”されてゆく。まるで、花占いに使われる一輪の花の様に。

「3人は“戻れるんだ”。似てるけど、俺とは全く“違う”。もう居ない、恐れる必要の無い怪異“なんかに”、怯えて苦しむ必要なんてないんだよ」

 3人共顔色を真っ青に染め上げながら、細かく全身を振るわせる。無意味に開閉する口は、声を発する事は無かった。だが、そんな彼らとは違い、背後から悲しみに満ちた雄叫びが聞こえてきた。振り返ると、得体の知れない“人影”が、薔薇の花弁に埋もれた肉片を、必死になって拾い集めていた。その姿は、壊れた宝物を惜しむ子供にも見える。

「鈴川さん……“コレ”は?」

「……怪異さ。“本体”は、この階の何処かにあるだろうけどね」

 その人影は、“俺を目の前にしても”一心不乱に肉片を拾い集めている。影から生える手に怯える訳でも、室内にいる彼らに襲い掛かる訳でも無く、ただ必死に、肉片を集めていた。

 その姿に向かって、白く細い腕が伸びる。“新しい花を見つけた”と言わんばかりに、嬉々としてその手は伸ばされる。人影は逃れようと、薔薇の花弁の海に逃げ込むが、その海は“彼女達の物だ”。呆気なく掴まれた人影は、邪魔だからと四肢を捥がれると、少しずつ、少しずつ、分かりきった占いの結果を長引かせる為に、ほんの少しずつ身体を摘まれ、薔薇の海に沈んだ。

 ──俺達が去った部屋には、一面の薔薇の花弁と、得体の知れない肉片だけが残った。もう、あの家族はどこにも居ない。




「──本当に良いんですか?3人だけで行ってしまっても」

 運転席に座るタクヤが、窓の外にいる彼女にそう言った。

「構わないよ。その方が、君達も落ち着いて帰路に就けるだろう。それに、百田姉妹は少し休息が必要だ。“彼”がいては迷惑になる」

 後部座席に座る百田姉妹の顔色は悪い。リンゴの方は一度吐いてスッキリしたのか、先程よりは血色が良いが、ハナの方は未だに脳が混乱している様だ。

「君こそ本当に良いのかい?運転代行の料金なら私が支払うから、無理して運転しなくても良いのだよ?」

「まぁ、当分肉は食えそうに無いですね……。後、薔薇を見るのも勘弁です……」

「君が“普通の人”である証拠さ。喜ぶと良いよ」

 彼女はタクヤから視線を外すと、後部座席を覗き込む。

「君達にはいずれまた、クリニックに顔を出してもらう事になる。安心して、お金は取らないから。落ち着いて、話が出来る様になったら連絡をくれ。待っているから」

 顔を上げると、タクヤに向かって頷く。もう話す事は無いらしい。

「俺は?」

「おめでとう、正式に退院だ。後……これはレンタカー代。確かに渡したよ」

 お金を受け取ったタクヤは、意外にも嬉しそうな表情を浮かべていた。お金が貰えた事にでは無く、退院という言葉に、満足している様だ。彼はポケットにお金を突っ込むと、最後に俺に声を掛けてきた。

「マナミ、お前が男で助かったよ」

「え?ごめん意味が分からない」

「お前が女だったら、多分惚れてた」

 思わず顰め面になり、仰け反ってしまう。

「ははは!冗談だって!……今は、恋愛も当分勘弁だよ」

 その瞳は彼女を映し出す。何を考えているのか。少し、寂しそうな顔をしていた。

「今度、普通にどっか遊びに行こうね。“友人”としてさ」

「……チャラ男っぽくないですね」

「言っただろ?俺は意外と、純粋な男子なんだよ。恋をすると、周りが見えなくなっちゃう様な、普通の男子なんだ」

 憑き物が取れた爽やかな笑顔。やっと、彼の本当の顔が見れた気がした。

「じゃあね」

 タクヤは手を挙げると、窓を閉めて車を発進させた。車の姿が見えなくなると、俺達は彼らが消えた道に背を向け、建物を見上げた。

「……さて、色々と吐いて貰いますよ。こっちは巻き込まれて、挙げ句の果てにバケモノ呼ばわりされたんですから、その分はキッチリと」

「安心して、全部教えるから。この館と、君が見た怪異。そして、あの人影の事も。全部、ね」

 彼女はそう言うと、再び建物内に戻る。夏の夕暮れ。日が傾き、影が広がったとしても、外はまだ灼熱だ。

 ラウンジに残された、脚が全て無事に揃っている椅子を立て直すと、彼女は埃を払ってそれに座る。残念ながら、まともに座れそうな椅子はその一脚だけだ。今日一番の功労者に、その椅子を譲るつもりは無いらしい。

「……何から聞きたい?」

 足を組み、膝の上で指を組む彼女は、笑みを浮かべながら俺を見上げる。

「……じゃあ、首の長い怪異の事を」

 近くにあった、脚が全て折れた椅子を持ち出すと、その上に座って彼女を見上げる。向けられた靴底には、乾いた液体と薔薇の花弁が融解した状態でへばり付いていた。

「……あれはね、この館の持ち主……私に鍵を渡した男の“家族”だったモノだよ。息子と、妻と、その腹に身籠っていた娘の3人さ。どれが息子で、どれが妻で、どれが娘か……説明する必要はあるかな?」

 俺は黙って首を横に振った。

「10年近く前になる。男と息子、そして身籠った妻の3人で、当時建築途中であったこの“別荘”に、ドライブがてら寄ったそうだ。ここは景色も良いからね、昔から奥さんとドライブをしに来ていたと、何度も自慢されたよ」

 今日、彼らとここに来た時の窓の景色を思い出す。あの景色は、10年前から綺麗だったのだろう。いや、もっと昔から綺麗だったに違いない。

「丁度別荘に向かって、足場の資材を運ぶトラックが居たそうでね、共に向かう事になったそうだ。トラックを先頭にしてね。マナミ君、足場の資材ってどんな物か知っているかな?」

「流石に知ってます。って言っても、名称までは知らないですけど……鉄パイプと鉄の板の足場、ですよね?」

「まぁ、大雑把に言えばそうだね。それを積んだトラックが、男の運転する車を工事現場まで案内したのさ。そして、もうすぐ目的地に辿り着くと言う時に、事故は起こったのさ。珍しくも何とも無い、山道ではよくある事故さ。私達も、帰り際に遭遇してもおかしくは無い」

 動物が、道路に飛び出して来たんだ。“トラックの前”に、ね。

「右は対向車線。左にハンドルを切ったトラックの運転手は、木と車体に挟まれて即死。それだけなら“良かった”。だけど男は残念な事に、“海を眺めていたんだ”。前を見ず、自分がいつか住む街の海を。本当に馬鹿な男だよ。住めば幾らでも見られる景色を、態々運転中に眺めていたのだから」

 彼女は笑う。ケラケラと、男を馬鹿にする様に、ヒラヒラと手を振って嘲笑った。

「その結果、助手席に座る奥さんと、その後ろに座っていた息子が、雪崩れ落ちた足場の資材に“串刺し”にされた。前に座っていた奥さんは腹以外を貫き、切断され、息子には1本の鉄パイプだけが突き刺さった。1本だけ。その1歩だけが、息子の首を貫き、頭部を胴体から掻っ攫ったのさ。あの首は、その名残りさ」

 想像したくも無い悲惨な現場が、あの怪異の姿の所為で妙にリアルに再現出来た。

「自分だけむちうち程度で済んだ彼は、それはそれは大層悔いたそうだよ。そして、狂った。私が会ったのは、事故から数年が経って、家族愛に狂った彼だったよ。彼はね、息子と妻と腹の子を屋敷と共に燃やそうと、最初は考えていたらしい。だから、建設途中だったこの屋敷をハリボテで良いからと急いで作らせ、棺桶として完成させたのさ」

 それを聞いて、建物に抱いていた残りの違和感が解消された。ハリボテだから、棺桶だから、この建物は“建物では無かった”のだ。そう、納得した。

「だが、燃やせなかった。その結果、彼の歪んだ家族愛と愛する家族が共鳴し、怪異が出来上がった。私が呼ばれた時には、既に怪異は出来上がっていたんだ。恐らくは“男の思惑通り”に。本当、腹が立ってしょうがない」

 だから彼女は怒っていたのか。悔いた筈の男が意図的に怪異を作り出し、彼女にそれ“見せびらかした”から。嘘に嘘を重ね、捏ねくり回し、形を整えた物に愛を貼り合わせて作った“家族”を、彼女に見せたから。

 胸糞悪い。彼女の怒りが、俺の腹を満たして内容物を押し上げる。それを再び、怒りのままに飲み込んだ。

「男の最初の依頼は“怪異の隔離”だった。それは凄く簡単だったよ。なんせ、“最初から隔離する様に建物が作られていた”からね。その時点で、私は気付くべきだったんだ。そして、次の依頼が最後の依頼で、君がここに居る理由さ。家族の命日……つまりは今日、家族を弔ってやって欲しい。と、去年頼まれたのさ」

 薄々分かっていた事だが、やはり、俺に頼んだ仕事は“こっち”だったのか。3人に対するショック療法は、あくまでオマケだったのだろう。だから仕事を優先して、遅れてこの場にやって来たのだ。

「多分だけど、彼も怪異になるつもりだったんだろうね。自分も怪異になり、家族と共に別荘で暮らし、私にその姿を見せるつもりだったのだろう。だが、人はそう簡単に怪異には成れない。それこそ、何よりも強い“自己愛”が無ければ不可能だ。だから結局、彼は怪異に“成りきれなかった”。あれはただの、肉を持った亡霊でしか無い」

 家族を愛し、愛に狂った亡霊だよ。

 廊下の羽虫。その男は多分、自ら命を絶ったのだろう。家族が居る場所で、家族と共に居る為に。

「愛は恐ろしい物だよ。簡単に人の人生を変えてしまう。恋愛も、姉妹愛も、家族愛も、人を構成する大切な物だが、それ故に、慎重にならなければいけない。君は嫌という程理解していると思うけれど」




 怪異が散り、薔薇の花弁だけが舞い上がる室内。遊び終えた手は消え、影は薔薇の花弁の上で自分自身の形を保っていた。首に優しく触れ、右手に絡みつく手と指は、いつも通り柔らかく、冷たい。見えない顔が、耳元で小さく囁いた。

「愛してる」

 聞き過ぎて、聞き飽きた言葉。彼女は、俺の答えを既に知っている。足元の影の中で、何かを訴え掛ける様に手のひらが揺れた。諦めたのか、俺に触れる手の感触は消え、薔薇の香りと大量の薔薇だけが手元に残された。




「愛に生かされている俺は、多分、愛に殺されるんでしょうね」

「憎悪に殺されるよりはマシさ。……私は、空腹に殺されそうだけれど」

 何処かで腹の虫の鳴き声が聞こえる。

「さて、片付けてから帰るとしよう。本当、大量の薔薇には毎回困った物だよ。花を贈らなくても、気持ちは届いているというのにね」

「茶化すのやめて下さいよ。一方的過ぎて、こっちの思いが届いてない俺の身にもなって下さい」

「嫌だね。それより、帰りに焼肉屋にでも寄らないかい?奢るからさ」

「俺はサッパリした物が食べたいですけど……奢ってくれるなら行きます」

「決まりだね」

 俺達は椅子から立ち上がると、再び階段を上がり3階へと戻った。誰も居なくなったラウンジに残された、幸せだった頃の家族に捧げられた赤い薔薇の花束が1つ、誰にも気付かれず数を減らしていた。


ーーーーーーーーーー


 私は家族を愛していました。だから、家族で家族を作ろうと考えたのです。自分の手で失った家族ですから、自分の手で作るのは当たり前でしょう。

 特別な火葬をしたいと金をチラつかせただけで、身体は簡単に手に入りました。ですが、身体なんてただの肉塊。それでも、形を作るには必須だと考えて、別荘に運んだのです。

 一部屋に愛する家族をまとめて置き、息子の好きなお菓子や、妻の好きな花。そして、生まれてくる筈だった娘の為の服を、家具と共に飾ったのです。そして時間があれば、私は別荘に通い詰めて家族と共に過ごしました。

 ですが、季節が悪かった。肉はすぐに腐り、あろう事か、動物や虫が私の大切な家族を奪おうと集まって来たのです。私は急いで業者に依頼し、3階の窓を全て外側から塞いで貰いました。これで、家族が奪われる事はありません。

 それからも家族と共に過ごしました。いつの日か、異臭がすると街で言われてからは、ずっと家族4人で暮らしていました。

 そんなある日。愛する家族の肉が溶け、骨が露出し始めた日の事です。遂に、遂に、家族が“出来上がりました”。パーツが足りなかったから不完全ではありますが、私の理想の家族が出来上がったのです。

 嬉しかった。本当に、嬉しかった。

 ですが、人には見せられない。この屋敷から外に出す事も出来ない。だから、“見せても良い人”を呼び、内心で家族を自慢しながらも、建物から出さない様に協力してもらいました。最初から、出来上がったら外に出さないと決めていたので、簡単に事を運ぶ事が出来ました。

 ですが、それから数年が経ったある日。気付いたのです。家族の目に、“私が映っていない”事に。

 ショックを受けました。あれだけ時間を掛けて作った家族なのに、何故私を見てくれないのかと。父であり夫である私を、居ない者として扱うのかと。

 そして、思い至ったのです。1人だけ生き残った私を、家族が見てくれる筈が無いと。自分達とは違う存在である父を、夫を、家族とは思えないのだと。

 私は家族を愛していました。今も、これからも、その気持ちは変わらないと断言出来ます。

 きっと、この手紙を読んでいる頃には、私は家族と共に幸せに暮らしているでしょう。昔と同じ様に。これからずっと、永遠に。

 鍵はある女性に託しました。私が数年前に依頼をした女性に。私達家族に会いに来てくださる方が、もしいらっしゃったら、彼女にご連絡ください。


 いつでも誰でも歓迎します。

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怪異事変 〜愛する者達へ〜 神宮 雅 @miyabi-jingu

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