5「人との出会いは大切にせんといかんよ」

 川澄の乗るボートが池の上を進む。オールを漕いでいるのは半崎であった。その少し横を見ると、水上と沢渡がアヒルボートではしゃいでいるのが見えた。


「子供かよ」


 一人、日陰のベンチに腰掛けて、冷笑的に呟く達巳の脳内に白眉の声が語りかける。


——お前は乗らなくて良かったのかい?


「……分かってんだろ?水辺は嫌いなんだよ。誰かさんのせいでな」


 水面には、達巳の体に絡まる白い蛇の姿が映ってしまう。


——それは悪かったね。しかし、水に映った他人の像を注視する者など居るかね。誰も気づくことは無いだろう。お前、ちょっと自意識過剰ではないのかい?


 白眉のその言葉には答えず、達巳は黙って池を見つめていた。しかしそれもすぐに飽きてポケットからスマホを取り出す。カバーを見て、昨夜の川澄のスマホ画面に映し出された光景を思い出した。


「川澄さんって、いわゆる良い人——だよな?」


——お前がそう思うならばそうだろう


「そうじゃねぇよ。俺から見た主観より、一般論を知りたいんだ。客観的に見ても、川澄さんって、いわゆる『良い人』の部類に入るよな?」


——私にそのような、ヒトの間の判断基準など知ったことでは無いがね。しかし、多くのヒトから好まれる人格ではあるのだろう。お前とは違ってね


「一言余計なんだよ」


 ため息をついてから、達巳は自身の中で渦巻く疑問を口にした。


「そんな『良い人』が……あんな誹謗中傷受ける理由は、なんだ?」


——私には到底理解はできないさ。第一、言葉を武器として使用する生物などヒト以外におらぬ。言葉とは、ヒトがヒトのみを傷つけるための凶器の一種だからね


 蛇である自分には全く専門外である、と彼は言う。


「……お前の言葉も切れ味は鋭いけどな……」


——何か言ったかい?言い訳ばかりの捻くれ小便垂れ小僧


「それだよ、それ」


 苦笑いをする達巳へ白眉が問いかけた。


——それで、お前自身はどう思っているのだ?川澄すぎなが他者から言葉の危害を加えられている、その事実に関しては


「分かんねえ。……ただ、なんか凄く気分が悪い。あんな、常に明るくて活発で、ボランティア活動に真摯で、みんなに優しくて、俺や村上みてぇな奴にすら優しくて、みんなから慕われてて、俺に無いもんを全部持ってる。完璧な人格だ。出来た人間だよ。そんな人があんな暴言を一方的に吐かれる理由なんて、無いはずなのに…………あんな人ですら、蔑まれるのがこの世の中ってやつなのか?」


——それを考えてお前はどうしたいのだ?川澄すぎなを救いたいのか?


「そんな……そんな恩着せがましいことは考えてねぇよ!」


 達巳は張り上げた。


「だいたい、俺とあの人は会ったばっかだし、関係性も別にねーし。俺があの人になにかしてやる理由なんてない。そもそも、もしかしたら、あの人自身は別に何も気にしちゃいないかもしれない。……外野の俺が、とやかく言うことじゃ、無いんだよ。そうだ、きっと、あれだけ完璧な人なんだから、あの程度の暴言、気にも止めて無いんだよ。今だって楽しそうにしてるし……結局、俺の出る幕なんてないのかもな。俺が勝手にイライラしてるだけなんだ。そうなんだ」


自分の口から出る台詞が言い訳に変わっていくのを、達巳は止めることが出来なかった。


紡がれるその言葉達が、達巳を自己嫌悪に陥らせる。


そしていつまで経っても白眉はなにも答えない。達巳は暫しの間、返答を待って無言で地面を見つめていたが、やがて業を煮やして声を荒げた。


「……おい、なんとか言えよ!」


「一人でなにやっとう?」


 目の前には、両手にソフトクリームを持った竜胆が立っていた。達巳は心臓が口から飛び出るような感覚を覚えた。


「うえっ⁈えっ、いや、あ……」


 しどろもどろに口走る達巳を、彼女はいつも通りの不機嫌そうな表情で見つめていたが、やがてなにも言わずに、片手のソフトクリームを差し出した。


「ん」


「……え?」


「いらんの?」


達巳は戸惑いつつもそれを受け取った。


「……いや。なんか、悪いな……ありがとう」


「二百五十円」


 竜胆の返答に、達巳は数瞬ぽかんと口を開けてから、眉を顰めてぼやく。


「お前、それじゃ押し売りじゃねーか」


「お前って言うな」


 ぼやきつつ、達巳はズボンのポケットを探る。だがしかし、あるべき場所に財布が無かった。


「あ⁈どっかで落としたか⁈」


「あれま」


 それじゃあ後でええよ、と言う竜胆。達巳は肩を落として、とりあえず受け取ったソフトクリームを舐めた。


「こう言う時って、どこで聞けば良いんだ?公園の事務局的な?」


「知らん」


 そこで会話は途切れた。二人は隣り合った別々のベンチに座って無言でアイスを食べる。目の前の池のボートの上からこちらへ手を振る川澄に気づいた達巳は、それへ振り返しながら、何気なく聞いてみた。


「竜胆って、泳げないのか?」


「竜胆って言うな」


「いや、じゃあなんて呼べば良いんだよ?」


「ゆずちゃん、とか」


 達巳は困惑気味に竜胆を見る。彼女は相変わらずの不機嫌そうな無表情で池を見つめていた。冗談なのか、本気なのか、その顔からは読み取れない。


恐る恐る呼んでみる。


「……ゆずちゃん」


「馴れ馴れしい」


「どうしろっつーんだよ⁈」


 竜胆は「んふっ」と吹き出した。達巳が見ると、彼女は口を押さえて笑っていた。


「ごめん、ちょっとふざけただけやけん。普通に『竜胆』でええよ」


 そう言いながらも、彼女はまだニヤニヤと笑っていた。


「で、なんやっけ?」


「いや、だから、泳げないのか?って」


 話題を戻す。竜胆は数瞬考えてから、頷いた。


「そんなとこ」


 その奇妙な『間』は、達巳に違和感を覚えさせた。


「本当か?」


 そう問われた竜胆は、達巳を睨みつける。地雷を踏んでしまったのだろうか。威殺すようなその視線に達巳は少し気圧されつつも果敢に続ける。


「……怒ってんの?」


「怒ってない。目つき悪いだけやし」


 表情とは裏腹にその口調は落ち着いていた。怒りを隠しているといった様子でも無い。どうやら本当に怒ってはいないらしい。


 じゃあさっきの顔はなんだ、と思った達巳に応えるようなタイミングで、竜胆は続けて口を開いた。


「あたし、生まれつきこんな顔やけん、普通にしとっても怒っとうように見られよる。ま、別にええっちゃけどさ」


 しばらく、無言の時間が訪れた。竜胆と同じく池の方へ視線を向けながら、達巳は想像する。普通にしているだけなのに、不機嫌に思われる気持ちを考えてみる。


「……難儀なもんだな」


「何が?」


「別に」


 また会話は途切れた。元々、無理して続けるべき話題でもないか、と達巳は考えてスマホを弄る。


 そのタイミングでまた竜胆が口を開いた。


「……桜乃真希ちゃんの言葉であたしは勇気づけられたけん」


「え?」


 出てきた名前に反応し、達巳の手が止まる。


「桜乃の……言葉?」


「あたしの好きなラジオに、リスナーのお悩み相談みたいなコーナーがあるっちゃけどさ、昔一度だけそこにハガキ送ったことがあるんよ」


 柔らかな口調だった。達巳は顔を上げて、竜胆を見る。その顔は笑っていた。


「偶然ゲストで来てた桜乃ちゃんが、私の悩みに答えてくれよったっちゃん。桜乃ちゃんも、子供の頃に自分の顔が嫌いやったて言うとって。色々と親身に語ってくれよって、それを聞いとったあたしはすごく、すごく励まされた。以来、あたしは桜乃ちゃんのファンなんよ」


 その時の桜乃の言葉が本当に嬉しかったらしい。至極励みになったらしい。彼女の口ぶりからそれが読み取れた。桜乃のあの悩みが、眉毛のコンプレックスが、竜胆を救ったのか。


 周囲の光が強くなったような、体がほんのりあったかくなったような錯覚が、達巳を襲った。なんだろう、とても嬉しい。誇らしい気持ちだ。


 そして同時に、そんな感覚を持った自分に対しての嫌悪感が湧き上がる。


 ……それは桜乃の手柄だ。なんで俺が誇らしくなってんだ?お前と桜乃は、もはやなんの関係も無いのに。

 

 心の中に声がする。それは、白眉のものでは無い、自分自身の声だった。無意識のうちに、達巳は自身の胸を殴っていた。


「谷地、何やっとう?」


 達巳の不審な挙動に、竜胆は怪訝そうな表情を浮かべた。達巳はハッとして手を止めて、何食わぬ顔で返す。


「……別に。ま、良かったじゃねえか。桜乃真希のおかげで悩みが晴れてさ」


 平静を保とうとして発した声は、震えていた。その間も彼の脳裏には、彼の望まない考えが浮かんでは過ぎていく。


 達巳が出会った時の桜乃真希は、自身の眉の形にコンプレックスを抱いていた。それにより、人前に出ることを恐れ、顔を出すことを拒み、自分に自信のない引っ込み思案であった。そんな彼女が自分の顔を出すきっかけとなったのは、達巳が誘った演劇内での、達巳が考案した演出である。

 

 違う、それがどうした。俺の手柄じゃない。


 達巳が半ば強引に通したその案が、桜乃を変えた。結果的にそれが桜乃に自信を持たせ、彼女の性格をも良い方向へ変えて、彼女が女優の道へと一歩踏み出す後押しとなったと言えよう。


 違う、違う、やめろ。


 いわば、その経験こそが桜乃真希にとってのパラダイムシフト。それが無ければ今の彼女は無いと言っても過言では無いだろう。


 やめろ‼︎


 達巳はもう一発、より強く胸を殴った。自分でも予想以上のその強さに、彼は思わず咳き込んだ。


「うえっ……ゲホッ」


「谷地、大丈夫?」


 達巳の異常行動を横で見ていた竜胆は、首を捻って考えた。そして思いついた答えを言ってみる。


「……ゴリラの真似?」


「違ぇよ」


「ふーん」


 尚も咳き込む達巳をジッと見つつ、彼女はボソッと呟いた。


「ずいぶん他人事やね。『桜乃真希』言うて。友達やったっちゃろ?」


「他人だよ。もう十年以上も会ってねーし」


 その自分の言葉に、なぜか達巳は泣きそうな気持ちになった。しかし涙は出ない。ただ目が乾いていくだけだ。頭痛もする。ずっとそうだ。彼は泣くことなどできないのだから。


 唐突に、竜胆はベンチから立ち上がると、俯く達巳の前で仁王立ちをした。


「……谷地、人との出会いは大切にせんといかんよ。たとえ、二度と再会することの無い、一期一会やったとしても。この広い世界で、たった一度でも出会えたことは、とんでもない奇跡やけん」


 言い切った後、「……byすぎな先輩」と付け足した。


 達巳は顔を上げた。竜胆がにこりと笑ってこちらを見ている。それは初めて見る、彼女の本当に優しい笑顔だった。


「桜乃ちゃんにもし会えるとしたら……谷地、会うと?」


「えっ……いや、別に。だいたい、俺は……」


 その先を達巳はなにも言えなくなった。ただ、頭痛が酷くなった。なぜ素直に頷けないのか。自分でも分からなかった。


「自分を殺さんでもええやん」


 そう言って締めくくり、また竜胆はベンチに座ってソフトクリームの残ったコーンを齧った。


「桜乃真希に会いたいんですか?」


 背後から声がした。聞き覚えのある、陰険な声だ。


 二人が同時に振り返ると、そこにはボーダー柄シャツを着た猛禽のような目の青年が立っていた。


「会わせてあげましょうか?俺なら、できますよ」


「……は?」


 達巳が低い声で唸るように言う。


「帰ったんじゃ無かったのか?盗み聞きかよ」


 冷ややかな目で村上を見る。彼の背後をよく見ると、ソフトクリームを舐める小金井の姿もあった。村上はニヤリと笑うと、持っていた紙クズを床に捨てた。ソフトクリームのコーンに巻かれていたものだ。それを見た達巳は思わず声を張り上げる。


「おい、ゴミ箱に捨てろや」


「そんなこと、どうでも良いでしょ?今の俺達は清掃員でもなんでも無いんだから。それより、会わせてあげましょうかと言ってるんです。女優の桜乃真希に」


 達巳は深く息を吐いてから、ベンチを立って村上に近づくと、しゃがんで足元の紙クズを拾った。


「真面目ですね」


 揶揄うように笑う村上を、達巳は忌々しげに見上げた。そんな視線を意に介さず、村上は続ける。


「それで、どうです?会いたいですか?桜乃真希」


「なに寝ぼけたこと言ってんだ。お前にどんな権限があるってんだよ」


「権限は無いっすけどね。でも、俺には出来るんすよ」


 意地の悪い笑顔で言う。しかしその口調にはふざけている様子は無く、どこか凄みのようなものを感じ取れた。達巳は息を飲み、尋ねる。


「お前、いったいなんなんだよ?」


「探偵」


 そう言って村上むらかみ上総かずさは不敵に笑った。

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