第56話 レベル上げ

 4人の学園生とのもめごとの2日後の昼。いつもの4人で簡素な昼食を食べ終え、今晩の舞台について打ち合わせをしていた。

 雨の多い季節は去り、健康的な夏の空気が開けた窓から流れ込んでくる。


 両開きの店の扉が押し開けられると、アイーダが入って来た。


「なんだい? その足はどうしたんだい?」


 イーヴァが驚いているように、一昨日は脚を添え木で固定して杖を突いて帰ったはずのアイーダが、今日は2本の脚だけで歩いている。


「おどろいた? 実はあのあとすぐに骨接ぎの先生の所に行ったの。痛いったら無かったよ」

「10日で治る骨をわざわざ手術でつなぎに行ったのか⁉」


 ドランが驚きの声を上げるのも無理は無いだろう。


「だってやっぱりその方が治りが早いしね。手術の傷がふさがるまで、こうして体を戻してやれば抜糸と同時にまた舞台に立てるわ、母さん」

「アイーダ…… あんたって子は……」



 ただ痛いだけではなく、骨接ぎ治療は当然費用も掛かる。金一枚では効かないはずだ。

 イーヴァは顔を横に向け、誰にも見られないようにしている。

 ドランが運んできた椅子に腰かけたアイーダ。


「ナタリア、ちょっとイリーナの使ってるかつらを持ってきてくれる? それと楽屋から小さい鏡もお願い」


 アイーダに指示されて舞台裏に向かうナタリア。

 イリアも指示されて椅子を持ってアイーダの正面に座った。


 イーヴァと違って香油の強いにおいはしない。むしろ新鮮な牛乳のような、悪くない香りがする。まったくふくらみの無い胸の上にある整ったアイーダの顔を見て、イリアは軽い混乱状態にあった。

 イリアの顔を持ち上げるアイーダ。目のあたりに触れられる。

 言葉も無くじっとしていたら、急に右眉毛の一部に痛みが走った。


「……痛いです……」

「ごめんね。でもやっぱりもう少し整えた方がいいと思うのよ。イリーナ、あなたなら本物になれる」

「本物って何ですか?」

「おやめよ、その子は必要な金が溜まるまでの約束で働いてもらってるんだ。それに素朴さも売りの一つなんだし」

「いいえ母さん、これに関しては私を信じて。この素材を放っておく手はないわ。私が復帰するまでに、店の客足を完全に戻して見せる」


 そう言いながら、アイーダはイリアの眉毛を爪で抜き続けている。右が終わったのか、左眉に痛みが走る。「柔らかくて抜きやすいわ」と呟いた。



 目をつぶったまま5分。ナタリアはもう一度楽屋に戻って化粧道具も持ってきたようだ。

 顔全体に薄く油を塗りこまれ、柔らかいブラシでイリアの顔より白っぽい粉をはたかれる。頬骨の部分と瞼の上に何か色のついた粉を塗られる。

 ナタリアの舞台用化粧のようにされるのかと、イリアは不安になった。

 筆記具のような物で左目の下もいじられた。そこには黒子が一つあったはずだ。


 小型肉食動物の頭蓋骨を加工した容器のふたが開けられると、本来脳が入っていたであろう小さな空間に真っ赤な塊が詰まっていた。

 それを指に付け、イリアの唇に塗るアイーダ。

 カツラを被せられてからもしばらくいじくられ続け、結局半刻もかかってやっと化粧は終了した。



「仕上がったなぁ……」


 アイーダの背中越しにイリアの顔を見て、ドランが呟いている。

 手渡された持ち手つきの青銅鏡の覗くと、そこにはイリアの知らない自分が居た。




 舞台化粧を施して歌うようになり、それほど投げ銭の金額が増えることは無かった。はじめのうち客の多くはイリーナの変貌に戸惑っていたようにも思う。


 舞台に立ちはしないが楽屋に来たアイーダの提案で、イリーナは舞台を一晩3回に減らす代わりに、ナタリアやリリーと共に給仕にも参加するようにした。


 舞台の合間、酒やつまみの料理を配って歩き、新たな注文をとる。

 そのたびにイリーナは酒やつまみの代金より多い金額を受け取り「釣りは要らないから」と言われた。


 余分な金額は全てイリーナの収入になるわけだが、その金額は舞台での投げ銭に匹敵する額になり、不当な収入ではないかと気に病む。

 アイーダ曰く、「誰も悪い気はしていないから心配要らない。客が増えているのがその証拠」との事だった。

 事実として、イリーナの勤務10日目で『イーヴァの止まり木』の客は50人近くになっていた。




 目標金額の金貨2枚が、始めにドランに言われた10日目の終了時点で溜まってしまった。1日平均で大銀貨2枚である。4人家族が楽に暮らして行けるほどの収入だ。


 翌日、アイーダも交えて5人。店の真ん中に置かれた丸卓で昼食を食べていた。

 ナタリアがイリアに笑いかける。


「おめでとうイリーナ。これでやっと鎧が買えるわね」

「ありがとうございます。みなさんのおかげです」


 ケヅメドリ卵の目玉焼きを食べ終えたドラン。丸卓の反対側に座っている。


「今日はどうする? うちとしては出演を強要する気はないけど」

「今晩も出してもらいます。明日は定休日で、明後日からはアイーダ姉さんが復帰できるんですよね?」

「ええ、もう心配いらない」


 アイーダの右脚には今、炎症を鎮めるための薬草を軟膏にしたものが貼られている。痛みは残っているようだが、もう運動自体に支障はないようだ。明日には抜糸できるらしい。


 金貨2枚が溜まったからと店をやめてしまえば、黒革の全身鎧を買った時点でまた金欠に逆戻りである。多少の生活費の余裕は欲しい。

 最後の舞台に向けて、午後いっぱいかけてイリアは気持ちを作っていった。




 夜の5刻に入ったあたりだろうか。イリーナは一回目の舞台を終えて給仕に参加していた。

 1刻半前に立った舞台ではまだ客が少なく。今日が引退の夜であることは発表していない。

 舞台の上では全身を派手に飾り付けたイーヴァが踊り狂っている。見せてはいけないギリギリまでを見せ、言ってはいけない線ギリギリまでの言葉を高らかに歌い上げている。

 客席からは時々短い悲鳴が上がるが、誰も耳をふさいだり帰ったりしようとしないのはさすが、年季の入ったげいである。



「ちょっとイリーナ、またあの子来てるわよ?」

「え?」


 リリーに言われて長卓の席を見ると、金髪の若者が座っていた。

 5日前に酒代の返還がどうとか言っていた4人組の学園生の一人である。

 揉めた翌日にもこっそりと店に入って来たらしく、毎度一番安いブドウ酒の水割りを注文しては、ちびちびと飲んで閉店間際まで居る。


 あんなことをしでかした者の一人なのにいいのか、と思わないでもないが、金髪がたかり行為に消極的だったことはみんな見ているので、黙認されていた。


「あれはきっとイリーナ目当てよ」

「そんなわけないじゃない」

「かわいそうに。今日で引退なんて知ったら落ち込んじゃうんじゃない?」

「やめてよリリーったら……」


 イリーナは顔に垂れ下がるカツラの毛を右手の指で耳に掛けた。

 踊り子4人組の中でリリーは一番年若く、リリー姉さんと呼ばれるのを嫌ったので呼び捨てにしている。

 揶揄からかわれながらイリーナは金髪のいる長卓に近づき、ドランに給仕用の盆を返した。金髪は目を合わせないようにしている。ように見える。

 イリーナは一度舞台裏に戻った。



 イーヴァの出番が終わり、客が落ち着いてきた頃。ドランが張りのある大きな声で宣言した。


『さぁ皆さま! ついにこの時がやってきてしまいました! 当店専属の歌い手アイーダの休業期間を盛り上げてくれた、小さな歌の女神イリーナですが、本日をもってながのおいとまでございます! お名残り惜しいとお思いの皆様、どうかあたたかな声援を、お願ーい申し上げまーす!』


 いつにないざわめきをあげる、店一杯の客。

 イリーナは幕をくぐって舞台の真ん中へと歩いて行った。

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