第10話 熊吉

 「熊吉」は、T県のとある山に住んでいたという男性。

 本名は田中平吉であるが、周辺住民にはおもに「熊吉」として知られていた。


 熊吉は山小屋のような家で自給自足の生活をしており、クマのような体躯と怪力を持っていたものの、基本的に大人しく、いつもニコニコと笑顔で山道の整備などをして暮らしていた。熊吉という名前もその見た目のほかに、不思議なことに周辺に住む野生のクマと通じ合っているような力があった。

 独自の鳴き声のようなものを使ってクマを遠ざけたり、交流のようなことができた。

 周辺住民への取材によると、熊吉が鳴き声をあげているときはクマが近くにいる証拠であり、すぐ戻ることが推奨されていた。なかには登山中にクマと出会ってしまった人間もいたが、熊吉がさっと出てきてなにごとかクマに向かって声をあげると、すぐさまクマも遠ざかっていくことがあった。

 とにかく熊吉はなにがしかクマと通じ合うことができるのだろうと、周辺住民は彼のことを「熊吉」と呼び、本人もそれをしぜんと受け入れていた。


 熊吉は地元の中学校を卒業してから実家である山小屋で生活しており、育ての祖母が亡くなってからも一人で生活していた。

 いまでいう知的障害や発達障害のようなものを抱えており、それも要因であったと考えられている。

 そのため、熊吉自身も熊避けの鈴の音など甲高い音に反応してパニックに陥ってしまう事があった。また、それに呼応するように周辺の野生のクマも熊避けの鈴に対して過剰反応を示すようになっており、完全に逆効果になっていた。

 そのため、周年住民はあえて熊避けの鈴を持たずに山に入ることがあったという。

 むしろその方が熊吉の住む山では安全ということもあって、この山に限っていえば熊避けの鈴はしまっておいた方がいいという風潮ができあがっていた。


 近年、老齢になった熊吉は親戚を名乗る者たちによって施設に移った。

 施設でも鈴の音にパニックになることはあるものの、基本的に大人しくニコニコと過ごしていたらしい。だがクマたちと離れたせいか、施設に入って一年ほどで逝去したようだ。熊吉がいなくなったことで山に住むクマたちも変化を感じ取ったらしく、どことなく落ち着きがなかった。


 しかし近年のクマ被害の深刻化と、近隣の山が切り開かれ新興住宅地ができたことで人口が増加。それに伴い、新町長がこの状況を重要視。熊避けの鈴を小・中学生に配るなど改革を実施。来年度からは登下校時に熊避けの鈴をつけることを義務付けている。


 なお、クマたちは相変わらず熊避けの鈴に対して衝動的になることがあり、地元住民からは反対の声があがっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る